躑躅ヶ崎館から上田城へと一旦帰還し、1日休んだだけで彰子は奥州へと旅立つことになった。
政宗や小十郎が長く奥州を離れるわけにもいかず、また彰子の諸事情もある為、当人たちにとってはごく当たり前のことだったのだが、上田城の面々は幾分納得出来かねる部分があったようだ。
彰子は上田城の面々にはかなり好意的に受け入れられていた。その彰子が実は奥州筆頭の想い人であり、その境遇とこの数日の展開は城の者たちにまるで恋愛絵巻を見ているかのような感動を与えた。
咎人の娘であり、身分違いゆえに引き裂かれた悲恋の恋人たち。彰子は愛しい人の為を思い、故郷を捨て身を隠した。けれど想い人は愛しい女の為に万難を排して遠く信州まで迎えに来たのだ。
客観的な事実(捏造だが)だけを見れば、まるで王朝絵巻──伊勢物語や源氏物語もかくやといわんばかりの、ハーレクインロマンスである。元々人の好い上田城の人々は彰子の幸福を心から喜び、主幸村の果たした粋な役割にも『流石は我が殿』といたく感動した。そして、至極あっさりと彰子の立場を幸村の祐筆から幸村の異母姉へと書き換え、『我らが姉姫様』として認知するようになったのである。
となれば、『姉姫様』がほぼ身一つで奥州へ嫁ぐなど納得出来るものではなかった。幸村には他にも姉妹がいたが、それぞれそれなりの花嫁道具を誂え、花嫁行列を整え嫁いでいっているのだ。なのに、彰子はほぼ身一つ。しかも側室の立場とはいえ、相手は奥州筆頭という大大名なのだ。荷駄だけで数日に亘る行列となっても多すぎるということはないだろうに。
上田城の者とて彰子の性格は知っている。彰子が慎み深く遠慮深い女性なのだと判っている。多分に誤解の混じっている認識ではあるが、過度な仕度や侍女を彰子が厭うであろうことは理解している。それでも納得出来ないものは出来ないのだ。姫様を身一つで嫁がせるなんて!!
尤もそこは、幸村が甲府でそれなりの衣装と身の回りの道具を手配し、量より質の仕度を整え、既に奥州へ送っていると説明したことで、渋々とではあるが家臣たちも女中衆もなんとか納得した。
しかし、すぐに出立するというのには反対した。道具類は諦めよう。だが、せめて威儀を正した『真田幸村の姉姫』に相応しい花嫁行列で送り出したい。家臣たちはそう願った。が、それはずっと政宗と彰子を見てきた加絵によって却下された。加絵は躑躅ヶ崎館から上田城までの道のりの中で、どれほど政宗が彰子を愛しんでいるのかを目の当たりにしていた。片時も傍から離したがらないほどに愛しんでいることを知っていた。ゆえに、反対する家臣たちに『無駄に時間をかけてお二人の間を邪魔するなんて、無粋なことを言うものではありませぬ』ときっぱりと告げて反論を封じたのである。
そして、最後の砦とばかりに、せめてせめて侍女の数名も連れて行ってほしいという願いも佐助によって却下された。元々彰子は自分に侍女がつくなどとは思ってもいない。また、自分がいつ元の世界に戻ってしまうかも判らないのに、上田の民を奥州へ伴うことなど出来ない。佐助にしてもそれは理解しており、尤もらしい理由をつけて侍女をつけないことを納得させた。『彰子の事情を知る者がいないほうが、奥州へ行ってからの不都合が少ない。万一にも彰子の本当の身元が知られてしまえば、彰子が苦しい立場になる』と説明したのだ。そして、『現在は同盟国とはいえ、敵国でもあったのだから、間者の疑いをかけられぬよう身一つで嫁ぐことによって身の潔白を証明すると奥州側には説明する』とするのだとも付け加えられた。
そこまで言われてしまうと最早上田城の人々も何も言うことも出来ず、ただただ、彰子を見送るしかなかったのである。
「姫様、どうかお元気で。何かございましたら、すぐにお知らせくださいませ」
出立の準備を整えた彰子の周囲を加絵をはじめ女中衆が囲み、口々に別れを惜しんでいる。約3ヶ月に近い上田城滞在の日々で、それなりに交流もあった女中たちだ。政宗と彰子の(捏造された)ハーレクインばりのロマンスに歳若い女中衆は完全に夢見る乙女と化していて、すっかり二人の恋の応援団となっている。
「姫様、お幸せに」
「1日も早いややのご誕生を願うておりますわ」
ややって、そりゃ気が早いだろう。っつーか、実際にはそれは有り得ないからと内心で突っ込みつつ、口には出せないので彰子は苦笑を浮かべて曖昧に頷いている。完全に自分が『姫様』として認識されてしまっていることには最早言葉もない。政宗と再会した翌日、殆ど城内の者と話す間もなく躑躅ヶ崎館へと行き、昨日帰ってきてみれば、自分の呼称が『彰子殿』から『姫様』に変わっていた。上田城の人々の柔軟すぎる対応に、彰子はじめ政宗も小十郎も目が点になったくらいである。
「今までお世話になりました。充分なお礼もご恩返しも出来ないまま去ってしまうのは申し訳ないのですけれど……」
「何を仰せになります、姫様。上田は姫様のお里。何の恩があると申されますか」
加絵はそんなことを言い、思わず彰子たちは佐助ら細作が何らかの術を使って上田城の人々を洗脳したんじゃないのかとさえ疑った。そんなことはないと思うが、そう思ってしまうほど上田の人々は彰子を『姫様』として扱うのだ。まるでこれまでの18年そうしてきたかのように。
「伊達様、姫様のこと、よろしくお願い申し上げます」
「どうか、姫様を幸せにしてさし上げてくださいませ」
「もし、万一にも姫様を悲しませるようなことをなされば……お判りですわね」
女中たちは口々に政宗に彰子を頼むと言っている。仕舞いには脅迫擬きまで口にする有様だった。
「……Honey、随分気に入られてるな。何やったんだ」
「何も変わったことはしてないはずなんだけど……」
そう、彰子は別段彼女として──平成の世に生きる人としては普通のことしかしてきていない。自分が出来る範囲のことは他者の手を煩わせることなく自分でやり、手伝ってくれたり自分には出来ないことをやってくれたら礼を言ったり労ったりした。ただそれだけだ。
けれど、それはこの世界ではある意味特異なことだった。特に『姫様』と呼ばれる立場にいる者にとっては。
被支配階級の認識としては『身分の高い者は恩知らずである』というものがほぼ常識のように存在する。他者──自分よりも身分の低い者が自分に奉仕するのは当然と受け止めるのだ。当然のことをされているから礼も言わないし、労いもしない。全ての者がそうであるわけではないのだが、この傾向は特に自分では何もしない『姫様』クラスに強い。嫁いで自分で家内を差配するようになると改善される例もあるが、大抵は自分では何もせずに乳母などに任せっきりの者が多いのも事実だった。
そんな先入観がある女中衆にしてみれば、彰子がごく普通にしているだけでも、『心配りの利いた仕え甲斐のあるお優しい姫様』となるのである。
ともかく、彰子は上田では身内として受け入れられていたことから、女中衆は政宗に対して『我らが姫様を何卒何卒よろしくお願い申し上げます』状態であり、『姫様を不幸にしたら如何なるか判ってんだろうな、あーん?』状態だったのだ。
「そろそろ出立しないと拙いんじゃないの、竜の旦那」
女中衆に囲まれ身動きが取れなくなっていた政宗と彰子に助け舟を出してきたのは、見かねた佐助だった。ここは佐助が言わないと拙い。上田城の人々にとっては、政宗や小十郎は姫様を連れ去ってしまう者だ。姫様の嫁ぎ先に文句はないものの、嫁ぎ方には不満たっぷりの上田城の面々に姫様を解放しろとは小十郎も言いにくかった。
上田に来るときとは違い、彰子もいることから奥州への復路はそれなりに休息も取り、移動速度も遅くなる。当然、移動にかかる時間は長くなる。凡そ3日から4日かけて帰るのだ。それを聞いた彰子は往路の政宗と小十郎がどれだけ異常な速度でやって来たのかを改めて知り、『流石BASARA』と内心で呟いたものである。
別れを惜しみつつ漸く解放されたことにホッとして彰子は馬上の人となる。乗る馬は優瞳だ。彰子は固辞したのだが、幸村が優瞳も連れて行くように強く勧めたのである。
この時代、馬も貴重な軍の資源ではあるのだが、優瞳は性格が優しすぎるというか気が弱すぎて、とても戦場に連れて行くことが出来ない。なまじ駿馬であるだけに勿体ないことこの上もないのだが、一度小規模な戦闘に連れて行った折、剣戟の音を聞いただけで萎縮して動けなくなってしまったほど臆病なのだ。気性の穏やかさと馬としての素質の高さを持った優瞳ならば女性向けだろうと彰子の乗騎となっていたわけで、優瞳も今ではすっかり彰子に懐いている。
優瞳ほどの馬であれば相当高価でもあり、それが彰子が逡巡した理由の一つでもあったが、幸村の再三の勧めと萌葱の言葉によって有り難く優瞳を貰い受けることにしたのである。因みに萌葱の言葉は『優瞳の奴、すっかり一緒に奥州に行く気になってるよ、かーちゃん。俺に奥州は寒いよね、飼葉は美味しいかな? どんなところだと思う? とか聞いてきやがったしさ』というものだった。更についでながら、猫語と馬語は完全に別言語というわけではないらしく、哺乳類同士ならば大抵の言葉は通じるらしい。猫語が熊本弁ならば馬語は名古屋弁という程度の差らしいのだ。これが哺乳類以外になると途端に通じなくなり、ほぼ外国語と同じようなものだと猫たちは言っていた。
閑話休題。
彰子が優瞳で旅立つことになり、ちょっとばかり残念に思ったのは他ならぬ政宗である。自分の馬に一緒に乗せようと思っていたのに、というわけだ。
「政宗、おかーさんと一緒に乗れなくて寂しいんでしょ。仕方ないなー。私が一緒に乗ってあげるよ」
撫子はヤレヤレと態とらしく溜息をつき、政宗の鞍の前にちょこんと座るや
「政宗のお馬さん、奥州までよろしくねー。あ、私は撫子っていうの」
などと、言い返そうとする政宗を丸無視して政宗の馬とコミュニケーションを取っている。政宗の愛馬は面食らっているが、無理もないだろう。
「小十郎さん、わたくしを一緒に乗せてくださる?」
真朱は小十郎にそう頼んでいる。本当は彰子の懐に抱っこされていく心算だったのだが、まだそれほど乗馬が巧みではない(比較対照:奥州双竜)為、彰子に負担をかけないように小十郎に連れて行ってもらうことにしたのだ。
「ああ、構わねぇが。鞍の上じゃ不安定だろ。懐に入れ」
と、小十郎も真朱を懐に入れ、『窮屈じゃねぇか?』なとど世話を焼いている。得てして強面系の一見不器用そうな男性というのは動物に好かれることが多く、また本人も『俺は興味ない』という顔をしつつも懐かれれば一番世話を焼くものなのだ。
そうして準備も整ったところで漸く奥州へ向けて出立することになった。人はわずか3人。往路の奥州双竜に彰子が増えただけだ。それに猫2匹と虎1頭、それぞれの乗騎3頭。影から護衛として黒脛巾の小督と念の為に佐助も同行する。武田領内から伊達領内へと移動するのだから危険があるとも思えないが、油断は出来ない。とはいえ、実際のところ細作の自分よりも気配に鋭い萌葱がいるから、道中の安全については佐助もあまり心配はしていない。
「姉上、お元気で。何かございましたらすぐにご連絡くだされ。この幸村、すぐに駆けつけますゆえ」
馬上の彰子を見上げながら、幸村は名残惜しげに別れを惜しむ。
「ありがとうございます、幸村殿。貴方もお体を大切に。怪我をしたりなさいませんよう」
彰子も少しばかりの寂しさを感じつつ、別れを告げる。そしてしんみりとする場を厭うように、言葉を継いだ。
「これで面倒な姉妹が全て片付いたのです。次は貴方の番ですよ、幸村殿。早く良き花嫁をお迎えくださいませ」
「あっ、姉上!?」
彰子の言葉に慌てる幸村、『然り然り』と頷き笑う家臣たち。家臣や女中衆に揶揄われ真っ赤になる幸村に、更に皆笑いさざめく。
そんな賑やかな声に包まれ、彰子はこの世界で最初の『家』となった上田城を旅立ったのであった。
午前中に上田城を出立した一行は、早足程度の速度で馬を進めた。夕暮れが迫った頃、丁度宿場に差し掛かり、今宵はここで宿を取ることにした。丁度奥州までの3分の1程度の道程だ。
「小督さん、出てきて」
姿は見せずともずっと付いて来ているはずの細作に彰子が声をかけたのは、宿に入る少し前のことだった。
突然呼ばれた小督は何事かと姿を見せる。小十郎も何かあったのかと不審げな顔をしている。表情を変えないのは彰子の行動を凡そ予測している政宗と佐助だった。因みに佐助も小督と同時に姿を見せている。
「小督さんは私と同じ部屋ね。私の護衛なんだから、傍にいるほうがいいでしょ」
「しかし、御方様。わたくしはそのような身分の者では」
彰子の意外な言葉に小督は驚き反論するが、彰子も当然その反論は予測のうちだ。
「何処かで私に張り付いてるんでしょ? だったら、同じじゃない。それに天井裏とか床下とか、部屋の外に居ると思うと私も落ち着かないし」
「しかしながら……」
再び反論しようとした小督を黙らせたのは他ならぬ主君・政宗だった。
「Honeyは一度言い出したら聞かねぇんだ、諦めろ小督。お前が仕える『御方様』はこういうヤツだってのを知るいい機会だ。Honeyと同じ部屋に入れ」
主君にまでそう言われては最早小督も反論は出来ない。納得はしかねるものの彰子の言葉に従うことになった。
そして、小督は慣れるまでの間、一風変わった『御方様』に振り回されることになる。
例えば、入浴。
この宿場は温泉地でもあったらしく、この時代の主流である蒸気風呂(サウナ)ではなく、湯殿があった。疲れを取る為にと早速温泉に向かった彰子を護衛しようとしたところ『一緒に入ろう』と言われてしまったのだ。当然、小督は固辞する。そしてこれまた当然彰子はそれに反論するのだ。
「湯殿なんて一番無防備になるところでしょ。傍についてるんだよね。だったら一緒に入っても同じでしょう?」
「私と一緒に入らないんなら、後から別に小督さんが入るわけで、その間は私一人だよね。そのほうが小督さんとしては拙いんじゃない?」
「入浴しないなんて言わないでね。半日以上移動してて汗臭いし汚れてるんだから」
というわけで、ある意味初日から『裸の付き合い』を強要されてしまった小督である。
流石に食事のときには、彰子は政宗や小十郎と一緒であった為小督は解放された。佐助と共に食事を摂りながらついつい溜息が漏れてしまった小督に、佐助は苦笑していた。
「彰子ちゃん……彰子姫はちょーっと変わってるからね。ほら、あの旦那の姉君だし」
「なるほど。確かにそうだな」
『幸村の姉』だから一風変わっているということに納得されてしまい、佐助としては少しばかり複雑だったりもしたが、小督は戸惑いはしても彰子を疎んじているわけでもなさそうなことにホッとした。
「彰子姫はさー、人に仕えられるってのに慣れてないんだ。ずっと普通の町娘として暮らしてたからね。小督ちゃんもそこんとこ頭においておくと遣り易いと思うよ」
「うむ。猿飛殿にも随分気安く接しておいでだしな。下の者に気安いのは真田の家風なのだろうな」
幸村や彰子を見て、小督はそう結論づけることにしたようだ。まぁ、ちょっと違うんだけどねと内心で呟きつつ、佐助は何も言わなかった。これからの彰子との交流で小督自身が彰子を知っていき、扱いを覚えなければならないのだから。
食事も終え、さて就寝というときになって、(小督にとっては)またひと騒動だった。小督としては当然
「旅の途中なんだから、ちゃんと寝ないとダメ。大丈夫、萌葱がいるから。妙な気配を感じたらこの子が起こしてくれるわ」
彰子に頭を撫でられ、萌葱はごろごろと喉を鳴らす。そして『任せておけ』といわんばかりの頼もしい目で小督を見た。
「Hey、小督。諦めて大人しく寝ろ。お前が寝ないとHoneyも寝ないぞ」
「そーそー。萌葱に任せときゃ大丈夫だって。第一、ここ甲斐だよ。安全は保障する」
隣室からも彰子を援護する声が聞こえ、小督はこっそりと溜息をついた。この御方様に慣れるまでは戸惑うことばかりになりそうだな、と。
「畏まりました。では、失礼して隣で休ませていただきます」
同行1日目にして、小督は『御方様に対しての諦め』スキルを習得したのであった。