城に戻った政宗を待ち構えていたのは極殺モード一歩手前の小十郎だった。全身からピリピリと稲妻が飛んでいる。その後ろでは若干引きつった笑いを浮かべる成実とその肩の上で呆れた顔をしている猫姿の撫子がいた。
案の定、正座させられて小十郎から懇々と説教されることになった政宗だが、それは仕方のないことと諦めている。ほぼ同じ内容をもっと冷たい声で昨日綱元から受けているが、小十郎が怒るのも至極当然のことだから政宗は大人しく叱られた。
「で、政宗はおかーさんとエッチしたの?」
「……言葉選べよ、撫子。Honeyが聞いたら泣くぞ」
「おかーさんの前では言わないもーん」
「うん、そうだね、撫子は彰子ちゃんの前だと猫被ってるよねぇ……。で、如何なの、梵」
「お前まで……情緒も遠慮もねぇな」
撫子と成実の問いに政宗は溜息をつく。言葉には出していないが小十郎も気になっているようだ。綱元にすら聞かれたのだから、やはり皆それだけ自分たちの関係を心配してくれていたのだろうと政宗は思う。それでも言葉は選んでほしい。
「契りを交わした。オレと彰子は夫婦だ」
若干頬を染めながら言う政宗に、小十郎と成実は安堵の息をついた。てっきり政宗のことだから時間がかかると思っていた。まさか暗殺未遂事件に決着のついたその日のうちにこうなるとは流石の側近たちも思ってはいなかった。政宗はこと女性との恋愛となると、かなりの晩生だ。しかも彰子の心を思い遣り過ぎて考え過ぎてしまう。元の世界の恋人のことを知っているだけに、自分から彰子を手放してしまう危険性もあった。だからこそ、あれこれと主に成実が嗾けていたのだ。
尤も最近の彰子の様子を撫子から聞いていたこともあり、政宗が一歩を踏み出すことが出来れば何とかなるかもしれないという希望は持っていた。
「政宗ー、ちゃんとおかーさんに好きって言えたの?」
「ああ。尤もHoneyに先を越されたがな」
自分の顔を見るなり、彰子は『好き』と告げてきた。離れていた半月ほどの間にどんな変化があったのかは、後から彰子自身に聞いている。
「……ヘタレだね、政宗」
「うん、やっぱり、梵ヘタレだ」
「うるせぇ……」
それでもちゃんと自分から妻になってくれと言うことは出来たのだからいいではないか。そう思うもののなんとなく『先を越された』という悔しさはある。勝ち負けではないのだが、なんというか『負けた』感が政宗の中にある。それと判る表情に小十郎は苦笑した。
「で、彰子ちゃんはいつこっちに帰ってくるの?」
漸く自分たちが望んでいた政宗と彰子の二人の寄り添う姿が見れるのだと成実は嬉しくなる。
「ああ、そのことだがな。今彰子は甲斐に行ってるんだ。虎のおっさんが連れて行っちまった」
政宗の言葉にまだ何も知らない小十郎と成実は目を見開く。何か下手を打って信玄が彰子を連れて行ってしまったのかとその目は問うている。
「No Problem.troubleがあったわけじゃねぇよ」
自分は何処まで信用がないのだと苦笑しつつ、政宗は彰子が甲斐へ行くことになった経緯を説明した。
「じゃあ、次に彰子ちゃんに会うときは婚礼か。流石は年の功、用意周到だね」
明るい笑顔で成実が笑う。
「ってことで、小十郎、ジジィどもを集めろ。彰子を正室として迎えることを認めさせなきゃならねぇからな」
「御意。既に根回しは済んでおりますゆえ、話は早いかと存じますが」
彰子がこの世界に留まることになってから、小十郎も成実も綱元も、彰子を正室に格上げする為の下地作りをしてきた。『上田の御方様』がどれほどの見識を持ち、気品と教養に溢れ、思い遣り深い方なのか。それを日常の会話の中に交え、影響力のある老臣たちに上田御前を支持する派閥を作り上げていたのだ。ただ、その老臣たちにしてもネックなのは上田御前の身分だった。側室であれば他国の重臣程度の家柄でも問題はない。しかし、政宗は奥州筆頭であり、摂関家に連なる藤原北家の血筋なのだ。その政宗の正室が同盟国とはいえ一配下武将の姉では身分が低すぎる。これから天下に覇を唱えようという政宗であれば、その正室は有力大名の娘か公家の姫であることが望ましい。
しかし、信玄の策によってこの問題がクリアされた。彰子の正室昇格を阻むものはもう何もない。
そんなわけで、政宗が彰子を正室へと格上げする、改めて輿入れさせて婚礼を挙げると告げたとき、反対の声は然程大きくはなかった。元々彰子に──というよりも『側室』に好意的だった重臣たちは政宗が正室を迎える気になったことを喜んだ。側室の存在を快く思っていなかった者たちも反対は出来なかった。彰子が元の身分のままであればそれを理由に反対も出来ようが、いまや彰子は信玄の実の娘であったことが明らかにされている。しかも正室腹ともなれば、その血筋は蔑ろには出来ない。今更側室として留めおくことは下手をすれば甲斐の機嫌を損ねかねない。
純粋に喜ぶ者、渋々了承する者、様々な思惑があるとはいえ、重臣たちは誰一人反対することなく、『甲斐・武田信玄の末姫彰子』を政宗の正室として改めて迎え入れることに賛成したのであった。
「ふむ。武田殿の秘蔵の姫君であれば、こちらもそれなりの礼儀を以ってお迎えせねばならんのう。婚儀の打ち合わせの使者は鬼庭、そなたが行くが良い。彰子姫が奥州へ向かわれる際の迎えは……よし、儂が行く!」
とんでもないことを言い出したのは、ニコニコと笑いながら会議の流れを見ていた前当主輝宗だった。
「このクソ親父……いきなり何を言い出しやがる」
「良いではないか。儂も武田殿とはそれなりの付き合いもあるし、久々にお会いしたいものじゃ。婿の父母揃っての出迎えであれば、礼を失することもあるまい」
更に落とされた爆弾に政宗は『はぁぁ!?』と叫ぶ。成実は乾いた笑いを漏らし、小十郎は頭を抱えている。
「お義も早う上田殿に会いたいと常々申しておったしな」
「ならば、父上母上の身辺警護の為に私も参りましょう」
それまで黙っていた小次郎までもがそんなことを言い出し、父の暴走を止める気配もなく煽る。
「……政宗様、大殿がこう言い出したら止まりませぬ。聊か慣習とは異なりますが、奥州がそれほどまでに彰子姫様を重要視していると示すことも出来ましょう」
輝宗にも仕えていた老臣の一人の言葉によって、輝宗の暴走は受け容れられることとなったのであった。
伊達家において政宗と彰子の婚姻が決定してからは早かった。早速綱元は甲斐へと赴き、婚礼の日取りの打ち合わせに入る。青葉城の奥では喜多が張り切って準備を進める。元々彰子の居室は正室が使う部屋だったこともあり、部屋替えはない。しかしこれまで使っていなかった2室を新たに正室の部屋とすることになり、合計4室が彰子に与えられることになった。これまでの2室は彰子の寝室と居間だったわけだが、新たな2室が公の対面の間と侍女たちの控えの間となったのである。
更にこれまで諸事情から衛門と小督の二人しか側仕えの侍女がいなかったのだが、正室ともなればそうも行かない。筆頭の侍女は衛門で変わりはないが、その下に新たに20人の侍女が配されることになった。その準備もあり、衛門は奥州に呼び戻された。本人は御方様の側を離れることを嫌がったのだが、下手な者を御方様のお側に置くことも出来ないと渋々奥州へと戻ってきた。そして、喜多と共に新たに彰子付きとなる女中の選定を行った。尤も喜多が選んだ女中たちは元々彰子に好意的な者たちであり、今回彰子付きに選ばれたことを喜んでいる者ばかりだった。ゆえに衛門は警戒を解いて正室となる彰子の受け入れ準備を整えることが出来た。何しろ御方様は下の者への気遣いに溢れ、身分を越えて気安く接する方だ。言葉を飾らずに言えば一風変わった姫君といえる。予備知識がなければ戸惑うことも多いに違いない。衛門は新たな彰子付きの侍女たちに、御方様の日常やお好みの品々、猫たちへの対処方法などを伝授し、万端の受け入れ態勢を整えたのである。
また、小督は小督で、新たに与えられた配下に同じ教育を行っていた。小督も普段は彰子付きの側仕えとして侍女となる。しかし、正室付きの黒脛巾として護衛の長の役目も与えられ、その職務は一気に多く重くなった。それゆえ、3人とはいえ配下が与えられたのである。危機感の乏しい彰子の護衛の心構え、猫たちとの役割分担など、彰子を護衛する上で必要な事柄を配下たちに指導していった。
衛門も小督もその教育の中で『猫たちへの対応を間違うな』と口を酸っぱくして言ったのは仕方のないことだろう。何しろ、あの猫たちは彰子以外の言うことは聞きはしないのだ。彰子以外の人間には誰であろうとも上から目線。彰子大事においてはこの世界で彼女たち以上の者はなく、彼女たちの信頼を得なければ彰子に近づくことすら出来ないのである。
そんな慌しくも喜びに満ちた活気の中、輝宗夫妻と小次郎が甲斐に向けて出立した。如月の下旬のことだった。
甲斐に入った輝宗一行はまず信玄の許へ挨拶に赴いた。
「……まさか、舅殿自ら迎えに参られるとはのう」
流石の信玄もこれには驚きを隠せなかった。自分も充分破天荒な自覚はあるが、常識人と思われていた輝宗がこうも型破りなことをするとは想像もしていなかった。
「信玄殿の秘蔵の姫を愚息の正室にいただくのです。これくらいの礼は当然。とは建前でのう、信玄殿。儂らも早う彰子殿にお会いしたかったのじゃ」
笑いながら輝宗が言えば、横からやはり笑いながら義姫も言う。
「政宗は余程上田殿、いえ、彰子姫が大事と見えての。我らにも会わせてはくれなんだのです。妾が嫁いびりをするとでも思うておるのか」
何処か楽しそうに義姫は言う。漸く嫁に会えると思えばそれが楽しみでならないらしい。
「彰子姫はほんにお優しい姫じゃ。倅は滅多に消息を寄越さぬゆえ、我らは心配しておったのじゃが、彰子姫は折に触れ倅の様子を知らせてくださる。我らへの細やかな贈り物も一緒にのう。三条の方様のご教育の賜物でございましょうな」
「妾ではなく、あれの育ての親の教育がよろしかったのでございましょうな。妾が教えたのは姫としての素養のみでございますゆえ」
三条は微笑みながら応じる。実際に彼女が彰子を育てたわけではないがそう言うことは出来ない。輝宗たちは彰子が信玄夫妻の実子だと信じている。
「お東の方様、何卒娘のことをよろしゅうお願い申し上げまする。至らぬところもございましょうが、御方様のご教育を賜りとう存じます」
半月あまりの共に過ごした時間で、三条は彰子のことを実の娘のように思っていた。すぐに手放さなければならないことを寂しく思う。そして、その娘が奥州で恙無く過ごせるかが不安だった。夫となる政宗の愛情を疑ってはいない。彰子自身の教養も人柄も奥州筆頭の正室となっても充分に問題なく勤まるだろう。それでもやはり娘を嫁に出す母としては不安になるのだ。何しろ彼女の生まれ育った世界とこの世界は常識が根底から違うのだから。
「彰子姫のお人柄は我らもよう聞き知っております。姫ならば何の問題もないと思いますぞ、三条の方様」
既に自分はこんなにも彰子のことを気に入っている。青葉城とて歓迎ムード一色だ。
「然様。家臣たちも皆、彰子姫が倅の正室となられることを喜んでおる。姫は城の者たちから好かれておいでじゃ。ご心配はご無用」
輝宗の言葉に三条はホッと胸を撫で下ろす。
「さて、そろそろ彰子とお引き合わせするといたそう。彰子の驚く顔が見物じゃな」
楽しそうに笑う信玄に三条は苦笑する。まさか舅と姑が自分を迎えに来ているなどと思いもしないだろう。普通ならば有り得ないことだから。
信玄が侍女に命じて彰子を呼びに行かせると、それまで黙っていた小次郎がそっと父に話しかけた。
「彰子姉上は驚かれましょうな。庭師親子と思うておられた我らが舅と小舅と判ったら」
その小さな声を耳聡く信玄が聞き取り、如何いうことかと目で問う。それに苦笑しながら輝宗が説明をすれば、信玄は面白そうな、少し呆れたような顔で真面目そうな輝宗と小次郎を見つめた。
「てっきり独眼竜は母君に似たのかと思うておったが、父君に似ておったのか」
「隠居してからは退屈で、よく悪戯をするのですよ、武田殿。その度に政宗と大喧嘩しておりますよ」
彰子絡みで悪戯を仕掛ける輝宗に手を焼いた政宗が、『お袋、親父を何とかしてくれ』と駆け込んで来たことは記憶に新しい。滅多に姿を見せぬ息子が何の先触れもなくやって来たことには驚いた。しかし、疎遠だった息子は何の躊躇いもなく自分を親しげに『お袋』と呼んだ。それがどれほど嬉しかったことか。だから自分もこれまでの距離を忘れ『そなたが妾たちを上田殿に中々会わせぬからです。妾も端女に身を窶して上田殿の許へ参ろうかのう』と揶揄うことが出来たのだ。それ以降、政宗は以前よりは頻繁に顔を見せるようになってくれた。それもこれも彰子の存在あってのことと思えば、一層彰子への好感は強まる。
「おもうさま、彰子にございます」
政宗のことを考えていた義姫の耳に、襖の先から涼やかな声が届いた。これが上田殿の声か。漸く対面出来るのかと思うと、義姫は年甲斐もなく胸が高鳴った。
「ああ、入るがよい」
信玄の返答を受けて、襖が開く。そこには20歳前後の凛とした美貌の女性が端座していた。
信玄に促されるまま、母三条夫人の横に座った女性。その挙措は流石に公家の血を引く娘と思わせる雅やかなものだった。これが息子の愛した女性なのだ。そう思うと義姫の視線は自然に柔らかく温かくなる。
「おぬしを迎えに来てくだされたのじゃ。伊達輝宗殿、奥方の義殿、弟御政道殿じゃぞ」
信玄の言葉に当然、彰子は驚いた。一瞬呆然とした後、狼狽てて頭を下げる。
「ご無礼を致しました。信玄が娘、彰子にございます」
(……流石、政宗さんの家族……。やることがぶっとんでる)
そんなことを思う彰子に、優しく親しげに輝宗が声をかける。
「堅苦しい挨拶は抜きじゃ、彰子姫。顔をお上げなされ」
「そうですよ、今更堅苦しいことはなしと致しましょう」
舅と姑の優しい声に、彰子は内心引きつった笑いを浮かべながら、顔を上げたのであった。