夢の中で彰子は『ああ、これは夢なんだな』と思った。だから、ずっとこのまま夢から覚めなければいいと願った。
その夢の世界は、あの世界だった。初めて異世界トリップをして若返って、人生をやり直すチャンスを与えられた世界。自分を好きになれるように努力して、元の世界で嫌いだった自分の嫌なところを出来る限り修正しようとして。そんな自分を友人として仲間として、そして恋人として受け容れてくれた、沢山の大切な人たちがいる世界。
忍足や跡部、詩史たちとテニス部の部室でお喋りをしている夢。トリップする前と同じように他愛もないことを喋り、笑いあう夢。そして、いつの間にか跡部たちは消え、忍足と二人になって、場所も彼の部屋へと移り変わる。
『好きやで、彰子』
そう言って忍足は優しく彰子を抱き寄せてくれる。世界で一番、彰子が心から安らげる、安心出来る場所。それが忍足の腕の中だった。
好きだと告げられたのは出会ってから2年近く経った冬。彰子の17歳の誕生日だった。出会ったときからずっと好きだったのだと告げられた。とても信じられなかった。忍足は自分を仲間としか思っていないと思い込んでいたから。自分の片思いだと思っていたから。
そして、恋人として付き合うようになったけれど、恋愛に晩生で臆病な彰子のペースに合わせてゆっくりと進んでくれた。初めてキスをしたのは、付き合いだしてから3ヶ月も経ってからだった。キスを求めてこない彼に、もしかして自分は魅力がないんだろうか、そんなふうに悩んだこともあった。詩史には笑われ、跡部には呆れられた。
『キスしてまうと、もっと先を求めとうなるよって、必死に我慢しててん』
忍足は困ったように笑っていった。そんなことを言いながらも、やはり忍足はそれ以降も彰子を急かすことなく、ゆっくりと距離を縮めてくれた。
毎週末のように忍足の部屋に行くようになったのは、高校3年に進級してから。初めて体を繋いだのは付き合い始めてから半年近くが経ってからだった。政宗と出会う、ほんの少し前の頃だ。
『俺、彰子との関係を焦る気はないねん。彰子と一生一緒にいるんやと思うてるからな。ゆっくり彰子が進める速さで進んでいったらええんや』
そう言ってくれた忍足の瞳はとても優しかった。
一生傍にいると言った忍足。自分たちはずっと共に歩いていくのだと言ってくれた。彰子も自然にそう思えた。忍足以上に誰かを愛することもない、そう思っていた。ずっとずっと、忍足と共にあるのだと思っていたのに。
『彰子、放さへんで。一生俺の傍におってや』
夢の中の忍足は何処か苦しげな声で言う。まるで今傍にいない──時の流れが同じならば、既に3ヶ月近く行方不明──彰子を案じ、そして責めるように。
「侑士……放さないで。傍にいて……」
自分の発した声で彰子は目を覚ました。目尻を涙が伝っている。
「やだ……夢で泣いちゃったんだ……」
隣で寝ている政宗を起こさぬよう、彰子はそっと起き上がる。音を立てぬように布団から出ると、襖をそっと開け、部屋を出る。
忍足の夢を見るのは久しぶりだった。夢にさえ現れてくれない忍足に寂しさを感じていた。夢とはいえ愛しい恋人と言葉を交わせたことは嬉しかった。そして、夢から覚めると言いようもない寂しさが襲い掛かる。
「侑士……会いたい」
出会ってからこんなにも離れていたことはない。恋人になる以前も一番近しい友人として、忍足はいつも傍にいてくれた。忍足は傍にいて当然の存在だった。同じ歳なのにそうは思えない温かさと懐の深さで彰子を支えてくれていた。
彰子の頬を涙が伝う。声もなく彰子は静かに涙を流す。会いたい逢いたい。その想いだけが彰子の心を占める。
煌々と輝く月明かりの中、彰子の姿は今にも消えてしまいそうなほど儚く映った。──じっと彼女の姿を見ていた政宗の目には。
政宗は彰子が起きる前から目覚めていた。彰子は言葉を発する前から苦しげな呻きを漏らしており、それで目が覚めたのだ。あまりに苦しそうな彰子を起こそうとしたときに彰子が目覚め、政宗は咄嗟に寝たふりをした。そうしたほうがいいと思ったのだ。恐らく自分が目覚めていたら、彰子は己の感情を隠す。心配させない為に。
部屋の外に出た彰子を案じて、そっと薄く襖を開け、様子を窺っていた。彰子は自分が見つめていることにも気付かず、物思いに耽っている。
月明かりの所為で常よりも青白い肌が、一層彰子を儚げなものに見せる。このまま消えてしまうのではないかと思えるほどに。もし、消えてしまったら──それが本来の世界に、忍足の許へ戻るのであれば仕方ない。それが彰子にとっては一番幸せで一番良いことなのだから。
そう思いはするものの、一方では出来るだけ長く自分の許にいてほしいとも願ってしまう。忍足の許へなど戻らず、一生この地に留まってほしいと願ってしまう。それが彰子にとってどんなに辛く苦しく、大きな悲しみを齎すものか判っているのに。
彰子の寂しさや苦しさを理解している心算だった。突然異世界へと飛ばされたのだ。仮令自分がいて、猫たちもいるとはいえ、それだけで彰子の悲しみがなくなるわけではない。どんなに還りたいと願っているのかは自分が一番判っている。
昼間の彰子は決して自分たちに寂しそうな表情は見せない。心配をかけると判っているから、決して見せない。
彰子の性格を理解している政宗も、それには触れない。彰子の心が弱りかけたらフォローすればいいと思っていた。敢えて口に出して、彰子に悲しみを突きつける必要もないのだと。
そう思っていた。けれどそれだけではないことも政宗は自覚している。出来るだけ、平成の世のことを思い出させたくなかった。殊に彰子の心を占める男のことなど、話題にすら出したくなかった。
『1日も早く彰子様をご正室になさいませ』
数日前の綱元の言葉が甦る。言葉には出さないながらも成実や喜多、政宗の心情を一番理解しているであろう小十郎でさえ、そう願っているのは察せられた。
「……won't be able to be done」
苦しげに政宗は呟く。
そんなことが出来るわけがない。願えるはずがない。心の奥底では本当は願っているのだとしても。彰子の本当の幸せはこの世界──政宗の住む世界にはないのだから。
「眠れねぇのか、Honey」
このままでは本当に彰子が消えてしまいそうで、政宗は堪らず声をかける。
「ごめん、起こした?」
ゆっくりと彰子は振り返る。既にそこに涙はない。
「気にするな。……体が冷えてるじゃねぇか」
政宗はそっと背後から彰子を腕の中に抱き込む。彰子は抵抗することなく政宗に凭れ掛かった。
「温かい……」
政宗の腕の中も、何も聞かずにこうしてただ孤独を慰めるように抱きしめてくれる政宗も。
「今日ね……あっちの世界の日付だと、侑士の誕生日だったの」
ポツリと彰子は呟く。忍足の18歳の誕生日。冗談のように彼は言っていた。『俺の18の誕生日プレゼントは婚姻届へのサインがええな』と。冗談に紛らわせた本気の言葉。それを彰子はとても嬉しく感じていた。
「そう……か」
「会いたい……侑士に会いたいの」
彰子の口から、切なげな、心を搾り出すような声が漏れる。政宗の腕の温かさが彰子の心を弱くする。甘えてしまう。
「夢ででも会えたらいいのにって思ってた。でも、夢で会ったら、目が覚めたときに凄く寂しかった……」
政宗にも覚えのあることだった。夢でいいから彰子に会いたいと願い、実際に夢で会えれば目覚めたときには夢見る以前よりも一層寂しさが増した。
「……いかに寝て見えしなるらむ……」
抱きしめた彰子の唇からか細い声が漏れる。
「うたたねの夢より後は物をこそ思へ、か」
「うん……」
彰子が他の男を想って涙を流し、恋しがり寂しがっていることが言い様もなく苦しい。オレを見てくれとそう叫びたくなる。けれど、それは決して口に出してはならないことなのだと政宗は自分に言い聞かせる。
彰子は自分の気持ちを知らない。自分とて知らせる心算はない。それなのに、知ってほしいと思ってしまう。想い返してほしいと願ってしまう。それは自分でも制御出来ない、当然の欲求でもあった。
己の隣で安心したように眠る彰子を見るたび、彼女に安らかな眠りを与えられる己が嬉しかった。それほど彰子に信頼されている己が誇らしく思えた。けれどその一方で隣で眠る彰子の馨しい香りに激情をぶつけたくなったことも一再ではない。強固な意志の力でそれを抑えつけてきた。
「大丈夫だ。オレがこうして還れたんだ。お前も還れる」
政宗は彰子を抱く腕に力を込める。言葉に反し己の腕に閉じ込めるように。
「そうかな……そうだよね……」
「ああ。還れるさ。まぁ、還ったら忍足のことだ。二度とお前を放さないってくらいに側にぴったりべったりになるだろうさ。Honeyが鬱陶しいって思うくらいにな」
彰子を励ますように、政宗は明るい声を出す。己の心の中にある冥い願いを打ち消すように。
「そうかもね。結構侑士、独占欲強いし」
政宗の気遣いに応じるように彰子も意識して明るい声を出す。こんなに寂しがっていては政宗に無用の心配をかけてしまう。それでなくとも忙しい政宗に、これ以上自分のことで煩わせるわけにはいかない。──政宗にしてみれば何処かずれたことを彰子は考える。
「さて、もう一眠りしよう。すっかり体が冷えちまってる」
政宗はそう言って彰子を抱きかかえたまま立ち上がる。
「ちょ…ちょっと、政宗さん!!」
「五月蝿い。夜中だ、静かにしろ」
「でも」
「寒いんだから大人しく抱っこされてろ」
政宗は彰子の抵抗を封じて床に戻る。そのまま彰子を腕の中に抱え込んだまま横になる。
「眠れ。夢も見ないくらいぐっすりな」
「うん……おやすみなさい、政宗さん」
政宗の言葉に彰子は目を閉じる。そして、その腕の温かさに誘われるようにやがて眠りに落ちていった。
彰子が寝息を立て始め、眠りに就いたのを確認すると、政宗は目を開けた。腕の中で小鳥のように身を寄せる彰子を切なげな瞳で見つめる。
「Love me do……」
願っても叶わないことは判っている。彰子の心の中にいるのは忍足なのだ。自分ではない。離れてしまった今、彰子の心はより強く忍足を求めているだろう。一度は諦めたはずの彰子が現れた途端、凶暴なほどの想いが胸に渦巻いている政宗は、それを実感として知っている。
頬にかかる髪を後ろに流し、政宗は彰子の頬にそっと触れる。このまま、己の願いに、望みに身を任せてしまいたくなる。その衝動を政宗はぐっと堪え、ともすれば暴走しそうな己を制御する。
「これくらいは許してくれよ」
彰子に対してなのか、異世界にいる彼女の恋人に対してなのか、政宗は呟くと、そっと彰子の唇に己のそれを落とした。触れるだけの、ほんの一瞬掠めるだけのくちづけを。
その夜空に煌々と輝く月が、一瞬だけ光を増したことに気付く者は誰もいない。