炎のたぬきと氷のきつね

 政宗が綱元からお説教を受けていた頃。実は既に武田信玄は春日山城に来ていた。謙信の私的な居間で彼と向かい合い、これからのことを画策していた。これからのことといっても天下統一についてではない。彰子と政宗の若者たちのことについてだった。

「ほう、漸く小童が年貢を納めたか」

 信玄にしてみれば、政宗は同盟国の領主であると共に次代を託す者でもあった。親子か祖父と孫ほどに歳が離れていることもあり、ある種の期待を以って政宗を見ている部分がある。そんな信玄からしてみれば独身を通していた政宗は少しばかり気がかりだったのだ。血を残すことを厭うているのではないかと。彰子を側室に迎えたときにはホッとしたが、先日政宗と彰子は真実夫婦ではないことを知って、更に心配していたというわけだ。

「ええ。まそおがりんどうのへやにもどらなかったのがそのあかし。ようやくどくがんりゅうはりんどうをたおったようです」

「それは重畳。これで彰子も心安らかな己の居場所を得たのだな」

 前回の対面で彰子の事情は全て聞いている。初めて出会ったときから何故か庇護欲を抱いた娘だった。恐らくそれは彰子の孤独を感じ取っていたからこそのものだったのだろうと今になれば判る。

「しかし、小童は彰子を側室に留めおくつもりか」

「おにばはせいしつにしたいとねがっておるようですよ、しんげん。あなたもこのままにしておくつもりなどないのでしょう」

 だからこそ、信玄は彰子を『我が娘』とする為にあれこれ手を回しているのだ。

「ずるいです、しんげん。こだくさんのあなたがりんどうまでむすめにするなど。わたくしのむすめにしたかったのに」

 謙信は怨ずるように信玄を見る。それに信玄は呵呵と笑う。

「彰子は甲斐に降り立ったのだ。神仏が儂の娘とせよと仰せになったに違いあるまい」

「わたくしとてりんどうのようなうつくしくそうめいなむすめがほしいのに。わたくしのこはさぶろうひとりしかおらぬのですよ。りんどうをわたくしにくれてもよいではないですか」

「おぬしが生涯不犯の誓いなど立てるからいかんのだ。種を蒔かずに果実だけ得ようなどと図々しいわ」

 笑う信玄に謙信は溜息を一つつくと矛を収めた。

「かいのしゅびはいかがですか」

「問題はない。三条も納得いたした。事情を知る数名も委細承知しておるし、他の者は儂の話を信じおったわ」

 ニヤリと信玄は笑う。こういうとき艶福家として認知されていた信玄だけに説得力に富む。お館様ならばそういうことも有り得るだろうと。

 先日、彰子を娘とすることに決めた信玄は、甲斐に戻るやブレーンの数名と三条夫人に『伊達政宗の側室、真田彰子を儂の実の娘とすることにした』と告げた。彰子が幸村の姉などではないことを知っていた者は少ない。懐刀の山県昌景と軍師山本勘助、弟の武田信繁の3人くらいなものだ。他の家臣たちは幸村の嘘を信じて、幸村の父昌幸の隠し子だと思っている。

 信玄の策はこうだ。約20年前に信玄と三条夫人の間に子が出来た。しかし、当時既に三条夫人はお褥すべりをしており、そんな中での懐妊に夫人は恥ずかしさから公にすることを避けた。信玄も夫人の意を汲み、ごく側近の者にしかそれを告げなかった。高齢での出産だったこともあり、三条夫人は産後の容態が思わしくなく、信玄も多忙なこともあって、子を真田昌幸に預けたのである。そして昌幸は預けられた主君の姫を己の隠し子として密かに育てたのだ。ただ、三条夫人は末の姫を愛おしく思い、また早くに母から引き離された娘を哀れに思い、密かに娘に会っては溺愛し公家の姫に劣らぬ教育を授けた。そして、美しく成長した娘は伊達政宗に見初めらる。真田幸村は異母姉が実は信玄の子であることを知らなかった為、姫は側室という身分を与えられてしまった。しかし、母三条夫人は愛娘が軽んじられる側室であることが我慢ならず、今回、彰子が実子であることを公表することに決めたのである。

「おや、それでは妾は随分我が侭な親馬鹿でございまするなぁ」

 夫の策を聞いた夫人は扇で口元を隠して笑った。

「嫌か、三条」

「いいえ。その彰子なる娘御、この甲斐と奥州の絆となる女性にございましょう。ならば我が娘であるほうが良いように思われまする。異存はございませぬ」

 伊達に40年近く信玄と連れ添っているわけではない。充分に三条夫人も政治を理解している。だから夫の策をあっさりと受け容れた。夫がそこまで心を砕く彰子という娘への興味も沸いた。そして、彼女だけが夫から告げられた彰子の不思議で辛く悲しい境遇に驚き、また憐れを感じた。だから、自分の娘とすることを了承したのだ。

「されど、殿。愛娘であれば一度も対面せぬのはおかしなこと。妾にも彰子を会わせてくださいましょうな」

 というわけで、実は今回の越後訪問には三条夫人も同行している。

「かいがもんだいないのであれば、あとはどくがんりゅうたちのりきりょうしだいですね」

 信玄の話を聞き、謙信はニッコリと笑った。






 目の前でニコニコと微笑む貴婦人と偉丈夫に、政宗と彰子は言葉もなかった。それでも何とか気を取り直して政宗は口を開いた。

「Ahー……如何いうことだ、虎のおっさん」

「言うたとおりじゃ、小童。ぬしが我が娘を側室のまま留めおくというのであれば、彰子を奥州へは返さぬ。このまま儂が甲斐へ連れ帰る」

 きっぱりと言う信玄に、彰子も恐る恐る声を出す。

「あの、お館様、奥方様、それは……」

「彰子、おもうさまにおたあさまですよ」

 ニッコリと微笑を崩さずに言う三条夫人に彰子は完全に言葉を失った。三条夫人までもが信玄のとんでもない設定を容認しているのだ。

「妾が申したのです、伊達殿。彰子は我が腹を痛めて生んだ愛おしい末姫。転法輪三条家の娘が側室など、妾には許せませぬ」

 公家らしい誇り高さを覗かせながら三条夫人は言う。三条夫人の実家は清華家の一つである転法輪三条家であり、摂関家に次ぐ格式のある家柄だ。律令における最高官・太政大臣にまで上れる家柄であり、その娘であれば帝の后にもなれる。その夫人の娘であれば、仮令藤原北家山陰流とはいえ陸奥国守護で従五位下左京大夫でしかない政宗の側室では身分不相応だと夫人は言うのだ。

「彰子は遅くに出来た子ゆえ、これも溺愛しておるのじゃ。生まれてすぐに手放したゆえ、一層憐れに思うておる」

 信玄と三条夫人の口から語られる『信玄と三条夫人の末子・彰子』の境遇に政宗と彰子は目を白黒させる。

「お館様……あの……」

「おもうさまじゃ、彰子」

「…………おもうさま、おたあさま、本当にそれでよろしいのですか」

 何を言っても無駄な気もするが、それでも彰子は確認せずにはいられない。本当に自分を『実子』としてしまってよいのかと。

「良いも何も、それが事実じゃ」

 案の定、信玄はきっぱりと言ってのける。

「それが証拠に、そなたの懐剣を見せてみよ、彰子」

 そう言って信玄は彰子の懐にある小太刀を取り出させる。

 この懐剣は彰子が奥州へ向かう為の暇乞いで躑躅ヶ崎館を訪れた折、信玄から与えられたものだった。嫁ぐ自分への餞としてこの剣をくれた信玄に当時とても感謝し、それ以降、常に身に着けているものだった。この剣がまるで本当に父親から与えられた護りのようで、彰子の心を支える一つとなっていた。

 言われるままに彰子は懐剣を信玄に差し出す。すると信玄はその小太刀の柄を外した。そのなかごには武田家の家紋・武田菱が彫られている。そしてそれだけではなく『我が娘彰子を護り参らせよ』と神仏に願う文字も刻まれていた。それを示されれば政宗も彰子も最早何も言えなくなった。

「それにこれもあるぞ」

 そう言って信玄が懐から取り出したのは、彼が幸村の父・昌幸に宛てたことになっている文だ。そこには彰子が昌幸に託された事情と信玄・三条夫人の末子であることが記されている。

「このことを知っておったのは、我が弟・信繁と幸村の父昌幸のみでのう。内藤や山県、勘助には呆れられたわい。何故正室の子を隠す必要があるとな」

「ほほほ。確かに然様でございまするなぁ。されど遅うに出来た娘ゆえ、他国に嫁がせたくはなかったのじゃ。我が娘となれば他国に嫁がされるは必至。昌幸に託せば甲斐に留まらせることも出来ようと思うてのう」

 笑う夫婦タヌキに政宗と彰子は顔を見合わせる。

「それとも何か、小童。彰子では正室に不足だとでも申すか」

「とんでもねぇ。彰子以上に正室に相応しい女はいない。彰子を正室に望んでいないのは本人以外誰もいねぇ」

 じろりと睨めつける信玄に政宗は首を振る。政宗や彰子に近い者は皆彰子を正室格として遇している。それは政宗の両親とて同じで『上田殿にお子が生まれたら正室に格上げしてはどうか』と言い出したのは誰あろう母・義姫だ。

「ただ、ずっと彰子自身が自分の身分から『奥州筆頭』の正室には相応しくないと言ってたんだ。だが、虎のおっさん、いや、信玄公のご息女であれば身分にもなんら問題はなくなる」

 甲斐源氏の棟梁であり、信濃・甲斐の守護である信玄だ。身分になんら不足はない。しかも正室腹ともなれば、側室なんてとんでもないという状態になる。

「ならば、問題はないのう。即刻、おぬしは奥州に戻り、彰子を正室として改めて迎え入れる準備を致すが良いぞ。儂らも我が娘に相応しく威儀を整え、改めて輿入れさせうようほどにな」

 つまり、一旦彰子は甲斐に引き取ると信玄は言う。

「あの、おもうさま、それは……」

 身分を捏造して自分を正室にしてくれるだけでも充分過ぎるほどなのに、これ以上甘えるわけにはいかないと彰子は口を開くが、信玄は笑ってそれを封じた。

「既に花嫁道具は準備を致しておる。それを無駄にせよというのか?」

「そうですよ、彰子。娘たちには皆、武田の娘として、三条家の縁者として相応しい支度を整えて送り出しておるのです。そなただけ、身一つで嫁がせるなど出来るわけないでしょう」

 用意周到なタヌキ夫婦に彰子は口をパクパクと開閉させるしかなかった。

「Honey、諦めろ。父上母上の親心だ。有り難くお受けするしかねぇだろ」

 何処か達観したような政宗の声に、彰子も頷くしかなかった。殆ど自分の意思は丸無視で正室化が決まってしまった。けれど、それも信玄の暖かな優しさから来ていることが判るだけに、彰子もこれ以上の反論は出来なかった。

「おもうさま、おたあさま、有り難くお心頂戴致します」

 彰子はこの世界の両親に深々と頭を下げた。生まれ育った世界を捨てたときに失った『家族』。もう自分には『両親』などいないと思ってきた。けれど、全てを失ったこの世界で、こうして新たな『両親』を得た。新たな家族を得たのだ。

「Honeyと離れるのは寂しいが、仕方ねぇな。さっさと奥州で受け容れ準備整えて、婚礼だ」

「今日が如月の三日。遅くとも弥生に入るまでには婚礼の支度を整えよ、小童」

 1ヶ月で奥州内の説得をし、婚礼に備えろという信玄に政宗は笑った。

「そんなにHoneyと離れてられるか。10日後には婚礼だ」

「お断りします、伊達殿。折角久々に娘と過ごせるのです。彰子の甲斐出立は弥生の吉日を選んでのこと」

「そう申すな、三条。小童は彰子を溺愛しておる。本来ならば一刻すら離れたくはないのだろうて」

「ですが、殿。伊達殿はこれからずっと彰子と一緒ですのよ。妾は長い間彰子と離れておったのです。漸く母娘の対面が出来たというのに10日でまた離れてしまうのは寂しゅうございます」

「ならば、ご母堂も奥州に参られればよろしかろう。心行くまで奥州に滞在なさり、新婚の娘の世話をなさればよい」

 花嫁を抜きにしてどんどん話が進んでいく。

「まぁ、彰子の花嫁行列は奥州と甲斐の絆を見せ付ける為でもあるからな。甲斐から奥州まで15日ほどかけてゆるりと行くのが良かろう。となれば、婚礼はやはり弥生に入ってからじゃな」

「確かに色々省略すれば彰子が侮られることにもなるからな……。使者の遣り取り、打ち合わせもあるからそうなるか」

 本当は時間なんかかけたくない。このまま奥州に連れて帰って新婚生活を楽しみたいところだ。しかし、正式に正室としての輿入れをするということになれば、色々なしがらみがある。それを省略してしまっては後々彰子が軽んじられてしまうことにもなりかねない。だから、政宗は渋々とそれに納得した。

 自分抜きでどんどん進んでいく話に彰子は口を挟まなかった。これが平成の世であれば花嫁無視して話を進めるなと言いたいところではあるが、ここは戦国の世だ。自分と政宗の結婚は既に二人の問題ではなく、甲斐と奥州の、国と国の問題になっているのである。

「彰子、暫くは母娘で過ごせそうですよ。楽しみだこと」

 優しく微笑んで言う三条夫人に、彰子は母の慈愛を感じて、頬を緩めて『はい、おたあさま』と頷いたのであった。






 その後は慌しかった。政宗は謙信と対面し全ての事情を説明した後、綱元と共に奥州へと戻っていった。彰子は彰子で信玄夫妻に連れられて甲斐へと『戻る』ことになった。

「りんどう、しあわせになるのですよ。ほんとうはそなたをわたくしのむすめにしたかったのですが、しんげんがわたくしにくれなかったのでしかたない。けれど、わたくしもそなたをむすめのようにおもうていることをわすれないでくださいね」

 出立の挨拶をする彰子に謙信はそう優しい言葉をくれた。それに彰子は心からの礼を述べた。全てを受け容れてくれた謙信に深い感謝の気持ちがある。そしてこれほどまでに心を砕いてくれる謙信に、まるで叔父か兄のような慕わしさも感じた。

 そして数日後、彰子は『武田家の末姫』として躑躅ヶ崎館に入った。既に信玄の根回しは完了しているらしく、家臣も侍女たちも違和感なく彰子を『姫』として遇した。

「姉上……いえ、彰子姫様」

 約半月ぶりに会った幸村は彰子の境遇の変遷に戸惑いつつもそう声をかけてきた。彰子は自分の姉ではなくなってしまったのだ。お館様のご息女となられたことは喜ばしいことだと思うのに、寂しさも感じてしまった。それが彰子に対して申し訳ない、そう思っているようだった。

「幸村殿……貴方が嫌でなければ、今までどおり姉と呼んでもらえないかしら。私、幸村殿が弟になってくれてとても嬉しかったの。貴方のような弟がいると思うと嬉しくて誇らしかったの」

 この世界で自分を最初に『家族』にしてくれたのは幸村だった。それがどれほど彰子の寂しさを癒してくれたか判らない。

「よろしいのですか?」

「ええ。私はお館様の娘になったけれど、貴方の父上の娘でもあったわけだし。幸村殿のお姉さんでいたいわ。ダメかしら」

 本心からの言葉だ。そう告げる彰子に幸村は輝くように笑った。

「一つだけ、それがしの願いを聞いてくだされば、これからも姉上とお呼び致しまする」

 彰子の言葉が嬉しかった。幸村にとって彰子は紛れもない『姉』になっていた。だからこそ、お館様の娘になってしまったことが寂しかったのだ。

「お願い?」

「はい。それがしのことは『幸村殿』ではなく、幸村とお呼びくださいませ」

 ずっとそう呼んでくれと言っていたのに、彰子は幸村殿と呼び続けた。いつかは幸村と呼んでくれる日がくるだろうと期待していたが、中々彰子の呼称は変わらなかった。だから、これ幸いと願うことにした。

「……判ったわ。これからはそうするわ。それでいいのね、幸村」

 微笑んで名を呼んだ彰子に、幸村は満面の笑みを浮かべて頷いたのであった。

 それから約1ヶ月の間、彰子は信玄・三条夫人の末姫として躑躅ヶ崎館で過ごした。

 着々と進む婚礼準備、彰子自身にとっては過分とも思えるほど豪華な衣装や調度類には戸惑いも感じたが、『甲斐国主の娘』ともなれば仕方ないと諦めた。

 また、清華家出身である三条夫人には直々に公家の姫としての教育も受けた。主に和歌や文学に関するそれらの教養は、元々彰子が生まれ育った世界で大学時代に専攻していた分野だけに興味深く、楽しく学ぶことが出来た。

 三条夫人は常に彰子の側におり、『久々に手元に戻った娘』との時間を楽しんでいるように周囲には見えた。夫が気にかけていた娘ということで彰子に興味を抱いていた三条だったが、彰子と接するうちに本当に彼女を娘と思うようになる。聡明で思慮深い彰子を三条は気に入り、彰子が自分や夫に遠慮してしまうことを寂しく感じるほどだった。そんな三条の気持ちを感じたのか、徐々に彰子も三条と打ち解け、躑躅ヶ崎館滞在半月が過ぎる頃には三条夫人を『おたあさま』と躊躇いも遠慮もなく呼ぶようになっていた。

 そして、彰子が奥州へ向けて出立する日が近づく。奥州からは彼女を迎える為の使者が来ることになっていた。

 その使者が、とんでもない人物たちだったことに、彰子は呆然とし頭を抱えることになる。