珍しく幸村は考え込んでいた。常の彼であれば、考えるよりも体が先に動いているものだが、今回ばかりは違っていた。城下に出かけるでもなく、庭で鍛錬という名の破壊行動に出るでもなく幸村が部屋でじっとしている。長年側に仕えている屋敷の者たちは何ぞ拾い食いでもして腹でも壊したのかと心配したが、そうではない。
この数日間の出来事を幸村は思い返していた。突然判明した彰子の身元。そして、それを齎したのは己の好敵手と認める奥州の独眼竜だった。
段々憔悴していく彰子を心配していたところに、佐助から思いがけない情報を得た。彰子が政宗の縁者らしいと。すぐさま確かめるようにと佐助を奥州にやり、幸村は佐助の帰りを待った。いつもならば床に就いた数秒後には眠りに落ちる自分に、眠りはいつまで経ってもやってこなかった。
彰子は政宗の何なのだろう。本当に縁者だったとして、佐助の言うように政宗自身が彰子を迎えに来るということが有り得るのだろうか。本当に迎えに来たとき、自分は如何するのだろうか。そんなことを考えて幸村は眠れなかった。
縁者というからには、政宗の姉妹か何かなのだろうか。確かに彰子の立ち居振る舞いは奥州筆頭の姉妹といってもおかしくはない品がある。顔立ちに似たところはないが、自分と姉たちも顔立ちが似ていない者もあるから、それは別におかしなことではない。
政宗が迎えに来たら、彰子は奥州へと帰ってしまうのか。それは寂しいことだが、でもきっと彰子にとってはそれがいいことなのだ。そんなことを考えているうちに、佐助が戻ってきた。
佐助は詳しい事情は知らされず、翌日政宗と小十郎が迎えに来ると告げた。やはり彰子は帰ってしまうのだと思うと寂しかった。けれど、それは彰子にとってはいいことなのだと自分に言い聞かせた。
翌日、予想よりもかなり早い時間に政宗はやって来た。それほどまでに彰子は政宗にとって大切な存在なのだと判るものだった。
それにしても、と幸村は思う。彰子が政宗の想い人であったのは意外なことだった。政宗と恋愛が結びつかなかったのだ。戦場で相謁える政宗はそういった甘やかな感情とは無縁の、命をかけた戦いにこそ燃え上がる人物に思えた。尤も、戦場で色恋を感じさせるものなど、前田のお気楽夫婦かその甥の風来坊くらいしかいないだろうが。
政宗が幸村に見せた──彰子を通して自分に見せた表情は、これまでの幸村が見たこともないものだった。その衝撃は大きかった。女を恋うることによって人はこんなにも違う顔を見せるのかと。
そして、彰子もそうだった。あんなにも安堵した穏やかな表情の彰子を見たのは初めてだった。そして、艶やかな表情も。
山中で彰子を保護してから約2ヶ月。本当はずっと不安だったのだろう。生まれ育った地を離れ、愛しい男と引き裂かれ、誰も知った者のいない土地、しかも敵国にただ一人で……。
幸村をはじめとした城の者に彰子が不安そうな表情を見せたことはなかった。彰子は皆に心配をかけまいと気丈に振舞っていた。鈍い自分でもそれと気付くほどに憔悴していたというのに。
その彰子が政宗が現れたことによって、劇的に変化したのは少なからず幸村には衝撃だった。自分が情けなくもなった。
彰子殿、それがしはそんなにも頼りになりませぬか──そんなことを思ってしまうほどに。
確かに政宗のほうが幸村よりも二つ年長ではあるし、一介の地方領主で信玄の配下に過ぎない幸村と違って政宗は奥州筆頭だから、器の大きさも違う。しかも政宗は彰子の想い人なのだ。彰子が政宗を頼りにするのは、政宗によって立ち直るのは仕方のないことなのだ。況してや、引き裂かれたはずの恋人と再び共に生きることが出来るようになるのだから。そう思うのに、寂しさを感じた。
彰子はずっと上田にいるのだとばかり思っていた。城内で彰子が自分の正室候補として送り込まれた何処かの姫ではないかと噂されていることも知っていた。そんな噂があることを教えてくれたのは他ならぬ彰子自身で、彰子は苦笑しながら『皆様、幸村様がいつまでも妻をお迎えにならないから、ご心配なさっておいでですよ』と言っていた。
そのとき、彰子なら良いかもしれないと実はこっそり思いもしたのだ。彰子は聡明な女性だし、一緒にいてとても楽しい。他の女性のように気を張ることもないし、恥ずかしくなることもない。自分が望めば一緒に城下へ出かけてくれるし、共に佐助にお小言を食らったのも一度や二度ではない。お小言の後にクスクスと笑いながら、『次は佐助さんにばれる前に戻ってきましょうね』なんて悪戯っ子のように言ったりもした。それでいて自分が執務を怠けたり、鍛錬で物を壊したりなど、叱るべきときには叱ってくれた。声を荒げるわけでもなく、優しい声で諭してくれる。自分が反省をすれば、『では、お説教はお仕舞い。団子でも食べましょうか』と優しく笑ってくれる。
そんな彰子の姿は今は亡き母や嫁いでいった姉たちを思い出させた。
だからなのだろう。彰子の境遇を聞いたとき。そして政宗の望みを知ったとき。幸村は深く何かを考えることなく、『彰子殿はそれがしの異母姉にござる』と告げていた。暗に小十郎が自分に彰子の身元を捏造してほしいと願っていることには気付いた。だから、誰か──真田家の譜代家臣あたりの養女にすればそれで済んだはずだった。
けれど、幸村は彰子を自分の姉だと言ってしまった。そうであればいいと心の何処かで願っていたのだろう。そして、そうすれば彰子と自分の繋がりが切れることはないと無意識のうちに考えたのかもしれない。
「旦那、何珍しく頭使ってるのさ」
不意に頭上から聞こえた声に驚き、幸村は顔を上げる。いつの間にか佐助が背後に立っていた。いくら気を許している相手とはいえ、声をかけられるまで気付かないなど武将として如何なものかと幸村は自分に呆れた。
「うむ……。姉上のことを考えておった」
かなり失礼な発言をされたことには気付かず、幸村は答える。
「ふーん、彰子ちゃんねぇ。今頃、竜の旦那と一緒に大将と会ってるんだろうね」
佐助は幸村の傍に腰を下ろしつつ応じる。
「あと10日もすれば、彰子ちゃんは竜の旦那と一緒に奥州に行っちまうんだね」
同盟のことがあり、政宗はもう暫く甲斐に滞在することになる。同盟の証文を交わした後一旦上田に戻り、その後政宗は彰子を伴って奥州へ戻る。だとすれば、あと10日もすれば彰子は上田から──幸村や佐助の許からいなくなってしまうのだ。それが二人には寂しかった。
仮にも真田家の姫として奥州筆頭の許へ輿入れするのだ。側室とはいえ、政宗にとって最初の妻でもある。それなりに格式を整えて彰子を送り出すべきではないかと幸村は考えていた。政宗には先に奥州へ戻ってもらい、その後真田の姫としての格式を整えた花嫁道具と共に彰子を送り出すべきだと。
しかしそれは政宗と小十郎に却下された。彰子も謝絶した。そこまで面倒をかけるわけには行かないと3人は異口同音に言った。面倒などとは思わなかったが、きっと彰子は1日も早く奥州へ、政宗の許へ戻りたいのだと幸村は解釈し、それを受け容れることにした。佐助も異を唱えず、彰子たちの希望に添うのがいいだろうと助言した。
実際のところ、いつ彰子が元の世界に戻ってしまうか判らない為、早々に上田を出るに越したことはないと事情を把握している者たちがそう判断したのだ。
それでも、幸村は彰子の輿入れの為に何かをしたかった。
「で、旦那。さっさと行かないと彰子ちゃん帰ってきちゃうよ」
これから二人で城下に出かけることにしていたのだ。いつまで経っても幸村が部屋から出てこない為、佐助は呼びに来たのだった。
「おお、そうであったな。では、出かけるぞ、佐助」
幸村の目的は彰子の花嫁道具を買い求めることだった。
何処かのんびりとした上田の城下町とは違い、流石に信玄のお膝元である甲府の城下町はとても賑わっていた。京や大坂から様々な物資が集められる城下町には沢山の店が並ぶ。
「長持なんかは奥州側で用意してるらしいし、彰子ちゃんも遠慮するだろうからさ。あんまり大袈裟なものはやめておいたほうが良さそうだね」
色々な店先を覗きながら言う佐助に幸村も頷く。長持──衣装箱などの所謂家財道具はそうそう1日2日で用意出来るものでもなく、また彰子も申し訳ないと気に病むだろうことは容易に想像出来る。
「そうだな。だが、文箱や硯箱、それから茶道具はこちらで誂えても良かろう。京より良き品も入っておるようだしな」
「それから衣装類だね。せめて輿入れのときの婚礼衣装くらいは真田で揃えても文句は言われないだろうし」
そんなことを話しながら、二人は京から取り寄せた反物を扱っている店へと入る。
「これは真田様、お珍しい」
幸村が訪れることなど稀な為、店主は驚いたように幸村主従を見る。信玄の秘蔵っ子ともいえる幸村は甲府にいることも多く、城下の者たちもそれなりに幸村のことを見知っているのだ。
「うむ。俺の縁者が此度嫁ぐことになってな。その為の衣装を調えたいのだ。見せてくれるか」
「それはおめでたいことにございますな。如何ぞ奥へお上がりください。お持ち致しますゆえ」
店主は幸村たちを店の奥へと案内し、ありったけの反物を持ち込む。その中から幸村と佐助は彰子に似合いそうなものを選んでいく。結局一刻ほどの間に10枚の分の反物を選んだ。どれも京織物の高級品であり、豪奢すぎず地味すぎず、品の良いものばかりだった。
(きっとお似合いになるだろうな。これを纏った姉上を拝見することは出来ぬが……)
そう思うと少しばかりの寂しさを幸村は感じる。
「ではこれらの品はすぐにお屋敷のほうへお届け致します」
店主の言葉に頷いて、幸村たちは呉服屋での買い物を終えた。真田屋敷では既に女衆が用意を整えており、反物が届き次第仕立てていくことになっていた。
呉服屋を出ると、次に茶道具を扱っている店に行く。彰子は時折茶を立ててくれていた。彰子が立ててくれた茶を喫するひとときはとても穏やかな時間で、幸村は度々彰子に願ってその時間を持っていた。それもこれからはなくなるのだと思うと、やはり寂寥感が胸に迫る。
そこでも小半時ほど品を見て回り、黒い漆塗りの金の蒔絵の上品な道具を一揃え購った。それに真田家の家紋を入れるように頼み、出来上がり次第真田屋敷に届けてもらうことにした。
店を出ると、幸村たちは次の店に向かう。今度は文具四宝を取り扱う店だ。彰子が屋敷に戻るまでに済ませてしまわねばと二人は大忙しだった。
そこでは文箱と硯箱を購った。それと共に幸村は大量の紙を買った。どれも上品な色合いの美しい漉きの和紙だ。
あまりに大量に買うことを不思議がった佐助に幸村は言った。
「姉上は書を書かれるのがお好きなようだからな」
ふとした会話の折に、彰子が日々の日記をつけているのを聞いたことがあったのだ。よく彰子は幸村の書き損じの紙を願って貰い受けていた。漉きの荒い紙はそれなりに安く購えるものもあるが、まだまだ紙は高級品である。況してや薄い漉きのものとなればかなり値が張るから、彰子の禄ではそうそう大量に買うことなど出来ないのだ。
「紙も揃うておれば、姉上も我らに文をくだされやすかろうし」
ぽつりと呟いた幸村に、佐助は少しばかりの同情を覚えた。自覚すら出来ないほどの幸村の淡い恋情に佐助は気付いている。去ってしまう彰子と、それでも縁を結んでおきたいと願う幸村が憐れに感じられたのだった。
幸村たちが屋敷に戻ると、既に反物は届いていて、女中衆と配下の妻たちが仕立てに取り掛かっていた。彰子も戻っており、女衆に囲まれあれこれと反物を体に宛がわれ目を白黒させて驚いている。
「幸村殿、佐助さん、これは一体……」
顔を出した幸村たちにそう問いかける彰子の表情は明らかに戸惑ったものだった。
「それがしと佐助で選んで参りました。お気に召されませぬか、姉上」
次々と絹を宛がわれる彰子を見ながら幸村は応じる。
自分たちが選んだ絹は彰子によく映える。そんな品をきちんと選べたことが幸村には嬉しかった。
ニコニコと自分を見る幸村と佐助に彰子は複雑な思いを抱く。これだけの反物を揃えれば相当な高額になっているだろうに。本当は姉でもなんでもない赤の他人の為にそんな出費をさせてしまったことが申し訳なかった。
漸く女衆が反物を持って仕立ての為に別室へと移り、彰子は解放される。どっと疲れた様子の彰子に幸村と佐助は苦笑を零す。
「要らぬとは申されますな、姉上」
彰子が口を開くよりも早く、幸村が言葉を発する。彰子が遠慮して申し訳なさがって何か言うだろうことは予測の範囲内だった。だからこそ、彰子が帰ってくるまでに買い物を済ませ屋敷に戻ろうと思っていたのだ。ところが出かけるのが遅くなった上に呉服屋で思いの外時間を取ってしまった為に、彰子にばれてしまった。
「ですが、幸村殿」
「姉上。姉上は真田幸村の姉でございまするぞ。碌な仕度も持たず奥州へ参られては真田が侮られまする。真田はそれほどまでに貧しいのかと。これは真田の為に為すことにございますれば、姉上は諦めてお受け取りください」
反論しようとした彰子に殆ど何も言わせぬまま、幸村はキッパリと言う。彰子の遠慮は想定内のことだから、当然対策も考えていたのだ。
「……」
これには彰子も反論出来ないようで、グッと黙ってしまう。そして暫く思案した後、幸村に頭を下げた。
「わたくしには過分な御仕度ではございますが、お心有り難く頂戴致します。真田の名に恥じぬよう、奥州ではあい務めまする」
幸村の言うことにも一理あると彰子は考えたのだ。側室とはいえ、真田の姫という身分で嫁ぐことに変わりはないのである。
(なんだか大変なことになっちゃったかも……)
内心で彰子は溜息をつく。幸村は純粋に好意から自分を姉と言ってくれたのだろうが、その身分を得たことで、事は大きくなってしまった。
何れ自分は元の世界に戻ってしまうのに、こんなことになって大丈夫なのだろうかと少しばかり彰子は不安を覚える。
偽りの身分を得たことは本当に良いことだったのだろうか。自分が消えてしまった後、それは何か政宗や奥州に不都合を齎してしまうのではないだろうか。
そして、どんどんこの世界に自分の居場所が作られていくことにも、言いようのない不安を感じた。
──私は元の世界に還れるのだろうか、と。