異世界の父

「ほう、似合うじゃねぇか」

 姿を現した彰子を一目見るなり、政宗は嬉しそうに笑った。彰子がその身に纏っているのは以前政宗が買い求めた絹を仕立てたものだ。当時は彰子がこの世界に来ているなどとは夢にも思っていなかった。ただ呉服屋が持ってきた反物を見て彰子に似合いそうだと思い、ついつい買い求めてしまった。遠い世界にいる彼女を想うよすがにと買ってしまったに過ぎない。けれど今思えば、これを買ったときには既に彰子はこの世界に来ていたことになり、何か不思議な力が働いて政宗に『準備』させていたのかもしれない。

「そう? ありがとう」

 彰子は少々恥ずかしそうに答える。元々彰子はモノトーンなどの落ち着いた色合いの服を好む為、この小袖のような鮮やかな色合いの衣装には慣れていないのだ。恋人や友人たちは色彩豊かな服を勧めてくれたが、自分好みのものばかりを選んでしまっていた。生まれ育って世界でのコンプレックスから、彰子は自分の容姿に自信が持てない。最初の異世界トリップの際に容姿は上方修正されていたが、それでも自分に鮮やかな色彩が似合うとは思えなかったことも一因だった。

 政宗が選んだこの衣装は青と紫という組み合わせでありつつも、化学染料ではない草木染の落ち着いた色合いということもあって、彰子も然程抵抗なく身に纏うことが出来た。尤も明らかに超高級品とわかる手触りに内心では叫んだのではあるが。

「喜多さんが仕立ててくださったんですって。それを夕べ小督さんって細作の方が届けてくれたの。小督さんは成実さんから私の護衛をするように命じられて甲斐に来たって言ってたわ」

 彰子は政宗に昨夜のことを伝える。昨日の午後に躑躅ヶ崎館と真田屋敷に分かれてからの情報交換のようなものだ。

 今二人は躑躅ヶ崎館の政宗が滞在する客間にいる。小十郎は室外に控えており、室内にいるのは政宗と彰子、それに萌葱だけだ。

「あ、政宗。信玄のおっちゃんは俺が喋れるの知らねーから、そこんとこよろしくー。ってか、俺たちが喋れるの知ってるのって佐助だけだし」

「えっ!? 佐助さん、知ってるの!?」

 萌葱の言葉に反応したのは彰子だった。ずっと隠していたはずなのに何処でバレたのだろう。

「当たり前だろ。じゃなきゃ、如何やって佐助に政宗呼びに行かせられるんだよ。っていうか、昨日俺、佐助と話してただろ。今更何言ってんだよ。かーちゃん、抜けてるなぁ」

 確かにそう言われてみればそうだった。全然違和感を感じなかった。やはりまだ本調子ではないのだろう。萌葱は呆れ顔だが仕方ない。政宗との再会からまだ2日しか経っていないのだ。

「そっか……まだ2日しか経ってないんだっけ」

 改めて思い返すと実に慌しい2日間だった。昼前に突然政宗が現れて、泣いて泣いて溜まっていた苦しみを吐き出して。政宗の厚意に甘えて奥州へ行くことを決めた。それから幸村に挨拶に行ったら、既に自分が幸村の姉になることが決まっていた。そして翌早朝には躑躅ヶ崎館に向かって出立した。漸く真田屋敷で落ち着いたと想ったら、奥州から来たくのいちの登場だ。

 今朝は今朝で、真田屋敷の女中衆に寄って集って着飾らされて、化粧までされた。真田家の姫としてお館様にご対面なさるのだからと。

 躑躅ヶ崎館にやって来てお館様との対面の準備が整うまで待機ということで政宗のいる部屋に通されたのだが、そこで漸く一息つけたというのが現在の状態だった。

 たった2日、されど2日。この2日間は彰子にとってとても重大な2日間になった。政宗がいる。これからは政宗が傍にいてくれる。そう判っただけで、彰子の心はとても穏やかに安定したのだ。その証拠に昨晩もその前の夜も夢も見ないほどにぐっすりと眠れ、目覚めはすっきりと爽快だった。恐らくこの世界に来てから初めてといえるくらいに。

(政宗さんがいるから……か。いつの間にこんなに政宗さんに頼ってたんだろう)

 共に過ごした時間の長さでいえば、既に幸村や佐助のほうが長い。何も知らない幸村はともかく、佐助は自分が異世界トリップをしていることを知っている。条件は政宗と同じだ。それでも政宗への信頼度のほうが高いのは、元の世界の自分を知っている人だからだろうか。

 確かに共に過ごした時間は幸村や佐助のほうが長いが、状況が状況だけに彰子は彼らに完全に心を許していたわけでもない。否、正確にいうならば、心を許す許さない以前にそうするだけの余裕がなかったのだ。ゲームやアニメの中でしか知らない世界に飛ばされ、今までの生活とは全く無縁の血腥い世界に戸惑ってもいた。城の中は安全で何の心配も要らなかったし、今は平和な時期らしく、幸村が戦に出ることもなかった。けれど、幸村の祐筆として色々な書状を見ていれば、各地で戦が起こっていることは判る。

 還れない不安と焦燥、戦国乱世ゆえの恐怖。それは彰子の中にいつも以上に他人との精神的な距離を置かせるには充分すぎるものだった。幸村や佐助が信頼出来る人物だということは判っている。信頼していないわけではない。彼らに対して好意だって持っている。けれどそれでも、心を預けることは出来なかった。そんなことを感じる余裕もなかった。自分の心を平静に保つので精一杯で。

 かといって、幸村や佐助が逆トリップし自分の許へやって来たとして、政宗と同じだけの信頼を置いたかというと、これも疑問だった。警戒心や猜疑心の強い(職業柄仕方のないことだが)佐助は確実に信頼とまではいかなかっただろうし、幸村に対しても可愛いと思いはしても、政宗ほどの安心感は持たなかっただろう。これほど信頼出来、安心感を齎してくれるのは政宗だからこそだろうと彰子は思う。何故と問われても判らないけれど、共に過ごしたあの1ヶ月の中で確かに彰子は政宗に信頼を寄せ、今こうして共に在ることで漸く肩の力を抜いて自分らしくいられるのだ。

「如何した、Honey.そんなにオレを見つめて。オレがあんまりNice Guyだから見惚れてんのか?」

 揶揄うような政宗の声で彰子はハッと我に返る。如何やら考え事をしながら政宗を見つめていたらしい。

「背負ってるわね、政宗さん。まぁ、確かにナイスガイだけど、見惚れてたわけじゃないよ」

 平成の世にいたときにはちょっと華のある美青年という印象だった政宗だが、この世界に来て再会した政宗は違う。華のある美青年であることは変わらないが、それ以上に強い覇気を感じるのだ。存在感というのだろうか、平成の世にいたときとはそれがまるで違う。ここが政宗本来の世界だからなのか、奥州筆頭としての覇気、まさに戦国の雄というべき存在感の強さがある。それは信玄や謙信と同じ強さを持ったものだ。

「なんかね、政宗さんと再会したら、すごく安心しちゃって。如何してだろうって考えてたの」

 素直に彰子の口から零れた言葉に、政宗の心は波立った。自分と再会して彰子が安心した。それは政宗にとってとても嬉しい言葉だった。

「全部事情を知ってるからじゃねぇのか?」

 そんな嬉しさを隠して政宗は問い掛ける。彰子の言葉に深い意味はない。彰子が自分を信頼してくれていることは平成の世にいるときから感じていたことだ。それ以上の深い意味は──政宗が望むような意味はないのだ、そう自分に言い聞かせる。

「うーん、それもあるだろうけど。でも佐助さんだって知ってるし、やっぱり政宗さんだからなんだと思う。巧く言えないけど」

 政宗さんだから。その言葉に政宗の頬が緩みそうになる。自分と同じ想いではないにしても、それだけ自分が彰子の心の中で重要な位置を占めていると本人から告げられて嬉しくないはずがない。

「嬉しいこと言ってくれるな、Honey.3ヶ月近く一人で頑張ってたんだから、暫くはオレに頼ってゆっくり心の疲れを癒せばいい。ちゃんと還れるさ。オレがそうだったようにな」

「うん、そうね」

 彰子は安心した笑みを浮かべる。あれほど還れないのかもしれないと不安に思っていたのが嘘のようだ。

「そういえば、Honey.このtripには意味があるのかもしれないと言ってたな」

 再会した日の夜に彰子がそう言っていたことを思い出す。あの日は前日の睡眠不足が祟ったことと再会出来たことによる安心感でお互いに眠気を我慢出来ず、深くそれについて話すことは出来なかった。

「ああ、うん。でも飽くまでも希望的観測による考えなんだけど」

 意味があるトリップなのだとしたら、何かを為せば還れるのかもしれない。だからその可能性を捨て切れないでいるのだ。

「元々別の場所にいたはずの真朱たちが同じ場所にトリップしてきてたし、押入れに仕舞っておいた政宗さんの浴衣を萌葱が持って来てたし……。それにこれも部屋に仕舞っておいたのに、いつの間にか持ってたし」

 そう言って彰子は着物の袷からペンダントを取り出す。上田城に入ってからは失くさないようにといつも身に付けていたのだ。そして、これをつけていると政宗が傍にいるようで安心出来た。恥ずかしいからそんな理由は本人には言わないが。

「見事にオレ関連の物ばかりだな、だとすれば、彰子。3ヶ月近く還れなかった理由はオレと再会してなかったから……ってのも考えられるな」

 暫し思案して政宗は言う。猫たちも共に来ていたというだけならば自分とは関係ないかもしれない。だが、そこに本来あるはずのない浴衣とペンダントまで持って来ていたのだ。二つに関係するのは自分だ。このトリップに意味があるのだとしたら、それは恐らく自分と関係していると思うのは、強ち考えすぎでもないだろう。

「やっぱりそうなのかな。政宗さん絡みで私に何かの役割があって、それでトリップしたのかな」

 だとすれば、還れる日もそう遠くはないのかもしれないと希望が持てる。

「まぁ、その役割ってのも時期が来れば判るんじゃねぇか? 取り敢えずHoneyが来たことで甲斐と奥州の同盟がsmoothに進んだことは確かだしな。もっと時間がかかるはずだったんだが、アンタを迎えに来るって口実が出来たおかげですんなりと纏まったぜ」

 彰子のことがなければ、甲斐との同盟には早くてもあと2~3ヶ月はかかっただろう。彰子の役割が同盟を締結させることでなければいいのだが。もしそうなら、役目を終えた彰子は元の世界に還されてしまう。弱っている彰子を見て1日も早く戻してやりたいと思ったのは嘘ではないが、少しでも長く共にいたいと思うのもまた政宗にとって偽らざる真情だ。

「甲斐との同盟? じゃあ、当分は政宗さんとお館様や幸村様が戦うことはないんだね」

 彰子はホッとする。戦国乱世で天下統一を望むなら何れ戦うこともあるだろう。平成の日本の平和ボケしたヒューマニズムで『戦争イクナイ!!』はこの世界では通用しない。この戦国乱世は歴史的必然によって訪れた時代なのだと彰子は思っている。既に話し合いや政治的な取り引きでは収拾出来ないところまで乱れてしまった時代ゆえ、武力による決着しか方法がないのだと。歴史はその転換期に人血を求めるものだとは何の小説で読んだ言葉だっただろうか。

 けれど、ともかく暫くの間は政宗たちが直接刃を交えずに済むのは嬉しいことだ。

「ああ、天下がほぼ治まるまでは、虎のおっさんとオレはpartnerだ。軍神もな」

「謙信公も? わぉ、最強じゃない」

 あと10年生きていれば天下を獲ったのではないかと言われている武田信玄、軍神の異名を獲る戦巧者の上杉謙信、そして10年早く生まれていれば天下を獲れたかもしれないと言われた伊達政宗。この世界ではなく彰子の生まれ育った世界での評価ではあるが、そんな3人が同盟を組むのだ。彼らなら連携して早期に天下統一を成し遂げることが出来るだろう。

「だから、Honeyは安心していいぜ。アンタの大好きな信玄公や謙信公と戦はしねぇ。少なくともHoneyがこっちにいる間は絶対にな」

 平成の世で彰子が熱く語ってしまった『上杉謙信』への想いを政宗は確り覚えており、そう揶揄い混じりに言う。

「そういえば、軍神とも会ったんだってな。昨日おっさんから聞いたぜ。如何だった、実物の軍神や虎のおっさんは」

「お館様はとっても素敵な方だわ。すごく大きくて暖かくて。お父さんみたい。理想のお父さんかしら。私にはもう、両親いないし……」

 遠く離れてしまった両親。元の世界──恋人たちがいる世界に戻ってももう二度と会うことの出来ない父親。今ではもう彰子という娘がいたことを知らない父親。幼い頃に感じた父の温かさを信玄からは感じていた。

「おっさんも言ってたぜ。Honeyは可愛い娘みたいなもんだってな」

「勿体ないお言葉だわ。でも嬉しい」

 彰子が本当に嬉しそうに笑うものだから、政宗としては少しばかり面白くない。父親と言っているのについつい嫉妬してしまう。

(我ながら度し難いな……)

 そんな自分に政宗は呆れる。彰子がこの世界に来ていることを知らなかったときには、一目姿を見たいと願っていた。会えるならそれだけでいいと。なのに、再会してしまえば独占欲が沸く。何れは手放さなければならない相手だと判っているから尚更に、手元にいる間は独占しておきたいと。

「で、軍神は? Honeyはあっちの世界じゃ軍神が一番好きだったんだろ?」

 独占欲がどす黒い欲望へと変わる前に政宗は話題を転じる。

「うん! あのね……」

 そうして彰子は謙信への印象を語り始めた。ついつい熱が入ってしまったのは、元の世界の謙信への憧れゆえだ。お館様と謙信のことを楽しそうに語る彰子に政宗は苦笑しつつ、対面の時間まで話を聞き続けたのだった。






 政宗と彰子、信玄との対面は信玄の私的な居間で行われた。政宗と彰子が部屋に入ると、信玄は親しげに彰子に声をかける。

「彰子、よう参ったな。久しぶりだ。息災そうで何より」

「お館様にもご健勝のご様子。祝着至極にございます」

 政宗の半歩後ろに座り、信玄への礼を取る。

「堅苦しいことは抜きじゃ、彰子。顔を上げよ。そなたの華のかんばせを儂に見せてくれ」

 その声に応じて彰子が顔を上げると、信玄は優しい笑みを浮かべていた。

「そなたが独眼竜の想い人であったと知ったときには驚いたが、こうして並んでおると、まこと似合いの一対よのう。彰子、幸せになるのだぞ」

 温かな慈愛の篭った声で信玄に言われ、彰子は胸が熱くなる。たった2回しか会っていないというのに、本当に信玄は父のようだ。如何してここまで自分を案じてくれるのかと不思議に思う。だが、恐らくそれが信玄という人なのだろう。情に厚く、とても愛情深い人。まさに甲斐の父ともいうべき人であり、甲斐に縁あって住まうことになった自分は、彼にとって子も同然なのかもしれない。

「お館様……ありがとうございます」

「そなたは幸村の姉として独眼竜の許へ参るのだ。即ち甲斐は故郷。幸村は我が子同然であり、幸村の姉であるそなたも同様だ。何かあれば、この父を頼るが良いぞ。独眼竜が無体なことを為せば、すぐにこの父と弟幸村が駆けつけ、独眼竜を成敗してやろうほどにな」

「おいおい、おっさん。オレがHoneyにそんなことするわけねぇだろうが」

 あまりの信玄の言いように政宗も彰子も苦笑する。

「藤次郎様がそのようなことはなさらないと思いますが、お館様のお心、とても嬉しく存じます。何かございましたら、お館様、幸村様を頼らせていただきます」

 そんなことにはならないだろうが、それでも信玄の言葉はとても嬉しかった。本当に父親からの愛情を受けているような気がした。

「うむ。独眼竜から聞いておるやもしれぬが、奥州と甲斐は同盟を結んだゆえ、戦になることはない。安心致すがよいぞ」

 信玄の温かな心遣いに彰子は心からの一礼をする。彰子がいた世界の信玄はよく同盟を破棄する為に信用がなかったといわれているが、ここの信玄は違う。信義を重んずると幸村から聞かされている。実際に彰子も信玄からそんな印象を受けている。きっとこの世界は信玄と謙信、そして政宗によって統一され泰平の世へと変わるのだろうと思えた。






 信玄との対面は約1刻ほどの長い時間だった。3人で他愛もない話をした。

 そう、まるで父と娘、そして婿のような。とても心が温かくなる時間だった。