側室候補

 彰子の部屋を出た3人はすぐさま政宗の許へ向かった。だが、半ば駆け込んだ政宗の部屋には当人の姿はなく、ただ小姓の常葉丸一人がいるだけだった。

「殿は?」

 成実の問いに小姓の少年は言い難そうに答えた。殿は微行おしのびで城を出られましたと。

 気付けばもう夕刻だ。確かにここ数日、政宗は執務を片付けると姿を消してしまうことのほうが多かった。

「夕餉も召し上がらずにか」

 辛うじて舌打ちを堪え、成実は憮然とした表情で呟く。あの日以降毎晩のように政宗は城を抜け出している。だが、こんな早い時間からいなくなるのは初めてのことだった。何もよりにもよって今日、こんなにも早く抜け出さなくとも良いのにと思ってしまう。

 しかし、2、3日ならまだしも、こうも続くと流石に小十郎たち側近も同情して黙認することが難しくなる。彰子が日に日に元気をなくしていくのを見ているだけに『何を為さっているのですか』と苛立ちも湧いてくる。けれど、一方では政宗の葛藤も判るだけに強くも言えず、ヤキモキしてしまうのだ。

「私が梵を迎えに行ってくるよ」

 政宗の微行の際には黒脛巾が陰供をし政宗の居場所を報告してくるから、成実たちも政宗贔屓の妓楼が何処なのかは知っている。

 そう言って早速出かけようとした成実を綱元が留めた。

「殿にお伝えする前に、我らの間だけでも今後の方針を定めておこう。御方様に本当に側室に入っていただくよう願うのか、殿にそれを勧めるのか。例の女が城に入るのは明日だ。状況が変わったのだから、我らの方針も変わってくるだろう」

「それに成実は少し頭を冷やしたほうがいい。今のままで行けば政宗様をぶん殴りかねんだろう」

 冷静な年長の二人にそう言われれば成実もそうせざるを得ない。確かに今のままだと自分は政宗を責めてしまいそうだ。あの、哀しく絶望に満ちた彰子の表情と声が、頭と心に焼き付いてしまっているのだ。とても冷静にはなれそうにない。

「……そうだね。取り敢えず、私の部屋へ行こうか。例の女に関しては喜多殿にも来てもらったほうがいいよね」

 成実は己の心を落ち着かせるように溜息をつくと二人に同意し、小姓に喜多を呼びに行かせて、己の部屋へと二人を招く。

 部屋に入ると、成実は侍女に喜多と猫たち以外は暫く通さないように命じた。猫たちが今の彰子の傍から離れるとは思えなかったが、何かの情報を齎してくれる可能性はある。

「こうなることが判ってりゃ、あの話を進めたりしなかったんだがな……」

 喜多を待つ間、ポツリと小十郎が呟く。

「仕方あるまい。あのときはまさか御方様の御身にこのようなことが起こるとは思っていなかったのだ。そうなれば良いと願ってはいたがな」

 小十郎から相談を受けて賛成した綱元も渋い表情で溜息をつく。

「今更なかったことには出来ないからね。仕方ないだろう。だからこれからのことを話し合うんじゃないか」

 元々この話に賛成していなかったとはいえ、積極的に阻止もしなかったのだから、自分も同罪だと成実は思った。

 この話──それは新たに政宗の側室を増やすというものだ。かつて小十郎が彰子の身の安全を図る為に提案したことを具体的に進めたのだ。とはいえ、正式に側室を迎え入れることは三傑としても迷いがあり、また政宗自身もいくら彰子の為と言われたところで意に染まぬ相手を傍に置くのを厭うたこともあって、飽くまでも側室候補として取り敢えず城に入れるということになったのだ。

 話が出てから僅か10日しか経っていないとはいえ、元々側室候補の選定は行っていた為、受け容れることを決めてからは話が進むのも早かった。

 候補者の選定を終えた後、政宗に側室候補を入れることを納得させたのは、彰子との仲が気まずくなってから3日目のことだった。小十郎たちとしてはこれがきっかけとなって彰子との仲に変化があればと願ってのことでもあった。政宗の許しを得た後は当日のうちに側室候補の父親に話を伝え、明日その娘が城に入ることになっている。

 側室候補として選ばれたのは、譜代の重臣である牧野朝信とものぶの娘である。牧野朝信は外戚となって権を振るおうとするような野心もなく、朴訥なほど誠実に政宗への忠勤に励む信頼の置ける人物だ。家臣の娘から側室候補を選ぶとなると、当人よりもその親が重要視される。仮令娘が寵妾となり跡取りを生んだとしても、それで変な野心を抱かないような人物が選ばれるのだ。その為、それに該当する牧野の娘・野菊に白羽の矢が立ったというわけである。

「成実様、遅うなりました」

「待ってたよ、喜多殿」

 遅参を詫びる喜多をすぐ部屋に招じ入れ、まずは成実が先ほど彰子の身に起こったことを話す。喜多は明日の野菊の奥入りの準備の為に彰子の傍を離れており、それを知らなかったのだ。

「然様にございましたか……。御方様のお哀しみは如何ばかりかと思うと辛うございます」

 この世に留まってほしいと願っていたはずなのに、いざそうなると戸惑ってしまうのは小十郎たちと同様の喜多だった。

「それで、そうなると牧野の娘の件も少々対処を変えないといけないんじゃないかと思ってね。喜多殿にも来てもらったんだ」

 成実の言葉に喜多は頷くと、己の指示した内容を告げた。

 この側室候補という話は政宗と側近、そして父の牧野しか知らないことだ。表向きは行儀見習いの為の奥勤めということにしてある。実際重臣の娘がその理由で勤めることは珍しくないし、花嫁修業の一環として奥勤めをする者もいる。それに本人の性格や気質が判らぬのにいきなり側室にすることも出来ない。

 喜多としては初めて迎える『側室候補』に少しばかり神経質になっていた。しかも元々政宗が望んでいない側室候補だ。彰子が何れ平成の世に還ってしまうと思っていたからこそ、喜多は伊達家の為と割り切って、他の側室を入れるもの止むを得ないと弟たちの考えに賛同したのである。

 しかし、彰子の残留が判明した今となっては賛同したことが悔やまれる。それを決めたのはたった7日前のことだったのだ。もう少し考える時間をくれと自分が返事を引き延ばしていれば、こんな面倒なことにはならなかったであろうに。彰子が本当の妻となったとき、側室候補の存在は彰子にとって憂いの種となってしまうだろう。

「こうなると、事前に牧野殿に期限付きで打診しておいたのが幸いだったな」

 綱元が呟く。牧野の娘を奥に入れるに当たって、喜多は幾つかの条件を示している。

「行儀見習いって建前だからね。期限を切るのは当然だよ」

 喜多が条件を示してくれたことに、成実は心から安堵していたのだ。それは『側室候補』を『候補』のまま留め置き、いつでも城から出せるようにする為のものだった。

 条件の一つ目は中臈の奥女中数名によって教育を施し、喜多がその習熟度を見極め、合格点に達しない限りは政宗の寝所に差し向けることはないというもの。但し、政宗自身の意向によってお手つきとなった場合は除くとしたのは一応の側室候補(というよりはその父)への配慮だ。

 二つ目は、春に政宗が出陣するまでにお手が付かない場合は『行儀見習い』期間終了として実家に戻すことだった。今は冬であり、政宗が戦に出ることはない。春に出陣出来る状況になるまでに少なくとも3ヶ月程度の時間はある。それまでに手が付かなければ、それ以降も可能性は低いというわけだ。

 彰子にしか興味のない政宗が自発的に側室候補に手を出す可能性はないに等しいと喜多は考えている。つまり、喜多の胸先三寸で牧野の娘は側室になれるのか如何かが決まるのだ。そして、彰子の残留が確定した以上、是が非でも彰子を正室にと望む喜多は、彰子の障害となる側室への判断基準も厳しい。彰子に明らかに劣るような女を側室として認めようとは思わない。

 平成の世から来た彰子は、この時代からすれば相当に高水準の教育を受けている。更に将来の為にと様々な上流階級のマナーも叩き込まれている。生まれ育った世界では社会人経験もあり、そういった面での人に対する心配りも利いている。要は后がねといっても過言ではないほどの教養と政治的見識・思考を持っているのだと喜多は考えている。詩歌管弦といった『姫君』らしい素養に欠けるところはあるが、公家ではなく武家であるし、それは欠点とはいえないだろう。

 唯一欠点といえるとしたら、それは武芸の嗜みがないところだが、それについても既に手は打っている。彰子自身何か思うところがあったのか、自ら『護身程度には何かを身に付けたい』と喜多に相談してきたのだ。ゆえに喜多自らが薙刀の手解きを始めたところだった。もう少し形になれば義姫に指南してもらい、嫁姑の仲を接近させるのも良いかと画策している喜多である。

 ともあれ、そんな喜多だから牧野の娘野菊が側室となる可能性は、野菊にとって余程の僥倖がない限りゼロに等しいだろう。

「野菊殿の局は御方様の室から最も離れた場所に用意致しました。また、側室候補とはいえ表向きは行儀見習いゆえ、実家から伴う侍女も一人のみとしております」

 喜多の言葉に男たちは苦笑する。奥向きの中で政宗の居室に一番近いのは当然ながら彰子の部屋だ。途中に侍女たちの局や廊があることから彰子はそれに気付いてはいない。実をいえば彰子の住む一角は本来正室が使う場所だった。そんなところにも政宗や側近たちの隠れた願いが込められている。勿論、彰子はそれを知らない。

 つまり、彰子の部屋から一番遠いということは政宗からも最も遠いということになる。喜多がこの側室候補を候補のまま実家に返す心算であるのが明確な配置だった。

「奥のことは私が万事抜かりなく差配するゆえ、ご心配なさいますな。それよりも政宗様のこと、頼みまするぞ」

 聊か頼りない弟たちをじろりと睨めつけて喜多が言うと、弟たちは表情を引き締めた。

 今の彰子を支えられるのは政宗しかいない。政宗でなくてはならない。これからの数か月に奥州の未来が懸かっているといっても過言ではない。感情ではなく理性で『この御方こそ』と思える女性を本当に正室に出来るかは、これからの政宗に懸かっているのだ。

「梵の逆鱗に触れない範囲で嗾けるしかないよね。梵も今一つ素直じゃないし」

 政宗の取り扱いは注意だが、これで気兼ねなく政宗の恋を応援出来ると思えば嬉しくなる、彰子の心を癒すのは容易ではないだろうが、それが可能なのは政宗の真摯な想いだけだろうと思える成実だった。






 早朝、まだ城内が眠りに包まれている時刻に政宗は城門を潜った。

(さっさと風呂に入って匂い落としてぇな)

 敵娼あいかたとなった妓女の匂いが体に移ってしまっているのが不快だった。これが彰子の移り香ならば不快になることなどなく、寧ろ1日中その移り香を身に纏っていたいと思うほどなのに。

 そう考えて政宗は苦笑する。彰子が自分を男として想っていないことなど充分過ぎるほど判っているのに、それでも心はこれほどまでにも彰子を求めているのだ。

(彰子と……もう10日も会ってねぇか。そろそろ会うか)

 暫く時間を置いたことによって、政宗の激情もクールダウンしている。その為の遊郭通いでもあったわけだが。

 真面目な彰子のことだから、自分を怒らせてしまったと悩んでいるだろう。一切顔を合せなかったのは我ながら大人げなかったと政宗は少しばかり反省した。

(そろそろ庭の紅椿が咲く頃だったな。それを持って会いに行くか)

 そんなことを考えながら、政宗は足音を殺して己の寝所へと戻った。そっと襖を開けた政宗は、部屋の中を見た瞬間、開いた襖を神速の速さで再び閉じた。

(Ah……落ち着け、オレ)

 部屋の中には怖い顔をした小十郎と成実と綱元がいた。流石に10日もの城抜け出しは拙かったかと政宗は冷や汗をかく。

 怖い顔をした3人と対峙する為に呼吸を整えているところに音もなく襖が開き、いつも以上に怖い顔をした小十郎が現れる。

「政宗様、さっさとお入りください」

 地を這うような冷たい声で小十郎が促す。まるで凍るような声と眼光だ。お前雷属性だろう、氷じゃないよなと政宗は少しばかり現実逃避しながら、大人しく部屋に入った。しかし、そんな暢気なことを考えていられたのもそのときまでだった。

 政宗が予想したような説教はなく、成実から告げられたのは『彰子ちゃんが倒れて、目を覚まさない』という衝撃的な内容だった。

「彰子が……!? 如何してすぐに知らせなかった!!」

 詰め寄る政宗に成実は冷静な表情のまま応じる。

「微行で姿晦ましてた殿に如何やって知らせるってのさ」

 明らかに嫌味と取れる口調で成実が言うが、政宗はそれに反論出来なかった。

「原因は、彰子ちゃんにとって最悪の事態が起こった所為だよ。彰子ちゃんにとっては最悪で、梵や私たちにとっては、願いが叶った……」

 成実の言葉に政宗は目を見開く。

「如何……いうことだ……」

 声が掠れる。まさか、そんなことは有り得ないと思いながら。

「彰子ちゃんは平成の世に戻れない。ずっとこの世界で生きていかなきゃならなくなった。梵や私たちのいるこの世界でね」

 成実のその言葉はまるで雷鳴のように政宗に衝撃を齎した。

「何故……」

「詳しいことは真朱から聞くといいよ。私もその現場に居合わせたけど、真朱たちに聞いたほうが事情はよく判ると思う。私たちが知らないことも真朱たちは知ってるみたいだからね」

 成実の言葉が終わらぬうちに、政宗は踵を返した。彰子の許へ向かう為に。