某日某所。
「側室見習いとやらも随分焦っているようだよ。一向に政宗君が見向きもしないから」
可笑しそうに青年は笑う。
「それに、政宗君も下手人の手がかりが掴めなくて随分苛立ってるみたいだ」
クスクスと笑う青年に重々しい声が応じる。
「大事なものがあると公にするのが間違っておるのだ。愛する者など弱みにしかならぬ」
だから、自分は切り捨てた。文字通りに斬り捨てた。
「虎の若子と軍神の養子も奥州に入ったらしい。二人とも彼女を溺愛してるらしいし、揺さぶりどころだね。同盟に罅を入れることも出来るし、政宗君の耽溺ぶりからして、彼女を失えば独眼竜は牙をもがれたも同然になる」
だからこそ、手を貸した。
「例の女がもっと強い毒を寄越せと言ってきたよ。如何なることやら。楽しみだね」
戦の出来ない冬の間の暇潰しには丁度いい。巧くいけば、難敵となりうる同盟を壊すことが出来る。そう、彼は笑った。
「何でよ! 如何して、殿は私のところに来ないのよ!!」
野菊は苛々と爪を噛む。乳母に命じ上田御前に毒を盛ってから既に半月近くが経っている。年も改まり賑々しく新年を祝う祝宴も開かれた。その折に漸く野菊は政宗との対面を果たした。とはいっても他の女中たちと一緒で言葉を賜ることすらなかったのではあるが。
だが、と野菊はそのときを思い返す。殿は私を見ておられた。きっと私の可憐な美しさに目を奪われたに違いない。きっとすぐにでも殿からのお召しがあるに違いない。
だから野菊はそのときをじっと待っていた。なのに、一向にお声が掛からない。2~3日は我慢出来た。祝宴続きで女を召す暇がないのだろうと。乳母に探らせたところ、上田御前も呼ばれた気配はない。だから我慢出来た。
「真田の弟が参っておりますゆえ、殿も武田に気を遣うておられるのでしょう」
野菊の癇癪に慣れた乳母はそう言って宥める。同盟が大事であるゆえに上田御前を大切にしていると見せる必要があるのだと。それでも野菊の苛立ちが収まるわけではない。
「邪魔な姉弟ね。もう我慢出来ない!! さっさと何とかしなさいよっ。もう私、待つなんて真っ平!!」
嫉妬に狂い醜い利己的な欲望に染まった顔を野菊は般若のように歪める。
「畏まりまして」
盲目的なまでに野菊を溺愛している乳母はそれを諫めることなど思いも寄らず、姫君の望みを叶えるべく城下へと下りて行った。その後ろに黒脛巾と佐助が、頭上には雀に化けた撫子がいることに気付かずに。
乳母が向かったのは城下にある高級菓子を扱う店だった。乳母は余程の上客なのか、奥に案内されていく。それを空から雀の撫子が追う。往来の多い日中のこととあって、佐助と黒脛巾が忍び込むのには少しばかり手間取った。──この僅かなタイムロスを後に佐助は悔やむことになる。
佐助たちが来るまでの間、撫子は普通の雀に交じって乳母の通された部屋の縁側でチュンチュン鳴きつつ聞き耳を立てていたが、室内ではかなり声を潜めて話をしてるらしく、話している内容までは聞き取ることが出来なかった。
やがて乳母は菓子折りを二つ受け取ると、城へと戻った。その後、政宗付きの中臈女中の許へ赴き、何やら頼んでいた。それを聞いた佐助は黒脛巾に念の為にすぐに医師を呼べる状態にしておくように頼み、幸村と景虎の許へと戻っていった。
幸村や景虎と他愛もない話をしていた彰子の許へ、戸惑った表情の衛門がやってきた。
「あの、御方様、殿付きの者がお目通りを願っておりますが、如何致しましょう」
これまで彰子を侮る態度を見せていた政宗付きの女中が、これまでの無礼を詫びたいとやって来たらしい。
「そうなの? いいわ、会いま」
「そちが適当に待遇うがよい、衛門。そのような無礼な者に姉上へのお目通りを許すわけなどなかろう」
彰子は会おうとしたのだが、それを言い終える前に景虎が横からきっぱりと断った。政宗付き女中の無礼さは衛門や小督から佐助が聞き出しており、それを二人の弟たちも伝えられている。お詫びをしたいとは殊勝な心掛けだが、きっと彰子とて進んで会いたい相手でもあるまい。そう断じて景虎は言ったのだ。
「はい! 然様でございますね!」
途端に表情を明るくして衛門は頷く。初めに戸惑っていたように、衛門とて彼女たちに今更好意的な気持ちなど持ちようもない。出来れば御方様には会わせたくないと思っていた。しかし、きっと御方様はお目通りを許されるだろう。そう思っていたが、景虎様が断ってくださった。それが衛門には嬉しかった。
軽い足取りで下がっていく衛門に苦笑し、彰子は景虎を見遣る。
「景虎殿……」
窘めるように名を呼んだ彰子に景虎は頭を下げる。しかし、彰子を見返す眼は凛と厳しさを纏ったものだった。
「姉上、出過ぎた振る舞い申し訳ございません。されど、姉上に無礼を働いた者にそうそう容易くお目通りを許すなど軽んじられまするぞ。本心からの詫びであれば、まずは直接ではなく衛門を通じて申し上げ、二度三度と願い出て漸くお目通りを許されるのが筋というもの」
きっぱりと景虎に言い切られて、彰子はそういうものなのだろうかと首を傾げる。
「そうなの? 幸村殿」
自分では判断のつかない彰子は、義弟に尋ねる。身分社会にだいぶ慣れたとはいえ、自分が上位者として如何振舞えばいいのか、特に『許す』場合に如何すればいいのかは、まだまだ彰子には判らない部分が多い。
「然様にござる。姉上は政宗殿唯一の室。側室とは申せ、扱いは正室と同じでござる。如何に政宗殿付きの者であろうと、直接お目通りを許す身分の者ではございますまい」
幸村にまでそう言われては、彰子はそういうものなのかと納得せざるを得ない。釈然とはしないが。
「そういうものなの?」
「然様」
首を傾げて言う彰子に、弟二人は異口同音に頷く。
「姉上は下の者にも随分心安くお声をお掛けになられまするが、身分からすれば、本来直接お声を掛けるのは喜多殿ら上臈女中のみ。側仕えの衛門とて本来はそれが許されぬ身分でございます」
この中では一番礼法に通じている景虎にそう言われてしまうと、これまたそうなのかと納得しそうになる。しかし、自分は側室なのだし、そこまで身分が高いわけではないはずだ。まるで江戸時代の大奥御台所並の制限ではないか。確か『天璋院篤姫』(原作)にそんなエピソードがあった気がする。
「御方様、お菓子をお持ち致しました」
そこへ衛門が戻ってくる。手にいた盆には淡い桜色の春らしい練り菓子が3人分乗っている。因みに1月は旧暦の暦上春扱いになる。未だに奥州は雪深いが。
「あら、きれいね」
「殿付きの女中がお詫びにと持ってまいりました」
その言葉に幸村と景虎がピクリと反応する。それに気付いた衛門はにっこりと笑って頷く。大丈夫、毒見済みです。そう伝えるように。それは二人の弟にも通じたようで、二人は緊張を解いた。
彰子が菓子の乗った皿を手に取ると、『にゃー』と鳴いて真朱が膝の上に乗った。クンクンと匂いを嗅いで鼻の頭に皺を寄せ、ブシュっとくしゃみをした。
「ああ、柑橘系の香りは真朱苦手だったわね」
昔から彰子の食べるものには何でも興味を示し欲しがった真朱たちだが、唯一柑橘系のものだけは避けていた。如何やら猫は柑橘系が苦手らしい。それ以外は饅頭だろうがプリンだろうが、コーヒーだろうが何でも口にしていたのに。お土産でもらった梅が枝餅は見事に餡子だけ食べていたし、夕食に刺身が出れば猫3匹は刺身がなくなるまで膝から降りなかった。コーヒーやココアは彰子が飲む前にペロペロと舐め、一度カップをひっくり返されて(猫舌のくせに熱いコーヒーを舐めて驚いてひっくり返した)以降、猫たちがいるときには初めから少し冷ました温いコーヒーを入れるようになった彰子である。
「ほう、確かに柑子の香りが致しますな」
「ね。いい香りだわ」
微りと微笑んで、彰子たち3人は衛門の持ってきてくれたおやつを楽しんだのであった。
その日の夕餉はいつものように政宗と彰子、それにお邪魔虫の幸村と景虎の4人で摂った。本当は政宗は二人きりを熱望しているのだが(それでも猫たちがいるから完全な二人きりにはなれないが、少しは遠慮してくれる)、弟二人の目的の一つに『姉上を独占させず、政宗殿に嫌がらせ』という小舅根性があるから、景虎は空気を逆に読んで邪魔している。
今日の夕食は政宗がメインシェフとして腕を振るい、それを喜多と真朱がアシスタントした。運んだのは真朱と喜多で、怪しい者が関わることは出来ない。彰子大事の真朱は仮令政宗と喜多しか厨房におらずとも警戒を怠らず、萌葱と撫子も細心の注意を払っていた。安全面には万全の注意をしていたのだ。しかし、それは起こってしまった。
「如何したの、幸村殿。珍しく進んでいないようね」
いつもならばガツガツという擬音が聞こえそうな勢いで食べる幸村が、景虎と同じペースになっている。
「何やら胃の腑がチクチクと痛みまする……」
声も心なしか小さい。
「なんだ、真田。拾い食いでもしたのか」
「政宗殿はそれがしを何だと思うておられるのか」
揶揄った政宗にムッとしたように幸村は反論する。いつもならば幸村と一緒に政宗に嫌味を返す景虎は何も言わなかった。それに政宗は片眉を上げ、不審そうな表情になる。
「景虎殿、如何なさいました? お顔の色が……」
心配そうに景虎の顔を覗き込んだそのとき、彰子の身に異変が起こった。『ぐっ』っと苦しげな呻きを漏らしたかと思った瞬間、体が痙攣しガクガクと震え、吐血したのである。
「彰子っ」
「姉上!?」
突然の異変に政宗が彰子を抱き起し、幸村と景虎も己の不調を忘れ傍に寄る。真朱・萌葱・撫子・衛門はさっと部屋を飛び出し、喜多、小十郎、綱元、成実に知らせに行く。天井裏にいた佐助も部屋へ飛び降り、部屋に控えていた小督は医者を呼びに行った。
「竜の旦那、血を吐いてるから顔を横に! 血が喉を塞いじまう! 旦那、水持ってきて!!」
突然の異変、しかもこれまでのことを考えてこれが病とはとても思えない。とすれば再び毒を盛られた可能性が高い。まずは吐き出させねばならない。
駆けつけた小十郎も知らせを受けてそれに思い当ったのか、水と桶を用意してきていた。政宗が彰子に水を含ませ、吐き出させる。しかし、彰子の状態がそれで落ち着くことはない。
「……どれにも毒は入ってないね」
彰子の膳を調べていた佐助が呟く。
「当然でしょう。政宗が作ってわたくしが運んだのですもの」
小十郎と共に戻ってきていた真朱が応じる。作ってから彰子が口にするまで怪しい気配など一切感じなかった。真朱よりも気配に敏い虎の萌葱もそれを保証する。
胃の中のものを全て吐き出し胃の洗浄を終えたところで、延べた床に彰子の体を移す。痙攣は収まらず、苦しげな短い呼吸を繰り返している。
「毒……とは思われますが、それがどのような毒なのかは……」
彰子を診た医師は沈鬱な表情で言う。そして集う者たちが最も聞きたくない言葉を苦しげに告げた。
「今宵が峠かと。熱が下がれば御方様は持ち直されましょうが……お体がもつかどうか」
彰子は毒を排除しようとする自然な体の働きで今高熱を発している。だから、熱を下げる処置をするわけにもいかない。どんな毒物かも判らない為解毒薬が作れず、彰子自身の体の働きに賭けるしかないのだ。
「……我らが全員お傍に侍っていても何も出来ませぬ。我らは我らの為すべきことを致しましょう」
呆然とする人々の中で最も早く立ち直ったのは喜多だった。政宗と真朱を彰子の傍に残し、他の者には別室に移るように促す。
後ろ髪を引かれながら幸村と景虎もそれに応じた。彰子は心配だが、初動捜査は大切だ。既に黒脛巾が事件と同時に城への出入りを見張り、怪しい挙動の者がいないか確認し、城内と城下を調べている。
「ねぇ……旦那と西堂丸様も具合、良くなかったよね?」
座を移したところで、佐助が口を開いた。
「で、実は俺もちょっと胃の腑がおかしいんだ」
佐助の言葉にその場にいる全員の視線が集まる。
「如何いうことだ、猿」
険しい目で小十郎が問い質す。
「旦那も西堂丸様も俺も、体を毒に慣らしてある。でも彰子ちゃんは違う。毒に慣れてる俺らは軽くて済んだだけだとしたら?」
それにはっとしたように景虎が青白い顔を上げた。
「我ら4人が共に食したもの……あの菓子か!」
「うん。俺、毒見したからね」
「しかし、佐助……あの菓子を食したのはもう2刻も前のことだぞ」
彰子を含めた4人が共に口にしたものと言えばそれしかないが、それも随分前のことだ。まさか、と幸村は呟く。
「南蛮には数刻経ってから効く毒もあると申します。それかも知れぬ……」
冷静な声で綱元が応じる。以前イスパニアの商人からそんな話を聞いた記憶があった。
「あの菓子、例の女の乳母が買ったヤツだったから、警戒してたんだ。竜の旦那の女中に渡してた。それを彰子ちゃんに届けたんだ。だから、毒見したのに……」
念の為に佐助自身が開封してから毒見をした。自分の体に異常がないことを確認した上で、政宗と小十郎にそれを知らせて許可をもらってから彰子の許へ持っていった。それだけ注意を払っていたというのに、こんな事態になってしまったことに佐助は唇を噛む。
「衛門ちゃん、あの菓子、まだ1個残ってたよね。まだある?」
「直ちにお持ち致します!」
佐助の言葉に衛門は立ち上がり、己の部屋へ走っていった。数分後菓子折りを手に衛門は戻り、それを佐助に渡す。
「……やっぱり香りも異常ないな」
「ママが嗅いでたけど、おかーさんが食べるのに何も言わなかったよ」
「けど、蜜柑の匂いきつくて、俺らにも判らなかったのかもしれない」
匂いを確かめる佐助に、撫子と萌葱も告げる。幸村と景虎は2匹が話せることを知らなかったが、今はそれに気付く余裕もなかった。
「わたくしがそれを食します。2刻の後、わたくしの身に異変があれば、それが証拠となりましょう」
凛とした決意の固い目で、衛門が小十郎を見上げる。
「だが……お前は毒に慣れてはいないだろう」
「さればこそ、にございます。毒に慣れておられる方では、症状が判らぬこともございます。如何か、わたくしでお確かめくださいませ」
懇願するように衛門は頭を下げる。この菓子も自分が彰子に供してしまったのだ。あの茶と同じように。衛門は己を責めていた。
「如何か、わたくしの命、御方様の為に使わせてくださいませ」
衛門の真剣な眼差しに小十郎は言葉が出ない。周囲も衛門の気持ちが判り、更にそれしか手立てがないことも判っており何も言えなかった。
「じゃあ、半分だけ食べてくれる? 残り半分は医師にも調べてもらうから」
単純に考えて半分であればその分毒も少ないはず。彰子の状態から考えれば、半分であれば即座に命を失うこともないだろう。
そう告げたのはこの場では政宗に次ぐ地位にある成実だった。ここは自分が決断せねばならない。
「ありがとうございます」
成実に一礼すると、衛門は菓子を半分に割り、一方を箱に戻して成実に渡し、他方を己の口に運んだ。
「私が衛門に付いてるね。なんかあったらすぐに知らせる」
彰子の為に命を賭けてくれた衛門に優しい眼差しを向け、撫子が衛門の膝に乗る。
「取り敢えず、その乳母だね。問い質す?」
「当然だ」
佐助の言葉に三傑が腰を上げる。本当は幸村と景虎も付いて行きたいところだったが、他家の者が出しゃばるわけにも行かず、部屋に残った。
ならば、今は自分に出来ることをするべきだ。そう判じた景虎は紙と筆を頼み、書を認めた。それを自分の陰供として付いてきている軒猿に託し、直ちに届け返事をいただいて戻れと命じた。
「西堂丸殿……それがしは何も出来ませんでした。お側にいながら姉上をお守りすることが出来なかった……」
膝の上でぎゅと拳を握り、幸村は悔しさと不甲斐なさに唇を噛む。
「それは私とて同じだ、弁丸。されど、下手人がその乳母として、たかが家臣の乳母如きが如何して南蛮渡来の毒を手に入れられたのか……不思議とは思わぬか」
幸村の気持ちは痛いほど判る。自分とて同じなのだ。けれど、己を今責めたとて、それは何の役にも立たない。だから、景虎は思考を先に進めるように幸村に告げた。
「確かに……南蛮渡来となれば、港や渡来品を扱う店が怪しゅうござるが、佐助の報告では乳母が行ったのは菓子の店でござったな」
「それも古くからある店だ。南蛮品とは一切の関わりを持たぬはず」
「されど、その店が怪しいことは間違いござらん。では、それがしはその店に」
今にも立ち上がり走っていきそうな幸村を景虎は留める。
「行って如何する。毒を盛ったか尋ねるのか? 仮にそうだとして正直に申すわけなかろう。軒猿と真田忍隊でその店を調べればよい。どのようなところと取引をしておるのかな」
毒物が伊達領内で入手したものでないとすれば、可能性が高いのは貿易が盛んな堺。堺は豊臣の本拠地だ。最も策謀に長け、手段を厭わない豊臣の。この三国同盟を最も警戒しているであろう豊臣の本拠地。あの竹中が何か関わっている可能性も考えられる。
「では、それがし、ひとっ走り上田まで戻ってまいりまする」
いても立ってもいられないのか、再び立ち上がる幸村を再度景虎は留めた。
「片倉殿らが戻られてからで良かろう。乳母から何か判るやも知れぬ」
「それはそうでござるが……」
何もしないではいられないのだろう、幸村は不満げだ。しかし、そんなことはすぐに如何でも良くなった。
「彰子!」
隣の臥所から政宗の声が聞こえたのだ。まさか姉上が!? と狼狽てて二人は臥所に飛び込む。しかしそこにあったのは彼らの不安とは逆のものだった。彰子が意識を取り戻していたのだ。
まだ熱は下がっておらず、苦しげな様子ではあるが、体の震えは止まっている。そして、か細くはあるが、はっきりとした意思を持った声で政宗に話しかけていた。
「大丈夫……きついけど、死なないから。絶対、死なないから……そんな顔しないで、政宗さん」
生きる意志に満ちた声だった。それに政宗も幸村も景虎も安堵する。
「ママ、お水飲んでくださいね。汗を沢山かいてますから、水分を取らなくては」
真朱が側で甲斐甲斐しく世話を焼く。その表情にも安堵が見て取れた。
「ああ、幸村殿。衛門に御方様の着替えを用意するように伝えてくださいますかしら。汗をかいていらっしゃいますから」
安心して腰が砕けた幸村を一瞥して真朱が依頼形式の命令をする。
「承知」
幸村は言われたとおりのことを衛門に伝える。衛門も彰子が意識を取り戻したことにホッとしたようで、少しばかり表情が明るくなった。
まだ油断は出来ないが、彰子が意識を取り戻したことは一同を安心させたのであった。
一方、野菊の許へ(正確にはその乳母の許へ)向かった三傑は配下に指示を飛ばしていた。野菊の許に乳母はいなかったのである。如何やら夕餉の前から姿が見えなくなっていたらしい。野菊も彼女が何処に行ったのか知らず、『私を放っておくなんて』と怒りを露わにしていた。それを小十郎たちにぶつけつつ、未だ殿のお召しがないことの不満もぶちまけようとしていたが、当然小十郎たちがそれを相手にするわけもない。さっさと野菊の許を去り、乳母の行方を捜していた。
「片倉様、見つかりました」
配下の知らせに小十郎はすぐに連れてくるように言うが、それは叶わなかった。確かに乳母は見つかったが、それは彼女の死体だったのである。
「懐剣で胸を突いておりました。自害と思われますが……」
そうとばかりも言えないと配下は言う。女中たちから聞いた乳母の
乳母の死骸は既にかなり冷たくなっており、死後数刻は経っていると見られた。
小十郎は配下に乳母の死について調べるように命じると、報告の為に政宗の許へと向かう。
「死んだ……だと?」
「一見自害に見受けられますが、あの者の気質からしてそれも怪しいかと。引き続き調べさせております」
既にこのとき衛門が床についており、菓子に毒が仕込まれていたことが確定していた。しかし、医師の調べによってもそれがどんな毒なのかは判らなかった。何か仕込まれているのかは判るが、未知の毒物だったのだ。今医師たちは総出でその毒の解毒剤の作成に入っているが、作れるのかどうかも判らなかった。
「トカゲの尻尾切りか……」
「可能性としては充分に有り得るかと」
小十郎の言葉に政宗は眉を寄せる。菓子の出所を調べる必要があった。
「それは我らにお任せくださらぬか、政宗殿」
黒脛巾に命じようとした政宗に幸村が願い出る。その眼差しは強く断ったところで納得するとは思えなかった。
「真田忍隊に調べさせまする。このこと、お館様にもご報告申し上げねばならぬかと」
如何やら黒幕がいるらしいことは確定だ。ならばこれは伊達だけの問題ではないかもしれない。
「有り難くお申し出受けさせていただく。頼む、真田殿」
「承知。姉上の御為なれば、我が細作たちも懸命になりましょう」
すぐに甲斐に戻るべく幸村は一礼すると部屋を出た。佐助には残ってもらい、引き続き奥州内を独自に調べさせることになっている。
出て行った幸村を見送り、景虎は政宗に視線を移した。
「伊達殿。私からも一つご提案がございます」
そう言った景虎の表情は何処か冷たく、何処か優しいものだった。