竜の右目

 少しばかりの緊張を小十郎は感じていた。

 甲斐へやって来て4日目、躑躅ヶ崎館滞在3日目となる今日、漸くというか、遂にというか、小十郎は彰子と対面することになった。

 これまでにも顔を合わせたことは当然ながらある。しかし、挨拶以上の言葉を交わしたことはなかった。

 初日は政宗が彰子以外は眼中になく、自分のことなど忘れているかのような状態で、紹介すらしてもらえなかった。2日目は早朝に上田城を出発。政宗・小十郎・幸村・佐助には緩やかな速度での移動だったが、馬に慣れない彰子にすれば相当にきつい旅だっただろう。そんな彰子を労うのは政宗であり、まるで尻尾が生えたかのような幸村だった。幸村が子犬に見えたのはこの際、真田の細作と自分と白虎だけの秘密ということにしておこう。

 3日目には甲斐の虎と彰子の対面があり、これには小十郎も遠慮して同席はしなかった。甲斐の虎の重臣である山県昌景と同盟についての証文作りをしていた。

 そして昨晩、主に言われたのだ。『明日、彰子の様子を見てきてくれ』と。

 彰子と漸く会えたものの、奥州筆頭として甲斐との同盟を結ぶ役目を持って政宗はこの地へやって来たのだ。個人的な感情のままには行動出来ず、今は躑躅ヶ崎館にて奥州筆頭の役割を全うしなくてはならない政宗だ。彰子のことがどれほど気にかかっていようと役割を疎かには出来ない。更には信玄の計らいで今日にも上杉謙信が甲斐にやって来て、三国の同盟が成立することになっている。尚のこと政宗は躑躅ヶ崎館から動けない。

 伊達軍の軍師でもある自分も同席すべきではないのかと思いもしたが、政宗の気持ちも判る。どうせ同盟の細かな条項の叩き台は既に出来ていることでもあるし、ここは主の意向に添おうと小十郎は決め、こうして真田屋敷へとやって来たのである。

(長岡彰子殿……か)

 女中に案内されながら、小十郎はこれまでに感じたことのない緊張感を味わっている。戦場に向かうときとは全く違う。何しろ、色恋にはとんと縁のなかった主の想い人に会うのだ。

「ぐるるるるるる、がう!!」

「なんの、これしきっ!!」

 庭先からなにやら賑やかな声がする。見遣ると真田幸村が虎に襲われている。いや、あれは遊ばれているのか、鍛錬なのか。やけに幸村は楽しそうにしている。虎が少しばかりうんざりしたような表情に見えるのは気の所為だろうか。

 そんなことを思いつつ、小十郎は彰子の室の前へと案内された。

「姫様、片倉様がお越しになられました」

 女中は膝をつき、室内の彰子に声をかける。庭と廊に面した襖は開け放たれており、彰子は部屋の中から庭で鍛錬している弟と飼い虎を見ていたようだった。

「もう、加絵さん、姫様はやめてくださいって言ってるのに」

「あら、彰子様。ご当主様の姉君様なのですもの、間違いではございませんでしょう」

 如何やら案内してくれた女中は彰子とも親しい仲らしく、彰子の声も女中も笑いを含んでいる。加絵は上田城から1日遅れて到着し、彰子の世話をしている女中だ。彰子付きと聞いてはいるが、彰子本人はそれを知らないと小十郎は佐助から教えられている。

「さ、片倉様、どうぞ」

「案内、感謝致す」

 小十郎は加絵に礼を言うと、部屋の中の彰子に向かって頭を下げた。

「片倉様、どうぞ中へお入りください」

 室内から先ほどよりは幾分の緊張を含んだ声がした。






 下座に座り頭を下げたまま、小十郎は彰子から声がかかるのを待っていた。加絵は既に下がっており、開け放たれていた襖も今は閉じられている。

「片倉様、お顔を上げてくださいませ」

 彰子から声がかかり、小十郎は漸く顔をあげる。彰子は何処か戸惑ったような顔をしている。が、暫く思案した後、天井に向かって声をかけた。

「佐助さん、小督さん、いる? いるなら出て来て」

 その言葉に応じて、佐助と小督が姿を現す。

「如何したの、彰子ちゃん」

「今から聞かれると色々厄介な話をするかもしれないから、人が来ないようにしてくれるかな。小督さんも、私たちの声が聞こえないところにいてほしいの」

 彰子の意図を察し、小十郎は内心で彰子への評価を高める。佐助も彰子の言いたいことを察したらしく、頷くと小督を促して部屋から出て行く。小督は彰子の意図は判らなかったようだが、小十郎も佐助も異を唱えないことから何かを感じ取り、特に反論もせず佐助と共に出て行った。

 やがて完全に人の気配が消えたところで、再度彰子が口を開いた。

「こうしてちゃんとお話しするのは初めてですね。長岡彰子と申します。改めてよろしくお願い致します、片倉様」

「どうか小十郎とお呼びください、彰子様。事情は政宗様より伺ってはおりますが、今の貴女は我が主のご側室。私よりも上のご身分となりますゆえ」

 頭を下げる彰子に彼女の立場を教えるように小十郎は告げる。家老職にある小十郎と、子のない側室だと身分は小十郎のほうが上になる。しかし、小十郎たち政宗の近臣にとって彰子は正室にも等しい為、当然彰子の扱いは政宗に次ぐ者としての待遇になるのである。

 政宗から彰子がいた平成の世は身分がない社会だったと聞いている。しかし、既に彼女はこの世界が身分社会なのだということを理解しているらしい。部屋に入ったときにも自分に上座を譲ろうとするのを小十郎が留めたほどだった。

「そうなるんですね。なんだか分不相応な気がします」

 身分のない世界から来たのならそう感じるのかもしれない。彰子は自分の置かれた立場に戸惑いを持っているようだった。

 しかし、対面したとはいえ、何を話せばいいものかと小十郎は考える。そもそも男くさいことこのうえもない伊達軍にあって、小十郎とて女性と接することはあまりない。精々が姉の喜多や城内の女中くらいのもので、自分より身分の高い女性となると政宗の生母・義姫がいる程度だ。その義姫も政宗とは疎遠なこともあって年に1回会うか如何かといったところでしかない。

「あの……政宗さんが……。ああ、小十郎様は事情をご存じでいらっしゃるから、政宗さんって呼んでいいですよね」

 彰子も何を話せばよいのか迷っているようで、それでも二人とも黙っていては何も話が進まないからと再び口を開く。

「どうか、小十郎と。政宗様が『さん』であるのに私が『様』ではおかしなことになります」

 何処か生真面目な感じのする彰子に苦笑しつつ、小十郎は言う。

「じゃあ……小十郎さん、と。私より年上の方を呼び捨てにするのは抵抗ありますから。佐助さんもさん付けで呼んでるからいいですよね」

 彰子はくすっと笑って妥協案を出す。確り理由付けをして更なる反論を封じているあたりも政宗から聞いているとおりだ。

「えっと……政宗さんが私を側室ってことにして奥州で保護してくれる、それを小十郎さんはじめ側近の方もご了承くださってると聞いています。でも、本当にいいんでしょうか? いくら私が異世界から来たとはいえ、それだけで危険がないとは言い切れないと思うんですけど」

 あっさりと自分の存在が受け入れられていることに彰子は不安を感じているようだった。

「彰子様のことは政宗様より伺っております。政宗様のお話から、彰子様が信頼に足る方であり、奥州に害を為す方ではないと思うております」

 寧ろ政宗から話を聞いていた自分は彰子がこちらの世界に来てくれないものかと思っていたのだから、彰子を奥州に迎えることに異を唱えるはずはないのだ。

「そうですか」

 小十郎の言葉に頷きつつも、彰子はまだ何処か納得いかない様子だった。

「まるでご自分から疑ってくれと仰せのようにごさいまするな」

「政宗さんが下級兵士だったらこんなこと言いません。でも、仮にも政宗さんは奥州の主。一国の領主です。政宗さんの判断一つによって何万人という人の人生が変わります。政宗さんは私を直接知っているから納得出来ます。でも、私を直接ご存じない側近の方々まで『主の言うことだから』と無条件で信じてしまわれるのは危険だと思うんです」

 自分を真っ直ぐに見つめはっきりと言う彰子に小十郎は瞠目する。自慢出来ることではないが自分は強面だ。顔の傷がそれに拍車をかけていて、初対面から自分を真っ直ぐに見る女など殆どいない。自分に意見を言う女ともなれば尚のこと、皆無といってもいい。

 なるほど、と小十郎は得心した。これゆえに政宗様は彰子殿を欲されるのだろう。

「確かに、我らは彰子様のことを存じません。ですが、政宗様のことはよく存じております。政宗様に信頼されるというのがどれほど得難いことなのかということも。その政宗様が彰子様を信頼されておいでなのです。政宗様を信ずる我らが彰子様を信じるのは至極当たり前のことなのです」

 彰子に関しては疑ったり怪しんだりする必要はない。そんな要素は何処にもない。

「それが危険だと申し上げているんです。私がこの世界に来たのは3ヶ月前です。その間に私が変わっているとは思わないんですか? そもそも、本当に3ヶ月前に来たのか如何かだって怪しもうと思えば怪しめますよ。私の自己申告なんだから。もし私がもっと前にこの世界に来ていて、そこで政宗さんの敵……例えば織田とか北条とかの手下になってたら如何するんですか?」

 尚も自分を怪しめと主張する彰子に小十郎は溜息をつく。言いたいことは判る。無闇に信じるなと彰子は言っているのだ。主の為にも自分を疑えと。

「なるほど、彰子様の仰せになることも尤もでございまするな。小十郎、今この瞬間に彰子様を信頼に足る御方と判じました」

 そう、本当に間者ならばこんなことは言うはずはない。彰子が心から政宗のことを案じているからこそ、こんな言葉が出てくるのだ。

「主君を信じるのは家臣の立場としては当然だと思います。家臣の信頼を得られない主君ほど情けないものもないと思います。でも、主君を信じることと、主君の信じるものだからと妄信するのは別物だと思うんです。危険なことだと思います。生意気な言い方かもしれませんけど」

「然様ですな。政宗様が信じているからこそ、我らは一旦疑わなくてはならない。疑い、我が目で確かめた上で信じなければ意味がない」

 改めて言われてみれば、これまではそうしていたことだった。政宗の判断したことであれ、それが本当に正しいことなのか常に小十郎も綱元も考えてきた。納得出来ないことであれば政宗と意見をぶつけ合ったこともある。それを許すだけの度量が政宗にあることが小十郎たちにとっては誇りでもあった。

 だが、彰子に関してはその第一段階の『自分で判断する』という感覚が欠如していた。恐らく人知を超えた異世界に存在した相手だからなのだろう。そして、政宗が心から欲した相手だったからこそなのだろう。

「生意気なことを申し上げて申し訳ござません。智の景綱と呼ばれる小十郎さんには言うまでもないことだったでしょうに」

 彰子はそう言って頭を下げる。確かに言われた内容は不快に感じたとしても無理のないことだったと思う。だが、小十郎は彰子の言葉を不快になど感じなかった。根底にあるのが政宗を案じる気持ちだと感じ取れたからだ。そしてそれは寧ろ、政宗を大切に思う小十郎にとっては嬉しいものだった。

「いえ、御方様がそれだけ政宗様を、ひいては奥州を思うてくださってのこと、この小十郎、嬉しく思います」

 自然と小十郎は彰子を御方様と呼んでいた。それは小十郎が彰子を主君の妻に相応しいと本心から認めたということだった。

「それに御方様のご性格は政宗様より伺っておりますゆえ、ご心配なさいますな」

 小十郎は穏やかな笑みを浮かべて言う。政宗が帰郷してからずっと、ことあるごとに彰子のことは聞いていたのだ。何かにつけて政宗は彰子のことを思い出しており、そのたびごとに傍にいる小十郎たちは彼女の話を聞いていた。それゆえ、自然に小十郎をはじめ綱元も成実も喜多も、彰子のことを旧知の人物であるかのように錯覚するほどだった。

「あら……どんな話をしたのか、不安だわ。変なこと言ってないといいんですけど」

「然様でございまするな……例えば、中々に頑固であられて政宗様と時折言い争いをなさったとか、真朱という猫によく叱られておられたとか、そのようなことでございますな」

 尤も一番政宗が語っていたのは彰子のさり気ない優しさや心遣いにどれほど慰められたかということだったが、ここは敢えてそれには触れなかった。

「もう、政宗さんったら言わなくてもいいことを」

 彰子も苦笑する。敢えて小十郎がそういう事例を挙げたことに気付いているようだった。

「わたくしも色々伺いましたわ。小十郎さんがお野菜作りの名人でいらっしゃるとか」

「ほう、そのようなことを」

「ええ。政宗さんの舌が肥えていて苦労しました」

 彰子はクスクスと笑いながら言う。何しろ政宗滞在時期の長岡家のエンゲル係数は倍近くに跳ね上がっていたのだから。

「奥州へ行けばわたくしも小十郎さんのお野菜をご馳走していただけるのでしょうか」

「御方様の舌に合いますか如何か」

 彰子も漸く緊張が解けたのか、その雰囲気が柔らかなものへと変化する。それには小十郎もホッとした。これから長い付き合いになるだろう。否、長い付き合いになって欲しいと願う相手なのだ。

 彰子は何れ元の世界に帰ってしまうのだと政宗は言っていた。この世界に来たのは一時的なものだろうと。政宗自身が異世界に行っていたのは僅かな期間だったのだから、そう考えるのが妥当だろう。

 しかし、と小十郎は思う。彰子には出来るならばこの世界に、政宗の傍に留まってほしい。

 彰子と出会う前からそう思っていた。そして今日こうして話をして一層その思いは強くなった。彰子は政宗の妻として相応しいと。

 何よりもこの数日の政宗の表情からそれを願わずにはいられない。

(政宗様は彰子様が元の世界に帰ると仰せだったが……留まる方法がないか探してみるか)

 それは彰子の意志を無視することになる。彰子の願いを妨げることになる。政宗の意向にすら歯向かうことになる。

 けれど、奥州筆頭伊達政宗の片腕として、この目の前の女性を手放すことは奥州にとっても政宗にとっても損失になると小十郎は思ったのだ。






 小十郎の密やかな決意を知らぬままに彰子は穏やかに漸く会えた『政宗ご自慢の側近』との対面を楽しんだのだった。