戸惑い乱れる想い

 政宗が彰子の部屋へ駆けつけると、部屋の外に控えていた衛門と小督は何も言わずに襖を開く。自分を見る二人の目が物言いたげな、何処か非難めいたものであることには気付いたが、今はそれどころではなかった。それに彰子に心酔する二人にしてみれば、この数日の自分の行動は腹立たしいものだったことは容易に想像もつき、二人の視線を不快に感じることはなかった。

「呼ぶまで下がってろ」

 猫たちに事情を聴けと成実は言った。だとすれば二人には聞かせられない話になる。そう思い、政宗は命じた。二人は何も言わず一礼すると音もなく立ち上がり、その場から去って行った。

 政宗が室内に入ると、奥に延べられた夜具の上に彰子が横たわっていた。その枕頭には心配そうな表情の猫たちが座っている。政宗が入ってきたことには気付いているのだろうが、振り返りもせず何も言わない。彰子が心配で政宗のことなど如何でも良いのだろう。

 政宗も何も言わず彰子の枕元、真朱の隣にそっと腰を下ろした。

 約10日ぶりに見る彰子だった。その寝顔は何処か苦しげで面窶れしているように見えた。

「お前が廓通いをしてママを放っておいたことはこの際不問に付します。ママはとても寂しがっておいででしたし、ショックを受けてもおられましたけれど。お前の葛藤や懊悩も判らぬではありませんしね」

 彰子を見つめたまま真朱が口を開く。真朱の言葉から彰子が自分の廓遊びを知ってしまっていたことに、政宗はバツの悪い思いをする。と同時に彰子がショックを受けていたということに、そんな場合でもないのにと思いつつも少しばかりの喜びも感じてしまう。もしかしたら、少しは自分にも脈があるのではないかと。

 真朱たちは自分の彰子への想いを知っている。だからこそ、そんなことを言ったのかもしれない。この世界に留まらねばならなくなった彰子を、恋人の許へ戻れなくなった彰子を支えさせる為、政宗に期待を持たせようとしているのかもしれない。そんな穿ったことを考えてしまう。

 だが、それでもいいと政宗は思う。猫たちにどんな思惑があれ、彰子の心が如何であれ、政宗は己の素直な気持ちで彰子を支えたいのだから。確かにそれによって彰子が自分に気持ちを向けてくれたら嬉しいけれど、それを期待して見返りを求めて彰子の傍にいるわけではない。ただそうしたいからするだけだ。

「多くは申しません。ただ、政宗。ママはご自分とわたくしたち以外の全てを喪ってしまわれたのです。肉親も友人も仲間も、そして一生を共にしたいと願った恋人も。ママが自分よりも大切に思っていた全てを、ママは永劫に喪ってしまわれたのです。ご自分の意思によらず、逆らうことの出来ない如何しようもない力によって」

 その言葉の重さに、政宗はハッとして真朱を見る。真朱は真剣な強い眼差しで政宗を見据えている。否、真朱だけではなく萌葱も撫子も、じっとこれまでに見たこともないような真剣で重い眼差しを政宗に向けている。

「ママが失ったものは言葉では言い尽くせぬほど多く、大きいものです。ママの心を壊してしまいかねないほど。それに耐えきれず、ママは気を失ってしまわれたのです。ご自分を守る為に」

 そんな彰子を守り支えることが出来るのかと、猫たちの視線は政宗に問いかけている。側室を勧められたくらいで10日も彰子を放っておいたお前にそれが出来るのかと。

「オレはずっと……この世界に戻ってきてからずっと、彰子がこっちに来てくれたらいいと願ってた。もしそれが叶うならば一生離さないと思ってた。彰子が傍にいてくれれば、オレはどこまでも天高く翔け上がれる飛竜になれるだろうってな」

 だが、それは自分のことしか考えていない願いだった。彰子がこの世界に来るということは、平成の世の全てを捨てねばならないということだ。それは政宗とて判っていた。けれど、そのことについて深く真剣に思いを巡らすことはなかった。叶わぬ願いだと判っていたから、そこまで考えを及ぼすこともなかったのだ。

 けれど、今こうして彰子がこの世界に留まることになると、彰子が棄てざるを得なかったものが重く政宗の心の圧し掛かる。彰子があの世界でどれほど充実した日々を送っていたのか、どれほど幸福だったのかは政宗とてよく理解している。あの頃の輝いていた表情を、この世界に来てから一度たりとも彰子は見せていない。あの世界こそが彰子の生きる世界なのだと政宗に知らしめるように。心から信頼出来る友人たち、愛し合う恋人、将来の夢。それらが彰子を幸せにしていたのだ。

 けれど、この世界にはそのどれもない。彰子はこの世界に留まることによって、それら全てを奪われてしまったのだ。それが彰子自身の意思による選択であれば、彼女とて諦めはつくだろう。だが、彰子はずっと平成の世に戻ることを願っていた。この世界に留まることを望んではいなかった。しかし、人の身では抗えぬ力によって、この世界に留まらざるを得なくなった。彰子の哀しみがどれほど大きいのか、政宗は想像することさえ出来ない。哀しみという言葉では言い表せぬほどのものだろうと思えた。

「真朱。オレは彰子を守る。オレが守る」

 静かに、けれど確固たる意志を込めた声で政宗は真朱に告げる。彰子は全てを喪った。けれど、この世界でまた新たな幸福を作り出すことは不可能ではない。哀しみも絶望も時が癒してくれるはずだ。彰子を大切に思っているのは何も平成の世の人間ばかりではない。彰子を支える腕は少なくはないのだ。自分がいる。喜多がいる。小十郎も成実も綱元もいる。衛門や小督、常葉丸もいる。遠い地にいるとはいえ、彰子を家族と思っている幸村や信玄、佐助もいるのだ。

 彰子がそういった人々に気付くまでに時間がかかるかもしれない。今は現実を拒否するかのように彰子は深い眠りの中にいる。だがそれでも、彰子はきっと立ち直る。自分は一番傍でそれを支えるのだ。

「……お前が守らず、誰が守るのです。何を当たり前のことを」

 政宗の静かな宣言を真朱はさも当然のことのように受け容れた。けれどその声音は何処か安堵した色を纏っている。

「だよなー。お前が守んなくて如何すんだよ」

「そうそう、おかーさん大好き同盟会員番号4番、伊達藤次郎政宗君。頼りにしてるからね」

 政宗の決意を応援するように、萌葱と撫子も言葉を発する。

「ああ、オレが彰子を守る。一生懸けてな」

 己自身に誓うように、政宗は告げる。未だ昏々と眠り続ける彰子をじっと見つめながら。






 小半時ほど経った頃、漸く彰子が目を覚ました。ゆっくりと頭を巡らせ政宗の姿を認めると、彰子はうっすらと微笑んだ。

「お帰りなさい、政宗さん」

 まだ半分夢の中にいるような、ゆっくりとした何処か幼い口調で彰子は言った。

「あ……ああ、ただいま」

 確か平成の世で帰宅した彰子が『ただいま』と言い猫たちが『お帰りなさい』と迎えていたことを思い出し、政宗は応じる。しかし何故今、『お帰りなさい』なのだと思ってしまう。『おはよう』じゃないのかと。

「お城抜け出すのもほどほどにしないと、小十郎さんたちに怒られるよ。小十郎さんの眉間の皺が取れなくなったら如何するの。小十郎さん、まだ三十路前なのに」

「Ah~……そうだな」

 応じながら政宗は状況と会話に違和感を感じる。それは今言うことなのかと。彰子の置かれた状況にそぐわない口調と内容だった。

「それに私だって寂しいよ……。政宗さんが遊郭行くなんてヤだな……。他の女の人と遊ぶの、ヤだ……」

 彰子の言葉に政宗は胸が高鳴るのを感じた。自分が遊郭に行くこと、他の女を抱くことを彰子が嫌がっている。それは嫉妬しているのだと解釈出来ないこともない。

「彰子……」

「独りは嫌……」

 彰子はそう呟くと、再び吸い込まれるように眠りに落ちた。眠ってしまった彰子に、室内は微妙な沈黙に包まれる。

「……政宗、お前の喜びに水を差すようんでなんですけれど……多分、ママは今言ったことを起きたら覚えていないと思いますよ」

「完全に寝惚けてたな、かーちゃん」

「うん、お子ちゃま喋りになってたね」

「……I see」

 猫たちの言葉から察するに過去にもあったことなのだろうと政宗は思った。道理で噛み合っているようでいない会話、しかも状況に合わない言葉だったわけだ。

 けれど、それでも政宗の心には僅かばかりの希望の光が差し込んでいた。彰子は寝惚けていたとはいえ、現状を理解した発言をしていた。そして、自分の廓通いを怨じたのだ。寝惚けていたからこその、彰子の素直な言葉なのではないかとそう思えたのだ。勝手な自分に都合のいい解釈かもしれないが、ついそんなふうに期待を持ってしまう。

「まぁ、ママが一番素直なのは寝惚けているときですからね……、忍足もママの本音が聞きたいときは、寝惚けているときに訊いていましたし」

 政宗の考えを読んだかのように真朱が溜息混じりに言う。ならばやはり、自分にも少しは希望があるのだ。

 希望などなくともいいと思っていた。傷ついた彰子の心を癒すことが出来るならそれだけでいいと彰子の寝顔を見ながらそう思っていた。

 けれど、ただ彼女を守るだけでは満足出来ずに、再び愛されたいと願ってしまう日も来るに違いない。今は大人しくなっている自分の中の凶暴な獣がやがては再び暴れそうになることもあるだろう。

 だが、彰子の漏らした本音は政宗に希望を与えた。それがある限り、己の中の獣も飼い馴らすことが出来る。

「ったく……何処までオレを翻弄すれば気が済むんだ、Honey」

 何処か甘酸っぱい気分で、政宗は眠った彰子の頬を撫でた。






 その後、政宗は執務の為に表へと向かった。後ろ髪を引かれる思いだったが、『政宗が仕事をサボって付き添っていたと判ればママが気に病みます』と真朱に言われ、仕方なく執務に向かったのだ。彰子が目覚めたらすぐに知らせろとくどいほどに念を押して。あまりの諄さに切れた真朱にライダーキックを食らって部屋から追い出されたくらいだった。

 家臣たちが次々と持ってくる書類に目を通しながら、政宗の神経は彰子の部屋へと向けられていた。彰子に変化があればすぐにでも彼女の許へ行けるように仕事は手早く処理してしまう。小十郎も成実も綱元も度々やって来たが彰子のことは一言も口にしなかった。ただ静かに仕事を片付けるだけだった。

「政宗ー、おかーさん目が覚めたよー」

 タタタタタと駆けてきた撫子の言葉を聞くや、政宗は書類を放り出して部屋を飛び出した。政宗の仕事を手伝っていた成実に一言も言わないまま。成実は一つ溜息を漏らすとクスリと笑い、政宗が放り出した仕事を引き継ぐことにした。『梵、頑張れ』と心の中でエールを送りながら。

 結果的に成実に仕事を押し付けた形になった政宗は、戦場で幸村に向かうときのような勢いで彰子の部屋へ駆け込んだ。主の姿を見た衛門と小督は気を利かせるように一礼すると部屋から出て行く。

「ママ、政宗が参りましたわ」

 常の真朱よりも数倍優しげな声で、真朱は愛する飼い主に声をかける。その声に反応して彰子は布団の上に身を起こすと、何処か虚ろな目でやって来た政宗を見た。

「大丈夫か、彰子」

 政宗はそう言いながら布団の脇に腰を下ろした。しかし心の中では自分自身に情けなさを感じていた。

(Shit.何を言ってるんだ、オレは! 大丈夫なはずねぇに決まってるってのに)

 もう少しマシな気の利いたことを言えないのかと我ながら呆れてしまう。

 戦場であれば数万の大軍を前にしたとて心が高揚することはあれど恐れることはない。けれど今は怖い。虚ろな目をした彰子は触れれば崩れ落ちてしまいそうなほど弱く果敢無く見えた。

「心配かけてごめんなさい」

 政宗に応える声も弱々しい。いつもの彰子の澄んだ張りのある声ではなかった。

「気にするな。こんなときに周りのことなんて考えなくていい」

 彰子を気遣う政宗の言葉に彰子は微笑む。何処か泣いているような、そんな微笑だった。

 堪らず政宗はそっと彰子の肩を抱き寄せる。彰子は抵抗することなくそれを受け容れ、政宗の胸に頭を預けた。

「成実から聞いた。彰子が一番辛かったときに傍にいなくて済まない」

 腕の中の彰子がピクリと震える。泣きたいだけ泣けばいい、お前の涙は全てオレが受け止める。政宗はそう思ったが、腕の中から嗚咽は漏れない。ただ彰子は静かに頭を預けているだけだ。

 彰子は泣かないのではない。泣けないのだと政宗は感じ取った。泣く気力すらもないほどに彰子は深い哀しみと絶望の中にいるのだ。

「今はまだ、何も考えなくていい。気持ちが落ち着くまでここにいればいい。──ずっとここにいていいんだ」

 オレがお前の居場所になる。心の中で政宗は彰子に告げる。今はまだ声に出して彰子に告げることは出来ないけれど。政宗は彰子を抱く腕に力を込めた。

 どれほどそうしていただろう。あまりに動かない彰子にまた眠りの園に逃避したのかと政宗が訝しんだ頃、彰子が漸く声を発した。

「……私ね、あっちの世界では死んだことになったの。皆にどんなに辛くて悲しい思いをさせたんだろう……」

 先ほどよりも幾分確りとした声で彰子はそんなことを言う。

 己が生きていた世界から理不尽に切り捨てられた彰子。それを悲しみながら、それでも彰子の口から出たのは元の世界の恋人や友人を気遣う言葉だった。己よりも人の苦しみを思い遣る彰子に政宗は胸が締め付けられる。

「アンタは……人のことばかり思い遣り過ぎる。もっと自分のことを考えればいいんだ。泣き叫んで、神とやらを罵って、感情を吐き出しちまえばいい」

 彰子を思い遣って政宗の声は苦しげなものになる。こんなにも周りのことばかりを考えていては、彰子の苦しみはいつまでも消えることはないのではないか。内に溜め込んだ感情は行き場を失くし、いつまでも彰子を苛み続けるのではないか。

「それで還れるなら、そうするよ。でも、何をやってももう無駄なんだもの」

 そう言った彰子の声音に政宗は背筋が冷たくなるのを感じた。彰子の声には色がなかった。感情もない。哀しみや絶望ですら。まるで全てを諦めたかのような声だった。

「彰子……アンタは一人じゃない。オレがいる。オレの傍にずっといてくれ」

 切なくこいねがうように政宗は呟く。

 彰子は生きる気力すら失っているのではないかと不安を感じ、政宗は明子を抱く腕に力を込めた。何処へも行かせないよう、己の傍に閉じ込めるように。