Egoismの代償

 一向に進展の見えぬ捜査状況に、政宗の秀麗な顔にも焦燥の色が見え始めた。小十郎もまた、彰子の置かれた状況と主の心労を思い、常にも増して眉間の皴が深くなる。

「状況証拠ばっかりじゃ如何しようもねぇ……」

 苦悶の表情を浮かべ政宗は呟く。

 これまでの調べから犯人はほぼ野菊で間違いないと政宗たちは確信している。野菊が彰子を敵視していることは周囲の証言からも明らかだ。とはいえ、野菊が直接彰子に対面したこともなければ、彰子の周囲と接触した気配もない。

 野菊がこの城内で彰子に対して一番敵愾心を持っているとはいえ、それだけでは証にはならない。唯一怪しめる箇所といえば、件の商人が城に上がる前後に野菊の乳母が幾度か城下に行っている程度だった。

「これがオレならもう一度命を狙わせる隙を作るって策もあるんだがな」

 小十郎らにとってはとんでもないことを政宗は口にする。確かに政宗は彰子に比べれば毒に対する耐性はある。伊達家嫡男という立場ゆえに幼い頃から命の危険とは隣り合わせだった政宗だ。輝宗の指示で幼い頃から体を毒に慣らしているから、大抵の毒には耐えられる。

 それは判っているが、自らの命を囮とするような言に小十郎は眉を寄せる。しかし、一方ではそう言ってしまう政宗の心情も理解出来るだけに、小十郎は低く名を呼んで窘めるに留めた。

 自分が彰子を側室になどしなければ。当人の希望通り侍女として城に置いていれば。政宗がそう後悔していることは小十郎の目にも明らかだった。彰子は政宗の側室という立場ゆえに命を狙われたのだ。

 これが政宗自身であれば、或いは小十郎たち側近であれば、命を狙われることも覚悟していることだった。乱世に名乗りを上げたときから、或いはこの主に命を懸けると決めたときから。

 しかし彰子は違う。彼女は飽くまでも平成の世に還るまでの一時的な身分として側室になったのだ。政宗の希望を受け容れる形で彰子はそれを了承した。天下を狙う武将の側室となる覚悟はなかったはずだ。

 けれど、彰子は己が命を狙われる──そういう立場に置いてしまった自分たちを責めることはしなかった。自分たちの不手際を詫びる小十郎たちに彰子は鷹揚な微笑さえ浮かべて応じたのだ。

「乱世を戦い抜く武将の唯一の側室なんですもの。これを予想していなかった私が甘かっただけ。これからは気をつけますから、必要以上に気に病まないで」

 既に起こってしまったことは如何しようもないのだから、その原因追求と再発防止に努めてほしいと彰子は言ったのだ。その心の強さに小十郎たち政宗の側近は驚いた。自分たちの不手際は責められて当然のことだし、命を狙われて動揺し、それを配下に当たり散らす者とて少なくはない。怯えて周囲を警護兵に囲ませて屋敷の奥深くに閉じ籠ったとて誰も責める者はいないだろう。

 けれど彰子はそのどちらもしなかった。表向きはこれまでと一切変わらぬ生活を送っている。当然強化された警備(常に黒脛巾数名が隠れて警護している)については必要なことだからと受け容れてはいるが、通常業務に支障を来たすような、小十郎や成実が張り付くことはきっぱりと拒絶した。

 寧ろこれまで自分が己の身を守ることに無頓着だった所為で小十郎たちに余計な仕事を増やしてしまったと悔いている様子だった。

 そんな彰子を見て、小十郎をはじめ政宗の側近、黒脛巾、政宗の小姓たちは『やはりこの方に殿のご正室になっていただきたい』という思いを強める。全てに片を付けた上で改めて彰子に正式に政宗の妻となってくれるよう願おうと小十郎は決意し、彰子正室化へ向けての根回しも始めていた。

 彰子に政宗の妻となってもらう為にも一刻も早く犯人を捕らえたいのだが、如何しても証拠が不足している。仮にも重臣の娘を犯人と名指しするからには確固たる証拠が必要だった。

「なんか打つ手なしって感じかい?」

 儘ならぬ状況に政宗と小十郎が渋面をつき合わせていると、天井から飄々とした声が降ってくる。その次の瞬間には佐助が姿を現していた。

「猿、早かったな」

 一瞬驚いた後、政宗はすぐに言葉を発した。小督が佐助に支援を頼みに行ったことは成実と黒脛巾頭領から報告を受けている。

「そりゃね。彰子姫様の一大事だし。大事な姉上の命が狙われたとあっちゃ旦那だって黙ってはいられないでしょ」

 チクリと嫌味を含ませ、佐助は応じる。

「状況とかは小督ちゃんに聞いてるし、竜の旦那よりも鬼庭や成実の旦那に聞いたほうが冷静な分析も聞けるだろうから、アンタには聞かない。明日には旦那も来るよ。それと軍神の息子もね。二人とも俺様以上にこの状況に怒ってるから、拳の4、5発は覚悟しといて。大事な姉姫を任せたのにこの為体ていたらくじゃね」

 政宗が冷静でいられない状況なのは判っている。それでもついつい言葉に棘が出てしまうのは仕方ないだろうと佐助は自己弁護する。

「ああ。存分にやってくれて構わねぇ。オレの分まで殴ってくれ」

 決して彰子は政宗を責めない。彰子ばかりではなく彰子大事な猫たちでさえ政宗を責めない。それゆえに政宗は余計に自分を責めてしまうのだ。

「んで、俺様は勝手に動いてもいいわけ?」

 流石に佐助も憔悴しているのが明らかな年下の政宗をこれ以上苛める気にもならず、話を進める。小督からは独自に動いていいと言われているが、主である政宗にも確認しておく必要がある。

「ああ。構わねぇ。但し、報告だけは随時オレか小十郎にしてくれ」

 他国の細作に好きに動いていいというのは、この乱世にあっては有り得ない危険なことだった。けれど、今はそれも仕方ない。それに他国の者のほうが遠慮も先入観もない分、冷静かつ客観的に捜査出来るに違いない。だからこそ、彰子は佐助の力を借りるよう小督に助言したのだ。

「了解。じゃあ、俺様、まずは彰子ちゃんに挨拶してくるわ」

 佐助がそう言って立ち上がりかけるのを、小十郎が制した。既に時刻は深更、彰子はとっくに休んでいるはずの時間だった。

「御方様への挨拶は明日にしろ。取り敢えず、お前の塒に案内する」

 小十郎はそう言い、政宗に一礼すると佐助を伴って部屋を出る。

 深夜の城内を小十郎に先導されて歩きながら、佐助は暫し何かを考えていた。そして、当面の塒となる部屋に着くや、徐に話を切り出した。

「竜の旦那は思ってた以上に憔悴してたから、訊かなかったんだけどさ。彰子ちゃんの身の上に何かあったんじゃない? 暗殺未遂以外に」

 明確な根拠があるわけではない。ただ政宗や小十郎、小督の様子からなんとなくそう感じたのだ。だから、佐助は率直に小十郎にそう尋ねた。そして確りと話を聞く為に腰を下ろす。佐助の言葉に一瞬目を見開いた小十郎も、一つ息をつくと、佐助の対面に腰を下ろした。佐助は奥州以外で唯一彰子の本当の出自を知る人間だ。彰子や猫たちがそれゆえの信頼を佐助に置いていることも知っている。だから誤魔化して隠す必要はない。

「暗殺未遂が起こる半月くらい前のことだ。御方様がこの世界にお留まりになることが確定したんだ」

 小十郎はそう言って成実から聞いた話を佐助にもした。草紙神という神が現れたこと、その神によって彰子は元の世界に戻れないと告げられたこと、元の世界では彰子は病死扱いになるということ。

 流石に神様なんてものが出てくるとは想像だにしていなかった佐助は驚いたが、彰子がこの世界に留まること自体は然程意外には思わなかった。なんとなくそうなるのではないかと予想していたことだったからだ。それは彰子の事情を知る者が皆、当人を含めて漠然と感じていたことだった。

「それ以降、御方様は床に就いてしまわれてな」

 その頃の彰子を思い出し、小十郎の表情が暗くなる。まるで感情を失くしてしまったかのような虚ろな目をしていた。悲しみすら感じられないほど、深い絶望の中にいると察せられる姿だった。けれどそんな彰子に対して自分たちは何も出来なかった。

「俺たちは御方様にこの世界にお留まりになってほしいと願っていた。政宗様から話を伺っていただけの頃でさえ、この世界に来てくださればと思っていた。そして実際にお会いして、あの方を知れば知るほど、御方様にまことに政宗様の妻となってほしいと願うようになっていたんだ」

 彰子がいれば政宗が心から安らぎ寛ぐことが出来る。それだけでも充分過ぎるほどなのに、彰子は『奥州筆頭』の配偶者となるのに充分な知識と教養、政治的見識をも持ち合わせていた。彰子を知れば知るほど、この世界に留まってほしいという思いは強くなっていた。

「だが……実際にお留まりになることが決まるとな……。御方様のお苦しみやお悲しみを見ちまうと……」

 深い慙愧の溜息を小十郎は漏らす。しかし、佐助はそれを何処か冷ややかな目で見た。

「つまり、アンタらは自分たちの都合でしか、彰子ちゃんのことを見てなかったってことか」

 冷たい佐助の声音に小十郎は視線を上げる。目の前の佐助はいつもの彼からは想像も出来ないほど冷ややかな表情をしている。戦場に在るときとも違う冷ややかさ、細作としての冷ややかさとも違うものだった。

「竜の旦那の為に彰子ちゃんに留まってほしい、奥州の為に留まってほしいってさ。彰子ちゃんの気持ちなんて、これっぽっちも考えてなかったってことだよね。彰子ちゃんは元の世界に家族や愛しい男や、色んな大切な人を残してたんだよ。突然消えた彰子ちゃんをその人たちだって死ぬほど心配してたんじゃないの? アンタらだって一度は同じ思いしてんだろ。竜の旦那は3日で戻ってきたらしいけど、彰子ちゃんは半年だよ。あの彰子ちゃんがそんな状況で、残してきた人を思って心を痛めてないはずないだろ。それに彰子ちゃん、一人ぼっちでこっちに飛ばされたんだぜ。帰りたいのに帰れない状況に置かれてたんだぜ。彰子ちゃんがどんな気持ちでいたのか、いい歳した大の男が揃って考えたこともなかったってのかい?」

 佐助は上田で憔悴していく彰子の姿を見ている。どれほど彼女が元の世界に戻りたいと願っていたのか。その苦しいほどの思いを身近で見知っているだけに、それを想像もしていなかった小十郎たちへの怒りが湧いていた。自分でも不思議なほどの強い怒りが。

 彰子のことだ、周囲のそんな気持ちも察していたのではないか。そして周囲を思い遣る彼女は、決して自分の弱さを彼らには見せなかったはずだ。

「彰子ちゃんはアンタらに心配かけないようにって、絶対悲しそうな顔見せなかっただけだろ。アンタらには笑顔しか見せなかったんだろ? だからそれが現実になってから吃驚する破目になったってわけかよ。彰子ちゃん、まだたった18歳の女の子なんだぜ? 悲しいのも苦しいのも当たり前じゃないか。第一、彰子ちゃんに留まってほしいって一番願ってたのは竜の旦那だろ。その旦那が何も言わなかったんだ。何故なのか今なら判るだろ。竜の旦那は彰子ちゃんの気持ちを理解してたからだよ。彼女が元の世界にどんなに戻りたいと願ってたか、痛いくらいに知ってたんだよ。だから、二度と会えなくなるって判ってるのに、彰子ちゃんの為に、彰子ちゃんは必ず帰れるって信じてたんだ」

 それが叶わなくなったとき、政宗は如何感じたのか。佐助には何となく判るような気がした。愛しい女が自分の傍に留まる喜び。それと同時に愛しい女の絶望と悲哀を思い遣って同じだけの苦しさを味わったに違いない。そして、周囲がこうではそれを周りに告げることも出来なかっただろう。

「てめぇになんと言われても仕方ねぇな。確かに俺たちは自分たちのことしか考えてなかった……。政宗様のお気持ちにすら、気付いてなかったんだな。政宗様の為と言いながら……」

 小十郎は深い息をつく。

 確かに自分たちは彰子の苦しみや哀しみに気付いていなかった。彰子が明るく振舞っていたから、気付こうともしなかった。彰子は現状を受け容れ、静かに心穏やかに還る日を待っているのだとばかり思っていた。あの笑顔の裏に悲しみが隠されていることに気付きもしなかったのだ。

「彰子ちゃんや竜の旦那がこのことでアンタらを責めたりしないと思うから、俺が言っちゃったけどね。あー、こんなこと言ったの彰子姫様にばれたら、俺様叱られちゃう」

 彰子のことだ。きっと自分がこんなことを言ったと知ったら驚くだろう。『佐助さんらしくない熱弁ね。幸村殿みたい』と笑うかもしれない。そして少し悲しそうな、申し訳なさそうな表情をして『ありがとう』と言うだろう。

「まぁ、今更俺様が言わなくても、アンタらも充分判って反省してるみたいだから、これ以上はこのことについては何も言わないけどさ」

 今になって柄にもない熱弁を振るってしまったと、佐助は自分で自分が恥ずかしくなった。全く以って自分らしくない。それだけ、いつの間にか彰子の存在が幸村と同じく『身内』になっていたのだと実感する。

「でも、今は彰子ちゃん立ち直ってんだよね? なんか切っ掛けあったわけ?」

「ああ、皮肉なことに、今回の暗殺未遂が切っ掛けになったんだ。初めはご自身が狙われたことに衝撃を受けておいでだったが……ご自身が狙われたのではなく、政宗様が狙われたのではないかと思われたらしくてな。それが立ち直る切っ掛けだ」

 真朱を通じてその可能性を示唆してきた彰子。翌日に対面したときにはそれまでの憔悴ぶりは消え、瞳には力強い光が戻っていた。

「……竜の旦那の為か。他人の為ってところが彰子ちゃんらしいねぇ」

 あまりのらしさに佐助は苦笑する。自分のことは何でも後回しにするくせに、大事な人の為なら立ち上がれる。猫たちに『ママは弱くて脆いけれど、強い方ですわ』と言われる所以だろう。

「竜の旦那、彰子ちゃんに充分大事な人って思われてるんじゃないか。アンタらの望みが叶う日も近いんじゃないの」

 この世界に留まることが確定したのならば、そうなるのが一番いいだろうと佐助も思う。彰子の知識と見識は佐助も知っている。かつて下手な敵国に渡れば厄介だと思った彰子のそれ。奥州ならば彰子の知識を悪用はしないだろうし、彰子もさせないだろう。何しろ、政宗と彰子の力関係は惚れた弱みで政宗のほうが分が悪いのだから。

「ああ、だといいがな。寧ろこうなると、御方様よりも政宗様のほうが厄介かもしれん」

 彰子は歴史を知っているし、寧ろ恋愛感情がない分、比較的あっさりと側室になることを受け容れるのではないかという気がしないでもない。しかし、政宗はそうではないだろう。自身の恋情を理解している上に彰子の心に恋人の存在があることを判っている。踏ん切りをつけるのは難しそうだ。殊、恋愛に関しては晩生で純情で純粋な政宗なのだ。閨の場数は踏んでいるとはいえ、内面的には幸村とどっこいどっこいの純情さや生真面目さを持っているのではないかと小十郎は見ている。

「まぁ、そこは苦労しなよ。苦労し甲斐のあることだろうしね」

 貴様何様俺様全開の政宗にそんな純情な一面があるとは思いもしない佐助は、意外さを感じながらも笑った。

 奥州に到着してからやっと見せた、飄々としたお気楽細作らしい表情だった。