成実が諸々の事情から政務の捗らない政宗に代わって大量の書類を処理しているところに、突然の来訪者があった。正確には来訪猫だ。
「ちょっと、なるみ! 如何いうことなのか説明してよー!!」
飛び込んできたのは、今では黒脛巾組所属の細作猫となっている撫子である。黒脛巾は成実の管轄だから、一応成実は撫子の上司となるのだが、そんなことは知ったこっちゃない撫子だ。城主で領主の政宗にだってタメ口どころか子分扱いなのだから、まぁ、それは仕方ない。
とはいえ、撫子がこんなふうに駆け込んでくることなど、これまでにはなかったことだから、成実は顔を上げて撫子に如何したのと問いかける。猫たちが動くのは彰子絡み以外では有り得ないのだから、彰子に何かあったと考えるべきだ。
「如何したの、じゃないよー! 政宗が遊郭に行ってるってどういうこと!?」
撫子の口から飛び出した言葉に成実は驚く。彰子の耳には入れないように緘口令を敷いている事柄だ。当然猫たちにも知らせてはいない。
「なんでそれ、知ってるのさ」
「ご親切な政宗付きの女中が、嫌味ったらしくおかーさんに言った!」
撫子の返答に成実はちっと舌を打つ。これは一度奥女中たちの査定をやり直して人員整理するべきかもしれない。命令を守れないような配下は必要ない。しかも主とその唯一の妻妾の間に亀裂が入りかねないことを、嬉々として吹聴するような品位の欠片もない奥女中など、禄を与える価値もない。
撫子から一部始終を聞いた成実は、部下に書類を政宗のところへ運ぶように指示をして、自分は彰子の許へと向かう。書類は元々政宗が処理しなければならないものなのだから、『他に大事な用が出来たから、自分でやってね』と言付けて突っ返したわけである。こんなときに政宗の尻拭いなんてやっていられない。否、ある意味彰子のところへ行くのも、政宗の尻拭いのようなものだが。
「彰子ちゃん、如何してる?」
足早に彰子の許へ向かいながら、成実は肩に乗っている撫子に問いかける。
「私はすぐになるみのとこに来たからよく判んないけど、ショック受けてたっぽい。ママが超怒ってる」
撫子の言葉に成実はふと考え込む。ショックは確か驚きという意味だったはずだ。ただ驚くだけではなく、そこに悲しみとか寂しさとか、そういった感情を伴った驚きのことだと、彰子たちから聞いたことがある。しかも、真朱が怒っているとなれば、彰子は相当強いショックを受けたと思われる。だとすれば、もしかしたら……と、成実は微かな期待を抱いた。
「彰子ちゃん、大丈夫!?」
「あら、成実さん。如何かしたの?」
成実の心配を余所に、彰子は至って普通の、いつもと変わらない笑顔で成実を迎え入れた。それに成実は少しばかり拍子抜けする。
しかし、よくよく見れば笑顔がぎこちなく、何処か強張っているように見える。それは成実の先入観がそうさせるのか、真実そうなのか、成実にも微妙なところだった。
成実の為に円座を用意すると、衛門と小督は部屋から出て行く。小十郎、成実、綱元が彰子を訪れたときには、そうするように3人から命じられているのだ。衛門と小督は彰子の本当の出自を知らない。彼女たちに聞かれると拙い話題になる場合もある為、そういった措置をとっているのである。
「あ、うん……。撫子に聞いてさ」
彰子に勧められるまま、対面に腰を下ろしながら成実が告げると、彰子は少し困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「そっか。態々ありがとう、成実さん。余計な心配かけてごめんなさい」
「あのさ……彰子ちゃん、無理に笑わなくていいよ」
彰子の内面を押し隠すような笑顔が辛い。彰子は余程のことがなければ常に笑顔でいる。決して自分たちに辛そうな顔や悲しそうな顔は見せない。政宗には隠していないようだが、自分たちには余計な心配をかけまいとして決して負の感情を見せようとはしないのだ。
常に冷静沈着な綱元も表情から内心を読み取ることが出来ないが、彰子の笑顔も同じなのだ。己の感情を隠すという意味において。それが成実には少しばかり寂しかった。
三傑の中では一番彰子と親しいのが成実だ。接する時間でいえば、彰子に進講している小十郎や綱元のほうが長いだろうが、成実は彰子のプライベートな部分で関わることが多く、また歳も近い為、彰子も気軽に接してくる。城下に出かけるのも遠乗りに行くのも、政宗よりも成実が同行する回数のほうが多いくらいだった。政宗は城主だからという理由で、小十郎と彰子に『真面目に仕事しましょう』とばかりに却下されることが多いのだ。
そんな自分にも、彰子は負の感情を見せようとはしてくれない。政宗には見せているらしいからまだマシだが、今のように政宗との間が気まずくなっているときには、彰子は猫たち以外の誰にも弱みを見せることが出来なくなってしまう。
「成実さん、ありがとう。でもね、悲しい顔してたら、余計に悲しくなるから。嘘でも笑っていたら、空元気でも元気なふりしてたら、気持ちもそれにつられて明るくなるから」
そう言って、彰子はまた笑う。それに──このことに関して自分は悲しんだり怒ったりする資格も権利もないのだと彰子は思っている。資格や権利など関係ないというのに。
「そういうときもあるだろうけどね。彰子ちゃんは色々我慢しすぎだと思うんだ」
偶には吐き出さなくては心に溜まっていくだろうに。そして、それはやがて彰子の心を疲れさせるだろうに。
「梵も大人げないよね。彰子ちゃんが弱音を吐けるのは自分だけだって判ってるくせに……こんな彰子ちゃんを放っておくなんて」
ついつい政宗への不満も漏れる。政宗の気持ちも判る。自分だって妻から側室を勧められたら面白くない。恋愛感情のない婚姻による妻ではあるけれど、それなりに仲睦まじい夫婦だと成実は思っている。自分でさえそうなのだから、彰子に恋愛感情を抱いている政宗が、どれほど不快感を抱き、苦しかったかは想像出来るのだ。
だが、今、無理に笑顔を作っている彰子を目の当たりにすれば、『梵、男のくせに女々しい!!』と思ってしまう。この世界で彰子が弱音を吐けるのは、自分を曝け出せるのは、政宗に対してだけなのに。その政宗が今は彰子にこんな表情をさせているのだ。これでは彰子は誰を頼ればいいというのか。
「政宗さんも健康な若い男性なんだから、仕方ないよ。寧ろ、今までよく我慢してたなぁって思うわ」
自分たちと同じ感想を漏らす彰子に、成実は政宗への怒りを忘れて、政宗に同情した。これでは全くの脈なしではないか。だが、それも彰子の表情を見るまでだった。紛れもなく彰子の顔には寂しさが浮かんでいる。
「やっぱり、政宗さんはちゃんとした奥さんを貰ったほうがいいと思うの。正室は色々面倒なこともあるだろうから、他に側室を持つとかね。私は……仮初の側室なんだもの」
そう、自分は仮初の側室。本当は妻でも恋人でもなんでもない。だから、政宗が余所でどんな女性を抱いたとしても、何かを言う権利も資格もないのだ。政宗が他の女性と夜を過ごすことを嫌だという権利はないのだ。そのことがどれほど自分の心に痛みを与えたとしても。
「……彰子ちゃん、本当に梵の側室になる気はない?」
彰子の表情の僅かな変化に成実は気付く。何処か辛く哀しそうな表情。そして、政宗と閨を共にした女に対する僅かばかりの嫉妬に。
「……え……?」
彰子が成実に問い返そうとした、そのときだった。彰子と成実の間に、突然目映い光の球体が現れた。その光は徐々に弱くなり、光が消えるとそこにはこれまでなかった人の姿があった。黒い衣冠束帯姿の男だった。
突然現れた男に、成実は身構え腰の得物に手をかける。武将としての条件反射だった。だが、成実は目の前の男が敵だとは思わなかった。否、『人』ではないと朧げながらに感じ取っていた。
「……悠兄さん……」
その言葉に再度成実は驚く。目の前の明らかに貴人と見える男は彰子の兄なのだろうかと。確か彰子に兄弟はいないと聞いていたが、そういえば歳の近い叔父を兄と呼んでいたのではなかったか、だとすれば彼は彰子の叔父なのかと、混乱した頭で成実は考える。
「来るのが遅くなって済まなかった」
成実には一瞥も与えず、悠と呼ばれた男は彰子に告げる。男の表情は背を向けられている成実には見えない。だが、その声には苦渋が満ちているように感じた。それが間違いではないことは、彰子の返答で知れた。
「その顔からすると、迎えに来たわけじゃないんだね」
そこか諦めたような、悟ったような、静かな声で彰子は草紙神に問いかける。否、問いではなく、それは確認だった。
「私は帰れないのね……。そうなんでしょう?」
彰子は辛そうに、けれど決して目を逸らすことなく、目の前の草紙神を見つめる。その表情に成実は胸が痛くなった。
「ああ……。今回のトリップには俺は関知していない。アクシデントでもなかった。俺より上位の神の意思が働いてのトリップなんだ」
それがどんな神のどんな意思によるものかは告げられない。その神の気紛れともいう理由で、彰子の人生は変わってしまったのだから、告げられようがない。
「だから、お前をあの世界に戻すことは出来ない」
草紙神は搾り出すような声で、冷酷な事実を彰子に告げる。しかし、彰子は取り乱すことなく、僅かに目を伏せると『そうなんだ……』とだけ、呟いた。
「済まない……。俺もお前に関わることを禁じられた。後処理だけを認められて、漸くお前の前に出ることを許可されたんだ。もう二度とお前と会うことはない」
彰子が生まれ育った世界からトリップして3年。ずっと見守ってきた。ここまで深く『人間』と関わったことのなかった草紙神にとって、彰子は娘のように妹のように特別な人間だった。特定の人間に特別な恩恵を与えることは禁じられていたから、許される範囲内で手助けをし、ずっと見守ってきた。その彰子と関わることを一切禁じられてしまった。もう彰子の人生に僅かばかりの干渉も許されなくなった。
「済まない、彰子」
苦しげな草紙神に彰子は気にしないでと微笑む。哀しみを纏ったものではあったが、それでも微笑んでみせた。
「今までありがとう、悠兄さん。貴方と出逢ったことで、私の人生はとても幸せなものだった」
草紙神がトリップさせてくれたから、人生をやり直せた。そこで大切な人たちと出逢った。愛し合う恋人も出来た。感謝こそすれ、恨んだりすることはない。ただ、それでも悲しみはある。もう二度と大切な人たちに会えないのだ。けれど、それも生まれ育った世界を切り捨てた自分に課せられた罰かもしれない。
生まれ育った世界を3年前に棄てた。突然好きだった漫画の世界へと連れて行かれ、選択肢は己の存在を抹消するか、己を死んだことにするかの二択だった。そして、彰子は己の存在を抹消することを選んだ。
本当は生きているのだから無用な悲しみを与えたくないと思ったのは嘘ではない。けれど、それだけではなかった。罪悪感を持ちたくなかった。死んだことにすれば、家族や友人は悲しむだろう。間もなく定年退職を迎える父や母に逆縁の不孝による悲しみを与えてしまう。家族を悲しませているという事実がある限り、本当には幸せにはなれないと思った。ずっと心の中で彼らに詫びながら、後ろめたさを感じながら生きていくのは、正直きついと思った。
それに生まれ育った世界での自分が、彰子はあまり好きではなかった。友人も少なく人付き合いが苦手で、いてもいなくても同じ。誰からも必要とされない自分。そんなふうに思っていた。だから、そんな自分を消してしまえるのなら、そのほうがいいと。
自分は生まれ育った世界から逃げ出し、その世界を切り捨てた。だから今、その竹箆返しを受けているのだ。元の世界よりも遥かに充実した日々を過ごした世界。大切な人たちに出会えた世界。努力し、全てではないにしてもその多くが報われた世界から、今度は自分が切り捨てられたのだと。
全てがネガティブな思考になる。自業自得なのだと言い聞かせることで、彰子は辛い現実を受け容れようとする。そうしなければ草紙神を罵ってしまいそうだった。『侑士のところに還らせて』と。
「あっちでの私の扱いはどうなるの? 存在を消すの?」
自分が還れないことは仕方のないことだと諦めよう。けれど、自分のことで愛しい人々を悲しませることは避けたかった。
「いや……今度は抹消出来ない。そこまでの力を今回は使えないんだ。だから、お前は死んだことになる」
そう言って、草紙神はどんな記憶操作をするのかを説明した。
草紙神の言葉に彰子は目を伏せる。自分を愛してくれた忍足たちがどれほどの哀しみを負うことになるかと思うと、胸が痛くなった。
「兄さん、侑士への伝言……遺言って出来る?」
「ああ……それくらいなら」
草紙神の言葉に、彰子は微かに微笑み、言葉を紡いだ。愛する人の幸福を願う言葉を。
「彰子、この世界で生きろ。そして……幸せになってくれ」
苦しげに草紙神は告げる。もう自分は何も出来ない。仮令この世界で彰子の命が危険に晒されることになろうと何も出来ない。ただ彼に許されたのは見守ることだけだった。だから、干渉が許されるうちに、彰子ではなく猫たちに助けとなるような力を与えた。自分の自己満足に過ぎないにしても、そうせずにはいられなかった。
「悠兄さん、今まで、本当にありがとう……」
悲しみを堪え気丈に微笑んだ彰子の笑顔を眼裏に焼き付けて、草紙神は再び光と共に消えた。同時にあの世界から彰子が持ち込んだものも消えた。ただ一つ、ペンダントだけを残して。
──その瞬間、かの世界で彰子は『死んだ』のである。
目の前で起こった出来事に成実は呆然としていた。突然目映い光と共に現れ、消えた男。明らかに人ではない気を纏った貴人。しかし、それ以上に成実に衝撃を与えたのは、その男が告げた言葉だった。
『お前をあの世界に戻すことは出来ない』
つまり、彰子はずっとこの世界に留まることになったのだ。政宗の側に。
どんなにそれを自分たちが望んでいただろう。彰子にずっと政宗の側に留まってほしいと。そして、何れは本当の妻になってほしいと。
だが、不思議とそうなっても喜びは湧いてこなかった。否、不思議なことではない。あんなにも苦しそうで哀しそうな彰子の表情を目の当たりにすれば、喜べるはずなどなかった。
「還れない……もう……二度と侑士と会えない……」
か細い彰子の声にはっとして成実は彼女を見る。彰子の頬を涙が伝う。初めて見る彰子の涙だった。
「……侑士……」
恋人の名を呟き、彰子は哀しみに耐えかねたように意識を手放した。ふらりと傾ぐ彰子の体を成実は抱きとめ、唇を噛んだ。
「誰か! 誰かある!」
成実は声を上げて人を呼ぶ。すぐにやって来た衛門と小督に床を延べるように命じ、彰子を布団へと横たわらせる。
「撫子、悪いけど、小十郎と綱元呼んできてくれるかな」
普段なら文句の一つや二つ言うところだが、撫子は何も言わずに部屋を出て行く。真朱と萌葱は心配そうに彰子の傍に座っている。
彰子の涙の跡を見つめながら、成実は悔いていた。自分たちはなんと身勝手だったのだろう。彰子がどれほど元の世界に戻りたがっているのかを理解していなかった。いや……彰子の気持ちなど考えていなかったのではないか。
やがて撫子から知らせを受けた小十郎と綱元が駆けつけてきた。一体何事かと問いかける二人に成実は己の目で見、耳で聞いたことをありのままに伝える。更に真朱が成実が見た人物は『神』であり、政宗のトリップの後処理の際に知り合ったのだと補足した。──生まれ育った世界からのトリップについては隠すように草紙神に言われているのだ。
「喜ばしいことのはずだが……喜べぬな」
「ああ。俺たちは政宗様のことしか考えていなかったんだな」
成実が抱いたものと同じ後悔を小十郎も綱元も抱いたようだった。
「今更悔いても仕方ありませんでしょう。貴方方の望みは尤もなものですもの」
後悔の念に囚われる3人に対して真朱が口を開く。
「ママもやがては現実を受け容れます。いいえ、もう受け容れていらっしゃいます。だからこその哀しみなのです」
真朱はじっと彰子を見つめながら言葉を継ぐ。
「哀しみは時が癒してくれます。大丈夫ですわ。政宗がいるのです。幸村や佐助もいます。お館様も。そして貴方方もね」
「かーちゃんは弱くて脆いよ。でも、強い。大丈夫だ」
「うん。私たちのおかーさんだもん」
3人の人間を猫たちは慈愛と信頼の篭った目で見上げた。
「だから、とっとと政宗を何とかなさいまし。あれの行動如何によってママの立ち直りの速さが違ってきましてよ」
真朱の言葉に3人は顔を見合わせ、今自分たちに出来ることをする為に部屋を出て行った。
その頃、神々が【刻の狭間】と呼ぶ時空で草紙神は一人の男と向き合っていた。
「てめぇの勝手な気紛れの所為でどれだけの人間が苦しんでるのか判ってるのか、月読!」
月読と呼ばれた男──夜の神は感情的になっている草紙神を冷たく一瞥する。
「知らぬ。吾はただ政宗の切なる願いを叶えたのみ」
感情の篭らぬ声で月読は応じる。かの世界で、そしてこの世界で月夜に呟く切なく哀しい政宗の声を聞いた月読がほんの気紛れで、気に入った人間の為に異世界から異世界へと人を渡らせた。それが彰子のBASARA世界へのトリップの真相だった。
「夜の神だってんなら、きっちり仕事しやがれ。せめて彰子をトリップさせた後に、彰子の存在を抹消するなり記憶操作するなりしておけば……少なくともあんなに彰子が悲しむことはなかったんだ」
語気も荒く草紙神は月読を詰る。月読は夜を統べる神だ。二次創作者の守護神である草紙神よりも位階は高く遥かに上位の神だった。その月読が行ったトリップである為に草紙神では彰子をテニプリの世界に戻すことは出来なかったのだ。彰子をテニプリ世界に戻すことが出来るのは、そのトリップを行った月読だけであり、月読はそれを為す気は全くなかった。
「二度と勝手なことするんじゃねぇぞ。不要な苦しみを人間に与えるな」
神々の気紛れが、人間を翻弄する。それによって関わった人々が苦しみや哀しみを味わうのならば神が人に干渉するべきではない。
草紙神は月読にこれ以上政宗や彰子に干渉せぬよう強く要求すると姿を消した。
「たかが人にあれほど肩入れするとは解せぬ」
彰子に対する草紙神の思い入れが理解出来ず、月読は呟いた。己の政宗へのそれには気付かぬまま。