恋愛結婚こそがイレギュラーですわよ
「そんなはずない……」
フラヴィは力なく首を振り続けていました。頬を伝う涙を拭うこともせず、ただシアン様を見つめています。
「グラン様は優しかった。あたしに笑ってくれた。だから……」
何度も同じ主張を繰り返すフラヴィにシアン様は静かに答えられました。
「ドロテ嬢、私は王族だ。民へ笑顔を向けることも努力した者を称えることも務めの一つだ。それを恋と受け取られてしまうのなら」
一瞬だけ、悲し気に目を伏せられます。
「私は今後、民に微笑むことも人を褒めることも躊躇わねばならなくなる。冷酷な氷の王子とでも呼ばれるかもしれぬな」
その言葉にフラヴィは息を呑みました。
「そんな……あたしは……」
「君は悪意で言っているわけではないだろう」
シアン様は穏やかに続けられます。
「だからこそ、今ここで誤解を正しておく。私は君へ恋愛感情を懐いたことは一度もない。これから懐くこともない」
はっきりとした拒絶。けれど、人格を否定するものではなく、誠実な王族らしい線引きでした。
フラヴィの肩が震えます。
「どうして……どうしてルディビーヌ様なんですか……あたしのほうが、絶対貴方を好きなのに」
その言葉にわたくしは目を伏せました。
──そう、彼女はずっと『自分がどれほど好きか』しか語っていないのです。シアン様が誰を好きなのかではなく、シアン様が何を望んでいるかもでなく、ご自身がどれほど恋をしているかだけをずっと主張し続けていたのです。
「ドロテさん」
わたくしは静かに口を開きました。彼女は涙で濡れた瞳を向けます。
「恋とは素敵なものですわ。誰かを大切に思い、その方の幸せを願う気持ちは尊いものです。ですが」
そこで言葉を切り、真っ直ぐに彼女を見つめます。
「恋をしたからといって、その方の心まで決めて良い理由にはなりません」
フラヴィは黙ったままです。
「貴女は殿下に恋していると仰いました」
「ええ……」
「では、お尋ねします。もし殿下が幸せだと仰るなら、その言葉を信じられますか」
返事はありません。
「もし、殿下がわたくしを愛していると仰るなら、そのお気持ちを尊重できますか」
沈黙。長い沈黙でした。そして小さく。
「……出来ません」
フラヴィは俯きました。
「だって……そんなのおかしいもの。政略結婚なのに、好きでもない人と結婚するなんて、可哀想だもん」
わたくしは微笑みました。
「そう、そこが違うのです」
メイドが入れ直してくれた紅茶を一口いただいて、ティーカップを静かにソーサーに戻し、皆様を見渡します。
「ドロテさん、貴女は恋愛結婚が普通だと思っていらっしゃるわね」
「うん、平民は出会って恋して結婚するのが普通だわ」
「そうですか。ですが」
わたくしはゆっくりと言葉を紡ぎます。
「貴族にとっての普通とは違います」
レオンス卿が静かに頷きました。
「うちも同じです。父と母は親同士が決めた結婚でした。ですが、今でも仲睦まじい」
ティボー卿も笑います。
「うちは毎日父上が母上に花を贈ってる。うちも爺様たちが決めた結婚なんだけどな」
「私の両親もですね」
サミュエル卿が淡々と言いました。
「母は父の研究室へ毎日お茶を届けます。父は毎年母の誕生日に新しい魔道具を贈っています。……愛し合っていますよ」
三人の具体例にフラヴィは目を丸くしました。
「皆、政略結婚……?」
そう尋ねるフラヴィですが、三人は誰一人として『政略結婚』という言葉を使いませんでした。当然です、貴族にとってはそれが当たり前の結婚の仕方なのです。政略が当然なのだから、態々政略結婚などと言わないのです。
ですが、ここは平民のフラヴィに理解しやすいようにわたくしは頷きました。
「ええ、高位貴族ではそれが普通ですもの」
「そんな……じゃあ、恋は……?」
「恋は貴族の結婚には不要です。でも、愛を育てます」
わたくしは微笑みました。恋は落ちるものです。恋をしようと思って出来るものではありません。けれど、愛は育めます。それが恋愛なのか親愛なのか友愛なのか、それぞれですけれど。
「婚約期間に信頼を重ね、お互いを知り、尊敬し、支え合い、そして愛を育むのです」
貴族の結婚は親同士が決めます。家格の釣り合い、互いの家の利益を計り、相性を見て結ばれるのです。ですから慎重に子供たちの関係構築を見守り、相性が悪ければ婚約を見直すこともございます。どの親も我が子を不幸にするために婚姻させるわけではございませんから。まぁ、偶に子の幸福よりも家の利益というお家もありますが。
シアン様とわたくしの婚約はずっと仮婚約でした。王族の婚約は情勢によっては白紙になることもございますもの。わたくしたちの相性は良く、王家も我が家も一日も早い正式な婚約を願っておりましたけれど、王家としてはやはり国際情勢を鑑みねばなりませんでしたから。
学院入学前に漸く正式な婚約となったときには嬉しくて涙してしまいましたわ。シアン様のお色を纏えるようになり、それがどんなに嬉しかったことか。愛する方の妻になれるのだと確定したのですもの。
そんなことを思い出しておりますと、シアン様も穏やかに続けられます。
「私もそうだった。幼いころは親の決めた婚約者、少し大きくなれば友人。やがて唯一無二の理解者となり」
そっとわたくしの手を握り直されました。
「気付けば愛していた」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、頬が熱くなります。こういうところは本当に敵いませんわ。側近候補の三人も『また始まった』とでもいうように苦笑しています。
「ドロテさん」
わたくしは改めて彼女を見つめました。
「恋愛結婚を否定するつもりはありません。平民には平民の幸せがあり、結婚の形があります。ですが、貴族には貴族の幸せがあり結婚の形があります。貴族にとっては恋愛結婚こそが例外なのです」
フラヴィがゆっくりと顔を上げます。
「わたくしたちにとって普通とは、家と家が結び付き関係を強化し、そのうえで互いに信頼を積み重ね生まれる愛ですもの」
静寂。先ほどまで反論を重ねていたフラヴィは、もう何も言いません。やがて、沈黙が崩れます。
「あたし……」
掠れた声が響きました。
「あたし……」
ぽろぽろと涙が零れ落ちます。
「グラン様が幸せかどうかじゃなくて、あたしが幸せになりたかっただけなのかな。あたしの思う幸せを押し付けてただけなのかな」
誰も答えません。答えはご自分で見つけるものですから。
「ドロテ嬢、君の治癒魔法はこの国の民にとって幸いを齎す力だ。どうか、その力を民のために役立ててほしい。それが私の願いだ」
シアン様の言葉は最後まで王族としてのものでした。彼個人の思いではなく、つまりそれは彼が個人としてフラヴィに求めるものはないという、彼女にとっては冷たい宣告でした。
それを理解したのか、フラヴィは涙を拭い、小さく頭を下げました。
「……はい」
その返事はまだ迷いを含んでいました。恋心が消えたわけではないでしょう。けれど、自分の想いだけで他人の人生を決めつけていたことには、漸く気付き始めたようでした。
彼女は一礼すると中庭を後にします。誰も引き止めません。振り向くことはありませんでしたが、こちらを意識している背中は、まだ何処か悲劇のヒロインの自分に酔っているようでもありました。面倒を掛けられたので穿った見方をしてしまうのかもしれませんけれど。やはり、最愛の方のお心を決めつけられて不快でしたから、その程度を心の中で思うくらいは許していただきたいものですわ。
去って行く背中を見送りながら、ティボー卿が大きく息を吐きました。
「終わった……」
「胃が痛かった」
「同感です」
レオンス卿も苦笑します。サミュエル卿だけが首を傾げていました。
「恋とは不思議なものですね。魔法よりも理解が難しい」
「それは同意する」
シアン様が苦笑なさいます。皆が笑い、漸く張り詰めた空気が解けました。
学院の石畳をシアン様と二人で歩いていると、シアン様がふと口を開かれます。
「今日は災難だったね、リュディ」
「そうかもしれませんわね。けれど、シアン様への想いゆえに視野が狭くなってしまったのでしょう。恋とは人を盲目にするものですのね」
シアン様は苦笑されます。
「私も君に恋をしている。だが、君の意思を無視して自分の願いを押し付けたいと思ったことは一度もない」
「ええ、それが恋と独り善がりの違いですもの」
シアン様は優しく笑い、わたくしの手を取られました。
「リュディ」
「何でしょう」
「私たちは政略結婚だ」
「ええ」
「だが」
悪戯っぽく目を細められます。
「今では恋愛結婚とも言えるのではないかな」
思わず笑みが零れました。
「まぁ、それではシアン様。わたくしたちはとても珍しい夫婦になりますわね」
「ああ、世界で一番幸せな政略結婚だ」
わたくしたちは出会い、知り合い、恋に落ち、信頼し、愛を育てました。繋いだ手を離すことなく二人で歩き続けます。
信頼から始まった愛は、時を重ねるほどに深くなります。それは燃え上がる恋とは違う、穏やかで揺るぎない幸福です。
だからこそ、わたくしは胸を張って申し上げられるのです。
恋愛結婚こそがイレギュラーなのだと。
わたくしたちにとって、愛とは恋から始まるものではなく、信頼の積み重ねによって心が寄り添い、生まれるものなのですから。
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