忍足の夢を見、政宗に弱音を吐いた日から、彰子は頻繁にあの世界の夢を見るようになった。けれど、それらの夢はあの日のもののように幸せで切ないものとは違っていた。苦しくて悲しいものばかりだった。
ある夜は彰子が死んだものとして皆が受け容れて先に進んでいる世界。忍足や跡部は彰子を過去の人物として語っていた。
ある夜は彰子が存在しない世界。生まれ育った世界と同じように彰子の存在は抹消され、彰子は初めからいないものとされていた。自分がいたポジションは他の複数の人物によって埋められ、自分などいなくても問題ないと思い知らされるようだった。
そんな夢ばかり見る所為か、彰子は夜中に目を覚ますことが増えた。あの日のように泣いて目を覚ます。幸福感と寂しさが一体だったあの日とは違う。ただ苦しく哀しいだけの涙だ。
泣いて目覚め、隣の政宗が眠っていることにホッとして彰子は声を殺して涙を流す。袂に涙を吸わせ声を殺して。その所為で朝になっても袂は涙の跡を残しており、誤解した衛門が時折政宗に非難めいた視線を送る。政宗は衛門の視線も涙の跡の理由も察しているようだが、何も言わずにいてくれた。
彰子が深更に目覚めるとき、政宗も起きてしまっているようだった。けれどそれを彰子に知らしめることはなく、彰子の嗚咽が弱くなった頃を見計らって、眠っているふうを装いながら、胸の中に抱き込んでくる。
政宗の温かさに触れ、彰子は漸く再び眠りに就く。浅い、僅かばかりの眠りに。政宗の無言の優しさに感謝しながら。
そうして日々を過ごしながら、やがてあの日から1ヶ月が過ぎようとしていた。
日記をつけながら、彰子はふっと溜息をついた。
日記はいつも日中につけている。灯火は灯油が貴重なものということもあり、ぎりぎりの明るさのものでしかない。現代の蛍光灯の明るさに慣れている彰子にとってはその明かりは薄暗く文字を書くことには適していないのだ。彰子が望めば充分なだけの明かりを灯すことも出来ようが、世話になっている身ではそこまで我が侭も言えない。尤もそんなことを言えば政宗も喜多たちも『我が侭でもなんでもない』と呆れるだろうが。ともかく、如何しても夜に書かなければならないというものでもないから、夕食前のまだ日の明るいうちに書くようになった。
彰子は書いた日付に視線を落とす。『長月廿日余七日』つまり9月27日である。既にこの世界に来て5ヶ月が経ったことになる。
あちらの世界は今如何なっているのだろうと彰子は思いを馳せる。
全国大会は如何なったのか。中学時代から何かと因縁のある青学・立海との最後の対戦だった。跡部も忍足もかなり力を入れて練習していた。特に忍足は大学進学後テニスを辞めることからも、プレーヤーとして最後の大会に全力を傾けていた。一昨年は青学に敗れて準優勝、昨年は雪辱を果たし優勝した。今年は連覇を目標に部員一丸となって走ってきた。
けれどその直前になって、跡部・忍足と共に部の中心的存在であったマネージャーの彰子が忽然と消えた。それが何らかの影響を与えてしまったであろうことは想像に難くない。レギュラー陣が持ち前の精神力の強さで克服してくれているとは信じているが、やはり不安になる。
既にあちらの世界では11月半ばを過ぎているはずだ。もう忍足たち同級生は部活を引退して受験一色になっているだろう。とっくに大学入試センター試験の出願期間も終わっているはずだ。跡部は内部進学だが、他の進学組は外部受験だった。仲間内で内部進学は跡部と彰子だけだった。氷帝はuniversity(総合大学)ではなく政治経済学部しかないcollege(単科大学)だから仕方のないことだった。
こんなにも長い不在になるとは思ってもいなかった。すぐに草紙神が迎えに来てくれるとばかり思っていた。だからこそ、気楽にサバイバル生活などと言っていられたのだ。
「悠兄さん、来ないなぁ」
ポツリと呟いた彰子の言葉に、猫たちは彰子の傍へ集まる。衛門と小督はいない。彰子は始終傍に人が控えていることに慣れていない為、それを知っている彼女たちは日に何度かこうして彰子と猫たちだけの時間を作ってくれるのだ。日記を書いているときもそんな時間だった。
小督は初め御方様を一人にすることに抵抗を感じていたのだが、萌葱と撫子がいることから、やがてそれを受け容れるようになった。萌葱とは護衛を共にしていたことがあるから信頼していたし、撫子は自分が細作猫として訓練をつけているから、これもまた信頼しているのである。猫たちの御方様への執着と愛情は殿にも劣らぬほどであり、そんな猫たちが万一にも御方様の身に危険が近づくことを見逃すはずはなかった。
それに政宗の寵妾に対して何かを仕掛けるような不届き者がこの城にいるはずもない。また、佐助によって散々遊ばれ翻弄された黒脛巾組も伊達忍軍の誇りを取り戻せとばかりに訓練強化を行い、警備を見直し、今では外部からの侵入は不可能に近い状態になっている。その証拠に佐助もかすがも『侵入するには時間と手間が掛かり過ぎる』と堂々と表から城に入るようになったくらいである。
「あー、もうすぐ冬の祭典だからなぁ。あいつもめっちゃ忙しいだろ」
彰子の言葉に萌葱が応じる。草紙神は二次創作者の守護神である。だから、夏と冬の祭典前はかなり大忙しだ。尤も、コミケそのものは別の神様の管轄らしい。だが、管轄が違う為にその神様──名を穏祭神という──と様々な連携を取らなくてはならない分、忙しいということだった。おまけにその神様はまだ36歳という若さ──コミケの歴史を考えれば当然の年齢だが──で神様業務に不慣れな為、そのフォローも草紙神がせねばならず、コミケ後の草紙神はいつも体重が10キロは落ちているように見える(尤も神様に質量はない)。常々彼は『全二次創作者を俺一人で見るのはムリ。ジャンル毎とは言わんから、せめて絵と文、その他の3神を配下にくれ!!』と叫んでいる。
閑話休題。
ともかく、トリップ直後と同様、今の草紙神もかなり忙しい状況にあるはずだった。
「草紙神一人で何万人も管理してるし、忙しいだろーね。パラレルワールドもさ、7月に会ったときに遂に1万超えたって言ってたからね。探すのも大変そう」
撫子がのんびりした口調で言う。場が深刻にならないように撫子なりに気を遣っての口調だった。
とはいえ、誰も口には出さないものの心の中では疑問に思っていたのだ。時間がかかりすぎると。
恐らく、彰子のトリップ先として真っ先に探すのは彰子の現ジャンルである某ライトノベルの世界だろう。そして生まれ育った世界で活動していた某恋愛シミュレーションの世界とずっとプレイしていたオンラインゲームの世界。
それから、このBASARA世界。彰子が活動していたジャンルではないが、4月に政宗がトリップして来ているのだから、ある意味活動しているジャンルよりも関わりは深い。
尤もトリップが必ずしも関わりのある世界に行くわけではないことも承知している。でなければ原作知識なしのトリップはないことになる。
それでも関わりがありそうな世界から調べるのが普通だろう。そしてBASARA世界は早い段階で調べられているはずだ。
なのに、未だに草紙神は現れない。
「あちらとこちらの時間の流れを切り離すなり何なりの対処済みなのかもしれませんわね。その上でわたくしたちを戻す手続きに時間がかかっているのかも。お役所は書類と手続きが無駄に多くて煩雑だと仰ってましたし」
それならそうと一言連絡くらいは欲しいところですけれどと真朱は呟く。
「だよねー。一言くれれば安心出来るのに」
還れることが判っているならば、友人たちに無用な心配をかけずに済んでいるなら、この世界を楽しめるのにと彰子は思う。折角、信玄や謙信と知り合えたのに、と。
そんなふうに考えること自体が、恐怖を忘れる為だった。漠然と心にある予感。ほぼ確信に近い状態でどんどん強くなっていく不安。自分たちは二度とあの世界には還れないのではないか。
「かーちゃん、諦めんなよ」
「そうだよー。侑ちゃんもけごたんもにおちゃんも皆、おかーさんのこと待ってるよ」
それを感じ取ったかのように萌葱と撫子が体を摺り寄せてくる。尤も猫たちにしてみれば、還れようが還れまいがどちらでも構わないのだ。彰子さえいれば。否、どちらかといえばこの世界のほうが気に入っていた。話せることを隠さなくてもいいし、話せることを知っている所為か、あちらの世界の忍足や跡部よりも政宗や小十郎や成実のほうが自分たちを尊重して対等に扱ってくれる。魚だってこっちのほうが断然美味しい。だが、それも彰子がいればこそだ。彰子がいない世界なら自分たちは生きていたくないと思うくらい猫たちは彰子のことを大好きだった。
「うん、そうだね。還れるよね」
猫たちの優しさに彰子は微笑む。けれど、確信に近い不安が消えるわけではなかった。
もし還れないとしたら、自分は如何するのだろう。政宗が自分を仮の側室として城に留め置いてくれているのは、いつか帰れると思っているからなのだ。この世界に留まることになるのだったら、いつまでも政宗の好意に甘えてはいられない。自分の足で立って生きる術を見つけなければならない。
「還れるって信じてるけど、万一還れなかったら如何するかも考えておくほうがいいかな。還れないのかなってグダグダウジウジしてるよりそのほうが建設的よね」
努めて彰子は明るい声を出す。そう、還れなかったら如何するかを考えておけば、案外あっさりと還ることが出来るかもしれない。心の準備無駄になったねーなんて猫たちと笑い合える日が来そうな気がする。
「そうですわねぇ。本当に政宗の妻になるというのも一つの手ですわね」
政宗の望みを知っている真朱は、彰子がこの世界に残るのならばそうすればいいと思っている。城内の人々は彰子のことを政宗の寵妾として厚く遇しているし、小十郎たち事情を知る側近がそれを望んでいることも知っている。政宗の家族だって彰子を好意的に見ている。──輝宗と小次郎が庭師に化けていることに実は気付いている彰子と猫たちである。
「うーん、それは政宗さんに悪いよ。期間限定で守る為にって側室にしてくれたんだし」
彰子の言葉を聞いた瞬間、猫たちはこっそり溜息をついた。『鈍い!! 鈍すぎる!!』と内心で突っ込んだのは言うまでもない。彰子の恋愛に関しての鈍さは折り紙つきだ。なんせ、忍足はそのせいで出会い(一目惚れ)から告白までに2年近い月日をかけたのだから。
「このまま政宗さんたちの好意に甘えるのも悪いし、第一、それって私らしくないでしょ」
好意は好意でも下心ありの好意でしてよ、ママ…… 内心でそう突っ込む真朱だが、言葉に出しては他のことを言った。『私らしくない』には同意出来るからだ。
「だったら、甲斐に戻ります? 上田のお城だったら幸村に言えばちゃんとお仕事もさせてくれるでしょうし。それに幸村のお守をママがなされば佐助たちの苦労も減りますから、甘えっぱなしってことにはなりませんでしょ」
「それならここも一緒だろ。かーちゃんがいるから政宗のヤツ通常業務サボんなくなったらしいし。サボるとかーちゃんが怒るからってさ。こじゅもなるみもつなもーも助かるっつってたぜー」
「うん。政宗が城抜け出さないから、陰供につく黒脛巾も楽になったって皆言ってるよー」
要は仕事をサボらせない為の監視要員なのかと彰子は乾いた笑いを漏らす。
「でもさ、どうせなら色んなところ周ってみたくない? 越後とか京都とか、中国とか四国とか。熊本あたりも行ってみたいなぁ。ああ、豊臣のところにいるはずの
「あ、それも面白そうだね! 私、アニキに会ってみたい。もーりはちょっとパスだけど」
「清正公さんですか……。でも豊臣に潜り込むのはちょっとイヤですわね。あまり良い評判も聞きませんし」
彰子の言葉に撫子は楽しそうに、真朱はちょっと心配そうに応じる。
「かーちゃんが水戸黄門でー、俺が格さんでー、ねーちゃんが助さんでー、撫子はお銀?」
諸国漫遊と聞いて萌葱が某ご長寿時代劇の役に準える。
「パパはうっかり八兵衛だと思うよー」
「なんだと!!」
「まぁまぁ。私だって黄門様はおじーちゃんだからイヤだよ。他の例にしてよ」
撫子の突っ込みに尤もだと思いはしたが、それは口に出さず彰子は萌葱を宥める。
「でもさ、家族だけで自由気ままに旅するってのもいいよな。あ、そのときは俺、また虎に戻ってかーちゃんたち守るよ」
任せろ! とばかりに胸を張る萌葱はいつものやられ役からは考えられないくらい頼もしく見えた。
そんな萌葱にありがとうと頭を撫でながら、彰子は願った。こんな会話をしたことがいつか笑い話になればいいと。そう願わずにはいられないほど、不安は心に重く積もっていく。
「でもね、ママ。諦めたらそこで試合終了ですのよ」
そんな彰子の思いを敏感に察し、真朱は古いスポーツ漫画の名台詞を口にする。
「そうね。そうだよね」
彰子の前にちょこんと座って(いつの間にか文机の上に座っていた)じっと見上げてくる真朱を彰子は抱き上げる。途端に萌葱と撫子がずるいと抗議の声を上げるが、真朱は無視だ。
「ママ、不安に思ってることは正直に政宗にも話さなくてはいけませんわ。政宗ってあれで中々鋭いですからね。きっとママが言わないことでヤキモキしてると思いましてよ」
政宗が何処か不安げに彰子の様子を窺っていることを真朱たちは知っている。自分の本当の望みと彰子の願いの間で政宗が葛藤していることも。
「そうだね。ちゃんと政宗さんには話すよ。政宗さんからも言われてるしね」
言わないことで余計に心配をかけることもあるのだと、漸く彰子は学んでいた。その所為で、佐助に一晩で奥州と上田を往復させることになったのだから。
今夜呼ばれたら話しておこうと彰子は決めたのだった。
「真朱に叱られたわ」
その夜、当然の如く呼ばれた寝所で彰子は真朱のアドバイス通り、政宗に今の自分の不安を話した。もし還れないならどうするかという話はしなかったが。諸国漫遊に出るなどといえば政宗は『気を遣うな。奥州にいればいい』と言うに決まっているし、やはり還れない可能性の話などしたくなかった。
「『諦めたらそこで試合は終了です』って」
「なんだ、それは」
腕の中の彰子に視線を落として政宗は言う。漸く彰子もこうして腕の中で眠ることに抵抗しなくなってくれたことに嬉しさを感じながら。尤もそれは自分を異性と認識していないせいかもしれないと思うと複雑ではあるのだが、やはり自分が彰子に安心を齎せるというのは嬉しいことだった。
「あっちの世界の漫画の有名なセリフなの。諦めたら全て終わりなんだよね」
「Han.確かにその通りだな。諦めたらGame Overだ」
いっそ諦めてくれたら……そんなふうに思ってしまう。そんな己の醜い思いに蓋をするように、政宗は応じる。
「うん、だから、望みは捨てないことにしたの」
草紙神から元の世界には戻せないとはっきり告げられるまでは決して諦めない。彰子はそう心に誓っていた。どんな僅かな可能性でも、0でない限りは諦めないと。
「…ああ、それでいい」
彰子の強い意志を感じる声に政宗は胸が締め付けられた。彰子の苦しさを感じ取ったからか、それともそこまで元の世界に──忍足の許へ戻ることを望むのかと。
それが当然なのだと自分に言い聞かせはしても、理性はともかく感情が荒れ狂いそうになることを抑えられそうにはなかった。
(彰子をオレから奪うんなら、早くしてくれ。でなければオレは──)
彰子をこの世界へ寄越したであろう存在に政宗は心の中で呼びかけた。
日ごとに彰子への執着が強くなることを政宗は自分で知っていた。神を敵に回してでも、彰子を手放したくないと思い始めている自分に気付いていたのだった。