幕間―もうひとつの世界で―

 そのイレギュラーを感知したのは、起こってから数秒後のことだった。配下の雑仕が異常を報告してきたのだ。彼自身の管理下にあるとある個体とその家族が、あるべき世界から消えたと。

 すぐさま彼──草紙神は原因究明と捜索を命じた。長岡彰子とその猫たちを探すように。と、同時に本来彼女がいるべき世界に干渉した。

 彼女が消えた直後の空間に擬似の彼女を作り上げ、彰子の『叔父』として、彼女の許へ行った。彼女がいなくなっても『行方不明』や『失踪』などという状況を作らない為に。

 そして、彰子の周囲の人物たち──恋人の忍足や、親友の詩史、跡部ら──に不審を抱かせることなく、数日から数ヶ月の間彰子が不在になってもおかしくない状況を作り上げることに成功した。

 それから、草紙神は通常業務と平行して、彰子たちの捜索を始めた。

 システムのエラーによって彰子が何処か別の世界に飛ばされたのかと疑ったが、違った。数ヶ月前に総メンテナンスしたシステムにエラーはなかった。誰かが故意に彰子たちを本来いるべきテニプリ世界から、他へ飛ばしたことになる。

 彰子はあるべき世界から消えた。それは、その世界のどの時間軸にもいないことを示しているから、彰子は異世界トリップしたことになる。まず草紙神は数ヶ月前のシステムエラーによって彰子と関わりを持った世界から調べることにした。BASARAの世界から。

 最も関わりの深いはずの奥州にはいなかった。そこから南下しつつ調べ、漸く甲斐の上田にいる彰子を発見した。彰子は元気にやっているようだった。この時点で、彰子の異世界トリップからは1ヶ月ほどが経過していた。

 すぐに草紙神は彰子への接触を試みた。しかし、何者かの見えない力によって阻まれた。それは明らかに自分よりも上位の神の力だった。

 つまり、彰子をBASARA世界に飛ばしたのはその神の意思。自分よりも上位神である以上、草紙神の力では彼女を元の世界に戻すことは出来ない。彼女をトリップさせた神にしか、彼女を戻すことは出来ない。

 だから、草紙神はその神の正体を突き止めようとした。上位神にその思惑を確かめ、いつ戻すのか、或いは戻す意思はあるのかを確認しなければならなかった。戻す意思がなければ、なんとしても戻すように説得しなければならない。

 しかし、それは出来なかった。彰子をトリップさせたのは、草紙神などよりも遥かに上位の神だった。全ての夜を司る神──月読。

 彼は遥か下位の神である草紙神に対して詳しいことは何も話さず、ただ、彼女を元の世界に戻す意思のないことだけを告げた。それでも何とか、草紙神はこのトリップの意図だけは聞き出した。彰子から全てを奪うことになるのに、理由も知らないでは納得出来ないと激しく抗議して漸く聞き出せた。そして、それは草紙神を憤らせるには充分な理由だった。

『吾の興を惹く者が切なく願ったゆえ、見てみとうなった。その者あらば、どう変わるのかをな』

 抗議する草紙神に月読が命じたのは、彰子が持ち込んだ異物──本来のBASARA世界にあってはならない文明の利器──の処分と、テニプリ世界での記憶操作だけだった。草紙神には、それを拒むだけの力はなかった。

「済まぬ……彰子……」

 苦しげな声を漏らし、草紙神は不本意な勤めを果たすべく、管理室へと向かった。






 その日は合宿の初日だった。全国大会に向けての最終調整をかねた合宿。高校3年間の集大成となる、最後の全国大会へ万全の体制で臨む為の。

 合宿所に到着し、各自が各々の部屋に荷物を置き、再度ロビーに集合しようとしていたとき、その人物が息せき切って駆け込んできた。

「悠さん、如何しはったんですか」

 いつも飄々としている悠の狼狽し蒼白な表情に忍足は戸惑った。隣にいる彰子も、いきなりやって来た叔父の常とは違う様子に驚き、言葉もないようだった。

「彰子、落ち着いて聞け。姉さんたちが事故に遭った。すぐに向こうに飛ぶぞ」

 声まで蒼白にして、悠は彰子に告げる。悠の齎した内容に、彰子だけではなく、忍足も跡部も驚愕した。

「長岡、すぐに行け。こっちのことは気にしなくていいから」

 あまりの知らせに呆然としている彰子を跡部が促す。

「う……うん……色々ごめん」

 彰子は呆然としたまま、荷物を持ってくると叔父と共に合宿所を出て行った。両親が滞在する東南アジアの某国へと向かう為に。

 そして、それが忍足たちが彰子を見、声を聞いた最後となる。



 その後、彰子から忍足たちにメールが送られ、両親は危険な状態からは脱したこと、しかし事故の後遺症もあり、そのリハビリに時間が掛かりそうなことが綴られていた。当分日本へは戻れそうにない、両親が事故によって気弱になった所為か、自分を傍から離したがらないとも。これからは携帯の電波状態の悪い地域での生活になるから、中々連絡が取れなくなるとも書かれていた。だから、何かあれば、自分の携帯にではなく、叔父の悠へ連絡してほしいと。そして、メールの最後には『全国2連覇してね。応援してる』と綴られていた。

 彰子から連絡があったことに安堵し、忍足たちは全国大会に臨んだ。もし自分たちが負けてしまったりしたら、充分なフォローが出来なかったと彰子が気にすることは判りすぎるほど判っている。彼女の為にも負けるわけには行かなかった。勿論、それがなくとも初めから負ける心算などなかったが。そして、全国連覇を成し遂げ、それを伝えてほしいと悠へメールを送った。

 悠からは両親の容態は順調に回復していること、娘に甘える父に彰子と母が呆れていること、久しぶりの家族の生活を彰子が楽しんでいることが書かれた返信が届いた。

 その内容に安堵し、忍足たちは以降連絡を控えた。流石に状況的に頻繁な連絡は出来かねた。

 彰子の声を聞くこともなく、互いに連絡を取らないまま、時間は過ぎていった。






 記憶操作の為のシステムにそこまでインプットし、草紙神は深い溜息をつき、入力した画面を見つめた。後は彰子に会ってからシステムを実行するだけだ。そして、その後、東南アジアで実際に忍足たちと会い、彰子の葬儀を行う。

 愛する者の『死』という重大な出来事は、ただ記憶を操作するだけでは後々に何らかの支障を生む可能性が高い。記憶は感情までは伴わない。だから、これから彰子に会いに行き、その毛髪から彰子のクローン体を作り出す。彰子の『死体』を。それを忍足たちに見せることになる。確かに彼女が死んだのだと、彼らに実感させる為に。

 そのときの忍足たちの悲しみ、そして彰子のことを思うと、草紙神は己の無力さを呪いたくなる。こんなことになるのならば、彰子をトリップさせなければ良かったのではないか。そんな後悔さえ生まれる。あの世界で彰子は幸福そうだった。精一杯生きていた。だからこそ、それを奪わなくてはならない己が憎かった。

 彼が彰子をテニプリ世界にトリップさせて、もうすぐで3年になる。生まれ育った世界で少しばかり人生に倦んでいた彰子をトリップさせたのは、偶々彼女が人生をやり直せたらいいなと呟いたのを聞いたからだった。

 彼女をトリップさせ、そこで生きるように告げた。彰子は起きてしまったことは仕方ないとトリップを受け入れ、その世界で生きていくことを了承した。その彼女が心配したのは、生まれ育った世界の家族や友人知人に無用の悲しみを与えてしまうことだった。だから、選択肢を二つ用意した。彰子を死んだことにするのか、存在そのものをなかったことにするのか。それを彰子に選ばせた。彰子が後者を選ぶことは提案したときから判っていた。

 自分の存在がなかったことにされてしまうよりも、悲しみを与えないことを彰子は選んだ。だとすれば、本当は今度も存在抹消を彰子は望むだろう。あの世界では彰子に肉親はいない。友人たちがいるだけなのだから、そうすることは難しくないはずだった。だが、草紙神はそうしたくなかった。二度も彰子の存在を『なかったもの』にはしたくなかった。

 彰子は自分に関わった人々に悲しみを齎すことを気に病むだろう。彼女が周囲の人々を大切に思っていた分、彼女が周囲に愛されていただけに、その思いは最初の世界のときよりもずっと強いはずだ。彼女の心の負担を考えると、存在を抹消してしまうほうが彰子も楽になるだろう。罪悪感も薄らぐはずだ。

 だが、それでも、どうしても草紙神は彰子の存在を残す以外の方法をとることは出来なかった。

 たった3年ではあったけれど、あの世界で彰子は懸命に努力し、精一杯生きてきたのだ。多くの人と接し、人を愛した。そして愛されたのだ。恋愛に限らず、人と人として。その幸福な記憶を消すことは出来なかった。

『草紙神様、準備が整いました。対象を呼び寄せます』

「ああ、頼む」

 草紙神が答えると、技師はシステムを操作する。草紙神の目の前に3匹の猫が現れた。

「いきなり呼ぶなんて、いい根性してますわね、草紙神」

「びっくりしたー。なんなんだよ、一体」

「っていうかー連絡遅すぎだよ、草ちゃん」

 いきなり精神だけが呼ばれた猫たち──本体は青葉城の縁側でお昼寝中の真朱、萌葱、撫子の3匹は然程動じることなく、神様相手に常のマイペースのまま対した。その変わることのないマイペースぶりに草紙神は苦笑を漏らしつつ、安堵していた。この猫たちの存在がどれほど彰子の支えになっているかを彼はよく知っている。

「その様子だと、ママにとってはあまり良い結果ではありませんのね」

 草紙神の表情を見るや、真朱がいきなり核心を突く。

「ああ。だから、彰子に知らせる前にお前たちを呼んだ。お前たちに彰子のフォローを頼みたい。頼まれなくてもやってくれるとは思うがな」

 そうして、草紙神は猫たちに彰子のトリップの経緯と今後のことを話した。その内容に流石の猫たちも暫く言葉を発しなかった。

「なんとなく予感はあったけど、やっぱそうなったのか」

 溜息をつきながら萌葱が応じると、猫たちは草紙神の願いを了承した。

「というかー、草ちゃんに頼まれなくても、おかーさん守るしね」

「当たり前ですわ。ママあってこそのわたくしたちなのですもの」

「それは判ってたけどな。ああ、それから、俺からの詫びと感謝を込めて、お前らにちょっとした特殊能力やるから。BASARA世界なんだから、あってもおかしくないだろ」

 これから先、草紙神が彰子に何らかの干渉をすることは出来なくなる。ただ彼女を神界から見守ることしか出来なくなる。だから、せめてもの詫びと償いの為に、猫たちに幾つかの能力を与えた。あの世界で彰子が幸せに生きていけるように。それを猫たちが自分たちの願いどおりにサポート出来るように。

「大丈夫ですわ、草紙神。人は強いのです。ママも初めは哀しむでしょうけれど、必ず立ち直りますわ。この世界にも、あの世界と同じように、ママを大切に思ってくださる方が沢山いるのですもの」

 草紙神の不安と憂いと罪悪感を払うかのように、真朱ははっきりと断言した。

 誰よりも彰子のことを愛し、信じ、そして理解している真朱の力強い言葉に、漸く草紙神は愁眉を開いた。

 そう、人の力は強いのだ。神である自分たちが思うよりもずっと。

 草紙神は微笑んで頷くと猫たちの精神を肉体へと戻した。その後、猫たちは彰子と共に政宗を訪ねようとして、衛門らの口論を目撃することになる。

「これより青葉城へ参る。繋げ」

 厳かな声でそう告げると、草紙神は時空を転移したのであった。






 彰子に全てを話し、刻の狭間──神々の住む世界──へと戻った草紙神は、最後の仕上げにかかった。彰子の叔父・悠として忍足に電話をかける。これで、全てが終わることになる──。






 彰子がいなくなってから半年後、忍足は久しぶりに悠からの電話を受けた。それは衝撃的な、とても信じ難い知らせだった。

 悠からの電話が齎した知らせ──それは彰子の死を告げるものだった。両親の療養先の田舎の村で風土病に罹り、彰子は命を落とした。悠は深く沈んだ声でそう知らせてきた。両親はこの国に永住することにしているから、彰子もこの国に埋葬することになる、葬儀に来れるかと悠は確認してきた。

 その知らせを忍足は信じなかった。いや、信じたくなかった。

 彰子は自分の最愛の恋人だった。出逢った瞬間に恋に落ちた。彼女を知るごとに想いは深く強くなった。やがては彼女を人生の伴侶と思うまでに。

 そんな彼女がいなくなってしまうなど、信じられなかった。

 しかし、跡部やテニス部の仲間、彰子の親友と共に東南アジアに飛んだ忍足は、現実を突きつけられた。

 白い石造りの棺に横たわる少女は、まさしく自分が愛した少女だった。眠っているかのようなきれいな顔をした彰子がそこにいた。けれど、その肌は生者のものではなかった。白く透き通った、まるで人形のような硬質さを持っていた。

 涙は出なかった。号泣する詩史や向日、芥川の声を遠くに聞きながら、忍足の心は静かに凍っていった。

「彰子からの伝言だ。『ごめんなさい。ずっと侑士と共に生きていたかった。ずっと一緒だって言われてとても嬉しかった。侑士がいてくれたからとても幸せだった。だから、侑士には幸せになってほしい。1日も早く私のことを過去にして、前に向かって歩いてほしい。幸せになってほしい。それが最後の望みです』」

 全てが偽者の世界。彰子の両親も、この墓地も、彰子の遺体さえも、彰子の髪から作り出したクローン体だ。けれど、たった一つだけの真実が彰子からのメッセージだった。

 自身についての処置を聞いた彰子が、如何しても伝えてほしいと願った言葉だった。

「あいつの最後の望みだ。叶えてやってくれ」

 悠から告げられた言葉に忍足は何も言えなかった。最後の最期まで、彰子は自分のことを案じてくれたのだ。その命が消える瞬間まで。

「心底惚れた女のこと、そうそう簡単に過去に出来るわけないやないですか……。けど、それがあいつの望みなんやったら、そうします。彰子がそう望むんやったら……」

 搾り出すような忍足の声に悠は辛そうな顔をした。



 そして、忍足たちは彰子を失った痛みを抱えたまま帰国した。

 だが、時と共にやがて痛みは薄まり、哀しみも癒える。愛するものを喪った痛みが完全に消え、癒えることはないけれど、彼らは新たな喜びや愛に出会い、生きていくのだ。

 彰子は思い出の中の存在となって。