衛門の勢いに押されて自分から政宗に告白することになってしまった彰子だったが、当分そんな日は来ないと思っていた。少なくとも自分が奥州に戻らない限りはそんな日は来ない。そして、自分が奥州へ帰るのは事件が全て片付いてからだ。萌葱は3時間強で奥州からやって来ているから、昨日の時点ではまだ事件は解決を見てはいないはずだ。仮に萌葱の出発後すぐに事件が解決していたとしても、その後連絡が来て彰子が奥州へ戻るまでに最速でも10日程度はかかるはずだ。だからもう暫く猶予はある。その間に心の準備も出来るだろうと思っていた。──なんだかんだといって彰子は自分から告白することを受け容れている。しかし、しかしだ。まさかこんなに早くそのときが来るとは思ってもいなかった。こんな事態は予測していなかった。
時刻は深更。夜空には月が煌々と輝き、その白光が真白な雪を照らし、えもいわれぬ幻想的な美しい風景を創りあげている。その美しい景を背に、肩で息をしているのはここにいるはずのない人物だった。
この真冬──暦の区分では春とはいえ──の雪国で彼は額に汗を浮かべている。熱を孕んだ体からは湯気が立ち上っている。それは彼がどれだけ馬を無茶苦茶に駆って来たのかを容易に推察させた。
何故彼がここにいるのか。疑問に思ったのは一瞬だった。犯人は萌葱に違いない。裏で真朱が糸を引いていることは疑いようもない。きっと萌葱は政宗に告げたのだ。彰子が政宗の縁談を知ったことを。だから、政宗は狼狽てて夜を徹して駆けて来たのだ。多分、自分に弁明する為に。誤解を解く為に。そう思った瞬間、彰子の口から言葉が溢れ出していた。
「政宗さん……好き。大好き。貴方の側にいたい。いさせてくれますか」
何かを考えるよりも先に、何かを問うよりも先に、そう告げていた。彰子自身が驚くほど率直に、飾らない言葉で、思うままの、願うままの言葉を。
「Honey……」
気付いたときには苦しくなるほどの強い力で政宗に抱きしめられていた。耳を政宗の掠れた声が甘く擽る。
「I love you so much……」
愛している、そう政宗が告げる。けれど、欲張りな彰子の心はそれ以上の言葉を欲した。
「英語、嫌だな。日本語が良い。世界で一番美しい言葉で言って」
そっと政宗の背に手を回し、彰子は甘えるように囁く。一番好きな言語で、一番好きな人の声で、彼の想いを聞きたい。彼に求められたい。
「好きだ、彰子。お前がほしい。お前しか要らない。ずっとオレの側にいてくれ」
政宗も飾らない率直な言葉で、愛しい女を求める。
「うん……」
彰子は背に回した腕に力を込める。
──そしてその夜、彰子は政宗の『妻』となった。
「やれやれ、せわがやけますね」
美しい月を肴に謙信は盃を干し、呆れたように溜息をついた。隣には小さな盃に注がれた酒をチビチビと舐める真朱と萌葱がいる。因みに萌葱も本来の猫姿に戻っている。
「本当に。ママも手がかかりますけれど、政宗も世話を焼かせますこと」
そんなことを言いながらも、ほろ酔い加減の真朱は上機嫌だ。
「まぁ、政宗のヤツ、ヘタレだしなー」
謙信には全てバレていると真朱から聞いた萌葱も猫を被るのをやめ、普通に人語で話している。
越後へやってきた政宗がまっすぐに彰子の許へ向かえたのはこの2匹のおかげだ。萌葱から政宗が越後へ向かったと知らせを受けた真朱が、謙信に根回しをしたおかげで政宗は警備兵や細作に邪魔されることなく、最短距離で彰子の許へ行くことが出来たのである。
「つぎはりんどうをどくがんりゅうのせいしつにしなければなりませんね」
謙信の言葉に2匹は頷く。今の彰子は側室でしかない。現代人の多くが誤解しているように側室=愛人ではない。側室もれっきとした妻である。それは猫たちにも判っているし、彰子も理解している。彰子自身は自分の素性から側室で充分だと思っているが、猫たちには不満だった。側室は妻であるとはいえ、正室に比べれば軽んじられる存在であることに違いはない。やはり彰子には正室になってほしい。これは猫たちだけではなく、周囲の関係者誰もが思っていることだった。謙信とて例外ではない。
謙信は今ではすっかり彰子の保護者の気分だった。彰子から政宗も知らない全てを聞き、彼女を哀れに思い、また愛おしく思っていた。息子である景虎を思うように彰子のことも愛おしく思うようになっている。信玄が実子主張をしなければ自分の隠し子として公表しようかと思ったほどに。それほどに謙信は聡明で生真面目で、様々な苦しみを背負ってきた彰子に心を寄せていたのである。
「つるぎをしんげんのもとへつかわしました。あすのごごにはしんげんもえちごへまいりましょう。ふふふ、たのしみですね」
何処か悪戯っ子の表情で言う謙信に真朱は頷いた。
彰子を正室にする為のキーパーソン、武田信玄。
彼の再々登場によって事態は一層賑やかに進展することになる。
こういうとき、どんな顔すればいいんだっけ。彰子は政宗の腕の中で困惑していた。前にもこういうことあったなぁ……と彰子は思い出す。奥州に来てまだ数日しか経っていなかった頃、政宗の側室であるとアピールする為に同衾した翌朝のことだ。あのときは文字通り同じ布団に寝ただけで何もなかった。だから、じっと政宗の寝顔を観察する余裕があったし、彼が目覚めても然程動揺はしなかった。
だが、今回は違う。体を重ねた。想いが通じ合った。本当に政宗の側室になった。政宗に確りと抱きしめられているのは以前と同じだが、今は素肌が触れ合っている。それもまた彰子の恥ずかしさを煽る。せめて単を着てから眠ればよかったのだが、ぶっちゃけ途中で意識を飛ばしてしまったから、彰子にそんな余裕なんてなかった。
「……そんなに見つめられると、如何していいのか判らないんですが。というか、恥ずかしいし、服着たいし、離してほしいし……」
「やなこった」
彰子の願いを政宗は即座に却下して、抱きしめる腕に力を込める。ずっと夢見ていた後朝だ。どっぷりとこの幸せに浸っていたい。
「でも……恥ずかしいんだってば」
昨晩は何も考えられなかった。自覚した想い、その愛しい男に会えた喜び、それだけに突き動かされていた。だが、明るくなってみれば冷静さも戻ってくる。彰子とて政宗の腕の中でゆるゆると過ごしていたい気持ちがないわけではない。しかし、そろそろ衛門がやってくる。
しかも、である。今まで失念していたが、ここは余所様のお宅だ。『自宅』の青葉城ではなく、客として滞在させてもらっている春日山城なのだ。余所様のお宅で盛り上がってイタしてしまったことに、今更ながらに彰子は恥ずかしさと居た堪れなさを感じているのだ。
「……そっか、政宗さんは私の肌を他の人に見せたいわけね。そろそろ衛門来るし、常葉丸くんも多分一緒だし。偶に景虎殿だって一緒に来るんだけど。いつもなら私もう起きて着替えてる時間だから」
中々腕の力を緩めてくれない政宗に、彰子は一計を案じてそう告げてみた。すると、政宗は渋々とではあるが彰子を抱きしめる腕を緩め、解放してくれた。彰子の恥ずかしがる気持ちも判るし、確かにそろそろ日も高くなりつつある。それに確かに彰子のこんな姿を他の人間に見せたくはない。この姿を見ることが出来るのは自分だけにしておきたい。
解放された彰子はさっと単を着込み、昨晩用意しておいた小袖を纏う。政宗も素襖と袴を身に着ける。
「……政宗さん、そういえばその格好で昨夜来たんだよね……」
寒い。どう見ても薄着に過ぎる。
「Ah……そうだな」
昨夜は何も感じなかった。ただ彰子の許へ行くことしか考えていなかった。身を切るように冷たい風の中を駆けてきたはずなのに、それを感じる余裕もなかったのだ。しかし、自覚してしまえば途端に寒くなる。
「Honey、寒い」
「当然でしょ」
唇を青くして途端に震え始めた政宗の為に火鉢を用意し、綿の入った厚手の袿を肩にかけてやる。
政宗は着の身着のままやって来ている。刀を持って来ている分マシだが。多分政宗は誰にも告げずに一人馬を駆って来たに違いない。もし小十郎がついて来ているなら、防寒具なしのこんな薄着であるはずがない。それほどまでに政宗が自分を求めて来てくれたのだと思うと彰子は嬉しくなった。
「御方様、朝餉の膳をお持ち致しましたが、入ってもよろしゅうございますか?」
そのとき襖の先から衛門の問いかける声がした。彰子が諾と告げれば、衛門とその後ろには常葉丸がいて二人分の膳を運び入れる。二人ともここに政宗がいることに驚きもしない。恐らく、昨晩政宗がやってきた瞬間姿を消した真朱が伝えたのだろう。その真朱も萌葱と共に衛門の後から部屋に入ってきた。
政宗がいることに衛門も常葉丸も真朱も萌葱も敢えて何も言わず、青葉城の日常のように政宗たちに朝食を供する。食事が済めば、衛門と常葉丸はこれまた何も言わずに膳を持って下がっていった。
「……これから如何するかな」
何も言われなかったことが若干気まずいというか気恥ずかしい。言わなくとも判ってますよと衛門と真朱の目が言っているように政宗は感じていた。なんというか、新婚カップルを生暖かく見守られているような感じなのだ。
「謙信様にご挨拶……じゃない? 突然来ちゃったわけだし」
既に謙信たちも政宗が来たことは知っているだろうが、まずはそこからだろう。確実に謙信に揶揄われることが予測出来るだけに、政宗としてはしらばっくれて帰ってしまいたいところだが、そうもいかない。何も言わずに彰子を連れて帰ることも出来ないから、ちゃんと突然の深夜の来訪を詫び、礼を言わなくてはならない。
「謙信様はお忙しい方ですから、時間が出来たら呼ぶと仰ってましたわ」
真朱の言葉に政宗は頷いた。それまで彰子と過ごしていろという謙信の有り難い配慮だろうと思い込むことにして。
「んで、俺ら、政宗のこととーちゃんって呼べばいい?」
「えっ」
萌葱の突然の言葉に彰子は驚いて彼を見る。萌葱はニヤニヤと笑っている。本当に猫は表情が人間じみて豊かだ。
「政宗若いよなー。うんうん。若さは馬鹿さとはよく言ったもんだぜ」
何が如何なったかすっかりお見通しの萌葱に政宗も彰子も顔を赤くする。
「政宗、ママを悲しませたら許しませんからね。ママの為にお前を義父と認めますけれど、何かあれば容赦はいたしませんことよ」
「するわけねぇだろ」
上から目線の真朱の言葉に即座に政宗は応える。彰子は宝だ。自分にとって何物にも変えがたい掌中の珠だ。そして、一生を共に過ごす片翼だ。
「ママ、良かったですわね」
彰子にはただ一言だけ。じっと見つめて一言だけ告げる。それだけで十分だった。
「うん、ありがとう、真朱」
じんわりと胸が温かくなる。幸せなのだと、唐突に彰子は悟った。今、自分はとても幸福なのだ。
「良い雰囲気を壊すのは申し訳ないのですが、そろそろよろしゅうございますかな」
突然の声に彰子は我に返った。政宗は凍りついたように固まっている。そして、ギギギと音がしそうなぎこちない動きで、声の発信源を見た。そこにはにっこりと良い笑顔の、但し目だけは笑っていない綱元の姿があった。
綱元に耳を引っ張られ政宗が別室に連れて行かれて小半時。彰子は萌葱からこうなった状況を聞いていた。全ての決着がついたこと、そして政宗を嗾けたこと。
「やっぱり萌葱が犯人だったんだ」
クスっと彰子は笑う。
「意外に策士だね、萌葱」
「そりゃかーちゃんの子供だもん。門前の小僧習わぬ経を読むってヤツだろ」
喉許を擽られゴロゴロと喉を鳴らしながら萌葱は言う。
「これでママは政宗の妻ですわね。結婚式が出来なかったのが残念ですけれど」
「仕方ねーじゃん。でもかーちゃんの花嫁姿見たかったよなー。ウェディングドレスは無理にしてもさ」
確かに、少しばかり残念だなと彰子も思わないではない。やっぱり彰子も女だ。『結婚式』への憧れはあった。しかし、自分は側室だから仕方ない。
「ママ、このままでいいんですの? わたくし、ママが側室のままだなんてイヤですわ」
「それは仕方ないでしょ。既に側室として入ってるんだし。それに身分ってものがあるからね。政宗さんの正室になるには、私は身分低いと思うよ」
「でも、お館様がママを娘だって仰ってくださいましたわ。武田信玄の娘であれば身分は十分ではありませんの?」
やっぱり真朱としては大好きなママが側室というのは納得出来ないのだ。政宗が今後他の女を娶ることはないと確信もしている。彰子が唯一の妻として実質上正室と同格になるとはいえ、やはり側室は側室だ。
「うーん、でもね、政宗さんというか、奥州筆頭の『正室』が空いてるって結構意味のあることだと思うんだよね」
政略的にねと彰子は言う。実際にそこに誰かを据えるという意味ではなく、『正室』の座が空いているということ自体が大きな意味を持つのだ。外交においては。
「まぁ、政治的観点からすれば、ママの仰ることも判りますけれど……」
「かーちゃんと政宗は心が確り結びついてるからそれでいいんだってこと?」
可愛らしく首を傾げながら萌葱が問えば、それに彰子は頷く。
萌葱は真朱たちほど彰子の正室化に拘ってはいないが、やはり彰子が側室ゆえに侮りをうけることに関しては不満を抱いている。大好きなかーちゃんが馬鹿にされるのは許せない。正室ならばそれもなくなるから、出来れば正室になってもらいたいと思っている。
「色々望んじゃうと、際限なくなるからね。政宗さんの隣で生きていけるだけでいいの。側室でも十分よ」
欲をかけばキリがない。だから、それだけでいいのだと彰子は微笑む。一度は愛する人と引き裂かれた。けれど、今は政宗と共に生きることが許された。それだけで十分に幸せなのだ。
「……ママはもう少し欲張りになってもいいと思いますわ」
ふぅと溜息をついて真朱は言う。でも彼女にも自分の主はこういう人なのだと判っている。
漸く彰子は生涯の居場所を得たのだ。政宗の隣という。今はそれだけで十分だろう。このまま幸せに主が過ごせることを心から真朱は願うのだった。
一方、綱元に引っ張られていった政宗は、まずは単独深夜に越後へやってきたことに関して懇々とお説教をされた。確かに萌葱も一緒だったとはいえ軽率だったことに違いはないから、政宗は大人しく叱られた。その後、全ての決着がついたこと、牧野と野菊の処罰、豊臣への対応を綱元に報告した。
「では、我らも御方様も奥州に戻れますな。ところで、殿。昨晩、御方様と契られましたか」
「……ドstraightだな、綱元」
「言葉を飾っても仕方ないでしょう。首尾は如何でしたかな」
政宗のツッコミにも動じず、さらりと綱元は話を進める。
「彰子と、夫婦になった」
些か照れくさい。昨晩のことを思い出し、政宗は歳相応の青年らしい表情をする。少しばかり頬が紅潮している。
無我夢中だった。ただ彰子だけを求めた。女と閨を共にしたことはこれまでにもあった。全て相手は妓女だったが。けれど、彰子はその誰とも違っていた。想う相手との行為はそれだけで満たされるのだと初めて知った。愛しさが募り我を忘れてしまって彰子に無理を強いてしまったことは言い訳のしようもない。
「それは重畳。ですが、殿。今後如何なさるお心算ですかな。このまま御方様を側室のまま置かれるおつもりか」
「正室にしてぇんだが……綱元、策はねぇか」
こんな事態を予想もしていなかっただけに、政宗には何の策もない。今考え得るとしたら、彰子が嫡男を産んだタイミングで、その生母だからと正室への格上げを謀るくらいか。
「既に小十郎と姉上が根回しを始めておりましょう。御方様は家臣たちからの信任も厚い。御方様を慕う者も多ございます。殿が望まれれば、然程難しくはないかと。但し、問題は御方様のご出自。奥州筆頭伊達家の正室としては、真田の姉では聊か身分が足りぬかと」
「やっぱり問題はそこか」
なんだかんだといってもやはりこの世界は身分がものを言う。下剋上の世、実力主義の時代とはいえ、それは男の世界の話だ。女は未だに身分に縛られている。大名家の正室となれるのは、大名家か公家の娘。でなければ周囲は侮る。人柄は関係ない。
「されど、それも間もなく解消されましょう。御方様は甲斐の虎の実子でございますれば」
綱元の言葉を政宗はすぐには理解出来なかった。今綱元はなんと言った? 彰子が甲斐の虎の実子?
「有り得ねぇだろ」
「さて。それは午後、甲斐の虎が現れてからお確かめくださいませ」
ニヤリと笑う綱元に、政宗は呆然としたのであった。