綱元の意見

「この文でございますか」

「ええ。お願いします、綱元さん」

『御方様』への進講初日から綱元は戸惑うことになった。

 小十郎から『御方様に内政について教えて差し上げてほしい』と言われたのはつい昨日のこと。かねてから彰子とゆっくり話をしてみたいと思っていた綱元は早速午前中に『よろしければ』と彰子に使いを送り、快諾を得て意気揚々とやって来た。今日は内政の概要について話す心算で奥州の地図を持ってきていた。

 一通り挨拶と呼称についての遣り取り──予想はしていたが、彰子は初め『鬼庭様』と呼びかけてきた──を終えた後、彰子は文の内容を確認してほしいと2通の手紙を差し出したのだ。

「お館様と弟──信玄公と幸村殿に宛てた文です。無事に入城したことの報告と生活の様子をお知らせしようと思いまして。この文を送っても問題ないか、確認をしていただきたいのです」

 そう言って彰子は綱元を促す。綱元はそれに戸惑った。

「何ゆえとお伺いしてもよろしいですかな、彰子様」

 戸惑ってはいるが、それを表情や声に表すほど綱元はやわではない。若く見えるが既に36歳。この時代にあっては間もなく初老と呼ばれる年代だ。元々頭脳明晰冷静沈着なポーカーフェイスの能吏である上に、政宗に代替わりしてからは傍若無人強引にMy Wayな殿様に振り回され、生半可なことでは動じなくなっているのだ。少なくとも表面的には。

 無表情の裏では目まぐるしく思考を巡らせ、彰子の意図を察る。答えが出るまでにそう時間は掛からなかった。もし自分の推測が正しいとしたら、小十郎が『正室に』と願うのも至極当然のことに思える。それを確認する為に彰子に問いかけたのだ。

「理由はいくつかあります。まず文字が私がいたところとは違いますから、問題がないか如何か」

 衛門か小督が部屋の外(或いは天井裏)に控えている可能性を考えて、敢えて『私がいた世界』とは言わず『私がいたところ』と言った彰子に、綱元は内心でニヤリと笑った。本当に頭の良い方だと思ったのだ。

「この部屋の周りは完全に人払いをしておりますゆえ、ご安心を。念の為萌葱と撫子が見張ってくれております」

 そう告げて綱元は先を促す。平成の世の話も聞きたかったから、この部屋の周囲は人払いをしてある。綱元が出て行くまでここに近づくのは事情を知っている者だけだ。

「それから、言葉遣いに不自然なところ、不敬にあたるものがないか如何か。何しろ、私がいた国は身分というものがなかったので」

 生まれ育った世界では社会人経験もあり、一応の敬語は身につけてはいるが、時折多重敬語などの間違いをしてしまうことがあった。また、身内の言動には尊敬語は使わず謙るのが通例だったが、この世界では如何なのか。領主である政宗の言動にもそのルールを適用してよいものか如何か迷い、取り敢えず身分社会だし……ということでルール適用は避けてみたが、それでいいのかも判らない。

「それと、これが最大の理由。多分綱元さんも判っておいでだと思いますけど。内容が奥州にとって問題ないか如何か。奥州に来るまでの道中のことや城内のことにも触れていますから。もしかしたら他国には知られたくないことを書いてしまっているかもしれません。そういったことがないのかを確認していただきたいのです」

 自分では風景描写や日常のことを書いた心算でも、もしかしたらその中には他国にとって有益で奥州にとっては不利な情報があるかもしれないと彰子は思ったのだ。今は同盟国とはいえ、何が如何転ぶか判らない。他国の領主と重臣に送る手紙なのだ。気をつけすぎるということはないだろう。

「なるほど。確かに私が予想していたとおりのことを仰る。ならば拝見致しましょう。されど理由は前二つの確認の為。御方様は細心の注意を払い文をしたためられたのであろうことがお言葉より判ります。最後の理由についてはそれだけで充分」

 このとき初めて綱元は彰子を『御方様』と呼んだ。小十郎や成実の話から正室に相応しいと予想はしていたが、今のこの話と彰子の姿勢で確信したのだ。

 それに、甲斐と今後戦をすることは恐らくないだろう。政宗の天下泰平の願いと信玄のそれはほぼ合致している。思い描く国の未来の姿も。とすれば、仮に信玄が飽くまでも己が天下統一を望むとしたら、政宗は戦いが避けられなくなる前に信玄に臣従することを決断するだろう。家臣としては少しばかり(というかかなり)残念で寂しい気もするが、そう決断している政宗を心の何処かでは誇らしく思っている綱元だった。

 つまり、今後甲斐と戦をしないのであれば、彰子がどんなことを書いていようが問題ないのだ。

 彰子が反論するよりも早く、綱元は文を開き目を通す。文字は問題ない。柔らかな筆遣いの流れるように美しい女性らしい文字だ。所々ぎこちなさもあるが、問題なかろう。言葉遣いも特に問題なし。問題なさ過ぎて『弟』幸村には他人行儀に感じられて寧ろ寂しがるかもしれない。何しろ佐助曰く『旦那は彰子ちゃんが本当は他人だってことを忘れてるかも』という様子らしいのだ。

 内容も世話になったことの礼が卑屈になる一歩手前くらいには丁寧に述べられているし、道中や城内での様子も『家族』を安心させるに充分なものだ。当然、機密に関わるようなことは一文字たりとも書かれていない。

「なんら問題はございますまい。多少ぎこちない文字や文章もございまするが、その程度は逆に親しみの持てるご愛嬌といったところにございましょう」

 丁寧に文を畳み彰子に返しながら綱元は言う。それにホッとしたように彰子は笑みを零した。

「さて、それではご希望の内政についての話を始めてもよろしいですかな」

「はい。お願いします」

 こうして綱元の講義初日が始まったのであった。






 時間はあっという間に過ぎ2刻(約4時間)ぶっ続けで綱元は彰子に講義を行った。綱元が一方的に教えていたわけではなく、彰子から鋭い質問もあり、時には未来の情報に基づく提案もあった。それもあり二人は時間を忘れてしまったのだ。結局、喜多が『いい加減にしなさい、綱元! 御方様がお疲れになられるでしょう!!』と鬼の形相で怒鳴り込んでくるまで、それは続いていたのである。

 初回からの無遠慮ともいえる長居を詫び、彰子の部屋を辞した綱元はそのまま政宗の執務室へと向かった。彼とて長居をする心算はなかったのだ。初回でもあり、半刻程度の心算でいた。しかし──。

「殿! 1日も早く御方様をご正室となさいませ!!」

 スパーンと障子を開き珍しく興奮した様子の綱元に、部屋にいた政宗と小十郎と成実が目を丸くして驚いたのは言うまでもない。






「で、如何したってんだ」

 白湯を飲み、漸く落ち着いた綱元に政宗は問いかけた。午前中に綱元が彰子の許へ進講に行ったことは知っている。彼が珍しくウキウキしていたことも。他の者には判らないであろうが、付き合いの深い政宗たちの目には如何に彼がこのときを楽しみにしていたかは明らかだった。

 そして、当初半刻の予定で彰子の許へ行った綱元は予定を大幅に超えて2刻もの時間、彰子と内政について語り合っていたのだ。彰子の知識の豊富さを知っている政宗にしてみれば、綱元とも対等に近い状態で話が出来たであろうことは想像に難くない。であれば、綱元が常の彼らしからぬ興奮状態にあることも納得出来ようというものだ。

「殿は甘藷なるイモをご存じであられるか」

 突然の綱元の言葉に政宗は目を丸くする。

「ああ、サツマイモとか唐芋とかいうやつだな。聞いたことはあるが、旬じゃねぇとかで食ったことはねぇな。それが如何かしたのか」

 舌の肥えている政宗の為に、彰子は出来るだけ旬の食材を買うようにしていたから、秋が旬のサツマイモは食べたことがなかった。好奇心旺盛な政宗も流石に見たことのない食材を買う勇気はなく、無難に見慣れた野菜ばかりを買っていた。そのくせ、肉は平気で買っていたあたり如何にも中途半端な警戒だったのだが。

「御方様より、甘藷を育てるようにと勧められました」

 綱元は言う。

 進講の折、奥州の農業について説明した綱元に彰子は『甘藷という作物はありますか?』と尋ねたのだ。名前に聞き覚えのなかった綱元はその作物の特徴を聞き、やはりこの世界──少なくとも綱元の知る範囲ではそれに該当するものがないことを告げた。

 すると、暫し思案した彰子は更に問いを重ねてきた。

「政宗さんが南蛮語を話すということは、奥州は南蛮と取引があると思ってもいいんですよね? イスパニアやポルトガルですか?」

 商業都市の堺や長曾我部の治める四国ほどではないが、確かに奥州も南蛮、特にイスパニアとの取引がある。そう答えると、彰子は説明をしてくれたのだ。

 奥州の農業の中心は稲作で、ほぼそれに頼っている。つまり、豊作のときはいいが、凶作の年には国全体に影響が出てしまう。政宗たち為政者側としてもそうならないように米の備蓄はしているが、それにも限界がある。彰子が元々いた世界の仙台藩は米の大生産地で江戸の食を支えたほどの土地だが、米に頼りすぎた経済が後には慢性的な財政赤字を齎すことになる。尤も、現時点では産業振興を行う余裕はまだないから、産業構成を変えるとかそういった話の為に甘藷を持ち出したわけではなかった。

「甘藷というのはどんなに痩せた土地でも育つ芋です。一度収穫すれば低温所に保管しておくことで、数ヶ月から数年は保存が出来ます。栽培も簡単なんです。救荒作物として育ててみては如何でしょう。ジャガイモとか馬鈴薯という芋も同じように救荒作物になります」

 江戸時代には何度も起こった飢饉の際にその対策として栽培された実績のある作物だ。サツマイモとジャガイモは救荒作物の代表ともいえるものだった。

 問題はまだこの時代には日本に伝わっていない作物ということだった。だが、奥州が南蛮──ことにイスパニアとの交易があるというならば、手に入れられる可能性はあるだろう。何しろこの時代のイスパニア、つまりスペインは太陽の沈まない帝国といわれるほどに世界中に植民地を持っていた世界最強国家だった。スペインやポルトガルによって南米やアジアの様々なものがヨーロッパに持ち込まれ、それが世界中に広がっている。甘藷・馬鈴薯はいうに及ばず、香辛料やタバコなどもそういった南蛮経由で日本に持ち込まれるのだ。

 彰子は紙にサツマイモとジャガイモの絵を描き、特徴を書き加える。そして、こういった芋がないか、あるのであれば種芋か苗を買いたいと交渉してみては如何かと提案してきたのである。

 彰子の話はそれだけに留まらず、租税についても質問してきたり、現在戦場になる可能性の低い奥州のいくつかの地域で実験的にでもいいから産業振興の為の政策を行っては如何かなどの提案もしてきた。平和な時代になったとき、長く戦場にならなかった地域に豊かな食物と財があれば、それを一時的に疲弊した地域へ支援することも可能だろう。そうすれば、復興も早くなるに違いないというわけだ。

 そんな話をしていたからこそ、綱元は時間を忘れ、彰子と話し込んでしまったのだ。彰子に内政について教える為に出向いたはずが、結局、彰子から大量の情報を仕入れることになった綱元は、その興奮冷めやらぬまま政宗のところへやって来たのである。

「なるほどな。まぁ、あいつはあっちの世界でも色々政治や経済、歴史について勉強していたからな」

 政宗は当然のことのように笑む。将来的には財閥という世界を股にかけた大きな商家の跡取りである男(つまり跡部)の補佐役となることが決まっていた彰子は、将来の為に様々な勉強をしていたのだ。

「凄いね、彰子ちゃん。っていうか、平成の人って皆そんなに政のことを考えたりするの?」

 感心したように成実が呟く。彰子は一般庶民だったはずだ。政に関わるような立場にいるわけではなかった。なのに、そういった政に関わる知識を持ち、提案が出来るほどの為政者寄りの視点を持っているのだ。もしそれが、彰子だけではなく平成の世の人々全てに共通することだったとしたら、平成の世界というのはどんなに素晴らしい世界なのだろう。

「いや、色々いるぜ。政に興味も関心もない奴もいる。詳しい奴もいる。それだけだ。まぁ、為政者でもねぇのに詳しい奴がいるって点では、この世界とはだいぶ違うがな」

 成実の問いに政宗は答える。確かにテレビや新聞、インターネットと様々な媒体で政治についての記事や番組があった。関心さえあれば為政者の立場にない一般庶民でも政治に詳しくなることが出来る世界だった。そして彰子は、その関心のある庶民だったということだ。

「殿。1日も早く彰子様をご正室になさいませ」

 先ほどとは打って変わった落ち着いた常の声で再び綱元は言った。

 彰子から齎された情報は衝撃だった。何よりも奥州に、ひいてはこの世界にって有益な情報と提案だった。しかし、綱元が彰子を正室にと願ったのはその情報ゆえではない。その情報を元に提案を行う、その姿勢ゆえに心の底からそれを切望するに至ったのだ。小十郎が言っていたのと同じだった。彰子は既に『為政者の妻』としての視点を持っているのである。それがどれほど得難いことなのか、近隣の国々を見ている綱元にはよく判っていた。

 初めの『正室に』発言は興奮状態の綱元が言ったことであった為、政宗はスルーしていた。しかし、今度の言葉はそうもいかなかった。綱元は冷静さを取り戻しており、それでも尚、そう言っているのだ。それは彼が本心からそう望んでいるということだった。それを流してしまっては綱元は勝手に何か画策しかねない。きっちりと釘を刺しておく必要がある。

「馬鹿なことを言うんじゃねぇ。あいつが生きる世界はここじゃない。あいつは何れ元の世界に戻り、ここからはいなくなる」

 不快げに眉を顰め、政宗は綱元の言葉を切り捨てる。彰子は何れ還る。自分がこの世界に戻ってきたように、やがては彼女も忍足の待つ世界へと還っていくのだ。仮令本心では政宗がどれほど彰子をこの世界に留めたいと思っていたとしても。

「されど、御方様がこの世界に参られてより既に3ヶ月以上が過ぎております。ご帰還が叶うのであれば既に還っておられましょう。未だその兆しもないとなれば、御方様のご帰還は不可能ではないかと」

 政宗の険しい表情に臆することなく綱元は冷静さを崩さずに告げる。それは誰もが──当人である彰子を含め──漠然と感じ始めていることだった。その可能性をどれほど彰子が恐れているのかを、傍にいる政宗はよく知っていた。

「黙れ、綱元。それ以上言うなら、お前でも容赦しねぇ」

 語気も荒く政宗は言い捨てると、不快げな表情も露わに部屋を出て行ってしまった。

 その後姿を見送り、小十郎と成実は溜息をつく。

「綱元の言うことも判るけどさ、色々微妙な問題も含んでるから、私たちはあまり口にしないほうがいいと思うな」

 政宗とは幼馴染の気安い仲であり、また彰子と個人的な交流を深めている成実は、少しばかり綱元を咎める口調になる。

「だが、綱元の言うことも一理ある。御方様がご帰還叶わない場合のことも、政宗様にはお考えいただかねばならんだろう」

 このまま仮初の側室としておくのか、本当に妻にするのか。或いは城から彰子を出すのか。

 側近たちの意見は一致している。彰子がこの世界に残るのであれば、是が非でも政宗の正室にと願っているのだ。小十郎は何処か政宗の保護者的な思惑で、成実は政宗の親しい身内としてそれを願っている。そして綱元は奥州の政に携わる者の一人として、彰子を奥州筆頭の正室にと望んだのだ。

 けれど、実際に元の世界への帰還が不可能であることが判明し、あるべき世界から切り捨てられた深い哀しみに暮れる彰子の姿を見たとき、彼らは自分たちの願いを心から悔いることになる。