この数日、野菊は至極機嫌が良かった。邪魔な上田御前は城から出て行った。表向きは越後への使者ということだったが、きっと殿は上田御前に飽きたに違いない。だから越後への使者という建前で城から追い出したのだ。自分が殿の寵愛を受ける日も近いはずだ。その証拠にこれまで自分を無視していた喜多が直接自分の世話をするようになっているではないか。稽古事が厳しくなったのはいただけないが、それも殿の側室になる為ならば仕方がないから我慢しよう。殿の寵愛を受けたら、殿に喜多の数々の無礼を告げて厳しく罰してもらえばいい。
何処までも自分本位に、野菊はそう考えていた。
乳母がいなくなってしまったのは痛手ではあるが、上田御前を排することが出来たのだから、最早乳母がいなくても問題はない。側室になれば多くの女中が世話をしてくれるはずだ。女中たちも自分への態度が変わってきている。漸く自分の価値を判ったのだ。
「殿はお忙しゅうございますゆえ、中々お渡りはございませんが、そろそろお声もかかりましょうな」
喜多が連れてきた歳若い女中はそう言いながら野菊に化粧を施してくれる。
「早くその日が来ないかしら。楽しみだわ」
伊佐という名の女中の言葉に野菊はうきうきと答える。
「野菊様は大変お可愛らしくて、きっと殿も愛しく思われますわ」
伊佐は阿るように野菊に言う。それがまた野菊の気分を良くする。
「これまでは上田の御方が殿を独占しておられましたゆえ、野菊様にはお辛いことでございましたでしょう」
元々考えの足りない野菊だ。伊佐の言葉の裏にあるものなど想像すらしなかった。自分に同情的な伊佐の言葉に野菊はどんどん気分が良くなり、口が軽くなる。
「本当に嫌な女だったわ。私の殿を独占して。実家を嵩に来て殿を縛り付けるなんて最低の女よ。目障りだったわ」
上田御前の所為で不遇を託つことになった日々を思い出し、野菊は忌々しげに爪を噛む。
「そうなのですね。ならば、上田の御方が死に掛けたのもその報いを受けたというわけでしょうか」
何かを探るように伊佐の声が低くなったことに野菊は気づかない。
「自業自得よ。私の殿を独占しようとするから、毒を盛られたのね。いい気味だわ」
毒を盛られた──野菊ははっきりそう言った。これはこの城の中ではごく一部しか知らない極秘事項だ。知っているのは政宗の側近と彰子の側近、そして黒脛巾と医師、それだけしかいない。表向き彰子はただ病に伏したことになっているだけだ。つまり、今、野菊は『秘密の暴露』をしたことになる。犯人しか知りえない秘密を告げてしまったのだ。
「まぁ、毒を盛られたんですか」
「そうよ。南蛮渡りの毒よ。堺の商人から仕入れたの」
伝聞形式にすらせず、野菊は応じる。それは自白したも同じことだ。野菊が命じて毒を手に入れたのだと。
「だってさ、旦那方、ちゃんと聞いた?」
野菊の後ろから男の声がした。
「伊佐……何を」
後ろにいるのは伊佐のはずなのに。振り返ろうとした野菊は動くことが出来ずに固まる。喉元にはヒヤリと冷たい鋼の感触。いつの間にかクナイが喉元に突きつけられている。
「ああ、しっかり聞いたぞ、猿。ご苦労だったな」
その声と共に部屋に入ってきたのはずっと野菊が対面を望んでいた相手──政宗だった。その後ろには小十郎と成実、そして父牧野朝信がいた。父は青ざめた顔で震えている。
「申し訳ございませぬ! 愚かな我が娘の仕出かした大罪、如何様にも責めを負いまする」
牧野は政宗に土下座する。その父の姿を野菊は呆然と見遣る。何が起こっているのか判らない。
「牧野、お前の処分は追って沙汰する」
政宗は冷静な声音で牧野に告げる。牧野がこの犯罪に全く絡んでいないことは判っている。だが、それでも事が事だけに無罪放免というわけにもいかない。後日全てが明らかになってから牧野の処遇を決めることにして、ひとまず彼には自宅で謹慎するように政宗は命じた。同時に早まった真似はしないように釘を刺す。生真面目で朴訥な牧野が娘の犯した罪に対して命で購おうとするのは容易に想像がついた。
「小十郎、この女を連れて行け。知ってる限りのことを吐かせろ」
「はっ」
政宗の言葉に頷くと、小十郎は未だに状況の把握が出来ていない野菊の腕を掴むと立ち上がらせ、牢へと連れて行く。それを見送って、政宗たちも執務室に移動した。
「これでひとまず決着かね。あの女何も知らなそうだけど」
変装を解いた佐助の言葉に政宗と成実も頷く。多分野菊は『邪魔な上田御前を何とかしろ』と命じただけだろう。佐助の誘導尋問に簡単に引っかかるような女に周到な計画など出来ようはずもない。
「問題は黒幕だね」
成実が溜息混じりに言う。野菊の乳母が豊臣と繋がっていたことは判っている。尤も乳母自身は繋がっていたとは思ってもいなかっただろう。野菊の愚かな願いを叶える為に乳母は毒を手に入れようとした。その入手先が豊臣と繋がりの深い相手だった為に、利用されただけだ。
「状況証拠ばっかりじゃ、如何しようもねぇ。豊臣にまでは手が出せねぇな」
豊臣にしても本気で彰子を──奥州筆頭の愛妾を殺そうとしたわけではない。奥州に多少の混乱を起こし、甲斐との同盟に僅かながらでも皹が入れば儲けものという程度の、児戯に等しい策謀とも呼べない企みに過ぎない。豊臣が本気で彰子を狙ったのならば、今頃彰子の命は確実に消えていたはずだ。
「だが、オレを怒らせるには十分だな」
「竜の旦那だけじゃないよ。うちの大将も怒ってるし、軍神も結構怒ってるらしい」
既に彰子が二度暗殺未遂に遭っていることは綱元が二人の同盟国主にも伝えている。その背後に豊臣の影が見え隠れしていることも。それを聞いた信玄と謙信は彰子の心を思い遣り、眉を顰めたという。そして、豊臣に対しての不快感を露わにした。
元々豊臣の政略戦略に対して好意的にはなれなかった二人だ。彼らは領民を慈しんでいる。彼らが天下争奪戦に加わっているのは己の野心よりもこの国の行く末を思い、太平の世を望んでいるからだ。けれど豊臣に『民を慈しむ』姿勢を感じない。豊臣にとって民とは兵士となる物でしかなく、兵士は単なる戦力でしかない。
その上、何の力も持たないか弱い女を利用する。命を弄ぶ。そのことに対しての怒りもあった。利用出来るものは何でも利用するのが戦国の世の常だ。国主の妻妾や姉妹、娘も利用される存在であることは彼らも判っている。実際に彼らとて利用している。しかし、それでも女の命を軽々しく弄んだ豊臣に対しての嫌悪感は強かった。
「とはいえ、豊臣に戦を仕掛けるには織田が邪魔だな」
伊達領と豊臣領の間には武田領と織田領がある。武田は同盟国だから問題はない。しかし、織田は強敵だ。織田を避けて豊臣と戦うとなれば背後の織田も警戒しなければならない。
「うちだけなら、海から攻めるって手もあるけど……うちの水軍もそこまで強いわけじゃないしね」
地図を見ながら成実は言う。伊達にも水軍はあるものの、主力ではない。精々補給の為の部隊という程度だ。南蛮との貿易を視野に入れて砲を積んだ外洋船の建造は進めているが、飽くまでもそれは商船であり軍艦ではない。
「うちは水軍ないし……軍神のところもないでしょ。海戦なら長曾我部とか毛利とかが得意だろうね」
海に面していない甲斐は水軍を持たない。海を越えて戦をすることのない殆どの大名は水軍を持っていないのが現状だ。水軍が軍として機能しているのは四国の長曾我部と中国の毛利くらいなものだろう。
「やっぱり、毛利と長曾我部も組み入れるしかねぇな」
そうすれば豊臣と織田を四方から囲むことが出来る。四方から連携して攻め込めれば、それだけ勝算は高くなる。
しかし、同盟国を増やすとなれば、政宗の一存では決められない。信玄と謙信の同意を得る必要もある。それにこれまで殆ど交流のない西日本の武将だから情報も不足しており、色々と調べねばならない。信頼に足る相手なのか如何か。尤も、織田や豊臣を滅ぼすまでの同盟ならば、利害関係さえ一致すれば問題はないだろう。信玄や謙信のように共に天下を統一し、その後如何するかを話し合いによって決めるほどの強い同盟関係は必要ない。
結局、今のところ豊臣に対しては直接何らかの手を打つことは不可能に近い。戦を仕掛けるならばその前に織田を滅ぼさなくてはならない。けれどそれは容易ではない。織田を滅ぼす為にはまずは足元を固め、北条を如何にかしなくてはならない。
北条は自分から戦を仕掛けることはないが、氏政の感覚で行動をするから動きが読めずに対応が難しい。同盟を打診するのもいいが、簡単に同盟を破棄してきた経緯が北条にはあるから信用も出来ない。ならば、攻め入って併呑してしまうのがいいだろう。滅ぼす必要はない。あれで意外と北条家は領民に慕われているから、滅ぼしてしまうのは得策ではない。本拠地である小田原一帯の自治を認め、一領主として配下に組み入れればいい。元々氏政は先祖伝来の地を守る為に戦っているのだから、その地を安堵してやれば、意外にすんなりと配下に下るかもしれない。尤もその為には一戦して氏政の鼻を挫く必要はあるだろうが。
春になったら小田原遠征かと政宗が思案しているところへ、野菊の尋問をしていた小十郎が戻ってきた。聊か疲れた表情をしている。
「で、如何だったんだ、小十郎」
疲れた様子の小十郎を労うと、政宗は問うた。
「予想通りにございました。あの者は何も知らぬようにございます」
不平不満だけを言い募る野菊から話を聞きだすのは容易ではなかった。尋問に政宗が同席しなかったのが幸いだったと小十郎は思う。野菊の口から出たのは彰子に対する怨嗟の言葉ばかりだった。政宗が聞いていれば怒りのあまりに野菊を斬り捨てかねないほどの暴言ばかりだったのだ。あの牧野の娘とは思えないほど、野菊は愚かな女だった。利己的で自己中心的で、全てが自分の思うままになると思い込んでいた。如何すればああも自分勝手な娘になるのか、小十郎は不思議でならなかった。同時にこんな愚かな女の為に彰子が殺されかけたのだと思うと怒りで身が焼かれそうなほどだった。
それでも何とか話を聞きだしたが、結果は予想したとおりで、彼女は何も知らなかった。ただ、乳母に『上田御前が邪魔だから、殺してしまえ』と言っただけだった。身勝手で愚かな女だった。
「如何なさいますか? 死罪が相当かと存じますが」
仮にも主君の愛妾の命を狙ったのだから、それが妥当だろう。そう小十郎は言う。実際のところ、小十郎は尋問しながら野菊を斬ってしまおうかと思いもしたが、それは思い留まった。きちんとした裁きを受けさせなければならない。
「確かにそれが妥当かもしれねぇが……彰子が如何思うかだな」
彰子自身が自分の暗殺未遂を表沙汰にする意思は持っていない。奥州に混乱を招きかねないし、このことがまた他の混乱を誘発しかねない。外部に知られればそこに付け込む隙を与えかねない。だから、彰子は内々でこの事態を収めることを望んでいた。それは野菊や牧野の処罰に対しても同様だった。
「そうだね……。自分のことであの者が死罪になったら、彰子ちゃん、自分を責めそうだよねぇ……」
自分が側室の立場でいたからこんなことになってしまったのだと彰子は自分を責めてしまうだろうと容易に想像が出来て、成実も溜息をつく。優しいとも甘いともいえるが、それが彰子だから仕方がない。
「遠流か、奥州追放か。そのあたりだな」
命までは奪わない。野菊の為ではなく、彰子の為に。そう政宗は決める。
「牧野は隠居させる。家督は息子に相続を認める。それでいいだろう」
かなりの温情措置ではあるが、事件を表沙汰にはしない以上、そのあたりで決着をつけるしかないだろうと政宗たちは結論付けた。
「承知仕りました。では、政宗様、溜まっている通常の書類のご裁可をお願い致します。終わらぬ限り、奥州からお出しするわけには参りませぬぞ」
牧野家への処遇を決め、小十郎は政宗に書類を示す。野菊の配流先はこれから決めることになるが、これで彰子暗殺未遂事件は一応解決し、終了だ。
「どうせ、梵のことだから、すぐにでも彰子ちゃん迎えに行こうとしてたんだろうけど、そうは行かないよ。ちゃんと通常の仕事終わらせてからだからね」
クスクスと笑いながら言う成実に政宗は苦虫を噛み潰したような表情になる。全てが終わったのだからすぐにでも彰子に会いに行きたかったのに、先手を打たれてしまった。
「それにさー、ちゃんとぷろぽーずの手順を考えてから行かないとね。じゃないと、彰子ちゃん奥州に戻ったらすぐに城を出ますとか言い出しかねないよ」
暗殺未遂が起こった所為で彰子の処遇は一時棚上げとなっていたが、最大の問題はまだ残っているのだ。元の世界に戻れず、この世界に留まることになった彰子。元々彰子は一時的な居場所だからと側室になることを了承していたのだ。となれば、この世界で生きていくことになった彰子が城を出ると言い出すのは十分に予測出来ることだった。
「……I see」
途端に政宗の表情が曇る。彰子をずっと側に置きたい。彰子に側にいて欲しい。ずっと自分と共に歩んでもらいたい。そう願っている。けれど、彰子は自分の想いを受け容れはしないだろう。彼女が愛しているのは、今は異世界にいる忍足なのだから。彼女は自分を家族以上には思っていないのだから。
「彰子ちゃんがもし城から出るってんなら、上田で引き取るよ。旦那も彰子ちゃんのこと本当の姉上だって思ってるし。上田の皆も彰子ちゃんのこと好きだしね」
政宗を焦らせるように佐助が言う。これも彼なりの応援だ。彰子は上田にいるよりも奥州にいるほうが幸福だろうという予測はある。きっと彼女は奥州にいたいと願っているだろうと佐助は見ている。しかしそんなことは言ってなんてやらない。
佐助の言葉に政宗はムッとする。上田に、真田になど彰子を渡したくはない。けれど、彰子はそれを願うかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。彰子を奥州に留めて置きたい。自分の側にいて欲しい。その為には側にいてもらう為の理由が必要だ。妻になってくれと願うしかない。しかし、それを告げる勇気が政宗にはなかった。
「……オレが彰子に妻になって欲しいと言ったら、多分あいつは頷く」
歴史を知っている彰子だ。そしてこの世界の身分社会も理解している。そこに政宗が求婚すれば彰子は頷くだろう。政宗はこの地の支配者で絶対者だ。自分からの求婚は婚姻を願う言葉ではなく、婚姻を命じる言葉になってしまう。だから、彰子は奥州の民として主の求婚を受け容れるだろう。己の心に関わらず、この世界のルールに従うに違いない。
「確かに政宗様が奥州筆頭として求婚なされば、そうなりましょうな」
それが判っているから、小十郎たちは彰子に政宗の本当の妻となってくれるよう願う心算でいた。彰子は断らないという確信があったからだ。だが、それでは政宗の心は満たされない。想いが通じ合っての婚姻にはならない。政宗の心にはきっといつまでも負い目が残るだろう。彰子の心を無視して我意を通したと思ってしまうに違いない。それでは二人が幸福にはなれない。出来れば政宗にも彰子にも幸福になって欲しい。想いを通じ合わせて本当の夫婦となってほしいと小十郎は願っている。そこが割り切っている綱元と違うところだった。
「うん。だからさ、梵。藤次郎としてまずは彰子ちゃんに想いを伝えるといいよ」
奥州筆頭ではなく、ただの一人の男として。婚姻を願うのではなく、想いを伝える。答えを望むのではなく、ただ伝える。そうすれば彰子には選択する余地が残るはずだ。
「……そうだな……」
きっと彰子は自分の想いには応えられないと言うだろう。彼女の心にいるのは自分ではない。そして、自分の想いを受け容れられない彰子は奥州に留まることをよしとしないだろう。それは容易に想像がつく。だから、彼女が望むなら、奥州を出てもいいと告げればいい。上田が引き取ると言ってくれている。上田ならば彰子も安心出来るだろう。もし奥州にいることを望んでくれるならば、誰かの養女にして城から出すことも出来る。いつかは元の世界に戻ると思っていたから、城から突然いなくなっても不自然ではないように根回しはしてある。極力人とは接しないようにしていたし、病がちで病弱なのだという設定もしている。彼女が突然消えてしまった場合には急死したことに出来るよう、事情を知る者たちで打ち合わせは済んでいる。
(彰子……次に会うのが、最後になるのかもしれねぇな……)
彰子と離れることを覚悟しながらも、政宗はこれから如何すべきなのかを考えた。自分が思い返されることなど考えてもいない。考えられない。
それでも、彰子の望むままにしよう。この世界で彰子が生きていけるように。彼女が幸福になれるように。そう、政宗は決意した。哀しみに悲鳴を上げそうな己の心に蓋をして。