人界の顕神と化け猫

 越後生活2日目。この日は彰子が謙信と正式に対面する日だった。

 謙信の政務が終わった昼過ぎに彰子が出向くことになっており、今彰子は衛門によって着飾らせられ、化粧を施されていた。今日の彰子の衣装は新春の色目である紅梅の襲だ。表が紅梅色(濃いピンク)で裏が蘇芳(濃い赤紫)という組み合わせで、華やかな色目に彰子は戸惑ってしまう。

 奥州筆頭の側室となってから、上田時代に比べて彰子の衣装は当然ながら華やかになっている。政宗が季節ごとに様々な品のよい衣装を調えてくれているが、正直彰子は華やかな色目が苦手だ。とはいえ、政宗が整えてくれる衣装にはそれぞれ根拠があるものも多い。平安時代の衣装を元に襲の色目を決めているのだ。季節ごと、或いは立場や年齢によって色の組み合わせは決まっているのである。

 そんな理由もあり、普段着はともかく公の席で纏うものについては彰子は何も言えなかった。その分、普段着は彰子好みの落ち着いた色合いのものを中心に揃えている。衛門などは『もう少し華やかになさっても誰も文句など言いませんのに』と不満そうだった。

 やがて対面の刻限となり、彰子は謙信の許へ向かった。謙信の私的な対面の間で二人は向かい合う。彰子の側には猫姿で真朱が座り、謙信の後ろにはかすがが控えている。因みに撫子は午前中に奥州へ戻っていた。

「こたび、びゃっこはきておらぬのですね。ざんねんです」

 心底残念そうに謙信は言う。以前願っていた萌葱との手合わせを望んでいるのだろうが、仮に萌葱が付いてきていたとしても、彼は絶対にそれを拒否しただろう。かすがねーちゃんに賽の目切りにされるのはヤダと言って。

 彰子が今回の滞在の礼を言い、それを謙信が受け、その後の話は他愛もない日常のものへと移る。謙信の関心はやはり萌葱にあるようで、普段の萌葱の様子を聞きたがった。

 萌葱の話をしていた所為か、徐々に彰子の表情も柔らかくなり、笑顔も見え始めたことに謙信は安堵の笑みを漏らす。景虎やかすがの報告と政宗からの文、昨晩の綱元の話から、謙信も彰子の身に襲い掛かった災厄のことは知っている。まだ20歳にもならぬ歳若い女性にとって、それがどんなに辛く苦しく衝撃を与えるものだったのかは想像に難くない。ましてや彰子は武家の出とはいっても下級武士、大名の娘とは違って命を狙われる覚悟などあろうはずもない。

 それに、と謙信は静かに彰子を見つめる。以前甲斐で会ったときとは彼女の纏う雰囲気が違う。否、雰囲気ではない。彼女を包み込む『気』そのものが違っている。

「りんどう、そなたはわたくしたちにはそうぞうもできぬような、おおきなかなしみとぜつぼうをかかえていますね」

 謙信の言葉に彰子は驚き彼を見つめた。そして彼の全てを見透かすような、それでいて包み込むような瞳に、謙信が言っているのは暗殺未遂のことなどではないと直感する。同じことを思ったのだろう、真朱も何処か警戒するような目で謙信を見上げている。

「はじめてそなたとたいめんしたおり、そなたはわたくしたちとはちがうとかんじました。ずっとそなたのことをふしぎなきをまとったものとかんじておったのです。われらとはいしつであると」

 それが何なのかは判らなかった。だから余計に興味を惹かれた。初対面の折『西王母』と言ったのはそれがあったからだ。自分たちとは違う次元の存在。そう感じたのである。だが、今、彼女の纏う気は変わっている。異質さを感じなくなっている。同化しているのだ。

「されど、さいかいしたそなたのまとうきは、われらとどうかしているようです。りんどう、むりにとはいわぬが、そなたのみになにがおこったのか、はなしてはみませんか?」

 決して強制しているわけではない。柔らかな穏やかな声だ。その声に彰子の目から自然に涙が零れた。自分を包み込む優しさに、色々なものが溶け出すのが判った。

「信じ難い話ではございますが、聞いていただけますか、謙信様」

 きっと自分は誰かに話してしまいたかったのだ。けれど、それは近しい者では駄目だった。奥州の人々は自分のことを知っている。衛門や小督、幸村や景虎では自分に近すぎる。だから、彼らには話せなかった。でも、謙信なら。近すぎない、かといって遠すぎない彼なら、そして包み込む温かさを持ったこの人なら話せるような気がした。──話すことで、元の世界との決別を受け容れることが出来そうだった。

「そなたのひとみにうそいつわりのいろはない。そなたのはなし、しんじましょう」

 優しく微笑み、謙信は彰子を促した。そして、彰子はそれに頷いて話し始めた。生まれ育った世界のこと、そこから別世界へ異世界トリップしたこと、トリップ先の世界でどれほど幸せだったのか、そしてこの世界に来たこと。政宗にも話したことのない、全てを話した。

「そうだったのですか……そなたはいろいろなものをせおっていたのですね」

 優しく労るような声だった。慈愛に溢れた声だった。謙信は信じ難いであろう彰子の話を全て信じ受け容れてくれた。それによって彰子の心は軽くなった。

「辛かっただろう、彰子。だが、謙信様と私はお前から全てを聞いた。もう、我らには強がることなどないぞ」

 涙で目を腫らしたかすがが優しく彰子に声をかける。そしてぎゅっと彰子を抱きしめた。

「われらふたりだけではありませんよ。そなたのちちもそなたのすべてをうけいれてくれます」

「まこと! 彰子、もう我慢などせずとも良い!!」

 そのとき、スパーンと障子が開き、いるはずのない巨漢が姿を現したのであった。






 彰子は呆然としたまま、謙信に言われるまま、座を移した。今彼女の正面には乱入した巨漢──武田信玄がいた。

「そなたが何かを隠しておったことは気付いていた。まさか、あれほどの事情があるとは思いもしなかったがな」

 暖かな慈愛の篭った瞳で、信玄は彰子を見つめた。

「お館様が何かに気付いておいでなのは察しておりました。けれど、お館様は寛いお心でそれをお聞きにならないことにも。そのお優しさがとても嬉しゅうございました」

 言いたくなければ言わずとも良い。信玄はそうどっしりと構えてくれていた。それにどれほど心を慰められただろう。

「このことを知っておるのは儂と謙信、謙信の細作だけか」

「はい。ずっと一緒に生きている真朱たち3匹も当然ながら知っています。でも、政宗さんをはじめ奥州の身近な人たちは元いた世界と生まれ育った世界が違うことは知りません。甲斐で唯一知っていた佐助さんも同じです。元の世界の人たちも、彼らが生きていた世界と私の生まれ育った世界が違うことは知りませんでした」

 そう、誰も知らなかった。だから苦しかった。自分を偽っているようで。彼らを騙しているようで。

「そうか……苦しかったであろうな」

 労りの篭った声が彰子の心に温かく染み渡る。

「彰子、そなた、儂の娘にならぬか。いや、儂をそなたの父と思うてほしいのだ。そなたが甲斐に降り立ったのも神のご意思であろう。儂を親を失うてしまったそなたの父にしてくれぬか」

 以前にも父と思えと言ってくれた。それだけでも充分過ぎるほど嬉しいことだったのに、信玄は『父にしてくれ、娘になってくれ』と言ってくれる。

「お館様……そんな、勿体ない」

「儂が父では嫌か?」

「とんでもない! お館様が父上ならば、どんなに嬉しいか」

 それは本心だ。信玄からはいつも温かさをもらっていた。頼りがいを感じていた。そこにいてくれるだけで、偶に気にかけてもらえるだけで、どれほど心強かったか判らない。

「うむ。ならば、問題はなかろう。今このときより、そなたは儂の娘だ」

 にっこりと信玄は笑う。夫(実質はまだ夫ではないと信玄も知っているが)である政宗だけではない。義弟の幸村だけではない。ここには父もいるのだ。『家族』がいるのだと彰子に教えるように。

「そうじゃ、父だけでは寂しいのう。やはり母もおったほうがよかろう。うむ、誰にするか」

 楽しそうに言う信玄に彰子は呆気に取られた。まるで悪戯小僧のような信玄の表情に彰子は戸惑ってしまう。

「諏訪御寮人、いや、三条、うむ……彰子、誰がよいかのう?」

 いや、誰がと言われても彰子には答えようがない。

「あの……お館様……」

「お館様ではない。父じゃ、彰子」

 まるで洋画のように人差し指を立てて横に振り『チッチッチッ』と、信玄は彰子に呼び名を改めるように言う。

「父上様……?」

「ちと堅苦しいのう」

「お父様……?」

「悪くはないが……そうじゃ、おもうさまと呼べばよい」

 公家言葉の『お父様』に相当する呼称を信玄は告げた。それに彰子はまさか、と思い当たった。態々公家言葉を選ぶ意味。それは母親役を誰にするかを信玄が決めたことになる。

「三条に会うたら、おたあさまと呼ぶがよいぞ、彰子」

「ご継室様を、わたくしの母上に……?」

「そうじゃ、あれは公家の出ゆえ、それがよかろう」

「……よろしいのでしょうか」

「構わん」

 先程までの嬉しさと気恥ずかしさは何処へやら、彰子は頭痛を感じた。この人の娘になるというのは、結構早まった決断だったかもしれない。だが、それでも信玄の気持ちが嬉しかった。

 どうせ信玄の娘というのは内々のことで、精神的な支えとなってくれる為の信玄の優しさだ。ならばそれほど深く思い悩む必要はないのだろう。そのとき彰子はそう思った。

 しかし、半月後、このとき軽々しく娘になると受け容れたことを彰子は激しく後悔することになる。せめて政宗に相談すべきだったと。まさか、日ノ本中に向けて信玄が『儂と正室三条夫人の間に出来た末娘』と公表するなどとは思いもしなかったのである。






 さて、一方もう一人のお騒がせ親父(見た目からは決して親父なんて言葉は出ないが)である謙信は目の前に座る見慣れぬ猫をじーっと見つめていた。実は信玄と彰子が座を移した後も真朱はまだ謙信の許にいたのである。

「まそおにもきょうみがあるゆえ、しばしわたくしにあずけてはくれませぬか?」

 謙信にそう願われては彰子も否とは言えず、心配しつつも真朱を残したのだ。

 謙信の全てを見透かすような瞳に見つめられ、真朱は彼女にしては珍しく内心で冷や汗どころではなく汗をかいていた。人間であれば漫画であればダラダラと脂汗をかいている描写になっていることだろう。

「きょうはひとのことばをはなさぬのですね、まそお」

 謙信のその言葉に真朱は驚き一瞬全身の毛が逆立った。

「に……にゃあ?」

 飽くまでも普通の猫の振りを押し通そうと真朱は努力する。しかしそんな努力を意に介さず、謙信はクスクスと笑う。

「ふふふ。かくさなくてもよろしい。そなたたちのけはいは、ただのけものではない」

 やっぱりこの人は人外だ。真朱はそう確信する。自分たちが生まれ育った世界や元いた世界に比べれば、この世界の人間はバケモノだ。超能力者の集まりだ。だから人外なんて今更だと思いはするものの、目の前の麗人は別格だ。

「にゃ……」

「かくさずともよいともうしておるのに……あんしんなさい。そなたたちをどうこうしようというわけではありません。たんにきょうみがあるだけです」

 ただの猫の振り、無駄。はぁ、と真朱は溜息をついた。

「……謙信様、本当に人間ですの?」

「そなたたちがねこであるのとおなじように、わたくしもひとですよ」

 ホントかよ、と心の中で突っ込みつつ、真朱は再び溜息をついた。

「わたくしと萌葱、撫子は己の努力で人の言葉を習得致しましたの。人の子が言葉を覚えるように繰り返し練習致しましたわ」

 だから自分たちは化け猫ではない。ただ単にちょっとばかり頭が良くて器用で努力家だっただけで、普通の猫だ。そう真朱は主張する。

「それほどにりんどうをあいしておるのですね」

 にっこりと微笑みながら言う謙信に、途端に真朱は警戒を解く。意外と単純なのだ、真朱は。

「そうですの! お判りいただけますのね、謙信様! なのに政宗など、わたくしたちを化け猫扱いするのです。失礼な」

 プリプリと可愛らしく怒る真朱に謙信はクスクスと笑う。

「そなたたちはりんどうのしゅごじゅう。きっとりんどうをまもるためにかみがそなたたちをつかわしたのでしょうね」

「あら、違いますわ。神が定めたからママをお守りするわけではありません。わたくしたちがママを大好きだからお守りしているんですのよ。神なんて関係ありませんわ」

 猫らしい物言いに更に謙信は楽しそうに笑う。やはり真朱たちは彰子の守護獣だ。真朱たちの深い愛情ゆえに、神々は彰子と共にこの3匹をこの世界に連れてきたのだろうと思えた。

「謙信様には色々ばれておりますから、ついでに申し上げますわね。萌葱は元々わたくしたちと同じく猫ですのよ。ママをお守りする為に虎にも変化へんげ出来るのです。撫子は鷹になれますし、わたくしは人になれますの」

 毒を食らわば皿までもというわけではないが、ついでに真朱は変身能力についても話した。テレパシーやテレポート能力については今後のこともあるから現時点では黙っておくことにした。

「ほんに、りんどうのためにそなたたちはいるのですね。りんどうはしあわせですね」

 この猫たちが側にいたから、彰子は2度の故郷喪失に耐えられたに違いない。この猫たちの存在によって彰子の心は健やかに保たれたのだろう。謙信はそう確信した。

「当たり前ですわ。ママはわたくしたちの母ですもの。わたくしたちをとても愛してくださってます。わたくしたちがママのお側にいて幸せを見守るのは当然のことですわ!」

 力強く真朱は宣言する。

 そして、色々ばれたことに開き直った真朱は、これまでの不満をぶちまけるかのように、政宗や幸村、周囲の人間たちのことを話した。謙信はその観察眼の鋭さに瞠目しながらも、可愛らしい真朱の声で囀られるそれらにクスクスと笑いながら相槌を打ったのであった。