なんだか不思議な光景だなと彰子は思った。それでいて何処か懐かしさを感じさせるものだとも。
政宗がいて、猫たちがいて、小十郎、成実、綱元、喜多がいる。喜多の計らいによって本当の事情を知らぬ衛門と小督を下がらせた後は、猫たちも更にパワーアップして成実と綱元で遊び始めた。猫たちの好き勝手な行動に伊達三傑とさえいわれる小十郎たちは振り回されている。それを見て政宗や喜多は笑う。
温かく穏やかな空気がこの場を包んでいる。それはまるで元の世界で忍足や詩史、跡部たちと共にいるときのように彰子の心を穏やかに安堵させるものだった。
だが、そのことが逆に彰子の不安を増す。
(駄目駄目。弱気になっちゃ駄目。信じなきゃ、帰れるって)
着々とこの世界での居場所が作られ、自分たちの存在が受け容れられていることが、帰れないのではないかという不安を増していく。これが二度目の異世界トリップとはいえ、彰子はトリップ以前の世界に戻ったことはない。一度目のトリップは元の世界での存在抹消が条件だった。正確には自分の存在を抹消するか、死んだことにするのかの二択だった。元の世界に帰るという選択肢は初めから存在していなかったから、如何すれば元の世界に戻れるのかを彰子は知らない。唯一判っているのは政宗がトリップし帰ったときのことだけだ。
(必ず悠兄さんから連絡があるはずだよね)
一度目のトリップ以降、彰子と猫たちの存在は草紙神の管轄下に置かれているらしい。それがある為か草紙神は必ず月1回は彰子の様子を直接確かめに来た。その上、保護者会やら三者面談やらの際には彰子の『保護者』として出席までしてくれた。それどころか、彰子が合宿などで不在の折には、猫の世話の為に毎日彰子のマンションに来てくれた。
それは単に草紙神が面倒見がいいというだけではなく、異世界からやってきた彰子の存在がその世界で受け容れられているか、異物として排除されるような不具合はないかを自分の目で確認する為でもあったらしい。
だとすれば、こうして再び異世界トリップしてしまったことに関して、草紙神から何らかのコンタクトが必ずあるはずだと彰子は信じている。けれど未だに草紙神は現れない。恐らく何処の世界にトリップしてしまったのか、草紙神もまだ探し出せていないのだろうと予測していた。草紙神によればパラレルワールドはそれこそ世の創作物と同じだけの数あるといっても過言ではないらしく、何万という世界が存在するのだという。
(悠兄さんに部下っていないっぽいしなぁ……。一人でその世界探し回ってるなら時間掛かるよね。本業だってあるんだし)
そう考えることは現実から目を背けることになるのかもしれない。けれど、そう思わなければ、絶望しそうになってしまうのだ。
(必ず、帰れる。絶対帰るんだから)
こうして政宗が安心出来る居場所を作ってくれた。あとはここで草紙神の迎えを待てばいいだけのことなのだ。もしかしたらこの異世界トリップには何かの意味があり、自分には役目があるのかもしれない。けれどそれも草紙神が来れば自ずと明らかになるだろう。
彰子は改めてそう思う。すると今度は生来の生真面目さが顔を出す。
『安心しろ、これからはオレがちゃんと彰子を守るから』
先ほど政宗は猫に戻った萌葱にそう告げた。再会してからずっと『元の世界に戻れるまで、オレが守ってやる』と政宗は言ってくれている。それは身の安全だけではなく、弱っている彰子の心も守ってやるという意味だ。
「なんか、申し訳ないな」
「何がだ、Honey」
ポツリと呟いた彰子の小さな声を耳敏く政宗は聞きとめる。
「ん……こんなにお世話になっていいのかなって。何が出来るわけでもないのに、城の奥深くで大切にしてもらってさ」
その彰子の言葉に政宗は苦笑を漏らす。こういう生真面目なところが彰子らしいとは思うが、今は甘えておけばいいのに。
「Honeyだってオレの面倒を見てくれただろう。それと同じだ」
政宗が平成の世にトリップしたときには、彰子が衣食住全ての面倒を見てくれた。経済力からいえば政宗とは比べものにならないくらい大変なことだったに違いない。
「でも、政宗さんはその分のお礼って、家事全部やってくれたじゃない。掃除も洗濯も食事の仕度も。猫たちの世話だってしてくれたし」
「そうですわね。政宗はわたくしたちのトイレ掃除までやってくれましたもの。感謝しておりましてよ、政宗」
彰子の言葉に小十郎の膝の上から真朱が応じる。確り彰子たちの会話に聞き耳を立てていたらしい。
「といれって何?」
「トイレってのは便所だよ。この時代だと厠っていえばいいのかな」
「……つまり、殿が猫の厠掃除をしていたと……」
成実の問いに萌葱が答え、その答えに綱元が信じられないというように呟く。
「そうだよー。私たちの出したものを政宗がきれいに掃除してくれてたんだ」
あっけらかんと言った撫子の言葉に、途端に成実が笑い出す。
「梵が……厠掃除!!」
「梵って言うんじゃねぇっ!!」
大笑いする成実に政宗は扇子を投げつけるが、成実の笑いは止まらない。
従弟と戯れ合う政宗を眺めながら、彰子は小さく溜息を漏らす。
「側室じゃなくて、他の立場だったら、色々働けたのに」
高い身分を用意してもらって文句を言うなんてとんでもないと思いつつ、ついつい彰子はそんなことを言ってしまう。女中とかそんな身分であれば、働くことによって少しでもお礼が出来るのに。事情が事情だけに女中を却下されたのも納得出来るのではあるが、それでも申し訳ないと思ってしまうのだ。
「真田のところでも働いていたらしいな」
彰子を奥州に迎えるにあたって、政宗は自分の妻妾という立場以外、全く念頭になかった。彰子がこの世界にいるならば自分の傍に置きたい。そう思えば、妻妾として傍に置く選択肢しか考え付かなかった。彰子には『いつ帰るか判らないのだから、接する人間は少ないに越したことはない。だから、側室が一番いい』と説明したが、それは彰子を説得する際にとっさに思いついた方便だった。
「だって、徒飯食らいは気が引けるんだもん」
「ホンット、彰子ちゃんってば真面目なんだよねぇ」
この場に姿のない者の呆れた声が、彰子の言葉に応じる。それは天井から聞こえた。
「猿、隠れてねぇで出て来い。いつまで隠れている心算だ」
如何やらとっくに気付いていたらしい小十郎が呼びかけると、音もなく佐助が姿を現す。彰子以外は猫を含め全員が佐助が天井裏に潜んでいることに気付いていたらしい。彰子はといえば、姿が見えないから仕事をしているのか、それとも帰ってしまったのかと思っていた。
「もうね、彰子ちゃんってばさ、うちの旦那脅して仕事手に入れたからねぇ」
佐助はすっかり寛いだ風情で胡坐をかき、上田での出来事を暴露する。
「仕事くれないんなら出て行きますって。しかも生きていく為だから、花街に身を売りますとまで言うんだもん。そりゃ、旦那だって折れるしかないよねぇ」
「いや、身を売るとは言ってないから。城下で仕事を探すって言っただけじゃない」
思いっきり誤解を招きそうな佐助の言葉に彰子は反論する。
「言ったも同然でしょ。俺が花街? って聞いたときに否定しなかったんだし」
「……彰子」
途端に地を這うような低く恐ろしい声が聞こえた。政宗がジトーっとした目で彰子を睨んでいる。
「……佐助さんの馬鹿。余計なことを……」
「……ごめん」
そのまま政宗によるお説教に入ろうとしたところで、ナイスタイミングで綱元が口を開いてくれた。
「彰子様は生きる為には最終的にはそれも仕方ないと思われたのでしょう。元の世界に戻る為には、まずは命を繋ぐことが肝要と思われたのではございますまいか」
「そう! そうなんです!」
綱元の助け舟に彰子は空かさず乗っかる。
「飽くまでも花街は他に如何しようもなくなったときの最終手段だって思ってたの。まぁ、いざとなったら、また山の中に戻ればいいって思ってたし。それに萌葱が珍しい白虎になってくれてたから、芸をしてもらってそれで稼ぐ方法もあるし」
「ひでぇ、かーちゃん。俺を見世物にする気だったのかよ。まぁ、花街に行かれるよかマシだけどさ」
「ママのことですから、花街云々は幸村説得の為の駆け引きのようなものですわね。ママの貞操観念の固さには忍足も相当梃子摺っていましたし」
「だねー。侑ちゃん、私たちに『彰子がまだキスもさせてくれへんのや。俺のこと嫌いやないと思うねんけど』なんて愚痴ってたもんねぇ」
元の世界の恋人の話まで持ち出して、猫たちも彰子を擁護する。付き合いの長い猫たちには彰子の考えなどお見通しだった。
「そうそう。で、彰子ちゃんは旦那の祐筆になったってわけ。いやぁ、あれは本当に助かったよ。旦那が仕事抜け出さなくなったし、字もきれいになったから、これから先の俺様たちの仕事も減ったしねー」
これ以上政宗が何かを言う前にと、佐助は急いで言葉を継ぐ。生きる為とはいえ、また説得の為の方便とはいえ、彰子が花街へ行く可能性が少しでもあったとなれば、政宗は心穏やかではいられまい。通常であれば4~5日かかる距離をわずか2~3刻で駆けて来たくらい、政宗は彰子のことを想っているのだ。
「仕事を抜け出さなくなる……」
佐助の言葉になにやら小十郎は考えを巡らす。そう、彼も佐助と同様の悩みがあるのだ。しかも一介の地方城主である幸村とは違い自分の主は奥州筆頭だ。仕事を抜け出すことによる影響は遥かに大きい。
「小十郎、綱元……今、お前ら、彰子をオレの祐筆にすればオレが抜け出さないとか考えただろ」
「……いえ、そのようなことは……」
自分が何を考えたのか察した政宗の言葉に、小十郎は返事を濁す。隣を見れば如何やら綱元も自分と同じことを考えていたようで、政宗から視線を逸らし、そっぽを向いている。
「考えたって無理はないってー。殿は何かというと城抜け出そうとするし。殿が抜け出しちゃうとその皺寄せが綱元や私に来るんだからさ」
屈託のない明るい声で成実は言う。流石に重大な案件があるときに政宗がサボることはないが、緊急を要しない仕事のときには月に数度は政宗は城を抜け出してしまう。当然そのとばっちりは側近の綱元や成実に回ってくることになる。文句の一つや二つ言いたくもなるし、小十郎たちにしてみれば、政宗がサボらなくなる方法があるというなら飛びつきたくなるのも無理はない。尤もこれからは仕事をサボったら、彰子との夕餉をなしにするとか、彰子に会わせないとか、彰子に協力してもらうことで効果的なペナルティを設定することは出来そうだと小十郎と綱元と喜多は画策している。
「やっぱり、政宗さん仕事サボってるんだ」
本人からサボった所為で綱元や小十郎から食らったお小言やお仕置きの話を聞いていたが、こうして被害者を目の当たりにすると彰子も呆れざるを得ない。なまじ自分の身近にいた上司ともいえる跡部が人を扱き使う以上に自分がオーバーワークとも思えるくらいの仕事をする人物だっただけに、余計に呆れてしまうのだ。
「でも、私が政宗さんの祐筆ってのはないよね。祐筆っていっても上田でのお仕事は清書係だったんだし。政宗さんの字はとってもきれいだもの。清書係なんて必要ないでしょ。流石は奥州筆頭と思わせるような、雄々しくて凛としてて、素敵な政宗さんらしい字だもの。それを別の人の字にするのは勿体無いと思うわ」
使い慣れないボールペンや筆ペンですら、政宗の
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか、Honey。アンタの字だって、嫋やかで優しくてアンタらしい好い字だぜ」
思いがけない彰子からの評価に、それまで渋面だった政宗の表情も緩む。褒められたのは字とはいえ、その字が『政宗さんらしい』と評価されたのであれば、自分も『雄々しくて凛としてて素敵』ということになるのだと拡大解釈する。
「だからHoneyって言うなー」
彰子といえばこれまた褒められたことが恥ずかしくて、照れ隠しにかつて何度も言っていた文句を口にする。どうせ政宗が呼称を改めないことは判りきっているのだが。
「まぁ、政宗さんの祐筆ってもの、側室として城に入っちゃった以上は出来ないだろうし……。他に何か私で役に立てることってあるのかしら」
如何しても徒飯食らいだけは避けたい彰子だった。政宗にはかつての彰子と同じことをしているのだと言われているし、喜多もそう言っていた。経済力だって政宗のほうが豊かだから、自分一人増えたところで負担にはならないだろう。けれど、気持ちの問題なのだ。安全を保障してもらって、こんなにも安心して心休まる場所を与えてもらったのだから、少しでもその感謝を表したいのだ。
「然様でございまするな……。政宗様から伺ったところ、彰子様のおられた平成の世界の過去には、ここと似たような時代もあったとのこと。であれば、民の為、国の為に有益な知識を彰子様はお持ちのことにございましょう。我らがお尋ね申した際にお答えいただければ、それは奥州の為に良きことかと存じまする。400年の先の世から参られた彰子様のお知恵を我らにお貸しくだされ」
政宗から平成の世のことを聞き、その政治の仕組みや世界について興味を持っていた綱元が彰子に答える。戦のない平和で豊かな世界。そこに至るまでの様々な先人の知恵と努力。そういったものを垣間見ることが出来れば、それだけこの世にも早く平和な世が訪れるのではないか。
「そうですね……。歴史そのものについてお教えすることは出来ませんが、農業技術とか作物とか、政治のこととか……私の知る範囲であれば。歴史については政宗さんからお聞き及びかもしれませんが、この世界の400年後が私のいた平成の世ではありませんから、意味がありませんしね。大体、私がいた世界だと、伊達政宗公が初陣のときには既に武田信玄公も上杉謙信公も織田信長も生きていませんでしたし」
彰子がいた世界の歴史だと、今現在の天正13年といえば、豊臣秀吉(この頃はまだ羽柴秀吉だが)が関白に叙任された年だ。当然、今川義元も毛利元就も武田信玄も上杉謙信も織田信長も明智光秀もこの世にはいない。なのにこの世界だと、その全員が生きていて、一番老人だったはずの毛利元就が政宗とほぼ同世代になっている。改めてBASARA世界ってとんでもねーと彰子は思ってしまう。
これはあれだ。歴代仮面ライダーが全員集まるとか(実際40周年映画でそれに似たものはあるが)、アムロとカミーユとその他主人公たちが同世代で同時代にいるとか、メーテルと千年女王とクイーンエメラルダスが一緒にいるとか、そういうのと同じということになる。いや、メーテルたちはあれは同時代軸の友人という設定があるから別だ。
ともかく、流石はゲーム世界。ある意味歴史好きにとっては夢の競演だろう。戦国武将が好きなら一度は妄想したことがあるのではないだろうか。信玄が生きていたら、謙信が生きていたら、政宗がもっと早く生まれていたらというのは。
「はい。彰子様が教えても問題ないと思われたことのみで結構でございます。今の時代にはそぐわぬ知識もございましょうし」
彰子の言葉に綱元は諾と応じる。
だが、綱元は本当は彰子の持つ知識など、それほどこのときは重要視していなかった。それは小十郎も成実も喜多も同様だった。
彰子の存在そのもの、それだけで充分だったのだ。
彰子と接するときの政宗の表情。これまで側近に仕える自分たちが見たことのない、歳相応の青年らしい政宗の表情。そして、心から寛いでいる安らぎに満ちた政宗の表情。それが全てを物語っている。
彰子が政宗の傍にいる。そのことだけで、充分すぎるほどの『恩返し』になっているのだと、彼らは感じていた。