舅と姑と小姑と。

 衝撃の対面から四半時後、彰子は躑躅ヶ崎館での自室となった部屋で義姫と共にいた。

「吃驚したでしょう、彰子殿」

 何処か政宗を思わせる表情で義姫はクスクスと笑いながら言った。

「はい……とても。まさかお東の方様がこのようなことをなさるとは夢にも思いませず……」

 姑との対面など、嫁の立場にしてみれば緊張しまくりで気の張ることこの上もない一大試練だろうに、それがまさかこんな形で実現するとは思いもしていなかった。

 真面目な人物と思われる輝宗と小次郎が意外に茶目っ気があることは知っていた。何しろ自分に会う為に庭師に身を窶してこっそり彰子のところまで来たほどだ。ただの庭師とは思えない物腰と丁度居合わせた成実の様子から何かあると察した萌葱がこっそり後をつけて『政宗のとーちゃんと弟だったぞ……』と呆れ顔で帰ってきたのはもう半年以上昔のことになる。

 しかし、まさか義姫までもが夫と一緒になってやって来るなど誰が想像出来ただろう。尤も輝宗が来ること自体、予想の範疇外だったが。きっと政宗は自分が驚いて慌てふためくことを予想して、態と知らせなかったに違いない。今頃青葉城でニヤニヤと笑っていることだろう。

「ほほほ。あのような悪戯心のある夫と長年連れ添っていればこうもなりますよ」

 笑いながら言う義姫に彰子も苦笑を漏らす。果たして妻が夫に似たのか夫が妻に影響されたのかは微妙なところではないかと思う。小十郎たち政宗の近臣曰く、政宗と義姫はよく似ているということだ。

「政宗の型に囚われぬところは妾譲り。彰子殿も察しておいでとは思うがの」

 政宗とよく似た面差しの姑は実に楽しそうに笑いながら言う。

「彰子殿、漸く念願叶って対面出来ました。この日をどれほど楽しみにしておったことか」

 彰子に慈しみの篭った視線を向ける義姫の声もまた優しさに満ちている。自然に彰子は頭が下がった。

「お東の方様には長らくご挨拶も致しませず、大変無礼を致しました。心よりお詫び申し上げます」

 側室だからと遠慮していたこともあるが、本当は如何すべきだったのか今でもよく判らない。しかし、こうなると礼を失していたようにも思える。

「仕方のないことです、彰子殿。十分貴女の行いは礼に適っていたと思いますよ」

 彰子の内心を見透かしたかのように、義姫は鷹揚に応じる。

「されど、彰子殿。妾のことはどうか母と呼んでくだされ。貴女は政宗の嫁じゃ。妾にとっては娘となるゆえのう」

「ありがとうございます、母上様」

 失ったはずの家族がどんどん増えていく。それが嬉しかった。

 躑躅ヶ崎館に入ってから、信玄の子供たちとも対面した。既に嫁いでいる『姉』たちも新たに出来た『妹』に会う為に甲斐に里帰りしてくれた。長兄にあたる義信は死去していたが、次兄海野信親、三兄信之、長姉黄梅院、次姉穴山梅雪室(後の見性院)は同母妹として彰子を遇してくれた。異母兄姉にあたるのは勝頼と真理姫、異母弟妹には盛信、信貞、信清、松姫、菊姫と、一度に11人もの兄弟姉妹が増えた。特に下の妹2人はまだ10歳前後と幼いこともあり、突然現れた姉を『姉様姉様』と慕ってくれた。彰子が『信玄の末姫』といわれるのは『信玄と三条夫人の間では末姫』ということであって、実際には13人兄弟の8番目、四女になる。

 また、長姉黄梅院は故北条氏康の室で景虎の義母にあたる女性でもあり、彰子が景虎と親しいことを知るとそれをとても喜んでくれた。彰子よりも年長の同母兄姉には三条夫人が彰子の境遇を明らかにしているらしく、彼らは自分たちを実の兄姉と思えと労りの篭った言葉もくれた。また、真理姫は年齢が近いこともあり、婚礼を控えて緊張しているであろう彰子を気遣ってくれた。そんな温かな兄弟姉妹に囲まれ、彰子は心から信玄の娘となれたことを喜び、感謝している。

 その上、今度は姻戚とはいえ義理の父母、弟と妹が出来る。そして、思いもしていなかった『夫』。家族が増えることがこんなにも心温かくなり、嬉しいことだとは彰子自身思いもしなかった。

「これから先、嫁姑の垣根を越えて、妾を実の母とも思うて仲良くしてくだされ、彰子殿。貴女のような娘が増えてほんに嬉しいのですよ」

「はい、母上様。母上様は薙刀の名手と伺っております。是非、わたくしにご指南くださいませ」

 義姫の優しい声音に彰子の心も解けていく。ついそんな甘えにも似た言葉も出てくる。それに義姫は嬉しそうに笑う。

「そうじゃの。手解き致しましょう。政宗との夫婦喧嘩にも役に立ちましょうて」

 楽しそうな義姫の言葉に彰子は苦笑を零す。政宗との夫婦喧嘩は口喧嘩になるだろうが、それもいいかもしれない。喧嘩出来るくらいに自分たちをぶつけ合える、そんな信頼関係を持った夫婦になりたいと思えた。

「彰子殿、お義、入っても良いかのう」

 そこに襖の先から、輝宗の声がかかる。これまで信玄と話をしていた輝宗がやってきたらしい。狼狽てて侍女が襖を開けて、輝宗と小次郎を迎え入れる。この侍女は上田城の女中頭加絵の妹の静江で、今回彰子付きとなった女性だ。奥州に嫁ぐ際にも同行することになっている。

「まぁ、殿、小次郎。なんですか、いきなり女性の部屋へ。折角女同士水入らずで楽しんでいたというに」

 頭を下げる彰子と文句を言う義姫に、輝宗と小次郎は苦笑する。

「彰子姫、頭をお上げなされ。お義、そちだけが嫁御を独占致すな」

 笑いながら輝宗が言えば、

「然様にございますぞ、母上。我らとてどれほど姉上にお目にかかる日を楽しみにしていたことか」

 政宗よりも柔和な笑みを浮かべて小次郎も母に反論する。

「文句は政宗に言うのですね。妾たちに彰子殿を会わせなかったのはあれです。全く我が子ながら独占欲が強すぎですよ」

「まことに。兄上がどれほど姉上を大事に思うておられるか判るというものですが」

「ものには限度というものがあろうて。そうは思わぬか、彰子姫」

 ポンポンと交わされる会話に彰子は自然に笑みが零れた。

「お会いすればわたくしが父上様や母上様、小次郎様をお慕いするのが判っていたのですわ。自分だけ除け者にされるのがお嫌だったのでしょう」

 彰子が軽口で応えると、輝宗は嬉しそうに笑った。

「不束な嫁ではございますが、何卒よろしゅうお願い申し上げます」

「なんのなんの。不束者は我が愚息のこと。姫、お見捨てなきよう、お願い申し上げる」

「姉上、私のことも実の弟と思うて気安く何でも申し付けてくだされ。このようにお美しくお優しい義姉を持てることを大変嬉しゅう思いますぞ」

「ほれ、挨拶が終わったのなら、さっさと出て行きなされ。女子同士の時間を邪魔するなど無粋ですよ、殿」

「ずるいぞ、お義」

「そうです、母上」

「五月蠅いですよ」

 伊達ファミリーの遠慮のない遣り取りに彰子はクスクスと笑いを漏らす。そしてこの場に政宗がいないことを残念に思った。こんなにも心安く楽しげな家族の中に政宗がいないことが寂しくもなった。今ではそれなりに政宗が父母弟と交流を深くしていることは知っている。でなければ政宗は彼らが自分の迎えに来ることを絶対に許さなかったに違いないのだから。だからこそ余計にこの場に政宗がいればいいのにと思ってしまう。尤もいたらいたで煩さは倍増、彰子が切れてしまうかもしれないが。

「政宗がおらんでよかったの。おったら儂らはとうに追い出されておったわ」

「ほんに。あれの悋気は誰に似たのか」

「間違いなく母上にございましょうな」

「何か言うたか、小次郎」

「空耳にございましょう」

「お義も歳をとったか」

 伊達ファミリーの言い合いは止まらない。彰子は笑いながら場を収める為に茶を立てることにした。側に控えていた静江に準備を命じると、彰子が茶を立てることを聞きつけた弟妹たちまでもがやってきた。お目当ては茶菓子だろうが、弟妹たちは会ったばかりの姉がすぐにも嫁いでいなくなってしまうことを寂しく思っているのだ。

「騒がしゅうなりまして、申し訳ございませぬ」

「なんの、構いませんよ」

 幼い妹たちに纏わりつかれる彰子を微笑みながら義姫は見遣る。この姫が奥州に嫁いでくれば、何れはこうして弟妹ではなく息子や娘に囲まれる日もやってくるのだろうと思いながら。──尤も、まさかこの細い体で8人もの子供を生むなどとは、この日の義姫は想像もしていなかったのだが。

 こうして、奥州へ出立するまでの間、義父と義母、義弟と弟妹に囲まれ、彰子は賑やかな日々を過ごすことになったのであった。






「彰子、少し良いか?」

 信玄が突然彰子の部屋を訪れたのは、愈々翌朝奥州へ出立するという夜のことだった。

「おもうさま、如何なされました」

 休む準備をしていた彰子は狼狽てて袿を羽織ると父を出迎える。

「うむ……そなたが嫁ぐ前に話しておきたいことがあってのう」

 信玄はこれまで彰子に見せていたものとは違う、何処か厳しい表情をしている。それに彰子の背筋が知らず知らず伸びた。信玄の表情は父のものではなく、甲斐の主としてのものだと感じ取ったのだ。

「これから話すことは今はまだそなたの心の中に留め置いてほしい」

 そうして信玄が語ったのは彰子を実の娘とした裏の事情だった。

「儂が政宗殿と謙信と同盟を結んでおるのは知っておるな。この同盟は織田・豊臣に対する為のものだ。しかし、それは表向きでの。政宗殿はこう申されたのじゃ。概ね天下の行末が定まるまで、この同盟を続けたい。そして改めて天下の主を定めたいとな」

 彰子は静かに信玄の言葉を聴く。

「そのとき、こうも申しておった。儂に膝を折ることも考えておるとな」

 流石の彰子もそれには驚く。しかし、すぐに納得した。政宗にとって天下統一は目標ではない。政宗が見ているのはその先だ。天下統一はその為の一過程に過ぎない。だとすれば、彼は自分が天下を獲ることには固執しないだろう。

「正直、そのときに儂は思うた。負けたとな。儂は自分が天下を獲ることしか考えてはおらなんだ。だが、政宗殿は違う。天下泰平の世が一日でも早く成る為には、他者に跪くことも厭わぬという。それこそ、天下人に相応しいと儂は思う」

 そのときを思い出すかのように信玄は目を閉じる。信玄の目裏にはあの日の政宗の姿が浮かんでいる。

「儂はな、彰子。政宗殿を我が後継者としたいのじゃ。政宗殿が天下を獲っても、恐らく幕府は開けぬ。伊達家は源氏ではないゆえな」

 武士が政を握って以来、これまでに開かれた幕府は二つ。源頼朝の鎌倉幕府と足利尊氏の室町幕府。共に源氏の棟梁が開いた幕府だ。朝廷は征夷大将軍の称号を源氏以外には与えようとはしない。だから、政宗が天下を獲っても前例大事の朝廷は彼に開府を許さないだろうと信玄は言う。

「しかし、儂は源氏じゃ。儂ならば幕府を開ける。だが、儂の後がいかん。勝頼は儂の跡を継ぐが、あれは天下人の器ではない。甲斐の主ならば務まろうが……」

 決して無能な息子ではない。甲斐の主であれば大過なく勤め上げることが出来るだろう。しかし、天下全てを治めるほどの器はない。それは父である自分がよく判っている。

「ゆえに、彰子。政宗殿の正室となるそなたを我が実の娘と致したのじゃ。そうすれば政宗殿は我が女婿。跡目を譲ることも出来よう。勝頼は側室の子、そなたは正室の子。更に政宗殿には奥州筆頭としての実績もあるゆえ、家臣たちの説得も容易になろう」

 彰子は信玄の言葉に驚き目を見開く。自分を娘として迎えたことにはそんな深い考えがあったのかと。

「済まぬ。そなたを利用した」

 頭を下げる信玄に彰子は狼狽てた。

「頭を上げてくださいませ、おもうさま。どのような事情であれ、わたくしはおもうさまの娘にしていただいたことを感謝しております。そして、わたくしの愛する方をそれほどまでに見込んでくださっていたことも、とても嬉しゅう思いまする」

 利用されたなどとは思わない。信玄が自分に慈愛を向けてくれていることは身を以って感じている。

「ですが、おもうさま。それはわたくしが将軍の御台所になるということ。わたくしに務まりましょうか」

 政宗が将軍になる、天下人になるというのは十分に想像がつく。彼ならばきっと立派な為政者になるに違いない。破天荒で型破りでプライベートでは我が侭いっぱいだが、奥州筆頭として広大な領地を十分に治めている。

「そなたなら問題はない。奥州でのそなたの様子は佐助や鬼庭から聞いておる。そなたはそのままで十分じゃ」

 父の表情になって信玄は言う。その力強い声に彰子は励まされる。まだ自分が将軍家御台所となる実感は湧かない。しかし、それで問題はないだろう。まだ政宗が天下を獲ったわけではない。

「おもうさまのお考えはまずはおもうさまが将軍となり、そのあとを政宗様に譲られれるということでいらっしゃるのですね」

「政宗殿への将軍宣下が難しいということになれば、そうしようと思うておる。謙信も賛同致しておるしな」

「それを政宗様が了承なさいましょうか? 政宗様は中々自尊心も高くていらっしゃいますゆえ、一度臣下に下った自分が将軍となることを良しとはなさらない可能性もございますよ」

 傍若無人なようでいて、意外とあれで政宗は礼節や秩序を重んじるところがある。一旦は信玄に下った者がその後継者として天下人になることを政宗が如何感じるか。色々と先走りすぎているようにも思える。

「そうじゃのう……あれの気質を忘れておったわい。そこは彰子の腕の見せ所かのう」

「わたくしに丸投げしないでくださいませ、おもうさま」

 何処か砕けた口調の信玄にクスクスと彰子は笑う。

「それにおもうさま、わたくし思うのですけれど、政宗様の開府を認めさせる策もあるのではございませんか。政宗様は藤原北家に繋がる家柄でございます」

 そう言う彰子に、信玄は如何いうことかと目で問いかける。

「公家の方々は政が武士に握られているのを苦々しく思うておいでの方も少なくはないとか。藤原北家は摂関家を出す家柄。伊達家はそれに連なる山陰流でございます。なれば、武家の、源氏の手から政を藤原家に取り戻せると思わせることも出来はしませぬか。藤原北家山陰流の伊達家が幕府を開くことによって、政を再び藤原氏の手に取り戻すことが出来ると公家を唆せばよいのです。宮中は文の藤原北家が、政は武の藤原北家が握るだけのこと、再び藤原の世が来るのだといえば、自尊心肥大の公家はそれで満足致すのではございますまいか」

 幕府開府はたった2回。それで慣習とは説得力に欠ける。第一、鎌倉幕府で源頼朝の血筋は3代将軍までだ。その後は公家から養子に入った飾り物の将軍ばかりではないか。要は公家たちの虚栄心や自尊心を満足させることが出来れば、政宗が将軍になることも不可能ではない。

「そなた、中々策士じゃのう……」

「伊達に400年先の世で歴史を学んではおりません、おもうさま。敬愛するおもうさま、愛する政宗様のお力になる為でしたら、わたくしの持てる知識、全て使いまする」

 自分を慈しんでくれる人の為に、愛してくれる人の為に。彼らの夢を叶える為に。自分の持っている知識が、思考が役に立つのならば、それをフルに利用する。政宗が天下を目指し、自分がその正室となるのならば、自分もただの『奥さん』ではいられないだろう。自分のような人間に重い責だとは思うが、愛する人と共に歩む為には必要なことだ。ならば、その責に耐えてみせよう。

 何処か凛とした表情で自分を見つめる娘に信玄は自然と笑みを浮かべた。

「彰子、そなたが儂と政宗殿の鎹となれ。頼んだぞ、我が娘」

 信玄は莞爾として笑った。






 翌日、彰子は輿に揺られて躑躅ヶ崎館を出立した。迎えに来た輝宗夫妻、小次郎、付き添う三条夫人、護衛隊長は幸村。煌びやかな嫁入り道具の荷駄は数十輌に及び長い行列を作る。護衛の武士、従う侍女も数十名。甲斐と奥州の力を見せ付けるかのような威勢と威儀を正した花嫁行列は約10日の旅程で奥州へと向かった。

 その華やかな花嫁行列は通過する村々で話題となり、『流石は信玄公のご威光』『伊達様へのお輿入れともなれば豪奢なものよ』と後々までの語り草となるのであった。