高まる焦燥

 一向に進まぬ犯人捜索は小督は焦燥りを感じていた。彰子の暗殺未遂から既に5日が経っている。

 衛門に茶を売った堺の商人はあれから見つかっていない。成実と綱元の指示によって城下の全ての宿が調べられたが、何処にもそれらしき者はいなかった。如何やら痕跡を残さぬ為に城下にやって来たその日に城に上がり、城を下ったその足で城下からは出て行っているようだった。

 綱元や成実と共にその商人の出入りを許した者も当然ながら調べた。何処かで他国の勢力と繋がっている可能性があると考えたのだ。しかし、そこからも何の収穫も得られなかった。そしてそのことによって、その商人が細心の注意を払って青葉城へ入り込んだ可能性の高さを小督たちに気付かせた。

 新たに奥に出入りを希望する商人がいる場合、奥女中の頭である喜多の許可が必要になる。既に出入りしている商人、或いは家臣からの紹介を受けて喜多が判断を下すのだ。他国の商人は基本的に間者と見做すから、その許可認証には意を払う。しかし、譜代の家臣や上臈女中の紹介であれば、自然審査の目も甘くなる。

 件の商人は上臈女中の紹介だった。しかし、その女中が直接その商人を知っていたわけではない。親戚筋の知人から別の商人の依頼を受けて喜多へと取り次いだだけだった。そしてその紹介した商人はお得意様である女性から紹介されたのだという。扱う商品の珍しさとたっぷりともらった紹介料(つまり袖の下)から城への取り次ぎをしたのだ。だが、その紹介した女性となると、それが何者であるのかは判らなかった。何処かの武家に仕える中年の女性という以外のことは何も判らなかったのである。

 また、使われた毒についても当然調べられた。だが、そこから得るものは何もなかった。そもそもどんな毒なのかもよく判らないのだ。細作集団である黒脛巾は当然ながら毒物にも精通している。その彼らをしてもその毒を知っている者はいなかった。こうなると解毒剤が聞いたのは僥倖というべきだったかもしれない。但し、調べる過程でその毒は刺激性は高いものの致死性は極めて低いものであることが判明し、政宗をはじめとした関わる者たちを困惑させた。

 命を狙うにしては何もかもが中途半端だった。だが、彰子は狙われている。

 猫たちの言もあり、小督たちもその犯人として側室候補の野菊を怪しんでいた。野菊を知る者たちから情報を集め、密かにその言動を見張り、彼女ならば己の障害を排除する為に短絡的な手段を用いかねないことも確信していた。

 しかし、その野菊に毒物を──しかも黒脛巾ですら正体の判らぬ毒を手配出来るとも思えない。毒を持ち込んだ者はきれいさっぱりとその形跡を消している。決して足が付かぬよう細心の注意を払っている。とてもそんな芸当が野菊に出来るとは思えない。

 彰子は狙われている。致死性の低いものであったとはいえ、毒を盛られたのは事実なのだ。しかも犯人の正体も意図も全く読めない。それだけに不気味だった。

 なんら手がかりを得られぬまま、時間だけが過ぎていき、焦燥りは募る。

「手詰まりになってしまったら、視点を変えてみるのも一つの手ではないかしら。例えば、奥州以外の人の意見を求めるとか」

 撫子を経由して彰子の言葉が小督に伝えられたのは、そんな焦燥りを感じているときだった。

 政宗やその周囲の者は彰子に捜査状況を詳しくは伝えていない。それは彰子に余計な恐怖を与えることになるのではないかと懸念しているからだった。彰子も彼らの配慮が判るだけに敢えて詳しいことは聞かなかった。

 しかし猫たちは違う。情報が乏しいほうが余計に彰子が不安に思うであろうことを理解している。ゆえに猫たちは自分たちで情報を取捨選択し言葉をオブラートに包みながらも、ほぼすべての調査状況を彰子に伝えていた。

 この頃になると彰子も自分が政宗のとばっちりを受けた可能性がかなり低いことには気づいていた。その上で更に思考を進める。

「犯人の意図が読めない理由の一つは、実行は適当なのに、用意は周到というアンバランスさにあるわけよね。だったら、実行犯と用意をした者は別人。別の思惑で動いていたとは考えられないかな? 多分、私を殺したと思う犯人Aがいて、私に毒を盛れと命じた。で、Aに準備を命じられたBは私を殺す心算はなかった……とか? Bの狙いは本当は別にあって、その為にAの命令を受けた……ううん、命令というよりも依頼かな。そうなると、寧ろBのほうが黒幕っぽいかも。Bの狙いの為にAは利用されてる……?」

 例によって紙に書きながら、彰子はぶつぶつと呟き思考を重ねていく。色々な可能性を考えて、それを一つずつ潰していくしかない。とはいえ、彰子も既にある情報だけではこれ以上の可能性を見つけることは出来ず、どの可能性も消し去るだけの根拠を持たなかった。

 となれば、視点を替えるしかない。内部にいる自分たちでは気付けないことも、外部の者ならば気付くかもしれない。そう思って撫子を通じて小督に伝えたのだ。

 小督はそれを聞き、すぐさま決断した。確かに彰子の言うことにも一理あるのだ。自分たち奥州勢は政宗にも彰子にも近すぎる。冷静になりきれず近すぎる為に見えないこともあるに違いない。

「萌葱、私は上田に行って来る。佐助殿のお力を借りようと思うのだ」

 彰子の護衛である身としては、他国の細作に力を借りるのは正直に言えば悔しい。だが、そんなことに拘っていてはいけないのだ。自分の務めは彰子を守ることなのだから、自分だけでは如何しようもないのであれば、佐助の力を借りることも致し方ない。そう小督は割り切った。

 それに佐助はこの日ノ本でも1、2を争う有能な細作だ。彼ならば自分たちが見落としていることに気付くかもしれない。関係者全員と密接な繋がりがあるわけでもないから、冷静な目で判断することも出来るだろう。外部の人間だからこそ判ることもある。また、自分たち黒脛巾とは異なる甲賀の細作だから、毒についても違う知識を持っているかもしれない。

 彰子の護衛を萌葱に託し、成実と黒脛巾頭領に許可を得ると、小督は上田へと向かったのである。






 上田城へと到着した小督は佐助の許へと向かった。事情が事情だけに小督は城門を通らず、城内へと忍び込んだ。すぐに侵入者に気づいた忍隊の者が現れたが、顔見知りだったことが幸いし、咎められることなく佐助の許へと案内された。小督の目を見、時間を惜しんでいることからも彰子の身に何か起こったのだと察したようだった。

 彰子のことをすっかり『姫様』として受け容れている上田城にあって、最も彰子に好意的なのが実はこの忍隊だった。当初は流石に細作だけあって警戒していたのだが、調べつくしても怪しいことは何一つなかった。彰子が全くの無害で警戒の要なしと判るや、忍隊は掌を返したように彰子に好意を示したのだ。

 否、本当は初めからそうしたかったのだが、細作としての習性と務めがそれを許さなかったのである。

 彰子は忍隊の長佐助の命の恩人だ。彼女がいなければ、自分たちが敬愛する長は命を落としていたのだ。それゆえ、警戒を解いた忍隊は彰子に対して細作とは思えぬほど好意を露わにしていた。

 当然その好意は彰子の側近兼護衛である小督への態度にも影響を及ぼしており、侵入したとしても悪意がなければ咎めることなどするはずがなかった。

 佐助の許へと案内された小督はそこに他の人物もいることで、一瞬話すことを逡巡った。案内されたのは城主幸村の私室であり、そこには佐助の他に幸村と上杉景虎が同席していたのだ。佐助の上司であり彰子の弟である幸村はともかく、景虎にまで聞かせてもいいものか……そう迷ったのだ。

「小督ちゃん、如何したのさ。──彰子ちゃんに何かあったんだね」

 景虎の前で話すべきかどうか迷っていた小督に、佐助は問いかける。何の先触れもなく幸村の部屋に小督が現れることなど、これまでにはなかったことだ。小督が上田城を訪れるのは初めてではないが、幸村に用がある場合でも必ず小督は佐助への取次ぎを頼んでいた。基本的に小督が幸村の前に単独で姿を現すことはない。身分的なことを考えてのことだ。尤も幸村は小督を姉の侍女兼護衛と認識しているから、小督の遠慮など一切構わず顔を見せ、小督からは『やはりご姉弟だな』と思われていたりする。

 しかし、今日は違っている。頑ななまでに身分に拘る小督が直接やってきた上に部外者──景虎がいるにも関わらず姿を見せた。否、姿を見せた後に景虎に気づいた様子だった。普段の小督からすれば、これも考えられないことだ。それほど余裕がなかったのだろう。だとすれば、彰子の身に何か変事が起こったと考えるのが妥当だ。

「彰子姉上の御身に何事かあったというのか?」

 佐助の言葉と小督の常ならざる様子に幸村も表情を険しくして問いかけ、小督は頷いた。

「──私は席を外したほうが良さそうだね」

 頷いたきり話さない小督を見、景虎は言う。小督は彰子の護衛であり、幸村は弟、佐助はその側近だ。けれど、自分は部外者。仮令頻繁に彰子と文の遣り取りをし、姉のように慕い弟のように可愛がってもらっているとはいっても、所詮は赤の他人なのだ。

 彰子が奥州へ旅立つ前、甲府へ暇乞いをしに来た際の一度しか、景虎は彰子と話をしていない。けれど、その優しく温かな慈愛の篭った瞳に触れて以来、ずっと彼女を姉のように慕ってきた。実の姉とは疎遠になっている分──現在、実家の北条家と上杉は敵対関係にある──余計に彰子を慕っているのだ。同盟の絡みで奥州へ出向くかすがに文を託したのも、彰子の優しさに甘えたいという思いがあったからだ。彰子もそれが判っているのか、本当の姉のように景虎を案じ、優しく心温まる文を返してくれた。それ以降、折に触れては文のやり取りをしている。

 けれど、幸村のように本当の姉弟ではないのだから、小督が躊躇うのも無理からぬこと、と少しばかり寂しく思いながら景虎は立ち上がろうとした。

「いえ、やはり、景虎様にもお聞きいただいたほうが良いと思われますゆえ、そのままに」

 小督も景虎と彰子の姉弟めいた交流は知っている。彰子は幸村を可愛がるのと同じように、景虎のことも案じている。それは文遣いをする小督が一番判っていることだ。

 それに同盟国の後継者なのだから、伊達にとって不利になるようなことはないだろう。謙信や景虎の人柄からしてもそう予想出来る。それに上杉の細作・軒猿も黒脛巾とは別系統の細作だから、そこから得られる情報もあるかもしれない。更に元々北条家出身の景虎だ。北条には伝説の細作風魔がいる。情報は広く集めるに越したことはない。

 小督の言葉に一旦浮かせた腰を景虎は再び沈めた。そして、漸く小督は告げたのだった。

「御方様が何者かにお命を狙われました」






 小督の齎した知らせは3人に大きな衝撃を与えた。あまりのことに声もない。しかし、彰子の身に起こりうる変事となればそれしか考えられなかった。──佐助は彰子が消えた可能性、つまり元の世界に戻った可能性も考えたが、もしそうであるならば政宗たちが巧く説明をしているはずだ。

「月の初めに堺から商人が参り、その商人より衛門が珍しい茶を購いました」

 衛門が毒見をした上で購入した茶だ。そのとき周囲にいた他の女中からも熱心に勧める商人に対して衛門が警戒していたこと、目の前で立てられた茶を衛門自身が毒見した上で漸く購入していたことの証言が得られている。しかし、衛門が供した茶によって彰子は殺されかけた。小督は淡々と事実のみを告げる。

「衛門ちゃんが……ねぇ。あの子が彰子ちゃんを害するなんて有り得ないでしょ。それこそ旦那が大将に弓引くのと同じくらいにね」

 敬愛する姉の毒殺未遂に気色ばむ幸村と景虎を落ち着かせるように、佐助は言葉を発する。佐助ほど衛門のことを知らない二人が、衛門という侍女に疑念を持っても仕方ない。けれど、佐助はそれは有り得ないことだと知っている。幸村やかすがに負けず劣らず主君に命を懸けて忠義を尽くしているのが衛門なのだ。

「御方様は、衛門は利用されただけだとお考えにございます。衛門は御方様の信任厚き者ゆえ、衛門の差し出すものであれば、御方様も我らも警戒致しませぬ」

 まさか衛門がと思えばこそ、初めてやって来た商人から購った品を毒見もせずに供してしまった。自分が衛門を信用していたとはいえ、細作としては甘かったと小督は唇を噛む。

「一度は毒見をした茶に毒を仕込むなんて、敵さんも厄介そうだね」

 小督の己自身を責める表情を見ながら佐助は呟く。小督が用心していれば彰子が命の危険に曝されることもなく、また信頼する同僚に嫌疑がかけられることもなかったのだ。

「それに姉上の信頼厚き衛門とやらを利用するあたり、奥の事情に通じているとも見ゆるな」

 景虎の言葉にハッと小督は顔を上げる。衛門を遠ざける為に利用したのであれば、確かにそういうことになる。とすれば、やはり内部の者の犯行だ。そして態々彰子を守る強固な壁である衛門を遠ざけるとすれば、それは再び彰子が狙われる可能性が高いということだ。初めから彰子はその可能性を示唆していたし、だからこそ萌葱は再び虎へと変じたのではないか。

「して、下手人に目星はついておるのか」

 ずっと無言だった幸村が口を開く。普段の彼からは考えられないほど、抑えた低い声だ。それだけに幸村の怒りのほどが窺える。

「極めて怪しき者が一人。但し、全く証拠もなく、手詰まりとなっております。ゆえに佐助殿のお力をお借りしたく、参ったのです」

 そうして、小督はこれまでの捜査状況、政宗や彰子による推測──犯人や事件の背景など──を全て話した。

「御方様は他国勢力によるものと見ておられます。我ら奥州の者を信じてくださっているのです。ですが、我らは内部の者を疑っております。殿の側室候補の一人を……。この者の存在を御方様はご存じありませぬ。殿もまことに側室と為すお心算もなく、奥女中筆頭の喜多様も見習いのまま実家に帰すご算段と見受けられます」

 側室など決して政宗をはじめ誰も本意ではないのだということを小督は告げる。上田は彰子の実家なのだ。しかも、彰子は政宗の強い希望により奥州へと嫁いでいる──それが方便であったことを今の小督は知っているが。ともかく、政宗に新たな側室が出来ることは姉を溺愛している幸村にとっては面白くないことだろう。佐助とて彰子のことを身内と思い懐に入れているだけに虚心ではいられまい。そう判断して小督は側室候補を奥に入れた事情を話した。

「彰子ちゃんを嫉妬から守る為に入れたはずの側室候補が、とんでもない外れ籤だったってわけかい」

 佐助の声に皮肉が籠るのも無理はない。いくら父親が信頼に足る譜代家臣であるとはいえ、娘本人が如何いった者なのかの調べが足りなかったことは事実だ。

「しかし、そのような考えの足らぬ女子に黒脛巾ですら正体の掴めぬ毒を手配することが出来るとも思えぬな。手がかりを残さぬ商人の手際も良過ぎる」

 側室候補のことで小督を責めても意味がない。景虎はそう判断して言葉を発する。

 周到な準備と計画、単純な動機と愚かな容疑者。そのアンバランスさが小督たちを戸惑わせ、捜査を混乱させている。それが小督の話からよく判った。

「準備をした者と彰子姉上を狙う者は別におると見たほうが良かろう。狙う者はその側室候補とやらであり、狙いは姉上のお命。されど、準備をした者は……姉上の命が狙いとも思えぬ。狙いは奥州を乱すことか」

 景虎は14歳とは思えぬ落ち着きぶりで言葉を継ぐ。

 物心ついたときから養子と人質生活を繰り返してきた彼は、歳相応の子供であることを許されなかった。命を狙われたことも一度や二度ではない。養子・人質としての生活は同盟の要としての生活でもあり、相模と甲斐或いは越後の結びつきを脅威に思う者たちによって、幾度となく景虎は命を狙われたのだ。状況は今の彰子と似ている。

 そんな景虎であるから、如何しても大人にならざるを得なかった。そうしなければ命を守ることが出来なかった。──そんな景虎の寂しさと哀しさを感じ取ったのか、彰子は景虎を『弟』として遇した。まるで自分に対しては子供でいいのだというように。それゆえに景虎は一層彰子を慕うようになったのだといってもいい。

「御方様も然様にお考えにございます。されど、内部にいる我らには見えぬものもございましょう。既に八方塞がり、行き詰っております。何卒お力をお貸しくださいますよう、お願い申し上げまする」

 小督は3人に深々と頭を下げる。敬愛する彰子を守る為ならば、他国の手を借りるのも已む無しと割り切って。

「佐助、そなたは小督殿と共にすぐに奥州へ向かえ。毒については才蔵に知らべさせよ。俺と西堂丸殿も支度が整い次第、奥州へ出立する」

 小督の願いを佐助に命ずることによって幸村は受け入れる。

「はいよー。んじゃ、小督ちゃん、早速行こうか」

 展開の速さに瞠目しながらも小督は頷く。彰子の傍には頼りになる萌葱たちがおり、喜多もいるとはいえ、やはり心配で堪らないのだ。一刻も早く奥州に戻れるに越したことはなかった。

「私と弁丸はそれぞれ主の名代として、同盟国への新年の挨拶に伺う。伊達殿にはそのように伝えよ。彰子姉上の弟二人が揃っていれば、牽制ともなろう」

 景虎の言葉に頷くと、小督は佐助と共に部屋から消えた。

「……久方の姉上との対面がこのような仕儀になろうとはな……」

 細作二人が消えた部屋で、景虎は溜息をついた。

 元々、景虎が上田を訪れていたのは共に奥州へ向かう為だった。理由は小督に告げた通りだ。同盟国越後と甲斐から奥州への新年祝賀の使者として赴く。久しぶりに姉に会えるというので、幸村も景虎も心躍っていたのだ。

「然様にござるな……。姉上をお守りせねば」

 膝の上で固く拳を握り、幸村は応じる。心の中では政宗への怒りが渦巻いていた。

(姉上を必ず幸せにすると仰せではなかったか、政宗殿……!)

 彰子の幸せの為と思えばこそ、自分は寂しさを我慢したのだ。ずっと傍にいてほしいと願った心から慕う姉──いや、女性を手放すことはどれほど寂しいものだったか。

「弁丸。伊達殿が思うように動けぬというのであれば、我らが姉上をお守り参らせよう。弟なのだ。何に憚ることもあるまい」

 景虎は静かにそう告げ、何処か怪しく目を光らせた。