政宗を怒らせてしまった彰子は、殆ど眠れぬまま一夜を過ごした。
余計な差し出口を聞いて怒らせてしまったことを、彰子は深く悔いていた。昔からそうだった。人との距離感が巧く掴めない。まだそこまで踏み込める間柄でもないのにボーダーラインを踏み越えてしまって失敗する。或いはもっと入り込んでいい相手の遥か手前で足踏みして疎遠になってしまう。ずっとそんなことを繰り返していた。青春やり直しのテニプリ世界では、色々な人と接して随分改善されたと思っていたが、そうではないのかもしれない。そんなことを彰子は考えていた。
しかし、彰子は大きな勘違いをしている。政宗が怒ったのは距離感の問題ではない。惚れた女に他の妻を持つように勧められて喜ぶ男などいない。彰子の心に別の男がいること、自分は家族のような存在で彰子にとっては『男』ではないことは政宗にも判っている。彰子は純粋に自分や奥州のことを心配して他の妻妾を持つ気はないのかと訊いたにすぎない。それこそ、姉か妹のような気持ちで。だから、自分の想いを知らぬ彰子に怒りを感じるのはお門違いなのだ。そう思いはするものの、政宗は自分でも感情を抑え切れなかった。
結果、翌朝は短く朝の挨拶を交わしただけで、政宗は寝所から出て行った。
部屋に戻った彰子も心は沈んだままだった。朝食も殆ど喉を通らない。
(きちんと謝ったほうがいいよね。あ、でも……蒸し返すことになるから、余計に怒らせちゃうかな)
如何行動するのが正解なのかよく判らない。彰子の落ち込みぶりを心配した真朱たちに事情を訊かれたが、『政宗が怒るのも無理はありませんわね』と呆れられて匙を投げられてしまった。
(やっぱり今夜にでももう一度政宗さんに謝ろう。余計なことを言って申し訳ありませんでしたって。政宗さんの好意に甘えすぎて自分の立場も弁えずに……)
政宗が知れば『そういうことじゃねぇ』と更に怒りそうなことを彰子は考える。
だが、その日、彰子が政宗に謝罪する機会は来なかった。これまで殆ど毎日のように彰子を寝所に呼んでいた政宗は、その夜彰子を呼ばなかったのである。
それは『初夜』以降、彰子の体の事情のある日以外では初めてのことだった。
彰子を呼ばなかった政宗は一人で寝所にいたわけでもなかった。いや、政宗の姿は寝所にはなかった。それどころか城内の何処にも彼はいなかった。
それに最初に気付いたのは成実だった。1日中不機嫌だった政宗の様子に、彰子と何かあったなと見当をつけて注意を払っていたのだ。
政宗が不機嫌だった理由は、小十郎の話から想像がついた。不機嫌になるのも仕方ないと思いつつ、彰子の鈍感さには内心涙が零れた。これでは全く脈なしではないかと。
「まぁ、梵にしちゃ保ったほうかな」
溜息混じりに呟く成実に、小十郎と綱元も同意を示すように頷く。
「殿もお若いのだし、仕方あるまい」
ずっと片恋の相手と一つの布団で寝ていたのだ。政宗には毎夜が理性を試される苦しい状況だっただろう。よく4ヶ月も我慢出来たものだと3人は思う。それだけに彰子のことを大切にしていたのだろうと察せられる。
「やはりここは強引にでももう一人二人側室を入れるか……」
小十郎は呟く。
政宗の欲望の捌け口としてだけではない。唯一の側室である彰子への嫉妬を分散させる為にも、そうしたほうが良いかもしれない。側室を入れることで側室同士の諍いが起こることも考えられるが、そこは人選次第だろう。
政宗には告げていないが、実は彰子へのちょっとした嫌がらせは日常茶飯事となっていた。精々渡殿に泥が撒き散らされるとか、猫たちが納戸に閉じ込められるとか、その程度のことで、彰子に今のところ実害はない。因みに猫たちは自力で仕返しをしているので全く問題はない。しかも好意は2倍に悪意は10倍に、主への嫌がらせには100倍にして返すのがモットーの猫たちだから、寧ろ嫌がらせした側のほうが被害は大きい。
嫌がらせを受けた際には、彰子も一応喜多に知らせてくれており、自分一人で抱え込んで悩むようなこともしていない。だが、彰子に堪えた様子がなければ、嫌がらせはどんどん過激なものへと変化しかねない。そうならないうちに対策を講じるべきだろう。
「梵が諾と言うかなぁ……。これまでだって散々勧めてたのに、駄目だったじゃないか」
だからこそ、彰子が入城したときに家臣たちは喜んだのだ。
「御方様の安全の為といえば、政宗様とて否とは仰せにはならんだろう」
とはいえ、他の側室を入れるのも微妙な問題だ。多分に願望の混じった予測のとおりに彰子が元の世界に戻れないのであれば、小十郎も綱元も彰子に対して正式に政宗の側室になってほしいと頼む心算でいる。
彰子が政宗に対して異性に対する情愛を抱いていないことは判っているが、この世界この時代は恋愛結婚のほうが稀だから、それが障害になるとは思えない。彰子は恋愛ではないにしろ、信頼と家族愛に近い愛情を政宗に対して持っているのだから、自分たちが真剣に願い理をもって諭せば、恐らく彼女はそれを受け容れてくれるだろうと思っている。
だが、仮にそうなった場合、他の側室がいるとそれはそれで彰子に断る口実を与えることになる。彰子としても他の女性と政宗を共有することに対して幾許かの抵抗を感じるかもしれない。何しろ彰子がいた世界は一夫一婦制だと聞いている。
「ひとまずそれは置いておこう。御方様をお守りする為とはいえ、下手な者を側室には出来んからな」
政宗や彰子の心情もさることながら、側室ともなれば人柄や親族も問題になる。慎重に進めなければならない事柄ではあるのだ。
綱元の言葉に小十郎も頷き、成実はホッとしたように溜息を漏らした。成実としては、政宗に意に染まない側室など持ってほしくはなかったのだ。今は政宗の想いが彰子に通じることを心から願っている成実なのである。
「彰子ちゃんには梵が廓通いしてることは内緒にしておいたほうがいいよね」
「敢えて知らせて御方様の様子を見るというのも一つの手ではあるが……殿は気まずい思いをなされような」
彰子が政宗の廓通いを知ってどう反応するのか。不快感を感じるのか、安心するのか、無関心なのか。それによって彰子の内心を察ることも出来よう。しかし、後者二つだった場合には政宗に全くの脈がないということになってしまう。前者だったとしたら、余計な物思いの種を彰子に与えることになってしまう。妙な火種は作らないに越したことはないだろう。
結局、なるようにしかならないのだ。自分たちは傍観者でいるしかない。これは政宗と彰子の問題なのだから。いや、まだ二人の問題とも言えない。政宗だけの問題でしかないのだ。──このとき、3人ともそう思っていた。人の心情の機微に聡い綱元や成実ですら、彰子の僅かばかりの変化にはまだ気付くことは出来なかったのである。気付いていたのは、本人以上に彰子のことを知る猫たちだけだった。
あっという間に時間は過ぎた。1日はとても長いのに、気がつけば既に政宗と会わなくなってから10日が過ぎている。
自分の余計な差し出口が原因で政宗を怒らせてしまった。そして、謝る機会がないまま、ずるずると日を過ごしていた。政宗のところへ謝りにいこうか、或いは文を書こうかと思うものの、その一歩が踏み出せない。また怒らせてしまったら如何しようと、それが怖くて動き出せないでいる。
政宗と再会してから、こんなにも顔を合わせないことは初めてだ。広い城内は微かにも政宗の気配を知らせてはくれない。彼が今何をしているのか、全く判らなかった。
小十郎や成実、綱元はこれまでと変わらずに自分の許を訪れてくれる。小十郎と綱元は進講の為に、成実は息抜きと称して彰子の様子を窺いに。3人とも当然ながら彰子が政宗を怒らせてしまったことは知っているようだったが、それには何も触れてこなかった。一度小十郎が『自分が余計なことを言ったせいで申し訳ない』と謝罪したが、飽くまでも彰子自身が進言したのだから小十郎に非はないと彰子は思っている。寧ろ小十郎たち側近にまで余計な心労をかけていると思うと申し訳なさでいっぱいだ。
「……かーちゃん、折角雪が積もってるんだからさ、雪ダルマでも作ろうぜ」
ぼんやりと庭を眺めていた彰子に萌葱が体を摺り寄せ、遊ぼうと甘えてくる。気落ちしている彰子を慰め励まそうとしていることは彰子にも判る。真朱も撫子も何処か気遣わしそうな表情で彰子を窺っている。
「足、冷たくなるよ。萌葱寒いの苦手でしょ」
自分を気遣ってくれる萌葱を膝に抱き上げ、喉許を擽りながら言えば、萌葱はゴロゴロと喉を鳴らして甘える。
「あちらの世界ではあまり見られないくらい、きれいな雪ですわよ、ママ。思い出作りに雪ウサギでも作って、ケータイで写真でも撮りませんこと」
「きねんさつえーだね! 遊ぼうよ、おかーさん」
真朱と撫子もそんなことを言う。自分のことを心配してくれている猫たちに、彰子は嬉しさと申し訳なさを感じる。皆に心配をかけてしまっている。
政宗に遠ざけられて10日。彰子の精神状態を表すように食は細くなり、夜も眠れなくなっていることに猫たちは気付いている。衛門や小督もとっくに気付いており、かなり気を揉んでいるようだった。
「こんなにも政宗さんに頼りきってたんだね、私」
ポツリと彰子は呟く。とても寂しかった。政宗の姿が見えないことが。政宗の声が聞けないことが。この10日は元の世界を思い出すことすらなく、ただ政宗のことばかりを考えてしまっていた。
「ママ、思い切って政宗に会いに参りましょう。もう一度謝って、それでも政宗が許さないというならば、政宗もそれだけの男でしかないということですわ」
彰子の逡巡を見透かしたように真朱が言う。こういうときの真朱は何処か母親っぽく、或いは教師のような抗いがたさを持っている。それは彰子の背中を押す効果も持っていた。
「つーかさ、政宗も引っ込みつかなくなってんじゃねーの? 仲直りのタイミング外しちまって如何しよーとか思ってそうじゃね?」
「言えてるー。政宗って素直じゃないし、意外とお子様だし~」
萌葱と撫子も彰子の背を押す。そんな3匹に彰子は漸くクスリと笑った。
「そうね。私が余計なことを言って怒らせたんだから、私が出向いて謝るのが筋だよね。いつまでもグダグダ悩んでても皆に心配かけるだけだし、謝りに行こうか。謝って切れられたら、また出直せばいいだけだしね」
猫たちの後押しに彰子は漸く踏ん切りをつけた。政宗からのアクションを待っているだけでは駄目なのだ。自分の発言が原因なのだから、自分から動かなければ、事態は収拾しない。謝ることで蒸し返すことになるかもしれないが、それでも事態が停滞している現状よりはマシになるだろう。余計に悪化することがあるかもしれないが、そうなったらそうなったで、また他の対処を考えればいい。彰子が城を出ることを含めて。
「取り敢えず、ちょっと政宗さんとこ、行ってみるわ」
萌葱を膝から下ろし、彰子は立ち上がる。既に昼過ぎの時刻で、通常ならば政宗の執務は終わっているはずの時間帯だ。
「それがよろしいですわね。ママだけでは心配ですし、フォローの為にわたくしたちも一緒に参りますわ」
どちらが保護者か判らない発言をし、真朱は彰子と共に歩き出す。当然のように萌葱と撫子もついてくる。
「ありがと、真朱、萌葱、撫子。さ、行こうか」
3匹の存在を心強く感じながら、少しばかり前向きな気持ちになった彰子が部屋を出たとき、その声は聞こえてきた。何やら女たちが言い争いをしているようだった。
「あの声は衛門ですわね」
真朱が不審そうな声を出す。今ではすっかり彰子の第一の側近となっている衛門に対しては、警戒心の強い真朱もそれなりの信頼を置いている。彰子に心酔し御方様第一の衛門に、猫たちは仲間意識を持っているのだ。
「如何したんだろ、珍しいよね。衛門があんなに声を荒げるなんて」
温和しそうに見えて勝気な性格であることは知っているが、だからといって誰かと言い争う姿なんてこれまでに見たことはない。喜多のお墨付きがあるだけあって、衛門は道理も立場も弁えた文句のつけようがない侍女だ。そんな彼女がここまで声が聞こえるほどの大きさで言い争うなど、余程のことがあったに違いない。
自然と足早になり、彰子は声のほうへと歩を進める。そこにはこちらに背を向けた衛門と、数名の奥女中がいた。その奥女中たちには見覚えがある。政宗付きの侍女たちだった。
彰子が言葉を発するよりも早く、政宗付きの侍女たちが彰子に気付いた。そして彼女たちの表情は輝きを増す。それは負の方向の輝きで、彰子に対する嘲りに満ちたものだった。
「これはこれは、上田御前。如何なされました」
一番年嵩の侍女が何処か彰子を侮ったような声音で問いかけてくる。他の二人の侍女も彰子を嘲るような醜い笑みを浮かべている。それを見た猫たちは彰子の足元で臨戦態勢に入っている。
「殿のお召しがなく、お寂しいことにございましょうなぁ」
「早くも殿に飽きられてしまわれたご様子、ご同情申し上げますわ」
「殿は物珍しさから貴女をお傍に置かれたけれど、ご満足なさらなかったのでしょうね」
クスクスと笑いながら言う侍女たちに、彰子も不快感を覚える。だが、次の言葉を聞いた瞬間、彰子は自分でも思いがけないほどの衝撃を受けた。
「でなくば、殿が廓通いなさるはずもございますまい」
一瞬彰子はその言葉の意味が判らなかった。辞書的な意味は判る。けれど、何を言われたのか、感情が理解を拒んだのだ。彰子自身は無自覚ではあったけれど。
政宗が廓通いをしている。遊郭へ行っている。そこで他の女性を抱いているのだ。それを理解した瞬間、彰子の中で何かが壊れるような音がした。
「……御方様……」
彰子が呆然としていたのは、ほんの一瞬のことだった。気遣わしげな衛門の声に彰子は我に返る。
「殿方とはそうしたものでございましょう」
彰子は意識して声を発した。自分は仮初とはいえ、政宗の──奥州筆頭の側室だ。その側室が、たかが侍女風情に侮られてはいけない。それは城主である政宗をも軽んずることへと繋がりかねない。それに、自分が馬鹿にされるということは『実家』真田家や自分の後見である信玄までもが侮られることになるのだ。彰子はぐっと腹に力を入れ、侍女たちを見返した。
「どんな馳走であれ、毎日食べていれば、偶には違うものを食したくなるも道理。飽きれば戻っておいでになられましょう。慣れ親しんだものの許へと」
彰子は一向に堪えた様子を見せず、それどころか嫣然と笑って侍女たちを見遣る。それは何処か威を纏い、侍女たちをたじろがせるには充分なものだった。
「ご心配いただきましたこと、感謝申し上げまする。衛門、戻りますよ」
冷めた目を一瞬だけ侍女たちに向け、彰子は衛門を呼ぶと踵を返した。その後を衛門は追う。後ろに侍女たちの悔しそうな声を聞きながら、衛門はホッとしていた。御方様の耳に入れぬようにと注意を払っていたことだったのに、御方様は知ってしまわれた。けれど、少しも動揺することなく、嫌味な侍女たちも撃退してしまわれた。凛と美しく冒し難い威厳すら纏って。
「申し訳ございませぬ、御方様。お心をお騒がせしてしまって」
部屋に戻ったところで、衛門は彰子に詫びを告げる。
「気にしなくていいわ、衛門。ううん、寧ろお礼を言わなきゃいけないわね。私が余計な物思いをしなくていいように、ずっと隠してくれてたんでしょう、殿の廓通いのこと」
恐らく侍女たちのあの態度から察するに、政宗が遊郭に通っていることは近くに仕える者たちならば皆知っていたのだろう。けれど、今まで彰子はそれを知らなかった。側近にいる衛門や小督がそんな話が彰子の耳に入らないようにしてくれていたに違いない。
「それに、衛門が私の為に怒ってくれたこと、とても嬉しかったわ。ありがとう」
彰子の優しい言葉に感激しつつ、衛門はついつい愚痴が零れた。何故あのような者どもに御方様が侮られなければならないのか。悔しくて堪らなかったのだ。自分が何かを言い返せば、それは御方様の失点になる。そう思ってずっと我慢してきた。けれど、遂に我慢しきれなくなって反論してしまったのが、今日の出来事だったのだ。
彰子の言葉に堰を切ったように衛門は悔しさを訴える。衛門にとって彰子は得難い最高の主だった。彰子の側仕えであることが、衛門には誇らしかった。それなのにあの下種な侍女たちは、政宗のほんの少しばかりの
「貴女が、程度の低い者たちに合わせてあげる必要はないわ。言いたい人には言わせておけばいいでしょう」
憤る衛門を彰子はそう言って宥める。自分の為にこうして怒ってくれる存在がとても嬉しかった。
そして、同時に自分の中に言いようのない寂しさと哀しさが湧き上がっていることにも、彰子は気付いた。
何故、それを寂しく哀しく感じるのか。それは敢えて考えないようにした。考えてしまえば、自分でも気付きたくない感情を目覚めさせてしまう気がしたのだ。自分には忍足という恋人がいるというのに。今は遠く隔たっているとはいえ、自分には深く愛してくれる恋人がいるのだ。
だから、その感情を深く追求してはいけない──無意識に彰子は自分の中で予防線を張っていた。
(私は、仮初の側室。妻でも恋人でもないんだから、政宗さんが何をしようと関係ないはずよ。第一、他の妻を持つように勧めたのは私じゃない……)
この世界に飛ばされてから半年。彰子の心は少しずつ動いていた。本人も気付かぬままに。