政宗や成実とのんびりした午後を過ごした翌日、彰子は『ご相談したいことがございます。お時間の都合の良いときに、ご足労いただけませんでしょうか』と衛門を通じて小十郎に伝えてもらった。家老格の家臣で軍師で、側近という名の暴走脱走監視員でもある小十郎は忙しいだろうと思ったのだが、彼は衛門が戻るのに同行してやって来た。
「御方様、ご相談とは?」
衛門と小督には内密の話だからと下がってもらい、二人──正確にはプラス3匹だが──になったところで、小十郎が口を開いた。とはいえ、彰子を既に主君の妻と認識している小十郎は、彰子が『お呼び立てして申し訳ありません。お忙しいところありがとうございます』と小十郎に声をかけてから口を開いたのだが。
彰子は側室の自分が家老格や門家筋である三傑よりも身分が高いとは思えず、己の序列に中々納得していなかった。だが、再三の説明により今は何とか受け容れてくれているようで、小十郎はホッとしている。
小十郎たち三傑は、彰子のことを側室ではなく、心の中では正室として扱っている。政宗の気質からして他の妻妾を娶るとも思えず、唯一の妻となる可能性が高い。少なくとも彰子がこの世界にいる間は、政宗が他の女を傍に置くことはないだろうと小十郎は見ている。或いは彰子が還ってしまっても他の女を娶ることはないかもしれない。
それに──小十郎、綱元、成実、喜多の4人は彰子にこの世界に留まってほしいと願っている。この世界に留まり、本当に政宗の妻になってほしいと。実家が神職である小十郎などは家督を継いでいる弟を通じて願文を奉り祈っているほどだ。
ともあれ、現在唯一の政宗の室であり、同盟国甲斐の重臣真田幸村の姉であり、更には武田信玄も後見人となっているのが、今の彰子の公的な立場だ。同盟締結と同時に政宗自ら連れ帰ったこともあり、伊達家中では同盟の証とも思われている。
そうであれば、やはりそれらを尊重し、政宗に次ぐ身分として遇するのが適当だと、小十郎たちは彰子を説得したのである。
彰子はそれでも納得しかねる部分も多かったようだが、『実家』や同盟のことを持ち出されると我意を通すのも憚られ、不承不承といった感じではあったが受け容れたのだった。
因みに政宗に次ぐ身分はこの本丸内に限ってのことで、家中全てで考えると第6位になる。東の丸に住む先代である政宗の父・輝宗、母・義姫、同母弟の政道(小次郎)、異母弟の秀雄に次ぐ身分となる。そのことを説明されたときには心底ホッとした彰子である。
そんな彰子だから、自分が上位者として命令を下せる立場にあるとは露ほども思っておらず、それが『ご都合の良いときにご足労を』という面会希望だった。しかし、小十郎は仕事を中断し、残りは綱元と成実に任せてすぐさまやって来ていた。これも小十郎たち『家臣』にとっては至極当然のことだ。『何刻に』という指定がない限り、主君或いは上位者に呼ばれればすぐに赴くものなのだ。
だから、彰子の配慮が窺える面会希望には、小十郎も綱元も成実もある意味感心した。相手の立場と都合を慮っての控えめな呼び出しなのだ。身分のない世界ではこうも自然に相手の立場に心を配れるものなのかと、自分たちの世界との違いを感じたのである。尤も人それぞれな面もあろうし、『彰子ちゃんらしい言いようだよね』と成実は何処か嬉しそうに笑っていた。
一方、お使いをした衛門はこの言伝を受けたときから感動していた。小十郎に対する──つまり下の者に対する心遣いを常に忘れない御方様に、である。小十郎ら重臣だけではなく、侍女である衛門や人扱いされない細作の小督、子供に過ぎない小姓の常葉丸にも、御方様は常に礼や労いの言葉をかけてくれるのだ。
彰子は現在政宗唯一の妻であり、寵愛厚い側室だ。謂わばこの奥の最高権力者に等しい。どんなに我が侭に振舞ってもそれが許される立場にある。それなのに御方様は自分たちを気遣ってくださる。『手数をかけて申し訳ないのだけれど』『面倒なことをお願いしてごめんなさい』『忙しいでしょうに、ありがとう』など、常に彰子の言葉には労わりが込められている──と衛門と小督と常葉丸は思っている。
常葉丸などは、殿のお使いで御方様の許へ行くたびにお菓子をもらえることもあり、餌付けされているといえなくもない。だが、育ち盛りの少年にとって朝夕二度の食事では足りないのだ。しかも御方様は自分だけではなく他の小姓の分も含めて5人分を必ず下される。殿から下されたであろう珍しい砂糖菓子や南蛮の菓子のときもあれば、素朴な草餅や団子のときもある。日中のお使いであればその日のうちに食べられそうな菓子であり、夕刻の使いならば日持ちのしそうな干菓子が多い。そんなさり気ない心遣いまでしてくれるのだ。だから、決して常葉丸たち小姓は胃袋で懐柔されたわけではなく、子供の自分たちを侮ることなく心を配り、優しく微笑んでくれる『御方様』のことを大好きになっていたのだ。
因みにそれらの菓子は彰子の意を受けた喜多が手配し、衛門や小督が城下に買い求めに行っている。衛門たちも『殿付きの女中は敵ばかり。ならば小姓たちはこちらに引き込んでしまおう』という理由で、嫌がることなく積極的に毎日のように城下に菓子を仕入れに行っているのであった。
城内の人たちが自分を側室と認め、誤解も多いながら比較的好意的に受け容れてくれているのが判ると、彰子の中でまた生来の生真面目さが頭を擡げた。つまり、このままでいいのだろうかというわけである。
居場所を与えてくれた奥州へのお礼としては、彰子が持つ知識を求めに応じて提供するということで決着しているが、具体的には何もしていない。小十郎や綱元が何かを求めてきたことはまだないし、彰子から提供しようにもこの世界の知識がなくては提供しようもない。そこで、小十郎に相談というわけだった。
「私は一応政宗さんの側室ということになっています。真実が如何あれ、側室となったからにはこの奥州のことを何も知らないままで良いとは思えません。奥州の状況が判れば、お約束した情報の提供も容易になると思うんです」
この数日考えていたことを彰子は口にする。小十郎は何も言わず彰子の言葉を聴いている。
「そこで、現在の奥州の勢力関係、周辺勢力の状況、租税や農業、商業や産業の状態、或いは治水といった政のことを学びたいのです」
勿論、小十郎さんたちが教えて構わないと思う範囲で結構ですので。
そう付け加えた彰子に、知らず小十郎は笑みを零した。やはり御方様は頭の良い方だと思ったのだ。奥州や周辺勢力の情報などは機密に属するものもある。そういったものを排除し、全てではなく教えられる範囲でいいと彰子は先に線引きをしてくれたのである。
それに、元々『情報提供をする』というものは方便でしかなかった。そうしなければ彰子が納得しないだろうと思ったからだ。小十郎たちの中で、彰子が政宗の傍にあることそれ自体が充分以上のお礼になっているという気持ちは日を追うごとに強くなっている。
「それに、皆さん本当に私に良くしてくださって……感謝の言葉をどれだけ申し上げても足りないくらいなんです。喜多さんも、衛門さんも小督さんも、常葉丸君も。本当に皆さん好い方ばかりで。そんな奥州の方々に少しでもお礼がしたいんです。私の持つ知識が、少しでも皆さんの生活が良くなることのお役に立てるなら、どんなに嬉しいことか」
彰子のその言葉に小十郎は瞠目する。彰子本人は気付いていないだろうし意識もしていないだろうが、それは既に為政者の妻の視点だった。きっかけは接する人々への感謝の念。けれどそれに留まらず、奥州全ての民の生活の役に立てればと願っている彰子。民の生活を豊かにする為の策を考えるのは為政者の務めだ。彰子は己の立場を側室と認識することによって自分でも気付かぬまま『為政者の妻』の視線で物事を考えているのだ。少なくとも小十郎にはそんなふうに感じられた。
そもそも今の時代、女性が政について学びたいなどというのは珍しい。家中を取り纏める働きをする奥方もいるがそれは飽くまでも家臣団を纏めるというだけで、領民にまで目を向けることの出来る女性は少ない。だからこそ、そういった奥方が『優れた妻女』として評価されるわけで、それだけ稀有な存在なのだ。
だが、彰子は誰に言われるでもなく、また誰から求められるでもなく、自分一人の考えで領民へ目を向けている。それはまさしく政宗と同じ目だ。
(やはり、彰子様は得難いお方だ)
部屋に戻ったら改めて願文を書こうなんてことを思いながら、小十郎は重々しく頷いた。
「御方様の仰せもご尤もなれば、この小十郎がご指南仕りましょう。戦の話などは血腥い話になりまするゆえご不快なこともございましょうが、それでもよろしいか」
「ええ、覚悟はしています。仮にも奥州筆頭の側室ですもの。知らないでは済まされないでしょう」
何処か脅すような小十郎の言葉にも彰子は余裕を持った笑みで応じる。そのことがまた小十郎を喜ばせる。
「されば、戦や軍事に関することはこの小十郎が、政については綱元殿よりご指南仕るよう手配致しましょう」
綱元も彰子から平成の世界の政についての話を聞きたがっていたから丁度良いだろうと小十郎は勝手に決定してしまう。綱元も文句は言わないだろう。これまで側近の中で一番彰子との接点がなかったのが綱元だ。それを綱元が残念に思っていることは小十郎も知っていた。
こうして、彰子は小十郎と綱元という最上級の教師に学べることになったのである。
彰子との対面を終えて部屋に戻ると、綱元と成実が押し付けられた仕事を黙々とこなしていた。
「済まなかったな」
一言詫びて文机の前に戻ると、小十郎は不在の間に増えていた書類に目を落とす。
「で、彰子ちゃんの話ってなんだったのさ、小十郎」
処理し終えた書類を渡しながら、成実は興味津々といった表情で問いかけてくる。綱元も興味があるようで口には出さないが目で返答を求めてくる。
「ああ。彰子様は奥州にとってなくてはならない方になりそうだな」
直接は答えず、小十郎は己が感じたままの言葉を告げた。あの方は政宗様の想い人というだけではなく、恐らく奥州にとっても得難い奥方となる。小十郎は彰子との対面でそう感じたのだ。
「ほう、何故だ」
小十郎の言葉に興味を惹かれたように、綱元は筆を置き、小十郎に続きを促す。
「奥州や周辺の勢力関係、それに奥州の政について学びたいと仰ったんだ。戦や軍略といった女性にとっちゃ不快な話でも構わねぇともな」
そう言って小十郎は彰子との会話、それらについて小十郎が感じたことを話した。聞き終えた綱元と成実は先刻の小十郎と同じように瞠目し、そして嬉しそうな表情になっていた。
「小十郎、1日も早く彰子様に子が出来るよう願う願文を書け。お前と成実と私とで寺社に寄進し祈願させよう」
「つなもー、それ気が早いって。子が出来るって……梵はまだ何も出来てないと思うよ」
気の早い綱元に苦笑して成実が言う。因みに猫たちの影響されて気安い場では『つなもー』に『こじゅ』と呼んだりする成実である。
「平成の世に戻らずこの世界にお留まりあるよう、などとは書けぬであろうが。殿のことだ、彰子様が帰還出来る可能性があるうちはお手をお出しにはならぬだろうからな」
つまり、彰子に子が出来るよう願うということは、その前提として彰子がこの世界に留まることを願うことになるのだと綱元は説明する。
「元服して早8年。漸く迎えられた側室に早く子が出来るよう願うのも至極当然。誰も何も怪しみはせぬだろうて」
ニヤリと笑う綱元に小十郎と綱元は感心する。智の景綱と呼ばれ軍師である小十郎とはいえ、こういう面では綱元の足元にも及ばないのだ。
「なるほど。確かにそれはいいな。我ら側近が願文を奉ったとしてもなんの不思議もない」
「だね。やっぱり、こういう悪知恵で綱元に勝る人はいないよね。彰子ちゃんの身元のこともそうだったしさ」
成実の言葉に甘ったるい恋物語を幸村たちに騙らねばならなかった小十郎はそれを思い出してうんざりした顔をした。
「でもさー、こじゅは彰子ちゃんに軍略を教えて、つなもーは政を教えるんでしょ? 狡いな。私も何か彰子ちゃんの指南役になりたいよ。あ、武芸の指南とか如何かな」
「それは必要とあらば姉上がなさるだろう」
ぶーぶー言い始めた成実の提案を綱元は一蹴する。喜多は綱元や小十郎に最初に剣術を教えた女丈夫でもあるのだ。
「成実は彰子様と同じ歳でもあるしな。先日も気安く話し込んでいただろう。お前は私的な場で彰子様をお支えする役割を持てばいい。そんな相手も必要だろう。──まことのご側室となれば尚のことな」
綱元の言葉に、成実は表情を改め頷いた。その言葉の裏にあるものを読み取ったのだ。伊達の細作軍団・黒脛巾組は成実の配下にある。綱元はそのことも踏まえてそう言ったのだろう。
「勝手に願文なんて奉ったら政宗様はお怒りになるかもしれねぇが……こればっかりは政宗様の勘気に触れようが譲れねぇな」
「うん。梵は自分の幸せには無頓着だからね。殿の幸せの為に尽くすのも私たちの役目だよね」
ニッコリと成実は笑う。一人の青年としての政宗にとって彰子は必要な女性だと思ってはいた。彼女がいることで政宗は幸福そうに見えたから。だが、それだけではない。きっと奥州筆頭・伊達政宗にとっても上田御前・真田彰子は必要不可欠な女性となるだろう。
政宗も彰子も知らないところで、状況はどんどん加速を始めていた。