負の連鎖

 側室候補の野菊が奥に入って約半月。誰も気付かぬまま、暗い影は彰子に忍び寄っていた。

 ここ最近は小十郎も綱元も喜多も新年の準備に忙しく、彰子の様子を気にかけながらも、彼女の為に時間を割けずにいる。

 その分、傍近くに仕える衛門と小督は彰子の気晴らしに頭を悩ませた。

「新年のお衣装は調いましたし、何かないものでしょうか」

「こう雪が深くては遠乗りも出来ぬし……」

 二人であれこれと相談しては彰子を気遣う。彰子もそんな二人に感謝して出来るだけ昏い顔を見せないように努めている。それゆえにまた二人は一層忠勤に励むことになる。

 そんなことが続いていたある日、堺から商人がやって来た。堺は南蛮や明とも交易が盛んな港町だ。その商人が珍しい品物を持ってきているとあって、城の一角は賑わっていた。

 衛門はそれを聞きつけると、御方様をお慰めする品があるかもしれぬと足早に商人の許へと向かった。

 流石に態々堺から来ただけあって、商人は様々な品を持ってきていた。──雪深く旅をするには不向きなこの時期に態々堺から奥州まで商人がやって来たことを不審に思う者はいなかった。商人が間者として情報収集に来ることは珍しいことではないから、その点については政宗たち幹部も注意を払っていたが、それだけだった。

 珍しい南蛮の玩具や書物を選んでいた衛門に、商人はあれこれと熱心に勧めてくる。他の女中から衛門が寵妾上田御前付きの侍女と聞き、上客と思ったのだろう。

「上田の御方様は茶の湯にも造詣が深くて有らせられるとか。この茶など如何にございましょう」

 商人はそう言って美しい唐物茶入を取り出した。蓋を取れば茶特有の清々しい香りとともに仄かな甘さが広がる。

「明国より買い求めたものにて、きっと上田の御方様にもお気に召していただけるものと思うております」

 商人は自信満々に言い、衛門は興味を惹かれる。確かに彰子はよく茶を立てるからいいかもしれない。しかし、御方様が口になさるものであれば、安易に購うことも出来ない。この商人は今日初めて城に入ることを許された者だ。そんな商人から食品を買うことに衛門は抵抗を感じる。茶入の蓋には毒の有無を確かめる為の金が貼られており、その金に異常はない。だからといって安心は出来ない。。金が反応しない毒物があるかもしれない。

 そんな衛門の考えを察したのか、商人は湯を別の女中に頼み、その茶を衛門の目の前で立てた。器はこれもまた毒物に触れれば変色する銀器だ。

「侍女殿がお試しになり、ご安心召されればよろしゅうございましょう」

 商人に勧められ、衛門は味見──毒見といったほうがいい──した。金も銀も反応していないのだか大丈夫だろう。それでも用心しつつ衛門は一口含む。異常は何も感じない。抹茶独特の苦みの中に仄かな甘さのある極上の茶だ。これならば問題ない。きっと御方様もお喜びになられるだろう。衛門はそう思い、その茶を買い求めたのだった。

 衛門が茶を喫し目を離したほんの一瞬の隙に、中身に毒が仕込まれたことに気付いたものは誰もいなかった。そして、温和な商人の仮面の下で饗談しのびが巧くいったと北叟笑んだことにも、誰も気付くことはなかったのである。






 翌日、衛門は早速彰子に買い求めた茶を勧めることにした。その他の書物などは昨日のうちに渡している。彰子は書物を特に喜び、久しぶりに明るい表情を見せ、政宗と共にあれこれと話をしていた。

「御方様、是非、わたくしに茶を立てさせてくださいませ。御方様のご指南の成果、見ていただきとうございます」

 これまで時折、衛門と小督は彰子から茶の手解きを受けていた。二人だけではなく希望する者には彰子は気軽に教え、堅苦しくないそれはまさに一種のティータイムで、女ばかりの気楽なお喋りを楽しむ時間でもあった。

「そうね。じゃあ、今日は衛門にお願いするわ」

 彰子が微笑んで応じると、衛門は喜んで準備を整えた。

「堺の商人が明国から買い求めたものだとか。まことに品良く味わいも深いものでございましたゆえ、きっと御方様にもお気に召していただけると存じます」

 茶を立てながら衛門は言う。茶の湯とはいってもまだ『茶道』として確立されているわけでもなく、格式ばった礼法もなければ堅苦しさもない。彰子自身が堅苦しさや仰々しさを嫌う為、彼女が教える茶の湯も自然と気楽に楽しめるスタイルのものになっている。

 それでも衛門の所作は洗練され、流れるように美しかった。これも御方様のご指南の賜物と衛門は言い、自分などまだまだ御方様の足元にも及ばないと更なる精進に励んでいる。衛門の彰子への敬意は最早崇拝といってもよく、政宗などは幸村(対信玄)やかすが(対謙信)に匹敵するのではないかと苦笑するほどだった。

 衛門の立てた茶を受け取り、彰子はそれ一口喫する。苦みの後に仄かな甘さと馥郁とした香りが口内に広がる。

「本当に美味しいわ。衛門の見立ては確かね」

 微笑んでそう言う彰子に衛門は嬉しそう表情を見せる。自分の選んだものが御方様のお慰めになったことが嬉しいのだ。彰子は茶の味が気に入り、そのまま全てを飲み干す。

「もう一服いただこうかしら」

「畏まりました」

 衛門が頷き、茶器を受け取る。

「こんなに美味しいから、政宗さんにもご馳走してあげようかしら。あ、でも明から買い求めたんなら希少品よね、きっと。政宗さんには内緒で皆でこっそり楽しみましょうか」

「それでは殿が拗ねていじけてしまわれませぬか、御方様」

 久しぶりの彰子の明るい声に小督も軽口で応える。

「そうかもしれないわね。殿は子供っぽいところがおありだし」

 クスクスと笑いながら、彰子は新たに供された茶に口をつける。そして、異変が起こった。

 グフっというくぐもった声と共に、彰子は血を吐いた。茶器が転がり落ち、彰子は前のめりに倒れる。

「御方様!?」

 小督が駆け寄り抱き起こす。彰子は苦しげに浅い呼吸を繰り返している。異変と同時に彰子に駆け寄った猫たちは、その体から僅かな毒の臭いを嗅ぎ分ける。人の数百倍の嗅覚を持つ猫だから判ったことだ。

 愛しい主の介抱を小督に任せると、真朱は厳しい表情で萌葱と撫子に指示を飛ばした。

「萌葱、お前は喜多さんに知らせてすぐにお医師を。撫子はなるみと綱元さんに知らせなさい」

 真朱はそう言うと自分は政宗と小十郎に知らせる為に走り出す。

「衛門! お前は動くな!!」

 彰子の傍に近付こうとした衛門を小督が鋭い声で留める。異変の原因は十中八九衛門の立てた茶だ。だとすれば当然ながら衛門を彰子の傍に近寄らせることも、この場から去らせることも出来ない。

 異変を察してやって来た他の黒脛巾が持ってきた水を彰子に飲ませ、体内に取り込んだであろう毒を吐き出させる。そんな彰子の様子を衛門は色を失った蒼白な顔で震えながら見つめている。体はガクガクと震えているが、決して目を逸らさずに。そうすることが自分の義務だというように。

 程なく、政宗と側近、喜多と医師が駆けつけてきた。床を延べ脈を取り、彰子が口にした茶を確かめる。

「この茶に毒が仕込まれていたって考えるのが妥当だろうね」

 眉間に皴を寄せ、成実は呟く。鋭く険しい視線で衛門を見据える。

 成実は彰子付きの侍女を決める際にも立ち会った。喜多の推薦だけではなく己が目で見てこの者ならばと思い、衛門を彰子付きにしたのだ。実際にその後衛門は成実の期待以上の働きをし、今では彰子をはじめ政宗や三傑からも信頼されるようになっている。成実とて衛門を彰子の第一の側近と認識し信頼していた。それを裏切られたように感じてしまう。衛門が彰子に害を為すとは考え難いが、現実にこうなっている。これまで衛門は皆を欺いていたのかと疑念が湧く。

 そんな成実の怒りを間近で感じながら、小督は同僚を見た。衛門がどれほど御方様を敬愛しているのか、一番身近で知っているのは小督だ。衛門が御方様の為に命を差し出すことはあっても、御方様の命を狙うことなど天地が逆様になっても有り得ない。小督はそう確信している。彰子の傍に衛門を近付けさせなかったのは、小督の立場上そうせざるを得なかったからだし、また近付けないことによってこれ以上衛門に疑いがかかるような事態を避ける意味合いもあった。

 政宗は治療を受ける彰子の傍らに寄り添い、何も言わない。けれどその全身からは怒気が立ち上っているようにも見える。

 幸いすぐに小督が吐かせたことによって、程なく彰子の容態も落ち着きを見せた。まだ顔色は悪く、呼吸も苦しげではあったが、危機は脱した。そのことに全員が胸を撫で下ろす。

「衛門、如何いうことか説明してもらうぞ」

 厳しい声音で小十郎が詰め寄る。まさか衛門がという思いはあるが、今判っているのは衛門が立てた茶を飲んで彰子が血を吐いたということ、毒はその茶に盛られていた可能性が高いことだけだ。衛門もそれが判っているから、大人しく罰を受ける心算でいた。

「小十郎さん、待って」

 衛門を詰問しようとした小十郎を止めたのは、苦しげな、か細い彰子の声だった。政宗に支えられ体を起こしている。

「衛門じゃないわ。そんなこと、有り得ない。貴方が政宗さんに害を為すことが有り得ないのと同じくらいに、絶対に、ないわ」

 苦しげな吐息の中、それでも彰子はそうはっきりと断言する。衛門が犯人だったら、彼女が今この場に残っているはずがない。真っ先に自分が疑われる状況で毒を盛るはずがない。何よりも、衛門はそんな人物ではない。

「衛門は、一番、私のことを考えてくれて、大事にしてくれる。だから、衛門はきっと、利用されただけ」

 毒に侵され苦しい中、彰子は何が起こったのかを考えていた。毒を盛られたらしいことは判る。では何故自分に? 理由は判らないが、自分を邪魔に思う者がいるのだ。だから、自分を殺そうとした。その事実に彰子は愕然とした。

 かつての世界から捨てられたことによってネガティブな状態の彰子にとってその事実は重過ぎた。私はここにいてはいけないのだ。彰子がそう思ってしまったのも仕方ないだろう。

 誰が毒を盛ったのか。何の為に盛ったのか。何故自分だったのか。そんなことを考える余裕はなかった。愛した人たちのいる世界から切り捨てられ、今この世界でも不要だと命を狙われた。ならば、このまま死んでしまえばいい……彰子がそう思い、意識を手放しかけたとき、力強い手が彰子を引き戻した。

「彰子」

 うっすらと開いた目に映ったのは、酷く苦しそうな表情をした政宗だった。確りと自分の手を握り、その目は『逝くな』と訴えかけている。それを感じた瞬間、彰子の中にあった『死んでしまえばいい』という気持ちは霧散した。政宗にこんな哀しい目をさせたまま死ぬわけにはいかない。

 そう思った途端、色々なことが彰子の頭の中で巡り始めた。何故自分が今毒殺されようとしたのかは判らない。ただ、自分を邪魔と思う者がいる。そしてその悪意の者は自分を害する手段として衛門を利用した。彰子の信任の厚い侍女である衛門を。

 罪のない衛門を利用する者への怒りと嫌悪感が湧き上がる。と同時にこれで終わりではない、周到な企みも感じ取った。

 衛門は小督と並んで彰子を守る最も厚い壁だ。どんな悪意も彰子に届く前に衛門と小督によって遮られてしまう。ならば、今回の暗殺未遂は今後の布石の意味合いもあったのではないか。彰子の暗殺が失敗したとしてもそれで終わりではない、一度では終わらないということではないか。

「衛門は、罠にかけられたの。衛門がいたら、私に手出しが出来ないから。衛門と小督がいれば、私には手が出せないから。私を害するのと一緒に、衛門を排除しようとしてる。多分、これで終わりじゃない。まだ何か仕掛けてくるはず……」

 苦しい息の中、切れ切れに彰子は言う。衛門を信頼しているのだ。衛門が自分をとても大切にしてくれていることは充分に知っている。そんな衛門が自分を殺そうとするはずなどない。衛門は利用されただけなのだ。

「御方様……」

 こんな状況でも微塵も自分を疑わず、そして庇ってくれる彰子に衛門は涙を零す。

「わたくしが立てた茶に毒が仕込まれていたのは、最早疑う余地もないこと。どのような罰でもお受け致します」

 彰子の信頼があるからこそ、曖昧に終わらせてはいけない。自分が犯した罪に見合った罰を受けなければならない。衛門は顔を上げて、まっすぐに小十郎たちを見つめた。

「お前を罪に問うのは後だ。まずはこの茶を誰から手に入れたのかを聞かせろ」

 それまで彰子を支えるだけで無言だった政宗が口を開く。彰子が毒を盛られたと知ったときは衛門に対する怒りも湧いたが、すぐにそれは消えた。政宗も衛門がどれほど彰子に心酔しているのかを知っている。衛門がそんなことをするはずがない。それに何よりも自分に知らせに来た真朱は『衛門は利用されたんだと思いますわ』と言っていた。真朱は人間ではない分、周囲への遠慮は一切ない。ひたすら彰子だけが大事。仮令どんな相手であれ、彰子に害意を持つ者を擁護したりはしない。その真朱が言うのであれば、やはり衛門は利用されただけだろう。

 そして、政宗は彰子の言葉で更にその確信を深めた。

「堺の商人から茶を買ったんだな? 成実、すぐにそいつを調べろ。まだ奥州にいるのか、この城への出入りは誰の許可なのか」

「御意」

 衛門が利用されたというのならば、真っ先に疑うのはその商人だ。政宗に命じられた成実はすぐに座を立ち上がり、配下を呼ぶと指示を出す。

「お前の処分は追って沙汰する。それまで自室で謹慎してろ。その間に出来るだけ件の商人について思い出せ。どんな些細なことでもいい。思い出したことはすぐに成実に伝えろ。黒脛巾を一人つけておく」

 政宗は衛門にそう告げる。政宗も衛門を咎める心算はない。しかし、現に衛門の立てた茶に毒が仕込まれていた可能性が最も高い以上、全くのお咎めなしというわけにもいかない。よって一時的に謹慎という建前で衛門には考える──状況を思い出し分析させる為の時間を与えたのだ。

「喜多は彰子に付いていてくれ。小督は自分の裁量で動け。徹底的に調べろ。どんな手を使っても構わねぇ」

 衛門と並んで御方様大事の小督だ。更に信頼する同僚に嫌疑がかかっている。じっとしていることなど出来ないだろうと判断し、政宗は小督には自分の考えで動けるように指示を与えた。

「小督ねーちゃん、かーちゃんは俺らが守るから安心してろ。二度とこんなことさせねーから」

 調べる為に動きたいが、彰子の傍を離れることにも抵抗がある小督に対して、護衛仲間として認識されている萌葱が力強く請け負う。と同時に、萌葱の体が淡い光を発し、その姿が歪んだ。一瞬ののち、そこには小督にとっては見慣れた白虎の姿があった。

「萌葱……また、虎になってる」

 呆然と呟いた彰子に萌葱は自慢げに笑う。

「かーちゃん守るには、この姿のほうがいいだろ。猫よか、こっちのほうがいろいろ敏感に感じ取れるしな」

「だねー。んじゃ、私も~」

 呆然としている人間たちを尻目に明るい声で同意した撫子までもが、その姿を変化させる。いつものように綱元の頭の上に乗っていた撫子は猫から鷹へと姿を変えていた。

「鳥なら猫じゃ行けないところにも行けるし~」

「……撫子、爪が痛いのだが」

「つなもっち冷静だね。さっすがー」

 猫の比ではない鋭い爪を持つ鷹になった撫子は羽ばたくと、何処に移動するか一瞬迷って衣桁を当面の止まり木と定めた。

「……えっと……?」

 突然変身した2匹の愛猫に彰子は自分が毒殺されかけたことも忘れて呆然とした。

「ママ、草紙神の置き土産ですわ。ママを守る為の力をわたくしたちにくれましたのよ。萌葱は虎に、撫子は鷹に、自分の意思で変身出来るようになりましたの。わたくしも変化へんげ出来ますけれど、今はまだしないでおきますわね」

 相変わらずの猫姿のまま、真朱は彰子を見上げ説明をする。ここで真朱まで変身して見せたら、ただでさえ一杯一杯になっている彰子は許容量オーバーで気絶してしまうかもしれない。ついでに猫たちは自分たちの間でならばテレパシーまで使えるようになっているのだが、それも同様の理由で今は伏せておく。

「……crazy……」

 流石の政宗も三傑も喜多も衛門も小督も呆然としてしまう。

「やっぱ……化け猫……」

「お黙りなさい、なるみ。神様から力を与えられたのです。ママは神様に守られているのですから、何も心配は要らないということですよ」

 呆然としたままの成実の失言に、真朱は憤慨したと見せてさりげない安心を与える。

「あぁ、そういうことー。ってことで、小督ねーちゃん、安心して動いてくれ。撫子連れて行けばすぐに俺らにも連絡つくし、俺らが政宗やなるみに伝えるから仕事も楽になるよ」

 彰子を守るように体を摺り寄せながら萌葱が言うと、名指しで言われた小督は半分呆然としたまま頷いた。

「されば、御方様の護衛は頼もしき白虎たちに任せ、人は己が務めを果たすことと致しましょう。いつまでもこうしていては何も始まりませぬぞ。それに御方様にはお体をお休めいただかねばなりませぬ」

 やはりというか流石というか、真っ先に立ち直ったのは亀の甲より年の功の喜多だった。

「それもそうだな……。彰子、ゆっくり休め」

「然様でございまするな」

 喜多に促され、政宗たちは腰を上げる。彰子は命を狙われたのだ。猫たちのある意味ショック療法で毒殺未遂の衝撃は薄れているが、本人のいるところでの血腥い話は避けるべきだろう。

 政宗と三傑、小督、衛門、そして撫子が部屋を出ていくと、彰子は喜多に促されて体を横たえる。

 考えなければならないことがあるはずなのに、疲れ切っている。命を狙われたこと、猫たちが再度変身をしてしまったこと。彰子は喜多の勧めるままに体と頭を休めることにしたのだった。






 喜多に勧められるまま彰子は横になったが、容易には眠れなかった。体は疲れているはずなのに、脳が眠ることを拒否している。そんな感じだった。

 幸い含んだ毒がごく少量だったこと、すぐに黒脛巾頭領が解毒薬を処方してくれたことによって、体は回復の兆しを見せている。血を吐くなど初めての経験だったが、如何やらそれも深刻なダメージにはならずに済んだようだ。医師からは念の為に数日は大人しくしておくようにとは言われたが。

 如何しても自分に起こった出来事について考えてしまう。何故自分は命を狙われたのか。誰が狙ったのか。いや、そもそも本当に自分が狙われたのだろうか。

 それらの疑問が渦巻き、目が冴える。これまで休んでいた脳細胞が活性化したかのように働き始め、色々な状況や可能性を考えてしまう。

 彰子は眠ることを諦めて起き上がる。小督も喜多も傍を離れているから咎める者はいない。真朱と萌葱は一瞬眉を寄せたが、自分たちの主は言っても聞かないことを知っているからか何も言わなかった。こっそり溜息はついたけれど。

 床から出た彰子は文机に向かうと、モヤモヤと自分の中に渦巻いていた可能性を羅列した。

(まずは私自身が狙われた可能性ね……)

 紙に書き出しながら思考を整理する。冷静に自分と状況を客観視しながら文字を連ねていく。

 自分が狙われたとして、その理由が判らない。この青葉城の人々は皆親切で自分を大切に扱ってくれる。勿体ないと思うほどに。そんな彼らから殺意を抱かれるような失態を自分が犯したとは考えにくい。些細なことでキレてしまい思いもよらない犯罪を起こしてしまう現代人とは、根本的にこの世界の人間は違っているのだ。戦国乱世ゆえに人の命の尊さと果敢無さを知っている。城内の人々は武家であるだけに尚のこと。

 確かに一部の女中からは嫌われてはいるが、それが殺意に結びつくとも思えない。仮にも彰子は城主の側室だ。主君の所有物を害しようとまでは流石に女中衆も思わないだろう。

 個人的な要因でないとすれば、自分はその立場ゆえに命を狙われたと考えるのが妥当だろう。彰子の立場は『奥州筆頭の側室』であり『武田家重臣真田幸村の姉』だ。それゆえに一部では『上田御前』は甲奥同盟の証ともいわれている。

 もしかしたら、それが自分が狙われた理由かもしれない。まさか自分一人を殺すことで同盟が如何なるというわけでもないだろうが、真田幸村が溺愛している姉が青葉城内で暗殺されたとすれば、甲斐側は少なくとも奥州に対しての不安を抱くのではないだろうか。城の奥深くに住まう側室が暗殺され、そんな状況を手を拱いて招いてしまった政宗や伊達側に対して不安と不信を抱く可能性がないとはいえない。それは直接の原因とはならずとも、互いの信頼に僅かでも罅を入れることになるかもしれない。

 では何者が自分を暗殺しようとしたのか。当然天下を争う『敵』の何処かだろう。同盟国である甲斐・越後、天下統一への野心はない毛利・長曾我部以外の何処かということになる。となれば一番怪しいのはやはり豊臣ということになるのではないか。織田は……信長は流血を好む傾向にあるから、暗殺──しかも毒殺──などといった手段は取らないだろう。だが、豊臣は手段を選ばない。いや、流血が少なくて済むなら暗殺といった手段も辞さない。内乱や下剋上・反逆を唆したり、あらゆる手を使う。それが豊臣だ。ゲームや各種メディアミックス作品からの印象であり、また小十郎の講義から得た認識である。

「あのお茶持ってきたのも堺の商人だし……符合するかな」

 紙に『豊臣? 竹中の策?』と書く。他の勢力──今川・北条・徳川・本願寺・浅井・島津・ザビー教が『奥州筆頭の側室の暗殺』を謀るとは考えにくい。当主の性格的なもの或いは能力的に。

 考えを書き散らした紙を見ながら彰子は溜息をつく。そして、別の可能性について考えを進めた。今度は自分が狙われた可能性ではなく、自分は巻き添えを食っただけの可能性──つまり、狙われたのが政宗である可能性だ。こちらのほうがよほど現実味がある。

 彰子は表向き政宗の寵妾だ。表向きの事情だけではなく、政宗は彰子を気遣い、また平成人である自分の許にいると気楽なのか、休息の際には自分の許へやって来る。そこで自分はよく茶を立て、政宗に振舞う。そして、彰子が出したものならば政宗は疑いもせずに口にする。

 それを知る者であれば、政宗の暗殺に自分を利用するのではないだろうか。

「良かった……飲んだのが私で……」

 その可能性に気付いた彰子は体が震える。自分が殺されそうになったことよりもずっと怖いことだった。自分が政宗の命を奪うことになったかもしれないのだ。誰よりも自分を庇護し大切にしてくれた政宗の命を……。

「怖がってちゃダメ。ちゃんと考えなきゃ」

 政宗を失っていたかもしれない可能性に震える己を叱咤する。そうならない為にも確りと考えて、可能性を考えて、対策を練っておかなければ。杞憂で済めばそれでいい。転ばぬ先の杖。あらゆる可能性を考えておいて無駄ということはないはずだ。

 政宗が命を狙われたのだとしたら、その黒幕は国内の者ということも有り得る。政宗の統治を快く思っていない勢力も奥州にはいるのだ。しかし、まさか弑逆を為すだけの度胸と能力があるとは思い難い。一番国内の勢力で怪しいのは最上だろうが、彼らは力づくではなく、どちらかといえば穏便に政宗から小次郎への権力移行を望んでいるように見える。だとすれば自分──障害となる跡取りを産む可能性のある側室を狙うことはあっても、政宗本人を狙うことはないだろう。政宗を害することは奥州の混乱を招き、弱体化を意味する。小次郎による伊達家統治とその先の天下への野望があるならば、それは避けるだろう。ならば、国内の反政宗勢力による暗殺の可能性はかなり低いと思われる。完全に消してしまうことは出来ないが。

 因みに、彰子がいた世界の政宗毒殺未遂となれば真っ先に思い浮かぶのは母・義姫だが、この世界でそれは有り得ないと彰子は確信している。義姫は表にこそ出さないが、政宗を子として慈しんでいる。ただあまりに似たもの親子で互いに素直になれないだけなのだ。その証拠に、重陽の贈り物以来時折遣り取りする文には、義姫から政宗への暖かな母親の愛情が感じられる。

 国内の勢力でないとすれば、やはり怪しいのは豊臣。自分を狙った場合と同じ理由で、他の勢力の可能性は低いと思える。それに、もし狙われたのが政宗で、自分の立てた茶で政宗が死んでしまったとしたら……豊臣にとっては一石二鳥だ。甲斐から来た側室が政宗を毒殺したとしたら、奥州と甲斐との同盟は崩壊するのだから。

 そこまで考えて彰子は知らず、自分の体を抱きしめるように腕を回していた。体が小刻みに震える。

「真朱……政宗さんと小十郎さんに知らせて。念の為に用心してって……」

 震える声で真朱に告げる。自分が考えた『上田御前毒殺未遂』の背景と犯人について。

「……判りましたわ、ママ」

 真朱は頷くと踵を返し部屋を出て行く。

 だが、真朱たち愛猫は彰子の知らないことを知っていた。この城に政宗の側室候補が入城していること。その少女が考えなしの自己中心的な女であること。彰子の知らない存在を知っている猫たちは、彰子自身が狙われた可能性のほうが高いと確信している。

 けれど、今それを彰子に告げることはしなかった。彰子が狙われていることよりも、政宗が狙われている可能性があることのほうが、彰子にとっては重要なのだ。本人は気付いていないかもしれないが、政宗が狙われた可能性に思い至った彰子は、その瞬間から瞳に力を取り戻していた。

 彰子が政宗を守ろうとするならば、彰子を守るのは自分たちだ。そして、政宗だ。

 だからこそ、真朱は素直に彰子の要請に従って政宗の許へと向かったのだった。