お騒がせ親父その1の信玄は翌日には甲斐へと戻っていった。元々この越後訪問は彰子が越後に来ることを受けてのものだったのだ。正確に言うならば同行する綱元との会談の為だった。
この頃になると、彰子毒殺未遂の背景もそれなりに判明していた。やはり予測どおり、背後には豊臣の存在があった。野菊の乳母と豊臣にはごく細いものではあったが、繋がりがあったのである。乳母の妹はとある下級武士に嫁いでおり、そこの姑の実家は商家だ。その商家の嫁が堺から嫁いで来ていた。その嫁の実家が大坂城に出入りしており、奉公人の中には竹中の密偵となっている者がいたというわけである。ごくごく細い、ささやかな繋がり。しかしだからこそ有効な繋がりだった。
そうなると、事態は伊達家内部の問題では済まされない。三国同盟に絡んだ思惑があると見るほうが自然だ。そんなわけで信玄は越後へとやってきたのである。きちんと伊達家の者から話を聞き、今後の方針を練る為に。そして、幾つかの策を話し合った後、彰子と対面し甲斐へと戻っていったのだった。
信玄がいなくなると、途端に彰子の生活は静かなものになった。謙信や景虎も彰子を気遣いよく顔を見せてはくれるが、領主とその後継者であるからには日頃から執務もあり暇ではない。その仕事振りを見て『政宗さんや幸村さんもこれくらい毎日真面目にやればいいのに』と思ってしまったのは内緒だ。二人が決して不真面目なわけではないのだが、理由をつけては城を抜け出そうとしたり鍛錬優先で書類を溜めたりしている。それで眉間の皺を深くする小十郎や破壊活動阻止に必死になっている佐助を見ているだけについつい比べてしまうのである。
綱元はてっきりすぐに奥州に戻るものと思っていたのだが、彰子の滞在中はずっと越後にいるらしい。それを知って彰子は申し訳なくなった。綱元は家老格の重臣であり、内政の要の一人だ。当然忙しい身であるし、綱元不在では国許でも色々と面倒だろう。しかし、彰子のそんな心配を綱元は一笑に付した。
「ご心配には及びませぬ。御方様の越後滞在もそう長引くとは思えませぬし、偶の骨休めにございますれば」
滅多に笑顔など見せぬ綱元に微笑んでそう言われれば、彰子としても納得せざるを得ない。そこでこれ幸いと芸事に造詣の深い綱元に横笛や琴、舞を習うことにした。テニプリの世界でお茶やお花、お香は学んでいた彰子ではあるが、流石に舞楽まではやっていない。今後の身の振り方を考える上で多くのスキルを身につけているのは決してマイナスにはならないだろうというわけだった。
尤も、指南役となっている綱元の思惑は別にある。これも彰子を『本当の政宗の妻』とする為の布石だ。彰子の政治的見識は『奥州筆頭の正室』として申し分ないものだ。立ち居振る舞いや知識・教養も問題ない。足りない部分は全く心得のなかった武芸だが、それも喜多と成実が手解きを始めている。そこに詩歌管弦の貴族的素養を身につけることで、更に彰子の正室としての価値は上がる。
綱元は信玄から『彰子を儂の娘とする。母は継室の三条じゃ』と告げられている。この信玄の言葉は彰子を正室にしたいと考えている伊達側にしてみれば願ってもないことだった。彰子正室化の最大のネックであった出自の問題が解決したことになるのだ。更に信玄の意を受けた謙信・景虎もさり気なく彰子に色々なことを教え込んでいる。特に景虎はその若さの割には礼法に通じている。彼の義父の一人である北条幻庵は当代一の風流人であり知識人であり、礼法の第一人者とされる人物だ。当然彼の薫陶を受けている景虎も幻庵に準ずるものを身に付けている。
一見雅やかな時の流れの中で、彰子は着実に『奥州筆頭の正室』となるべく教育を施されていたのである。当人は全く気付かぬままに。
夕餉も終え、ほぼ1日おきの日課となった政宗への返書も認め、彰子はそろそろ休むことにした。今日の文遣いは萌葱だった。既に奥州を離れて半月が経ち萌葱も彰子に会えなくて寂しかったらしく、自ら進んでこの役目を引き受けたらしい。今は彰子の膝の上でごろごろと甘えている。その手足に何箇所か包帯が巻かれているのは、かすがの為業だ。
萌葱が来たことで謙信はテンションが上がり、遂に萌葱との手合わせを実現させたのである。萌葱が強硬に拒否したのは言うまでもないが、彰子が世話になっているということもあって、仕方なく折れたというわけだ。念の為爪は出さなかったのだが、流石に相手は軍神と言われるだけあって、幸村相手のような遊び感覚では済まされなかった。半ば本気になった萌葱のライダーキック虎バージョンによって謙信は転んでしまった。別に怪我をしたわけでもない。その美麗な顔には1ミクロンの傷もついていない。にも拘らず、謙信が転んだ瞬間、かすがのクナイが萌葱に襲い掛かった。咄嗟にそれを避けた萌葱ではあったが、その後約1刻に渡って萌葱はかすがに追い掛け回されたのである。それが終わったのは『つるぎ、そなたばかりびゃっことじゃれるのはふまんです。わたくしにもあそばせてください』と謙信が宣ったからだった。勿論、萌葱は『これ以上相手出来ねぇ!』と彰子の後ろに隠れ、彰子と景虎の取り成しによって漸く萌葱は軍神との危険なお遊びから解放されたのであった。
「もうさー、謙信様も無茶苦茶だよー。あれなら政宗の鍛錬に付き合わされるほうがマシ」
はぁ、と深い溜息をつきながら言う萌葱に彰子は苦笑する。政宗との鍛錬もかなり激しいバトルになるのではあるが、政宗が転んだからといって小十郎が極殺モードで襲い掛かってくることはない。寧ろ転んだ政宗が叱られる。
「政宗さんは無理してない?」
萌葱を労うように撫でながら彰子は尋ねる。萌葱や撫子が来たときには彼らから政宗の様子を聞くのはいつものことだ。
「体調面、健康面でいうなら問題なし。でも、寂しそうだな」
捜査状況についてはほぼ完了して間もなく決着がつきそうだと萌葱は見ている。野菊に対する証拠固めはほぼ終わり、後は豊臣を如何するかという段階に移っているらしく、信玄や謙信との間で頻繁に文の遣り取りをしている様子だった。如何やらこれを機に豊臣包囲網を築き上げようとしているらしい。
だが、『奥州筆頭』としての役目を終えると、途端に政宗の表情が変わる。夕餉の箸も進まないようだった。食欲がないというよりは彰子のいない夕餉の席に寂しさを感じているらしい。夜に眠るときなどは萌葱や撫子と同じ布団に入り、3人で彰子がいない寂しさを愚痴り合っているくらいだ。
「寂しそう?」
「うん。かーちゃんいないからだろ。政宗の生活の中に、かーちゃんはいなきゃいけないんだよ」
この世界に留まることになってから、萌葱は積極的な政宗応援団だ。政宗なら大好きなかーちゃんの夫として認めてやってもいいと思っている。イケメンだし、権力者だし、何よりかーちゃんのことをすっげー愛してるし、きっとかーちゃんを幸せに出来る男だと萌葱は思っているのだ。勿論、元の世界での忍足のことも萌葱は好きだった。こいつならかーちゃんを幸せにすると思ったから邪魔をしなかった。政宗に対してはそれに輪をかけてこの世界の諸事情を鑑み、政宗以上の相手はいないと思っている萌葱である。因みに忍足に対しては『邪魔をしない』程度の応援でしかなかったのに政宗に対しては積極的応援団となっているのは、彰子サイドの違いによるものだ。忍足の場合は彰子がはっきりと忍足に対して恋情を向けていたから、それに対するヤキモチもあって消極的応援だった。政宗に対しては彰子がまだ自覚をしていない段階だから積極的応援となっているというわけである。萌葱たち猫3匹は既に彰子の中に政宗に対する恋愛感情があると見ているのだ。
「そう……なのかな……」
萌葱の言葉に彰子は思案する表情になる。萌葱も撫子も来るたびに『政宗、かーちゃん(おかーさん)いなくて寂しそう』と言う。かすがには『あれほど深い愛情をお前に注ぐ男などおらぬ』と断言された。本当にそうなのだろうか。
政宗さんは、もしかしたら本当に私のことを愛してくれてる? そう思うと嬉しさを感じた。そして嬉しさを感じた自分に戸惑う。
越後に来てからずっと、彰子の心の中には寂しさがあった。日中稽古事に集中しているときには感じない。けれどふと時間が空くと政宗のことを考えている。それはこの世界に来た頃、夜になれば元の世界を思い出し忍足を恋しがっていた頃ととても似ている。それに彰子は気付いて戸惑った。
また、笛や琴が上達したと褒められれば、『政宗さんは如何思うかな』とすぐに彼の顔が浮かぶ。綱元と政の話をして彼の名が出れば、すぐに彼のふてぶてしい自信に満ちた笑顔が脳裏に浮かび上がる。まるでこれでは政宗に恋をしているようだ。そう思って彰子は頭を振る。
そんなはずはない。だって、まだ忍足との決別を押し付けられてから2ヶ月も経っていない。この世界に来てからまだ8ヶ月。1年も経っていないのに自分は心変わりしてしまったのか。そんなはずはない。今でも忍足を思えば涙が零れそうになる。もう二度と会えないと判っているのに、会いたいと願ってしまう。彼の苦しみと悲しみを思えば早く自分のことを忘れてほしいと思うのに、将来彼が自分以外の女性を愛すると想像するだけで架空の人物に嫉妬をしてしまう。紛れもなく自分はまだ忍足を想っている。
けれど、政宗を思う自分の姿を客観的に振り返れば、『政宗に恋をしている』と判断されるような状態だ。もし他の誰かから『これこれこういう感じなの』と相談されれば『政宗さんに恋してるのね』と答えているはずだ。
自分は二人の男性を同時に愛しているというのだろうか? それに彰子は胸が苦しくなる。
「ママ……思い詰めてはいけませんわ」
彰子の表情から彼女の内面を読み取ったのだろう。真朱が体を摺り寄せ、彰子を見上げる。
「恋は思案の外と申しますでしょう。理性では如何にもなりません。だから恋なのですわ」
理性で如何にもならないから恋なのだ。だからこそ、古今東西様々な恋物語が作られ読み継がれているのだ。
「かーちゃんはさ、愛とか恋とか重く考えすぎるんだよ。だから、彼氏いない歴更新しまくってたんじゃねーの?」
かつて生まれ育った世界では恋愛に随分ご無沙汰だった彰子である。それを敢えて揶揄うような口調で萌葱が言う。
「まぁ、ママにお気軽お手軽な恋愛は無理だというのは重々承知しておりますけれどね」
溜息混じりに真朱は言う。実は心配していたのだ。30歳を過ぎても男の影のなかった彰子を。尤も彰子が結婚したいと思う男が出てきたら出てきたで、大好きなママを取られてしまうと複雑な気持ちにもなっただろうが。そこは彰子が結婚相手の第一条件に『猫が好きで、真朱と萌葱と撫子と仲良くなれる人』というのを挙げていたから安心していたのではあるが、それはそれで彰子が実は結婚する気がないのではないかと心配になったりもしていた。
「……ホント、あんたたち、私のことよく判ってるよね」
彰子としては苦笑するしかない。自分でも色々堅苦しくて面倒な女だと思う。若い頃の恋愛が殆ど片思いで終わっていた所為か、かなり恋愛には臆病だと思う。その結果か、更に恋愛に対して妙に重々しく考えるようになっている自覚はあるのだ。
「かーちゃん、正直な気持ちで答えろよ。政宗の側にいたいか? YESかNOかの二択な」
「二択なら……YESかな」
この世界で生きていくなら、政宗の近くがいい。城から出るにしても彼の消息がある程度知れる場所にいたい。そう思っていた。
越後に来てから、これからのことを考えていた。このまま青葉城に側室としていてもいいのだろうかと。真朱たちは本当の側室になればいいと言いもしたが、彰子としては政宗の望まぬ側室になる気はなかった。彼に無理を強いることは嫌だった。だから、城を出るべきではないかと考えた。しかし、城を出たとして仮にも側室だった自分が奥州に留まることが出来るのかは判らない。真田の姫として奥州に入ったのだから、側室を辞めるとなれば奥州からは出て行くのが筋だろう。そう思うと、決心がつかなかった。奥州に──政宗のいる地にいたい、そう思っていたのだ。
「だったら、いりゃいいじゃん。政宗だってそれを望んでるんだし」
問題ない、と萌葱は笑う。素直に意地を張らずに、心が望むままにすればいいのだと。
「これだから男は単純だというのです。乙女心はもっと複雑ですのよ」
そんな萌葱に真朱は溜息をつく。心の中では『萌葱グッジョブ』と思ってはいるのだが、そのシンプルな答えを彰子が簡単に受け容れられないことは真朱も十分に理解しているのである。
「ママのことですから、あれこれ考えてしまうのは仕方ありませんわ。でも、ママ。ご自分の心を罪悪感で縛り付けるのだけはいけませんわよ。ママが忍足への罪悪感を持つことを責めはいたしませんけれど、もしその所為でママが幸福を逃してしまうのなら、きっと忍足も喜びませんわ」
彰子の迷いの根源となっているのは忍足の存在だ。将来を約束し合うほど深く想い合った相手。そして今、彰子の為に深い悲しみの中にいるであろう男。
「だなー。忍足ってかーちゃんのこと大好きだったから、かーちゃんが自分に嘘ついたり、その所為で幸せにならなかったらめっちゃ怒ると思うぜ。あいつ、マジで懐深かったからな、かーちゃんが幸せになるんだったら、それで嬉しいと思うぜ」
萌葱も言葉を添える。彰子の背を押すように。彰子が忍足に罪悪感を持ち、これからの恋愛を拒否し続けることを彼は決して喜ばないだろう。確信を持って萌葱は彰子に告げる。
「……よく、考える。まぁ、こういうことは考えても結論出ないかもしれないけど」
如何すべきなのかよりも如何したいのかを考える。己の心に正直に。それは彰子が一番不得手とすることではあるのだが。
「そうですわね。ママ、そろそろ休みましょう」
もう随分夜も更けた。夜の考えはネガティブになりやすい。そう言って真朱は彰子を布団へと追いやる。
「そうね。寝ようか」
真朱の言葉に彰子は素直に頷くと、真朱と萌葱と共に布団に入った。やがて彰子が眠ったのを確認した真朱はそっと布団を抜け出すと、部屋から出て行った。彼女が向かったのは綱元の許だった。
「綱元さん、取り敢えず、ママに正式な側室要請は暫く止めてくださいな。綱元さんも如何せなら、政宗とママが政略で結ばれるよりも、想い合って結ばれるほうがよろしいでしょう? その日が近づいておりますからね」
既に休んでいた綱元を文字通り猫パンチで叩き起こして、真朱は偉そうにそう告げた。
「ふむ……確かに、それに越したことはないが……」
顎に手を当て綱元は思案する。奥州側で決着がつきそうな気配なこともあり、綱元はそろそろ彰子に正式に政宗の妻となる気はないかと打診する心算でいたのだ。政治的な意味合いであれば彰子は拒否しないだろうとの思惑もあった。だが、主のことを考えれば政略で愛する女性を妻とするよりも、相思相愛であることを確認しあってから妻にするほうが幸福だろう。尤も、あれで中々恋愛には晩生で堅物な政宗のことだ。自分から想いを告げることがあるとは思えない。
「その辺はなるようになれ、ですわ。ママは一度肝が据わると結構大胆ですのよ」
わたくしたちの腕の見せ所ですわね。そう言ってニヤリと笑う真朱に綱元は頼もしさを感じた。同時に『やっぱりこいつは化け猫に違いない』と思いもしたのだが。
「でもね、綱元さん。わたくし、ママが側室なのは不満ですわ」
「それは心配ない。御方様がまこと殿の室となられるのであれば、必ず正室としてお迎えする」
その為の根回しを兼ねて越後へ来ている綱元はこちらもニヤリと笑う。
「ほほほほ。頼りにしていますよ、綱元さん」
嫣然と笑う真朱に、何処か自分の姉と似たものを感じて少しばかり怖くなった綱元であった。