布団に入るまでは緊張していた彰子だったが、結局は確りぐっすり熟睡してしまっていた。目覚めもすっきりで自分が何処で寝ていたかを忘れてしまっていたほど、安心しきって眠っていたようだ。結果、目を開けて目の前にあった美丈夫のドアップに仰天し、危うく叫びかけるところだったのだが。
(あ、そうか……。政宗さんと一緒だったんだっけ)
昨夜寝入ったときと同様、未だ彰子は政宗の腕の中に閉じ込められている。身動きすれば政宗を起こしてしまいそうで、彰子はじっとしているしかなかった。
まだ夜明けには若干の時間があるような刻限。夜の闇が少しずつ薄らぎ、夜が徐々に朝へとその支配権を委譲している時分だ。
(政宗さん、腕痺れてないかな……)
如何でもいいことを考えてしまうのは、身動きが出来ないからだ。じっと息を潜めて政宗が目を覚ますのを待つしかない。身動きが出来ないから如何しても彰子の視線は目の前の政宗へと注がれる。無防備に眠っている政宗を彰子はぼんやりと眺めた。
(綺麗な顔立ちしてるよね。侑士もそうだけど)
恋人の忍足もそうだが、政宗も随分整った顔立ちをしている。尤も忍足は長めの前髪と丸眼鏡で美貌を隠し、飄々とした性格と行動や雰囲気でそれと感じさせないが。
政宗とて普段はその覇気の強さから顔の美醜はあまり意に留められない。その存在感の強さは容姿など如何でもいいと思わせるくらいなのだ。
そういえば、弟となった幸村だって結構なイケメンだ。あの傍迷惑な大声とお馬鹿さん♥な振る舞いで忘れがちだが。
今、眠っている政宗は、当然ながら俺様言動を為すわけでもなく、その分顔立ちの端正さが際立っているように思えた。
(気付きにくいけど、実は政宗さんって線細いよなー)
かといって中性的・女性的というのではないが、小十郎や綱元、或いは信玄や佐助に比べれば線が細い。忍足や跡部と比べても細いかもしれない。だが、華奢な印象を受けるというものでもない。やはりこれも彼の気質が大きく影響を与え、そう感じさせないのだろう。喩えて言うならばチーターのようなしなやかな強さを持った細さといった感じだ。或いは優美な外見を持つ東洋の龍。西洋のドラゴンはどちらかといえばゴツい印象があることだし。
因みに比較対照に秀吉を入れなかったのは、あれは次元が違うからだ。本当に人間ですか? と言いたくなる。身長3メートルは越してそうに見える。況してや本多忠勝など。アニメやゲームを見たときに思わず『アムロ、行きまーす!』と呟いてしまった彰子である。
そして、目を閉じているだけで印象も随分変わる。政宗を政宗たらしめているのはやはりあの意志の強い眼なのだ。強さ、鋭さ、覇気、烈気──そんな武将らしい眼。遥か未来を見据え国を導こうとする奥州筆頭──為政者の眼。
けれど、それだけではない。悪戯小僧やヤンチャ坊主のような19歳の青年らしい表情もすれば、昨夜のように彰子に安心を齎す優しい瞳にもなる。
あの隻眼が、政宗らしさを一番雄弁に顕すものなのかもしれない。
「──Honey、そんなに見つめられてちゃ、起きるに起きられねぇんだがな」
不意に聞こえた政宗の声に彰子はハッと我に返る。目の前の政宗は苦笑し、ゆっくりと目を開いた。ただの端正な顔が『政宗』へと変貌する。
「Morning,Honey」
「オハヨ……」
『政宗』になった途端、彰子はずっと見つめていたことが恥ずかしくなり目を逸らす。目を開けるや朝の寝起き特有の色気まで醸し出すなんて反則だ! なんてことを思いつつ。
「あ……あのさ、政宗さん。そろそろ腕ほどいてくれないかな」
起きたのなら解放してほしい。取り敢えずこの心臓によくない状況から抜け出したい。──政宗が目が覚めた瞬間から彰子の胸はドキドキと早鐘を打っていた。
「やなこった」
しかし、政宗は一言で彰子の願いを切り捨てると、逆に腕に力を込め彰子を強く腕の中へ抱きこむ。
「政宗さん……!!」
彰子は逃れようと抵抗するが、政宗の腕の力は流石に武将──しかも六爪を操るだけあって強く、逃れることも叶わない。政宗にしてみれば小動物のささやかな抵抗程度のものでしかない。
「まだ寒いんだ。温石代わりになってろ」
ぴしゃりと言う政宗は如何やっても放してはくれなさそうだ。それでも彰子は何とか逃れようと悪戦苦闘するが、それも次の政宗の声を聞くまでだった。
「人の温もりってのは、こんなにもあったけぇもんなんだな」
政宗の何処か切なさを含んだ声に彰子は抗うことをやめた。それはこれまでの政宗の孤独や寂しさを感じさせる声だった。
寒い朝に感じる人肌の温もりが、どんなに安心感と幸福感を齎すかを彰子も知っている。愛しい恋人や、優しい父母に抱かれて温もりの中で目覚めると体だけではなく心も温かくなるのだ。
政宗の境遇は彼自身からかつて聞いている。彰子の世界の伊達政宗ほど母との確執は深くないようだが、全くないわけでもない。まして大名の母と子であれば、母が子に添い寝することもなかっただろう。それを思うと、彰子は抵抗して腕の中から逃れる気をなくしてしまった。
「大人しく温石代わりになってますから、取り敢えず腕の力緩めてよ。顔に似合わず馬鹿力なんだから、政宗さん」
「Oh,Sorry.しかし……Honey意外と重いんだな。腕が痺れてやがる」
彰子が腕の中にいることに満足し、政宗は腕の力を緩める。そして、彰子を抱いていた腕を解放した。つまり、彰子の体の下に敷かれていた腕を引いたわけだ。
「平均的な重さです。っていうか、当たり前でしょ。一晩中そうしてたんだから」
政宗が目覚める前は心配していたのに、そんなふうに言われればちょっとムッとしてしまう乙女心である。女性に年齢と体重の話はタブーだというのに。因みに彰子の体重はその長身の割には平均より若干軽い。元の世界(生まれ育った世界)では体重計を敵視してしまう体重だったこともあり、結構気を使っているのだ。とはいっても暴飲暴食しない、夕食以降は物を食べない、食べ過ぎたらとにかく運動といった程度ではあるが。
「Honeyが大人しくオレの隣でくっついて寝りゃオレだってこんなふうにならずに済んだんだぜ。今夜から善処してくれ」
「……Yes,Sir」
やっぱりこれからは政宗と一緒に寝ることになるのかと彰子は内心で溜息をついた。昨夜それらしいことは言われていたが。だが、心配していた『閨事』をせねばならないわけでもなく、単純に添い寝すればいいだけのことだと彰子は自分に言い聞かせる。主と側室という立場とはいえ、自分たちは男と女の関係になるわけではない。恋人に申し訳ないと思いつつも、状況的に仕方ないのだと心の中で今は異世界にいる恋人に詫びる。
「ところで、いつまでこうしてるの? 起きなくていいの?」
既に夜は明け、外はうっすらと明るくなっている。
「ああ、オレが先に起き出しちまうと女中たちが大変だからな。主が起きてるのに女中や小姓たちが寝てるわけにもいかねぇだろ。だから、起こしに来るまではこのままだ」
「なるほど……。お殿様も結構気を使うんだね」
そういえば、元の世界の政宗公もそうしていたらしいと何かで読んだ記憶がある。ついでに言えば朝っぱらから大声で萌葱に鍛錬を呼びかけて城内の目覚まし時計になっていた幸村に、ちょっとは見習わせたい上に立つ者としての配慮でもあった。
やがて政宗の小姓の少年が政宗を起こしに来て、少し遅れて衛門が彰子の着替えを持ってやって来た。衛門は何処か緊張していて恐らく『御方様』の新床を案じていたらしいことがその様子から窺われた。
「Honey、今日は夕餉を共にしよう。衛門、オレの分もHoneyと一緒に用意しておいてくれ」
部屋を出る間際、政宗はそう言う。つまり、彰子の部屋で寛いで食事しようというわけだ。彰子は頷き、衛門も『畏まりました』と承り、政宗と彰子の『初夜』は終わったのであった。
部屋に戻ると、何処か心配そうな表情の猫たちに出迎えられた。が、猫たちは何を言うでもなく彰子の表情を見ると安心したように座に就いた彰子の膝の上の争奪戦を始めた。
「ただいま朝餉をお持ち致しますゆえ、御方様はごゆるりと遊ばしませ」
『初夜』を終えたばかりの側室を気遣うような気配を漂わせ、衛門はそう言って下がる。それには彰子も苦笑してしまう。疲れるようなことは何もしていないし、気を張っていたわけでもない。ぐっすり熟睡して疲れなど微塵もないのだが、事情を知らない歳若い侍女が気を回したとしても仕方ないことだろう。
衛門が出て行って程なく、今度は先ほど会ったばかりの少年がやって来た。政宗の小姓・常葉丸だ。常葉丸は『殿から御方様へ』と言って、桔梗の花に結ばれた文を差し出した。
「ありがとう。ご苦労でしたね、常葉丸」
精一杯『御方様』らしく鷹揚に微笑みながら彰子は花を受け取る。務めを終えてほっとしたような表情の常葉丸に、彰子は思いついて菓子を渡した。昨夜、政宗に呼ばれる前に喜多が差し入れてくれたものだ。上品な薄紅色の砂糖菓子は恐らくこの時代には高価なものだろう。少しずつ大事に食べようととっておいたものを懐紙に包み恐縮する少年の手に乗せる。
「お仲間とお食べなさいな。お使い、ありがとう」
領主付きの小姓とはいえ高価な菓子など滅多に食べることは出来ぬ少年はパッと顔を輝かせ、何度も礼を言ってから去っていった。それを見送り、彰子は結ばれた文を開く。
『なほ恨めしき朝ぼらけかな』
薄様の紙に流れるような美しい文字でそう書かれていた。
「……後朝の歌ってわけか」
この時代にそんな風習はもうないだろうに……なんて思いつつ、彰子は苦笑を漏らす。いや、完全に苦笑しているわけでもなく、何処かくすぐったいような照れくさいようなそんな気持ちが苦笑として現れたのだ。
別に後朝の歌を貰うようなことをしたわけではない。後朝の歌は結ばれた男女が翌朝にやり取りする平安時代の貴族間の風習だ。別れた後、正確には男が帰った後、どれだけ早く歌が届けられるかによって、その男の愛情の深さを測るものでもあると言われていた。彰子が部屋に戻って程なく届けられたということは、それだけ政宗が彰子を大切にしているというアピールだろう。恐らくあの小姓の少年は同僚に後朝の使いを任されたことを話すであろうし、それは女中たち、ひいてはその後ろにいる重臣たちへ伝わるに違いない。それを狙ってのものではないか……などと、彰子は穿ったことを考えた。
「さり気なくこういう歌が出てくるところが流石よね」
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな──平安時代に藤原道信が詠んだ古歌だ。
「ママ、当然返さないといけないのですわよね?」
「……やっぱり?」
「多分」
真朱の言葉に彰子はちょっとばかりげんなりした。政宗も自作の歌を送ってきたわけではないから、自分も古歌の引用で構わないだろう。とはいえ、記憶にある歌の中で返しに使えるようなものがあったか如何か。
一所懸命頭をフル稼働させて記憶を探りながら、彰子は紙と筆を用意し、墨を磨る。しかし、一向に思いつかない。元々彰子が覚えていた歌は女性の立場だと来ない人を待つ系統の歌が多いのだ。それでも何とか『まぁ、使えないこともないかな』という歌を捻り出し、紙に書き付ける。
『有明の月を待ち出でつるかな』──今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
これならなんとか『お越しをお待ちしています』と思えなくもないだろうといったところだ。男性が読んだ歌だがいいだろう。
彰子が悩んでいる間に既に衛門は戻ってきており、朝餉の支度をすっかり整えていた。更に状況を撫子から聞いた衛門は庭から花を切ってきて彰子が歌を書き付けると、それを花に結び、嬉しそうに政宗に届けに行ってしまったのだ。そう、衛門は敬愛する殿様と御方様が仲睦まじい様子に見えるのがとても嬉しかったのである。彰子が城に入ってから数日はほったらかしにされていた分、衛門はヤキモキしていたのだ。
城内の者全てが彰子の存在を喜んでいるわけではない。歳若い己の容姿に自信のある侍女たちは彰子が来たことを快く思っていない。ゆえに最初の3日間政宗が彰子の体を気遣って寝所に呼ばなかったことを喜んでいたのだ。きっと殿は同盟の為に不本意ながらも嫁き遅れの真田の姫を側室としたに違いない、殿はあの女を押し付けられてしまっただけなのだと。
特に政宗付きとなっている女中にその傾向は強く見られ、衛門は女中の中では歳も若い為侮られたのか、嘲りを受けることもあったのだ。『上田御前はお飾りのようにございまするな。そなたも災難だこと』 そんなふうに哂った侍女もいたほどだ。
因みに同じく上田御前付きとなっている小督は元々黒脛巾ということもあり、女中衆は怖がって声をかけたりしない。硬質な小督の雰囲気は馴れ合いを拒み、他を寄せ付けない。その分、一見温和しそうな衛門にあれやこれやと言ってくるのだ。
だが、それも今日までだ。昨晩政宗が彰子を寝所に呼んだことは既に城内の全て──お端の下女や庭師、門番に至るまで──が知っているし、政宗の小姓は嬉しそうに『上田の御方様はとってもお優しい方だったよ! 殿ともお似合いの素敵な姫様だ』と同僚の少年たちと話していた。恐らくその話もあっという間に城内に広がるだろう。
ゆえに衛門はすっかり気分がよくなり、いそいそと喜んで政宗の許へ『御方様』からの返歌を届けに行ったのだ。政宗も朝餉の最中で、そこには成実と小十郎が同席していた。普段なら重臣たちの姿に緊張してしまう衛門ではあったが、そんなことも全く気にならなかった。寧ろ返歌を嬉しそうに読む政宗の表情に驚かされると同時に、上田御前付きとなれたことを誇らしく思ったくらいだった。
(御方様の御為、この衛門、精一杯努めまする!!)
温和しそうに見える外見に反して、中身は結構幸村に似たものを持つ衛門であった。
──が、この衛門にとっての嬉しいお役目は、翌々日にはなくなってしまった。理由は彰子の思いつく歌のネタが切れた為である。早々に彰子は政宗にギブアップと告げて歌の遣り取りを止めてもらったのだ。衛門は歌がこなくなったことで変に気を回して心配したのだが、その夜以降も御方様は寝所に呼ばれ続け、また政宗が毎晩のように彰子と共に夕食を摂ることから安心した。
彰子に反感を持っている女中たちはそれが面白くないようではあったが、流石に主の寵愛深い側室に何かをすることも出来ず、悔しさを滲ませ、何かと衛門や小督に嫌味を言ったりもした。けれど、毎日のように政宗と彰子の仲睦まじい姿を見ている衛門と小督にはそれは負け犬の遠吠えにしか聞こえず、笑顔で聞き流すことが出来た。それどころか、小督などは『敗者の叫びは耳に心地よい』などと言い、その笑顔が恐ろしいと更に女中たちは小督を怖がって避けるようになったくらいである。
ともかく、政宗と彰子の『初夜』以降、彰子は政宗の寵愛深い側室として、城内全ての者に認められたのであった。