蠢く悪意

 その日は心配した政宗や衛門たちが彰子を布団から出さず、気力を失っていた彰子も大人しく横になって過ごした。

 目が覚めた後は政宗がずっと傍にいてくれた。何を話すわけでもなく、書類を彰子の部屋へと運ばせて、そこで政務を執った。彰子が心配で片時も傍を離れたくない……政宗はそう思ったのだ。

 彰子は政宗をぼんやりと眺めているうちにうつらうつらと眠りに落ち、時折浅い眠りから目を覚ましては、変わらず傍にいてくれる政宗にホッとし、再び眠りに引き込まれるということを繰り返した。

 そんな彰子の様子に真朱たちも漸く安堵し、やはり彰子の復調の鍵は政宗にあるのだと確信していた。

 夕餉は政宗が特に指示して、食べやすく少量でも栄養価の高いものと、彰子の好む食材で作らせた。二人分の膳を運ばせ、少しでも彰子の食が進むようにと話題を選びながら、10日ぶりに二人での食事を摂った。

 夜は流石に政宗もこの状態の彰子を自分の寝所へと運ぶことも出来ず、また彰子が自分を気遣ってゆっくり休むよう勧めたこともあって、己の寝所へと戻った。彰子を一人にすることへの不安はあったが、ずっと自分が傍にいたからこそ逆に一人になる時間も必要ではないかと考えたのだ。

 そんな日が3日ほど続き、4日目には漸く彰子が床払いした。

「病気じゃないし……。ずっと寝ていたらこのまま起き上がれなくなりそうだから」

 体調が悪いわけではなく、心が沈んでいるだけ。心の問題だから、自分で起き上がろうと決めなければ、いつまでも病床にあるままになってしまう。

 彰子はそう言って微笑んだが、その笑みは何処か哀しく寂しげなものだった。

 その日から彰子は以前と変わらぬ生活を始めた。

 小十郎や綱元の進講を受け、喜多から薙刀の指導を受け、時折成実から小太刀の指導を受ける。政や武芸の指南は今の彰子にとって都合が良かった。まるで現実から目を背けるかのように、彰子は指南役の都合さえつけば薙刀や小太刀を振るい、小十郎や綱元と討論した。その間だけは『二度と戻れない』という辛い事実を忘れることが出来た。集中することによってそれを忘れることが出来たのだ。

 だから、ふと空白の時間が出来てしまうと、忘れようとしていた哀しみが一気に噴出する。虚ろな目で庭を眺め、意識せぬまま涙を零す。

 そうなると、衛門や小督はすぐさま何か彰子の気晴らしにと、貝合わせや双六、様々な絵巻物などを運ばせる。時には手習いや裁縫も勧めた。

 彰子が倒れた翌日、喜多は政宗に相談して衛門と小督にも彰子の本当の境遇を話した。彰子が本当は真田の姫ではないこと、平成と呼ばれる425年の先の世、しかもこの世界の先の世ではなく異世界の先の世から来たこと、そして、その世界は政宗も一度訪れたことがあり、二人はそこで出逢っていたこと。それらのことを喜多は彰子の側近である二人に話したのだ。彰子の最も傍近くに仕えるのはこの二人だ。だから、彼女たちが知らないでは適切なフォローは出来ないと喜多は考え、政宗に許可を得て全てを話したのである。

 衛門たちはあまりの突拍子もない話に驚いたし、正確にそれを理解出来たわけではなかった。しかし、彰子が遠い故郷から理不尽に切り捨てられたこと、二度とその故郷に戻ることが許されないこと、家族や親しい人々に永劫に会えないこと、その為に深い哀しみの中にいることは判った。彼女たちにはそれだけで充分だった。ゆえに少しでも彰子が心穏やかに過ごせるようにと、これまで以上に心を砕き、心を込めて彰子に仕えるのだった。

 そして夜になれば以前と同じように彰子は政宗の寝所に呼ばれる。政宗はただ優しく彰子を抱き寄せ、彼女が眠りに落ちたのを確かめてから、漸く自分も目を閉じる。1日でも早く彰子がかつての笑顔を取り戻してくれることを願いながら。






 彰子の様子を不安な思いで見守っていた政宗に綱元が進言したのは、あの日から10日ほどが過ぎた頃だった。

「What? 今なんと言った、綱元」

 人払いされた執務室で、政宗は綱元を見返した。

「1日も早く御方様と契られませ。そう申し上げました」

 政宗の鋭い眼光に全く臆することなく、綱元は正面から政宗を見つめ、同じ言葉を繰り返す。

 何れいなくなると思っていたからこそ、政宗は彰子を仮の側室のままに留めていた。綱元がどれだけ勧めようとも政宗は頑として拒否していた。本心では政宗がそれを望んでいたことも側近たちは皆知っている。自分の望みと彰子の願いの間で政宗が葛藤していたことも。小十郎と成実は政宗との心理的な近さからそれを勧めることはなかったが、綱元は敢えて『御方様を本当の側室となさいませ』と幾度も進言していた。政宗と彰子の感情ではなく、奥州筆頭とその妻としての位置づけで勧めていたのだ。それには彰子の残留が確定したときに政宗が一歩を踏み出しやすいようにという思惑もあった。

 ともかく、彰子がこの世界に留まることになったのだから、政宗が拒否していた理由はなくなったのだ。

「このまま仮の側室などという曖昧なお立場では、御方様の居場所がなくなりましょう」

 彰子は一時的な居場所だからと政宗たちの厚意に甘え城に滞在していた。城に滞在する理由付けとして側室となった。飽くまでも期限付きの短期間の滞在だから、その理由を受け容れていたのだ。もしこれが数年に亘る長期滞在であったり、この世界に永住することが判っていれば、彰子はそれを受け容れず侍女として仕えることを選んだだろう。もしくは初めから城に入ることを拒否したに違いない。飽くまでも短期間だからこそ『側室』という立場を受け容れたのだ。

 既に『側室』という立場を与えられている彰子が今更侍女になることは難しい。真田幸村の姉という身元は側室となる為に捏造されたものだから、侍女となるには重すぎる。そうなれば、彰子はこのまま政宗たちに甘えて城に滞在することを是とはしないだろう。何れは城を出ると言い出しかねない。

 そう綱元に説明され、政宗は考え込む。確かに彼女の性格ならばそう言い出すことは充分以上に予測出来る。

 だが、それと綱元の言を受け容れるのは別問題だ。彰子は今哀しみの中にいる。夢の中でさえ哀しみから逃れることは出来ず、眠りながら涙を零している。切なげに恋人の名を呼びながら。彰子の心は未だ政宗の許にはないのだ。

「この際、殿の恋情も御方様のお哀しみも関係はございません。伊達家の為、奥州の為、彰子様をまことの妻となさいませ」

 政宗が彰子と結ばれれば、それによって彰子に確かな居場所を与えることが出来る。彰子に『ここにいていい』というはっきりとした理由を与えることは恐らく彼女の精神を安定させる働きもあるに違いない、綱元はそう言った。

 今の世、恋愛によって婚姻関係を結ぶ者は少ない。身分が高くなればそれはより顕著になる。互いの顔も知らぬまま結婚することも武家──しかも棟梁ともなれば当然のこと。大概の夫婦はそれで巧くやっていくのだ。少なくとも政宗と彰子の間には友誼と信頼はあるのだから、問題はないだろう。

 それに、彰子ほどの見識を持った女性は然程多くはなく、中々に得難い存在だ。奥州筆頭の妻としてこれ以上相応しい女性はいないと綱元は考えている。政宗が天下を目指すのならば、その妻たる女性も相応の政治力を要する。彰子にはそれがあるのだから、彰子をこそ正室にすべきだと綱元は説いた。

「お前の言うことは正論だな。確かに彰子ほど相応しい女はいねぇ」

 綱元の言葉は一理あるのだ。かつて平成の世にいた頃、彰子をこの世界に連れ帰りたいと思った。それは恋情のみが理由ではなかった。彰子の知識と見識、それは自分が奥州筆頭のパートナーとなるべき女性に最も求めていたものだった。彰子がいれば私人としての政宗も、公人としての政宗もより高みを目指せると思ったのだ。

 しかし、理性では綱元の言に納得しても、感情は納得出来ない。彰子が求めているのは忍足なのだ。自分は男として愛されているわけではない。想う女に想い返され、その上で結ばれたいと願うのは心情として当然のことだった。体が結ばれれば心も結ばれることを望んでしまうだろう。自分と同等かそれ以上の想いを返してほしいと願ってしまうだろう。

 自分でもそれが判るだけに、政宗は綱元の進言をまだ受け容れるわけいにはいかなかった。






 城に入って10余日の日々を少女は苛々と過ごしていた。牧野朝信の娘野菊、政宗の側室候補として城に上がった娘だ。

 殿の側近から態々要請があり、奥女中として城に上がることになった。寝耳に水の急な決定だった。きっとそれには裏面の事情があるに違いないというのに、未だに殿へのお目通りすら叶わない。そのことに野菊は苛立ちを思えていた。

 自分はただの行儀見習いの女中ではない。側室となる為に望まれて城に上がったのだ。野菊はそう確信している。父からはただ行儀見習いとして城に女中方向へ行くようにと言われただけだったが、自分のように若くて可憐な娘が単に女中であるはずがない。

 父の牧野朝信は娘が非常に残念な頭の持ち主であることを知っていた。だから、そんな我が娘に主のお手が付くはずはないと確信もしていた。厳しい殿の乳母殿の眼鏡に適うとも思っていなかった。何しろ主君も喜多殿もあの上田御前を間近で見知っているのだから、己が娘など意にも留められまいとい思っていたのだ。勿論、自分の娘が不出来なことはちゃんと打診してきた綱元にも喜多にも伝え、一度は断ったのだ。しかし、普段の自分の遠慮深さが災いして、謙遜しているものと思われたらしい。喜多には『こちらで行儀見習いとしてまずは様子を見ますゆえ、ご心配召されますな。仮令牧野殿の娘御とはいえ、必要とあらば厳しく躾けまする』と言われた。それで牧野は安心した。綱元や喜多がそこまで言うのならば、自分の娘が本当の側室になれるわけがないと。途中で家に帰されるのは目に見えていると。そして、万一にも娘が側室になれるとしたら、それは今の娘ではなく、喜多の厳しい教育によって矯正され生まれ変わることの出来た娘だ。牧野はそう思い、娘を行儀見習いとして城に上げることにしたのである。彼自身、娘が側室候補だということは忘れることにした。

 だから、当然ながら牧野は娘に『側室候補』であることは伝えなかった。しかし、こういうとき女は妙な勘の鋭さを発揮するのだ。あまりにも急に決まったこと、女中として奉公に上がるにしては支度が立派なこと、それらから野菊もその母も乳母も、野菊が側室に選ばれたのだと思った。

 譜代の家臣とはいえ、牧野家の家格は然程高くはない。だから、行儀見習いとして女中奉公に行くのなら、身の回りの品を持ち一人で城に上がり、大部屋に入るのが普通だった。けれど一人とはいえ侍女の同行が許されているし、部屋も小さいながら個室が与えられるという。明らかに特別待遇だと思えた。

「お嬢様がご側室とは、まことに目出度いことにございます」

 この話を知ったとき、乳母はそう喜んだ。若く見目麗しい奥州筆頭の側室になれるなど、この上もなく喜ばしいことだと乳母は言った。野菊も出陣する政宗の姿を見たことがあり、その凛々しい若武者ぶりに乙女らしく胸をときめかせたものだ。このような美しい殿方の妻となれたらどんなに素晴らしいだろうと。

「これほど急なお召しなのです。きっと殿様ご自身の思し召しに違いございませんわ。何処かでお嬢様を見初められて望まれたのでしょう。お嬢様はとてもお美しくお可愛らしゅうございますもの」

 夢見るような乳母の言葉を野菊は真実と思い込んだ。自分の容姿には自信がある。自分ほど美しくて可憐な娘はいない。だから殿に見初められるのは当たり前のことなのだ。何の根拠もなく肥大した自尊心が野菊に過剰な自信を与えていた。確かに野菊の顔立ちは美しいが、中身の伴わないそれは何処か歪んでいることに野菊は気付いていない。

 私は殿の寵愛を一身に受けて当然なのだ。

 狭い屋敷の中しか知らない世間知らずの野菊は、そんなことを思い城に上がった。

 ところが実際に城に上がってみれば、野菊の予想とは全く違っていた。

 既に10日が過ぎているのに、未だに政宗にお目通りどころか姿を垣間見ることすら出来ない。城に上がればすぐにでも殿にお目通り叶い、毎夜寝所に召されるはずではなかったのか。母も乳母もそう言っていたではないか。

 しかも如何やら野菊が側室候補であることは一部の中臈女中しか知らないことらしく、朋輩となった女中たちからは新入りとして軽んじられ、様々な雑用を命じられる。それも野菊の誇りを傷つけた。側室なのだから、きれいに着飾り殿のお召しを待てばいいだけのはずなのに、何故粗末な小袖姿で働かされねばならないのか。

 また、行儀見習いの奥女中である建前上、仕事の他に様々な稽古事をやらされた。連日古参の中臈女中から、茶の湯、生け花、手習いに裁縫など、厳しく躾けられることになった。元々実家では母と乳母に甘やかされて育った野菊はそれらが得意ではなかった。一通り身に付けてはいるものの、『出来ぬわけではない』といった程度でしかなく、かなりの苦労を強いられている。

 その上、指南役の中臈たちはそんな野菊を見ては呆れたように溜息をつくのだ。

 無礼な、私が殿の側室となり寵を得たら、お前たちなど殿にお願いして罰してやる──そんなことを野菊は考えていた。

 だが、苦労を強いられているのは野菊ばかりではない。寧ろ指南役となている古参の中臈女中たちのほうが苦労は大きかった。自尊心ばかり高く何も出来いない上に、不平不満ばかり喚き散らす野菊にはほとほと手を焼いているのだ。技能的に何も出来ないばかりではなく、人に対しての心配りも何もない。ついついもう一人の側室と比べてしまうのは仕方のないことだった。

 この教育係の女中たちは野菊が側室候補と知らされているわけではない。しかし、喜多から命じられた内容からそうであることに気付いている。大切なお役目と判ってはいるが、あまりに不出来な弟子に不満が溜まっていく。

 元々この中臈たちは喜多の信頼が厚いこともあり、彰子と接する機会も多かった。彰子は城の人々の厚意によって暮せていることを感謝している。だから、自ずとその感謝の気持ちが態度に表れる。更に身分に対して特に自分が上位者であるという意識もない。それゆえに何も知らない者にとっては『上田の御方様はお心配りの利いたお優しいお方』となるのだ。

 そんなある意味理想的な側室が先にいるだけに、中臈たちはついつい彰子と野菊を比べ、溜息が出てしまう。

「野菊殿は牧野殿の娘御にしては不出来なようじゃのう」

 一人がそう溜息をつけば、他の者たちも頷く。父の牧野朝信は目立つ働きこそないものの、誠実な人柄で表の武将たちと接する女中たちからの評判は悪くない。

 指南役たちはそれぞれ喜多が選んだ者たちで己の役目を弁えているが、如何しても不出来な教え子に対しての愚痴が出てくる。元々この集まりは野菊の稽古の進捗状況を報告し合い、翌日の予定を決める為のものだったのだが、いつの間にやら愚痴ばかりになってしまう。

 女3人よれば姦しいともいうが、共通の愚痴のある指南役が集まれば、ついつい話題はそればかりになり熱中してしまう。だから、いつの間にか部屋の外に話題の主がいることには気付きもしなかった。

 野菊は偶々そこを通りかかっただけだった。一通りのお稽古事も終わり、奥を当てもなくうろついていたのだ。運良く殿とばったり出くわさないかと期待して。そして、この部屋から自分の名前が聞こえたから立ち止まった。それが指南役の中臈の声だと気付き、何を話しているのか聞き耳を立てていたというわけである。

「私どもの目が厳しすぎるのかもしれませんぞ」

 散々愚痴を言い合っていた中臈の一人が、ふと気付いたように言葉を発した。

「確かにそうやもしれませぬなぁ」

 別の中臈が同意する。そしてその中臈は更に言葉を継いだ。

「されど、仕方ありません。ついつい御方様と比べてしまいますもの」

「然様でございますねぇ。まことに上田の御方様は何事につけても不足のないお方であられますゆえな」

「あれほどお美しくお優しい方はいらっしゃいませんわ。側仕えの衛門や小督が羨ましいこと」

 中臈たちは今まで話題にしていた野菊のことなど忘れたかのように『上田の御方様』の話に夢中になる。自分に対しては小馬鹿にしたような態度を見せる中臈たちが口を揃えて褒めそやす『上田の御方』とは一体何者なのかと野菊は不審に思った。

 相変わらず中臈たちは野菊が立ち聞きしていることに気付かず、上田御前の話をしている。

「御方様はお姿ばかりでなく、立ち居振る舞いもお美しくて。まるで楽の音は聞こえてくるようにございましょう」

「公家の姫といっても通りましょうね。学問にも造詣が深くていらっしゃいますし」

「乗馬も巧みであられますわ。流石は真田の姫」

「なのに少しも権高いところがおありになりませぬ。野菊殿にも見習わせたいものですわ」

 クスクスと笑い合う女たちに、野菊は怒りで目の前が真っ赤に染まるのを感じた。自分が侮られるのは全てその上田御前の所為だったのだ。自分の不出来さを棚に上げて、野菊は彰子への理不尽な怒りを募らせる。

 踵を返し自室に戻った野菊は苛々と爪を噛む。このままにはしておけない。こんなに馬鹿にされて黙ってなどいられない。仕返しをしてやる。全ての元凶である上田御前をこのままにしておいてなるものか。

 野菊は上田御前について調べるように乳母に命じた。相手を何も知らぬでは手の打ちようもないことくらいは野菊にも判っている。

 もう一人側室がいるということは知っていた。殿が側室を迎えたことは領内の話題になっていたし、城に上がったその日に喜多からも聞かされている。甲斐の武田信玄の重臣・真田幸村の姉が側室となっており、現在正室不在である為、その側室が実質上この奥の主であると。

 しかし、そのときは全く気にしていなかった。己に自信のある野菊は自分が殿の寵愛を受けると何の根拠もなく信じ切っていたし、そうなれば自分がこの奥の主になるのだと思っていたからだ。

 やがて戻ってきた乳母の報告によって、野菊は彰子への怒りを倍加させた。

「今までお嬢様が殿に召されなかったのは、全て上田御前の策謀にございます。あの女狐が邪魔をしていたのです」

 お可哀そうなお嬢様、と乳母は涙ながらに語る。聞き集めた情報を偏見と野菊への盲愛によって歪めて。

 野菊が城に上がったことを知った上田御前は詐病を用いて政宗を自らの許に留めている。相手が同盟国の重臣の姉であることもあって無碍には出来ず、仕方なく殿は上田御前の許へ留まっている。それゆえ殿は野菊を召したくとも出来ず、上田御前の手練手管に絡め捕られ、毎夜心ならずも彼女を召しているのだと。

 悪意に満ちた報告だった。しかし、これは乳母ばかりの咎ではない。乳母に情報を与えたのは、政宗付きの元々彰子に悪感情を抱いている侍女たちばかりだったのだから仕方ない。彰子に好意的なことを言った女中たちの話は頭から排除し、悪意に満ちた一方的な情報を更に『お嬢様第一』の乳母が思い込みによって解釈したのだから、そうなるのも当然だった。

 実際には、彰子は野菊の存在も側室候補が城に上がっていることも知らない。彰子にそれを知らせる者もいない。今の彰子は彼女自身のことで精一杯だし、周囲とて彰子に意識のほぼ全てを向けている。

 政宗も牧野の娘が城に入った報告は受けているが、全く気に留めてはいない。聞いた次の瞬間には必要のない情報として忘れてしまったくらいである。彰子を如何したらよいのかを考えていて、それどころではない。

 それは側近たちも同じだった。奥を束ねる喜多ですら、野菊のことは信頼の置ける配下に任せきりで、自身は彰子の傍に付いている。

 候補のまま実家に帰す予定の野菊のことなど、上層部は誰も意識していないのだ。とはいえ、自分たちの都合によって振り回している自覚はある為、何処に出しても恥ずかしくない教育を与えた上で家格に見合った良い嫁ぎ先を見つけてやろうとはしているのだが。

 しかし、世界の中心にいるのは自分だと信じて疑わぬ野菊は、全て裏で上田御前が糸を引き、自分と殿を引き裂こうとしているのだと思い込んだ。

「殿を私の手に取り戻すには如何したらいいのかしらね、乳母」

 野菊に問われ、乳母は頭を悩ませる。

 上田御前さえいなければ、殿は私の許にお戻りくださり、ご寵愛いただけるのに。

 取り戻すも何も、政宗は野菊と対面すらしたことがないのだが、野菊は彰子に対して身勝手で独り善がりな怒りを募らせる。

 そして、それはやがて危険極まりない結論へと辿り着く。

 ──私の邪魔をする者は消してしまえばいいんだわ。






「お嬢様、私の親類に都合のいい者がおりました」

 数日後、乳母が野菊にそう告げた。そして乳母の話を聞いた野菊は嬉しそうに嗤う。

「それはいいわね。早速やってちょうだい」