再び甲府へ

 政宗と再会した翌日、彰子は政宗・小十郎・幸村と共に馬上の人物となっていた。甲府の躑躅ヶ崎館へ向かう為である。萌葱と佐助も同行している。

 政宗は仮にも奥州の主という立場であり、あまり長く奥州を留守には出来ない。物事は迅速に進める必要があった。その為、ゆっくりと休む間もなく信玄と対面する為に甲府へと向かうこととなったのだ。

 当初、政宗も彰子も、彰子は上田でお留守番しつつ、奥州出立の準備を進める心算でいた。しかし、佐助から連絡を受けた信玄が、甲斐を去る前に一度彰子とも会っておきたいと言ったとかで、急遽彰子も同行することになった。

 早朝に上田城を発ち、乗馬の達人とはいえない彰子のペースに合わせ、普段の政宗からすればかなりのんびりとした速度で馬を走らせ、その日の夕刻には甲府の真田屋敷へと到着した。

 既に信玄に甲斐訪問とその目的については事前に知らせてある為、政宗と小十郎の主従はそのまま躑躅ヶ崎館に向かう。しかし、彰子は一旦幸村と共に真田屋敷へと入った。政宗は『奥州筆頭』の立場で信玄を訪なっているのだから、自分が同行するのは相応しくないと彰子は判断したのである。

 前回の躑躅ヶ崎館訪問の際にも使用した部屋に落ち着き、強行軍で疲労の激しい体を休める。前回の訪問の際には幸村が彰子を気遣ってゆっくりと3日かけた行程を半日足らずで駆けてきたのだ。この世界に来て優瞳という乗馬を与えられてからは、元の世界にいた頃よりも馬に乗る機会も増え、馬での移動に多少慣れたとはいえ、政宗たち武将のペースは彰子にとってはハードなものだった。勿論、政宗たちが彼らにしてみれば相当なスローペースに抑えてくれたことは彰子にも判っているが、それはそれこれはこれなのだ。

「姉上、お疲れになられたでござろう。湯殿の仕度が整いましたゆえ、お使いくだされ」

 そう言って幸村が現れたのは、彰子が体の強張りをほぐす為に屈伸運動をしていたときだった。

「わたくしは後で結構ですので、幸村様がお使いくださいませ」

 主よりも先に配下の祐筆である自分が入浴するわけにはいかないと思い、彰子は応じる。

「姉上。幸村とお呼びくださるようにと申し上げたはずです」

 だが、幸村はそう言って更に彰子に先に風呂を使うように促してくる。自分は弟なのだから、姉上からお先にと。

 昨晩、政宗と共に幸村に会ったときからずっと、幸村は彰子を姉上と呼び、自分は弟として接してくるようになったのだ。

「でも……」

「姉上」

「だけど……」

「姉上!」

「……やっぱり」

「はいはーい。彰子ちゃんが遠慮するのも判るけどさ。旦那は俺様とちょいと仕事があるからねー。彰子ちゃんは遠慮しないでその間に入浴済ませておいてね。時間は有効に使いましょう~!」

 互いに譲り合う無駄な時間に決着をつけたのは、呆れた顔をした佐助だった。






 香りのいい檜の湯船に浸かりながら、彰子は昨日からの出来事を思い出す。

 思いもしなかった政宗の登場と再会。それによって彰子の張り詰めていた心の糸は一気に緩んだ。糸が緊張に耐え切れずに切れる前に、それは穏やかに緩み、余裕を齎した。

 政宗に再会し、提案された奥州行き。彰子は彼女にしては至極あっさりとそれを受け容れた。言葉ではあれこれと問題提起をしたが、それは本当に自分が奥州へ行っても大丈夫なのかを確認する為であり、つまりそれは彰子が奥州へ行くことを心の中では既に承諾していたことになる。

 奥州へ行くことを決め、それを幸村に告げなければならない。これまでの礼も言いたい。そう思い、彰子は政宗と共に、夕餉の前に幸村の許を訪ねたのだ。

 そして、幸村の部屋に赴いた政宗は、幸村に対して深々と頭を下げた。小十郎に続いてその主からもこれまでに受けたことのない礼を受けて幸村は困惑した。

「真田殿。貴殿のご厚情に心から感謝申し上げる」

 更に幸村の困惑に拍車をかけたのが、この政宗の言葉遣いだった。普段の『真田』でも『アンタ』でも『テメェ』でもなく、『真田殿』に『貴殿』。しかも堂々とした威厳と品位を感じさせる政宗の物腰は幸村が知っている政宗とは違い、流石は一国の主、お館様と同等の立場の方と思わせるに充分なものだった。

「伊達殿、お顔をお上げくだされ」

「いや、まずはきちんと御礼申し上げねばならぬ。それがしの心より大切に思う女を貴殿が保護し守ってくださったのだ。どれほど言葉を尽くしても足りぬ」

 幸村の戸惑いを華麗にスルーして、政宗はそう続ける。

 幸村にしてみれば、いつもふてぶてしい笑みを浮かべ、俺様サイコーな政宗しか知らぬわけで、こうも腰を低くして接されると如何いう態度を取っていいのか戸惑うばかりだった。

「山中で難儀しておられる女性をお助けするのは当然のことにござる。そのままでは話も進まぬゆえ、如何か、伊達殿、お顔をお上げくだされ」

 重ねてそう言ったところで、政宗は漸く顔を上げた。

「忝い、真田殿」

 とはいえ、言葉遣いはやはりいつもと違う。飽くまでも恩人としての態度を崩さない。そして対等でこそないものの、隣国の重臣に対する礼節を持った態度を取っている。それは翌日以降に控える甲斐との同盟を鑑みての態度でもあった。

「詳しい事情は片倉殿よりお聞き申した。伊達殿は出来ることならば彰子殿を正室にとお望みであられるとか」

「如何にも。しかし、これの素性を考えるとそれも難しくてな。老臣どもも反対するであろうし、何よりこれ自身が納得いたさぬゆえ」

 苦笑を滲ませ、政宗は少しばかり後ろに座っている彰子を見る。政宗の家臣の娘と偽っているのだから、隣に座るのはおかしいと彰子がそうしたのだ。

「当然のことでございます、藤次郎様。わたくしの父は咎人。側室とは申せ、本来はお傍に上がることすら適わぬ身でございます」

 彰子も話を合わせる。幸村に対して嘘を重ねることになるのが心苦しくて顔を少し伏せているのだが、それが幸村の目には彰子の内心の苦しみを表しているように見える。

「貴女はそれがしの腹違いの姉上にございまするぞ。何の身分の障りがございましょうや」

 自分の姉であれば少なくとも側室となるには何の問題もないはずだ。正室になるには少々身分と後ろ盾が足りないかもしれないが。何しろ今や伊達家は日ノ本の約4分の1の領地を有する大大名なのだ。

「幸村様……?」

「真田殿、それは如何いうことだ」

 彰子も政宗もまだこのときには小十郎と話してはおらず、小十郎に対して幸村がそう告げていたことも知らなかったから、驚いて幸村を見つめる。

「如何いうも何も、そのままでござる。我が父真田昌幸が慈しんだ女性との間に生まれたのが彰子姉上。母上を憚って今まで表に出しておらなんだゆえ、知る者もあまりおりませぬが、間違いなく我が姉上にござる」

 きっぱりと幸村はそう告げる。自分で勝手に決めたことではあるが、佐助も反対しなかったし、お館様とて必ずご理解くださる。亡き父上も決して怒ったりすまい。寧ろあの父なら『でかした』と褒めてくれるだろう。

「幸村様……ありがとうございます」

 自分の為に幸村がそこまでしてくれたことに、彰子は心からの礼を告げる。僅か2ヶ月ほど祐筆として過ごしただけの自分を『姉』にしてくれるなど想像もしなかった。怪しまれない程度の身分の養父母を紹介してもらえれば助かるという程度の認識だったのだ、彰子も政宗も。

「はて……何ゆえ礼を言われるのか判り申さぬ。姉上、お幸せになられよ。この幸村、姉上の御為、出来得る限りのことをさせていただきまするぞ」

 幸村はにこやかにそう言う。それは彰子も政宗も初めて見る、頼もしげな幸村の姿だった。






 と、まぁ、そんなことがあり、それ以降幸村は彰子のことを姉上と呼び、自分を幸村と呼ぶように彰子に言った。彰子としてはこれまで『幸村様』だったものをいきなり『幸村』とは呼べず、幸村は正室腹かつ城主であり当主でもあるのだからと理由をつけて、何とか『幸村殿』と呼ぶことで妥協してもらった。『様』と『殿』のどちらの敬意が高いのかは微妙な気もしたが、幸村や政宗は互いを『殿』で呼んでいるし、加絵たち女中衆は政宗のことを『伊達様』と呼んでいたから、恐らく『様』のほうが格上なんだろうと判断した。

 幸村はそれでも不満だったようだが、佐助が『慣れてくれば彰子ちゃんも呼んでくれるんじゃない?』と助け舟を出してくれたので、何とか納得してもらえた。尤も『旦那の姉上なら、彰子ちゃんのことは姫様って呼ばなきゃね~』なんて言ったのにはげんなりとした。明らかに佐助の目は笑っていて揶揄っていたに過ぎず、その後もずっと佐助は『彰子ちゃん』で通すことになるのだが。






 夕餉を済ませ、後は寝るだけとなったところで、ひょっこりと佐助が顔を出した。幸村は政宗を主賓とする宴に出席する為に躑躅ヶ崎館に呼ばれており不在だ。佐助は彰子の護衛ということで真田屋敷に残っていた。これまでであれば佐助も幸村の護衛として躑躅ヶ崎館に付き従っていたが、今回は事情が違う。彰子は既に『幸村の姉』であり、『奥州筆頭の側室になる姫』なのだ。しかも、明日には奥州と甲斐の同盟も成立するとなれば、更にその重みは増す。彰子は充分に護衛対象となり得る存在になっていた。

「姫様、ちょっといいかい?」

「いいけど、姫様はやめて」

 態と彰子が嫌がる呼び方を揶揄うようにしてくる佐助に苦笑しつつ、彰子は佐助を招き入れる。彰子の横には護衛としてついてきた萌葱が寝そべり、彰子に喉元を撫でられゴロゴロと甘えている。真朱と撫子の2匹は上田城にお留守番で、ほぼ生まれて初めての彰子独占状態に萌葱はご機嫌だった。

「だよなー。かーちゃんは如何見ても姫って柄じゃねーもん」

 そんなことを言いつつ、大きな体でごろにゃんごろにゃんと甘えまくる萌葱である。上田城に戻ったら留守番で超絶不機嫌になっている妻と娘から、彰子を独占したことをネタに当分苛められ続けるだろうから、今のうちにたっぷりと甘えておかねばならない。

「確かに彰子ちゃんは姫様って感じしないよねぇ。ああ、でも奥州に行ったら多分『御方様』とか『御前様』とか呼ばれるんだろうけど、そっちなら似合うかもね」

 彰子に勧められた座につきながら、佐助はそう応じる。彰子の落ち着いた雰囲気や立ち居振る舞いは『姫様』というどちらかというと少女のような可愛らしい印象を受ける呼称よりも、人妻、つまり大人の女性であることを示す『御方様』のほうがしっくりくるように思えるのだ。

 恐らく彰子は上田から来たということで、『上田の御方』とか『上田御前』とか呼ばれるようになるのだろう。彰子の立場を守る為に政宗も小十郎も『同盟国の重臣の姉』という身分を強調するようなことを匂わせていたことだし。

「で、如何かしたの? 躑躅ヶ崎館で何かあった?」

 佐助が何の用もないのに来るとは思えず、彰子は問いかける。今躑躅ヶ崎館には政宗と幸村がいる。彰子にとってはこの世界で最も関係の深い二人の人物だ。元の世界での二人のイメージといえば、機会さえあればいつも手合わせしたがっているというもの。もしかしたらバトルに熱中してなんかあったとか……と思ったとしても無理はない。

「いいや、別に何にも。たださ、彰子ちゃん、もうすぐ奥州に行っちゃうわけだし、こうして話す時間もあんまりないんだなーって思ったらね、なんとなく」

 少しばかりしんみりとした口調で佐助はそう告げる。別段用事があったわけではない。ただ何となく、彰子と話がしたかったのだ。正確にいえば話さなくてもいい、残された時間を少しばかり一緒に過ごしたいと思っただけだった。

 そんな感情を持ったことに佐助は自分でも驚いていた。まさか俺様、彰子ちゃんに惚れちゃった!? 冗談じゃないよ、旦那や竜の旦那と恋のらいばるなんて洒落にもなんないし!! と一瞬狼狽てたが、冷静に自分を分析する佐助は、恋愛感情ではないことを確信している。

 ただ、この数ヶ月の間で、彰子をまるで友人か家族のような存在として佐助は認識していた。幸村と同様、佐助にとって彰子は最早『身内』の区分に入っているのだ。

 彰子は佐助を細作としては扱わない。細作であることを否定したり忌避したりもしないが、細作であるからと蔑んだりもしない。武田の人間の殆どは平時は細作を対等の人間として扱ってくれる。使い捨ての道具扱いされる細作に対してのこの待遇は、余所ではあまり例を見ないものだ。しかし、細作側がそれに甘えるわけにはいかない。細作は己が細作であることを忘れてはならない。細作は飽くまでも陰に位置する存在であり、汚れ仕事を請け負う道具なのだということを自らは忘れてはならないと佐助は思っている。

 だからこそ、彰子の存在は特別なものでもあった。彰子に対していると自分が細作であることを一瞬ではあるが忘れてしまう。人と人として、全くの素の『佐助』に戻る時間となった。細作である自分を完全に忘れているわけではないが、完全に利害関係の絡まない異世界人であるだけに、佐助としても気が楽だったのだ。

 彰子は身分というものに拘らない。この世界の常識としての身分を蔑ろにはせず、それ相応の態度は示すが、相手の身分が高いとか低いとかで相手を崇めたり蔑んだりはしない。信玄や謙信に対してはかなり敬意を示した態度を取るが、それは二人の身分に対してではなく、本心から彰子が彼らを尊敬し信頼しているからこその態度なのだ。

 だから、彰子が佐助に示す態度は、純粋に彰子が佐助を友人として信頼してくれていると思わせるには充分なものだった。佐助にはそれが心地よかった。

「そうだね……。流石に奥州に行ったらもう気軽には会えなくなるものね」

 いつ元の世界に戻ることになるか判らない。とすれば、奥州へ立った後、二度と佐助にも幸村にも信玄にも会えない可能性は高いのだ。元の世界に帰りたいという気持ちに変わりはない。けれど、彼らに二度と会えなくなるのもやはり寂しい。

 そう思えば、彰子の表情も暗くなる。

 二人してしんみりとしていたそのとき、突然萌葱が天井に向かって唸り声を上げ、同時に佐助がクナイを構える。いきなりの出来事に彰子は目を丸くするばかりだ。

「怪しい者ではございません。彰子様、御前に姿を見せますこと、お許しいただけましょうか」

 天井から女性と思われる声が降ってきた。人様の屋敷に忍び込み天井裏に潜んで怪しくないもあったもんじゃねーと内心突っ込みながら、彰子は諾と応じる。そうしないと佐助がクナイを放ってしまいそうだ。それではあまりにも気分がよくない。それに天井裏の声は自分の名を呼んだわけで、つまりそれは自分を知る者──上田城か政宗の関係者ということになる。

 彰子の承諾を受け、天井から降りてきたのは黒装束に身を包んだ女性だった。

 女性は彰子の前に膝をつくと頭を下げる。無防備に佐助に背中を晒すのは敵意がないと示す為のものだろう。

「伊達忍軍、黒脛巾組の小督と申します。このたび伊達成実様より彰子様の護衛を仰せつかりました」

 くのいち──小督はそう言うと、風呂敷包みを彰子に差し出す。

「奥を束ねる喜多様よりお預かりした品にございます」

 突然出てきた政宗の乳母の名に更に彰子は驚く。成実に喜多。どんどん歴史上の人物が出てくる。いや、今更なのだが。ついでに彰子の頭の中では某大河ドラマの三浦友和と竹下景子が手を振っていた。

「あ……ありがとうございます。届けてくださって。態々ご苦労様でした」

 そう言って彰子が頭を下げると、小督は驚いたようだった。とはいえ、まだ小督は頭を下げ顔を伏せたままだったから雰囲気で察したのだが。

「えっと……小督さんでしたよね。顔を上げてください。そのままではお話も出来ませんから」

 なんか昨日似たような台詞聞いたなぁと思いつつ彰子が言うと、小督は顔を上げた。年の頃は彰子と同じくらい。漆黒の髪は肩の下で切り揃えられており、この時代の女性にしては短いほうだろう。細作らしい意志の強そうな落ち着いた目をしている。

「これから私の護衛をしてくださるんですね。ありがとうございます。よろしくお願いしますね」

 再び彰子が頭を下げると、更に小督は戸惑ったようでちらりと助けを求めるかのように佐助を見た。佐助は既に最低限度にまで警戒レベルを下げており、小督に苦笑を返す。恐らく小督は詳しい事情は知らず『上田にいる政宗の側室』の護衛としてやってきたのだろう。主君の側室となれば身分もそれなりにあると思うのが普通で、こんなに気軽に頭を下げられるなどと予想していなかったに違いない。

「彰子ちゃん、彼女戸惑ってるよ。あんまり気軽に頭下げるから」

 小督への助け舟のように見せて佐助は彰子に声をかける。彰子の返事は凡そ予想した上での言葉だ。彰子の返事によって小督も彰子の為人ひととなりを若干なりとも知ることが出来るだろう。彰子自身を知らねば護衛はこの上もなくやりにくくなる。なんせ彰子は危機感というものがかなり欠如しているのだ。

「あら、これからお世話になるんだもの。当然じゃない」

 まさか自分に細作の護衛がつくなどとは思ってもいなかった彰子である。元の世界でいえば自分にSPがつくようなものだ。だが、護衛がつくことを拒否する心算はなかった。彰子自身の自己評価が如何あれ、今の自分は『真田幸村の姉』であり『伊達政宗の側室』なのだ。立場からいえば、護衛がつくのは当然といえる。

 しかし、護衛を受け容れることと、護衛を当然と思うことは別物だ。だからこそ、『ご苦労さまです、よろしくお願いします』と挨拶をするのは当然のことだろう。

 そんな彰子と佐助の遣り取りを見、小督は自分の主となる女性が少しばかり変わった女性なのだと認識した。悪い意味ではない。姫らしくない腰の低い優しい女性、そして好感が持てそうな方だと感じたのだ。

「御方様、こちらの品をお改めくださいませ。喜多様より武田信玄公とのご対面の折にお召しいただくようにと預かってまいりました」

 小督は改めて風呂敷包みを彰子に示す。そして、自分が本来ならばとても無礼な振舞をしていることに気付き狼狽てた。

 本来、身分の低い者から高い者へ声をかけるとはしてはならないことなのだ。まず上位者が声をかけ、それに答えるのが通常のやり方だ。伊達家は特に上層部になればなるほどそれを無視する傾向にある。効率が悪いからと。だが、それに慣れてしまってはいけないのだ。本来ならば彰子が声をかけて初めて小督は話すことが出来る。それに、主君の側室である彰子に対して、小督は直答すら許されない身分である。彰子が厳しい人物であれば、それだけで小督の首が喩えではなく飛んでもおかしくはない。

「喜多様……政宗様の乳母の方ですね。届けてくださってありがとう、小督さん」

 しかし、彰子は一向にそれを気にする気配もない。お優しい方なのだと小督は誤解する。単に彰子は小督の身分が如何だとか考えていないだけに過ぎない。彰子自身もこの身分の差による発言の順序は知っており、自分から幸村や信玄に話しかけることはない。まずは彼らの言葉を待ってから話すようにしている。しかし、自分が上位者としてこのルールが適用されるとは思ってもいないのだ。

 小督の勘違いに気付くはずもなく、彰子は示された風呂敷を開く。中からは鮮やかな青の小袖と二藍で裾に桔梗をあしらった上品な打掛が出てきた。所謂、秋に身に着ける『桔梗』のかさねの合わせで、見るからに高級品である。

「これを私に……」

「はい。殿自らがお選びになられた絹を仕立てさせました。お気に召されませんでしたでしょうか」

 もし気に入らないと言おうものなら、そのまま奥州へ駆け戻り、新たな衣装を持ってきそうな勢いの小督である。

「そんなことはありません。とても綺麗。政宗様にも喜多様にもお礼を申し上げなくてはなりませんね」

 御方様と呼ばれ、そう遇されることで徐々に彰子の言葉もそれっぽくなっていく。それを自覚して、乗せられやすいのではなくてTPOに合わせているだけだと思いたい彰子である。

「それでは、私は控えておりますゆえ、何かございましたら、お声をおかけくださいませ」

 丁寧に着物を畳んでいる彰子にそう告げると、小督は姿を消す。恐らく天井裏に戻ったのか、それとも床下に隠れたのか。

(いや……天井裏とかから見張られても落ち着かないんだけどさ……)

 彰子は苦笑しつつ、口に出しては何も言わなかった。政宗たちの提案を受け容れたときから、ある程度の覚悟は出来ているのだ。

「……しかし、奥州側も準備いいねぇ」

 護衛といい、この着物といい。奥州側は着々と彰子の受け入れ準備を進めていて、しかも彰子の存在をかなり好意的に歓迎していると見ていいだろう。佐助はホッとすると同時に、少しばかり残念にも感じた。これで確実に彰子は奥州へ行き、そこに留まり、やがて元の世界に還っていくのだ。奥州で受け容れられずに上田に戻ってくる可能性はなくなったということで、つまり、次に訪れる別れが、今生の別れとなる確率が高くなったというわけだ。

「有り難いことだわ」

 政宗が根回ししてくれていたおかげで、自分はこんなにも好意的に受け容れてもらえるのだ。それがどんなに安心感を齎してくることか。自分の居場所を用意してくれた政宗への感謝の気持ちが強くなる。

 そして、これまで何の縁も由縁ゆかりもなかった自分を無条件で受け容れてくれていた幸村や佐助にも、強い感謝の気持ちが湧いてくる。

「佐助さん、今まで本当にありがとう」

「……やめなよ。これまでに散々お礼言われてて、聞き飽きたからさ」

 彰子の気持ちは判るが、このままではお涙頂戴な展開になりそうな気がして、佐助はお道化る。しんみりと別れを惜しむなんて自分の柄じゃない。別れを寂しがってウジウジするなんて、自分には似合わない。そんなのは御免だ。

「……判った。じゃあ、もう言わない」

 佐助の言わんとするところを察して、彰子はそう応じる。但し……

「Thank you for your kindness and tenderness.」

「は? 何? 異国語で言われても判んないんだけど」

「判んないように言ったんだもん。当然でしょ」

 拗ねるように抗議する佐助にくすくすと彰子は笑う。そんな彰子の脳裏にはある歌姫の引退の際の名曲が流れていた。