甲府へと到着した政宗と小十郎は、そのまま躑躅ヶ崎館へと向かった。
今回の訪問は非公式なものとはいえ、既に信玄に対して訪問の旨は伝わっている。非公式ゆえに時間を無駄には出来ず、政宗は早急に用件を済ませ、奥州へ戻らなくてはならない。また、日ノ本の4分の1を支配する伊達家と甲斐の虎と恐れられる武田家の同盟など、敵対する他国にとっては脅威以外の何者でもなく、もしこれが知れればどんな妨害が入るかもしれない。手早く纏めてしまうに越したことはないのだ。
躑躅ヶ崎館へ入った政宗は殆ど待たされることもなく、信玄の許へ案内された。
通された部屋には信玄の他には一人の重臣らしき人物がいるだけで、ほぼ人払いがされているのと同様だった。尤も政宗も小十郎しか伴っていないわけで、それに合わせたとも思えるものだ。
「来たか、小童」
政宗の姿を認めると信玄はニヤリと笑い声をかける。何度も戦場で相謁えた相手とはいえ、信玄にすれば自分の子や孫といっても差し支えのない年齢の政宗である。敵国の主としてだけではなく、次代を継ぐ者としての期待を持っている相手でもある。自然、その声には親しみも篭る。
「ああ、アンタも元気そうだな、虎のおっさん」
信玄に合わせるように政宗も気安く応じる。だが、それも座に就いた瞬間に改まる。
「突然の訪問をお許しいただき有り難く存ずる。此度は長岡彰子を庇護していただいたことに心より御礼申し上げる」
姿勢を正し、政宗は最敬礼を以って頭を下げる。
「長岡彰子を直接保護していただいた真田殿、甲斐に住まうことを許していただいた武田殿にはどれほど言葉を尽くしても足りぬ」
もし彰子が幸村に保護されず、ずっと山中に隠れ住んでいなければならなかったとしたらと思うと、政宗はぞっとする。あれほど精神的にも脆くなっていた彰子だ。下手をすれば命に関わっていただろう。
「儂は何もしておらぬ、伊達殿。全ては幸村が判断し行ったこと。礼は幸村に申せばよい。儂には必要ない」
「武田殿がお許しにならねば、あれが甲斐に住まうことは出来なかった。感謝申し上げるのは当然と思うが」
飽くまでも表向きは恋人を保護してくれたことへの礼を述べる為の訪問だからと、政宗は頑なに頭を下げる。そしてその頭の中では目まぐるしく計算をしていた。どのようにして同盟へと話を繋げようかと。
「しかし、彰子がお主の想い人であったとはのう。お主もいい歳をして正室どころか側室の一人もおらなんだゆえ、周りはさぞや気を揉んだであろうな。のう、右目」
場の堅苦しさを払拭するような明るい声音で信玄は小十郎に水を向ける。言われたことは事実その通りである為、小十郎は苦笑して頷くに留めておいた。
「浮いた噂一つ耳に入らぬし、女子嫌いかと心配いたしたぞ」
まるで揶揄うかのような口調に、政宗も漸く表情を和らげる。同盟の話は信玄との応酬から進めるしかないのだ。いや、信玄のことだから、こういった会話も単に政宗を揶揄う為のものであるはずがない。リラックスしておかねば信玄の出すサインを見逃しかねない。
「虎のおっさんに比べりゃ、確かにオレは女嫌いに見えるだろうさ。アンタと比べられちゃ堪んねぇよ」
ニヤリと笑い政宗は応じる。信玄は艶福家として有名だ。政宗の知る限りでも正室三条夫人の他に3人の側室がいるし、その他にも愛妾数名を持っているともいう。しかもその側室たちは政治的意味合いの低い──つまり信玄が望んで傍に置いている女性たちだということだ。
「言いおるわい、小童めが」
信玄は気分を害した様子も見せず大笑する。それにここまで無言であった中年の武田家家臣が口を開いた。山県昌景、信玄の懐刀ともいわれる側近中の側近である。
「彰子殿は真田家秘蔵の姫君であられる。幸村殿が生半可な男には姉上をやれぬと日頃から申しておられたほど。おまけにお館様までがあれこれと口を挟まれるゆえ、18の今までお相手には恵まれませんでした。これでは残る道は尼になるかお館様のご側室に入っていただくしかないと思うておったのでござるが、まこと良きご縁にようよう巡り合われたようにございまするな」
「そうじゃのう。儂の側室では親子ほどに歳も違うゆえ、彰子も憐れ。かといって尼にするにはあまりにも惜しい器量。されど独眼竜であれば良き縁組であろうな」
目の前で楽しそうに話すオヤジ二人に、政宗と小十郎は顔を見合わせる。昨日幸村が決めたばかりの無理矢理感満載の設定が既に信玄らに受け容れられ、しかも詳細設定まで加えられてているのだ。
彰子によれば、彰子自身が接したことがあるのは信玄のみ。家臣とは宴の折に挨拶をした程度でしかないということだ。第一信玄とも対面したのは僅か二度でしかない。その後幾度か文の遣り取りはあったというが、彰子自身は特に信玄にここまで心を砕いてもらえるほどのものとは思っていなかった。
たったそれだけしか交流していない信玄や重臣が『彰子の為』にここまでの配慮をするはずはない。幸村は純粋に彰子の為に言ったのであろうし、信玄も彰子を気にかけているということは確かだろう。けれど信玄が幸村の決定を受けてそれを活用する計算を巡らせたことは想像に難くない。
武田家重臣・真田幸村の『姉』が奥州筆頭の側室なることの意味と価値を。
「真田家の姫君と我が主との婚姻は真田家と伊達家──ひいては甲斐と奥州の絆を確かなものと致しましょうな」
ゆえに小十郎がそう応じると、信玄と山県は満足そうに笑った。
「だが、同盟の証として彰子を差し出すわけではないぞ。同盟を結ぶほどに信義に足る相手ゆえ、本人たちの希望に沿うて可愛い娘を送り出すのだ」
政宗と小十郎が予測していた以上の返答を信玄は告げる。これには再び政宗たちも驚いた。
信玄の言葉の意味するところは二つ。一つはこれで同盟が成立したということ。勿論、正式な同盟の誓約書はこれから作ることになるが、武田の主が口にしたことゆえ、同盟は確定となった。
そしてもう一つ。恐らく幸村の『姉』という決断と共に『政宗や側近は本当は正室にすることを望んでいるが、身分が低いから彰子は正室になれない』ということが佐助から伝えられているのだろう。そしてその上で信玄は彰子を『可愛い娘』と言ったのだ。それはつまり、場合によっては信玄の養女とすることも吝かではないということだ。一国の主としての打算でもあり、純粋に彰子と政宗のことを思ってのことでもあった。
「甲斐の秘蔵の姫だから欲しいわけじゃねぇ。彰子に惚れて心底惚れて、愛しくて堪らねぇから望んだんだ。今は側室にしか出来ねぇが、オレの妻は彰子だけだ。大切にする。掌中の珠の如くな」
信玄の意を汲んで政宗は告げる。仮に望みが叶って彰子の正室格上げを図ったとき、力を借りることも有り得ると。
「同盟国から来た姫なら粗略に扱うヤツもいねぇだろうし、彰子も武田と伊達が戦をしねぇなら安心出来るだろうさ。あいつはアンタを本当の父親みたいに慕ってるからな」
ニヤリと笑う政宗に信玄も満足そうに頷く。
こうして、奥州と甲斐の同盟は合意を得たのである。
「さて、それでは改めて同盟についての話を進めることに致しますかな」
山県がそう言うと同時に信玄は上座から下り、政宗の横に座を移す。そして改めて向かい合う。対等な立場での同盟であることを示す位置関係だ。
互いに向き合った上で、小十郎が同盟に関する諸事項を改めて確認する。
一、同盟の目的は対織田・豊臣戦略である
一、同盟の期限は織田家・豊臣軍滅亡もしくはその脅威がなくなるまで
一、同盟中は相互不可侵
一、互いの同盟国に戦を仕掛ける際は進軍以前に一報を入れる。また、戦に関しては中立を保つ
一、同盟関係のない国との戦には要請があれば援軍を出す
一、織田・豊臣ならびにその同盟国との戦いには甲奥連合軍で臨む
主なものはこの6つだった。
現在の伊達家は今回結んだ武田以外との同盟はない。政宗の気質がそれを拒んでいたのだ。だが、織田や豊臣への包囲網を作ることも考えており、そうなれば中国の毛利や四国の長曾我部との同盟も将来的には有り得る。
一方に武田は現在上杉と同盟を結んでいる。かつては北条とも結んでいたのだが、北条が一方的に同盟を破棄してきた。如何やら背後には豊臣の影が蠢いており、信玄も警戒を強めているところだった。因みにその際に同盟の証として養子にしていた氏康の七男は相模に返した。尤もその後、その少年──西堂丸は再び上杉に養子という名の人質として送り出された。これも北条側の一方的な同盟破棄の後、本来ならば相模に帰るところを、本人と謙信の意向により上杉に留まり、現在では謙信の後継者として景虎の名を継いでいる。何かを感じ取った景虎の祖父氏政が、北条の血を残す為に謙信に願い越後に匿ってもらったというのが真実の理由だった。
「以上でござるが、何か不都合な点はござらぬか」
小十郎の問いに山県はなしと応じる。これで後は正式な書面にし、互いに署名押印をすれば同盟の成立となる。
「信玄公、オレはこれを対織田・豊臣の為だけの同盟とは思っちゃいねぇんだ」
話が完全に終わる前に、政宗は切り出す。これを言うか如何かは直前まで迷っていた。だが、甲斐の安定した領内を見、信玄の懐の深さを目の当たりにした政宗は信玄であればこれを告げてもいいと確信したのだ。
「ほう……」
政宗が何を言い出すのかと、信玄は立ち上がりかけた腰を改めて座に落ち着ける。
「天下が概ね平らかになるまで、この同盟を存続させたいと思ってる」
政宗様と制止の声をあげる小十郎を片手で制し、政宗は続ける。
「天下統一がある程度進むまで、アンタとの同盟は続けたい。アンタとオレ、武田と伊達で他の奴らを全て従わせるまでな」
本当は軍神とまでいわれる上杉謙信にもこの同盟には加わって欲しいところだが、彼には天下統一の野望はない。飽くまでも義の為に戦っているのが謙信という武将だ。であれば、天下が凡そ治まれば、武田や伊達の下につくことも彼ならば厭うまい。
「儂とお主で天下を纏め、最後に雌雄を決するか。面白い。だが、何ゆえそのようなことを考えた?」
信玄は興味深げに政宗を見る。政宗とは戦場では何度も顔を合わせている。そのときの彼からは今のような提案は想像も出来ない。戦場ゆえかとも思われたが、明らかに彼は戦に血肉躍らせる乱世の
「そのほうが多分、天下統一は早い。今の日ノ本はごく一部を除けば民は疲弊している。甲斐、越後、奥州──そんなもんだろ、民が明日を信じられるのは」
「明日を信じられる──か」
面白いことを言うと信玄は思った。
この乱世、いつ何時何が起こるか判らない。それでも領内が落ち着いているこの甲斐の民たちはまだ幸せな部類に入るだろう。そう、明日を憂えることは他の国に比べても少ないはずだと自負している。
「ああ。オレはな、おっさん。民が安心して10年後や20年後を語り合える世にしたいんだ。だがオレ一人じゃ時間がかかる。でも、おっさん──信玄公や謙信公と力を合わせりゃ、その分その日は近づく。あんたらは決して民を虐げない。国造りを知ってるあんたらなら、信ずるに足るpartner……相手だと思ってる」
政宗の言葉を噛み締めるように信玄は沈黙する。暫し、僅かな吐息の音さえも聞き取れるほどの静寂の時が流れる。
信玄はじっと政宗を見据える。その真意を測るように。そして、政宗の器の大きさと成長を感じ取る。流石はこの若さで奥州筆頭となっただけはある。未だ働き盛りの先代の父が僅か15歳の息子に家督を譲ったことも頷ける。
そう考えて、信玄は政宗の父・輝宗が少しばかり羨ましくなった。自分にも息子はいる。本来家督を継ぐべき長男は既に亡い。自分への反逆の咎で切腹している。四男勝頼は跡を継ぐには器量が不足している。甲斐一国ならば何とか治められようが、天下を任せるとなれば不安を禁じ得ない。それは自分が目を掛け後継者候補筆頭に挙げられている幸村とて同じだ。そもそも幸村は為政者の視点を持っていない。飽くまでも彼は臣下の武将として有能であるに過ぎない。
しかし、目の前の若き独眼竜は違う。自分と同じ為政者としての視点でこの日ノ本を見ている。高い理想を持ち、それを実現する為の力を蓄えて。この若き竜が何処まで高みの昇るのか見てみたい。そう信玄は思った。何処か息子か孫を見るような気持ちで。
「よかろう。儂とお主、二人で天下を獲り、その上で天下の主を定めることといたそう」
今度は信玄は『雌雄を決する』とは言わなかった。政宗の言葉から言外の何かを感じ取ったのかもしれない。そして、そんな政宗に対して信玄自身も思うところがあったのかもしれない。
「此度の対織田同盟は上杉も加えたほうが良かろうな。謙信に使いを出すゆえ、もう暫くお主は甲斐に留まるがよかろう」
「お心遣い忝い。御礼申し上げる」
やはり甲斐の虎は伊達じゃねぇと内心舌を巻きながら、政宗は一礼を以って応えた。
こうして甲越奥の三国同盟は成立することになる。
家臣への表向きは対織田・豊臣戦略の為と説明された。けれど各領主たちの間では天下統一の為の長期的なものと認識される同盟であった。