始まりのための再会

「嘘……。如何して」

 障子を蹴破らんばかりの勢いで入ってきた人物を見て、彰子は呆然と呟いた。目の前にいるのはここにいるはずのない人物だ。

 ここが何処かを知ってからずっと逢いたいと思っていた人──伊達政宗その人が、今彰子の目の前に立っていた。






「あちらにございまする」

 加絵は彰子の部屋が見えたところで、政宗にそう告げる。佐助や幸村の様子から、如何やらこの客人が彰子と深い仲にある男であることを察し、敢えて部屋の前まで案内せず、少し離れたところで政宗を見送ることにしたのだ。想い合う男女の数ヶ月ぶりの再会──しかも色々な事情を抱えていそうな二人の再会を邪魔するほど、加絵も野暮ではない。

「案内ご苦労だったな」

 政宗は一言労いの言葉をかけると、真っ直ぐに示された部屋へと向かう。一歩踏み出したときには既に加絵の存在は忘れている。

 たった十数歩の距離なのに、とても遠い気がした。心臓は再会への期待に早鐘を打ち、鼓動が五月蝿いほどだ。

 彰子に逢える。二度と逢えないと思っていた愛しい女に逢えるのだ。

 政宗は漸く辿り着いた部屋の障子を開け放つ。

 ああ、いた。間違いない、彰子だ。

 大股で彰子に近づき、抱き締める。逢いたかった。とても逢いたかった。その想いが嵩じての行動だった。漸く逢えた愛おしい女を腕の中に閉じ込め、政宗は確かに彰子がここに存在しているのだと実感した。

「政……宗……さん……?」

 一方の彰子は突然の出来事に思考がついていかない。ここのところの睡眠不足と食欲不振で少々思考回路がスローになっている所為もあるだろうが、ここにいるはずのない人物が突然現れ、しかも抱き締められているのだ。混乱するのも無理はない。

「逢いたかった……逢いたかったぜ、Honey」

 耳を政宗の低い声が擽る。渇望の為に少し掠れた声は、政宗の心情を彰子に伝えてくる。

「……私も会いたかった、政宗さんに」

 意識せずに彰子の口から言葉が漏れる。そして、ずっと堪えていた涙が溢れ出した。

 政宗さん、政宗さん……彰子は小さく政宗の名を繰り返すだけで、それ以外の言葉は出てこない。涙は留めようもなくポロポロと零れ落ち、政宗の衣を濡らす。

「辛かっただろ、苦しかっただろ。思う存分泣け。オレの腕の中なら、いくら泣いてもも大丈夫だ。泣いて全部吐き出しちまえ」

 政宗は彰子を抱き締めていた腕を緩めると、彰子を優しく抱きかかえる。彰子の頭を自分の胸に押し付け、髪を撫で、背を摩り、ただ彰子が思う存分泣けるよう、それ以上は何も言わない。

 彰子の涙が再会の喜びではないことは、すぐに判った。自分の顔を見ただけで崩れ落ちるほど、彰子の心は弱っていたのだ。還れない焦燥と不安に。

 何故もっと早く迎えに来なかったのかと己に対する怒りが沸いてくる。彰子が来ていることを知らなかったのだから仕方がないはいえ、もっと早く出会えていれば、彰子がこれほど苦しむことはなかったはずなのに、と。

 どれほどの時間そうしていただろうか。やがて彰子の嗚咽の声は小さくなり、落ち着きを取り戻し始めたようだった。政宗は彰子の頤に指をあて、そっと顔を上向かせる。驚いた表情の彰子の目からはまだ真珠の粒のような涙が零れている。

「Honey……」

 政宗はそっと彰子の涙を吸い取るかのように眦や頬に口づける。左右両の頬にそれを繰り返すと、彰子は更に驚いたようで、涙も止まる。

「随分我慢してたんだな。我慢強いのは悪いことじゃねぇが……Honeyは我慢しすぎだぜ」

 正面から彰子を見つめる。泣きすぎた所為か彰子の瞼は腫れてしまっている。──そんなにも泣くことを我慢していた彰子が憐れでならなかった。ずっと一人で耐えてきたのだろう。

 彰子の性格は判っている心算だ。容易に幸村や佐助に弱音が吐けなかっただろうことは想像がつく。この世界で彰子が弱みを見せられるのは自分だけなのだ。そう思うと何処か冥い喜びが湧いてくる。

「とはいっても、Honeyの性格じゃ仕方ねぇな。これからはオレには隠すなよ。You see?」

 彰子が頼るのは自分だけ。そう彰子に思い込ませるように──事実ではあるのだが──政宗は彰子の目を見つめ言う。

「……ありがとう、政宗さん」

 彰子もすんなりと政宗の言葉に頷く。尤も彰子も自分の性格は判っているし、政宗とて彰子のことは把握済みだ。だから、簡単に彰子が弱音を吐くとは思えなかったのだが、頼れる者がいると認識するだけでも随分精神的に楽になるはずだ。

「そういえば……政宗さん、如何してここに?」

 突然現れた政宗。客人というのは彼のことだったのだろうか? 来客の到着からの時間を考えても、政宗は上田城に来てすぐにこの部屋に向かってきたと思われる。政宗は自分がここにいることを知った上で来たということなのだろうが……如何して政宗はそれを知っていたのだろう。

「ああ。夕べ、猿の野郎が知らせに来た。真朱の携帯持ってな」

「え……」

 政宗の言葉に彰子は驚く。自分の知らないところで、佐助や愛猫たちがそんなことをしていたとは。どれだけ皆に心配をかけていたのかと思うと申し訳なくなった。

「それに気付かないくらい、自分のことしか見えなくなってたんだね、私……」

 自分で思っていた以上に弱っていたのだろう。そんな自分に苦笑が漏れる。

「仕方ねぇさ。3ヶ月以上も耐えてたんだ。まぁ、これからはHoneyが弱る前にオレが喝入れてやるから安心しろ」

 彰子の髪をくしゃっとかき回すように政宗は頭を撫でる。少々乱暴なそれに彰子は安堵を感じる。──漸く全面的に頼ることの出来る人物が現れたのだ。

「で、Honey。如何してすぐにオレのところに来なかったんだ?」

 半ば答えを予想しながら政宗はそう問いかける。

「最初はここが何処か判らなくて……。判ったのは幸村様やお館様と出会ってからだし」

 本当は佐助と出会ってからなのだが、政宗から佐助の話を聞いたことはなかったので伏せておく。幸村と出会いタイムスリップかと思ったが、主君が上杉景勝でも豊臣秀頼でもなく武田信玄と聞いて政宗が話していた状況と同じであることを知り、ここは政宗のいる世界なのではないかと考えたのだと彰子は説明する。

「でも、ここの奥州筆頭伊達政宗が私の知ってる政宗さんか如何かも判らなかったし……。それに伊達と武田が敵対していたら、助けてくれた幸村様にも、政宗さんにも迷惑かけちゃうんじゃないかとか……色々考えちゃって」

 予想通りの彰子の返答に政宗は苦笑する。

「ったく。色々考えすぎて身動きが取れなくなるのもHoneyの悪いところだぜ。だから、真朱が猿を使い走りにする破目になったんだ」

 彰子を叱るように言いながらも、やはり彰子らしいと思う。自分がいた頃と彰子は変わっていない。彰子が彰子のままであることが嬉しかった。

「彰子、奥州に来い。お前がオレの面倒を見てくれたように、今度はオレがお前を守ってやる」

 政宗は若干緊張しながら、そう告げる。彰子が素直に頷かないだろうことは予想済みで、その対策も何度も脳内でシミュレーションしている。それでもやはり緊張するのだ。まるで求愛するかのように。

 否──これは政宗だけにしか判らない求愛の言葉に他ならなかった。自分のときの例を鑑みても彰子が何れ元の世界に戻ってしまうのは間違いないだろう。元の世界に戻れば、彰子には相思相愛の恋人がいるのだ。自分の想いは彰子には重荷になりかねない。そんなことはしたくない。そう思うから、自分の想いを告げることを政宗は決してしない。だからこそ、この奥州への招きが、ささやかな政宗の求愛の言葉なのだ。仮令僅かな時間であっても共に過ごしてほしいという……。

 それに、万が一、彰子が元の世界に戻れないとしても、政宗は自分から求愛の言葉を告げる心算はなかった。否、彰子がこの世界に留まらざるを得なくなった場合には、ただ一つの場合を除いて決して想いを告げてはならないと思っている。彰子がこの世界に住むならば、彰子はこの世界のルールに従わなくてはならなくなる。そこでは政宗は絶対者なのだ。奥州における最高権力者からの求愛は、心を求める言葉ではなく、服従を命じる言葉になってしまうだろう。政宗自身にその意図はなくとも、歴史を学び武家社会を知識として知っている彰子は、政宗の立場を慮って己の心とは別のところでそれを受け容れるに違いない。そんなことは様々な面からも嫌だと政宗は感じている。

「奥州……。政宗さんの国に?」

 政宗の予想通り、彰子は素直に頷かず思案顔になる。

「Honeyは平成の世でオレを保護してくれたからな。今度はオレがHoneyを保護するのは当然だろ。恩返しさせろってんだ」

 用意しておいた言葉を政宗は告げる。

「それに、Honeyだって事情を知ってるヤツが多いほうが気楽だろ。オレの側近はHoneyのことも平成の世のことも知ってる。オレが話してるからな。だから、Honeyが突然還って消えちまってもなんとでもfollow出来る」

 だから何の気兼ねもいらないんだと、政宗は言う。

「平成の世に……忍足の許に戻るときまで、オレの傍にいればいい」

 もし還れなかったら、オレの傍にずっといてくれ……心の中でそう呟く。決して口には出来ない言葉を。

 彰子にとっても政宗の誘いは心を動かされるものがあるようで、その表情から政宗の提案を受け容れようとしていることは窺い知れた。だが、それでも素直に頷かないのが彰子なのだ。

「でも、身元不明の女なんて怪しすぎるでしょ。いくら政宗さんや側近……多分、小十郎さんたちのことだろうけど、彼らが私の事情を知ってたとしても、重臣全員が知ってるわけじゃないんだろうし。きっと政宗さんに迷惑をかけちゃうよ」

 脳内シミュレーション通りの彰子の反応に、政宗は苦笑する。だが、シミュレート済みなのだから、当然その対処法も考えている。

「No Problem.言っただろ。小十郎たちはお前のことを知ってるし、連れ帰ることも承知してる。滅茶苦茶あいつらもHoneyに会ってみたがってたからな。その為の策を考えたのも奴らだ。身分なんて関係ねぇ重臣どもが文句言わねぇ策を考えてくれたぜ。オレが甲斐でお前に一目惚れして、正室候補として連れ帰ってきたってことにすりゃいいってな」

 正室候補は小十郎たちに却下されているが、これも交渉駆け引きの一つだ。初めに彰子が絶対に断る立場を提示して、そこからランクを下げていけば彰子も頷きやすいはずだ。尤も、もしここで頷いてくれたら、小十郎たちが何と言おうが正室候補として連れ帰る気満々の政宗だった。もし万一彰子が長くこの世界にいるのならば、その間は彰子を自分の正室にしておきたいと願ってしまうのは仕方ないことだろう。

「正室候補? 流石にそれは拙いでしょ。身分なんて何もないんだもの。奥州筆頭の正室が何の後ろ盾も身分もない正体不明の女じゃ、絶対拙いって。絶対政宗さんの足引っ張る結果になるよ。そんなことになるなら、奥州へは行かない」

 彰子はキッパリとした口調で告げる。涙も引っ込み落ち着いたことで、いつもの彰子らしさを取り戻し、冷静に考えられるようになったのだ。

「女中じゃダメなの? そのほうが私も気楽なんだけど……」

 案の定、予想していた提案を彰子はしてくる。が、これは政宗の感情面と実際の現実問題から無理だ。

「駄目だな。Honeyはいつ平成の世に戻っちまうか判らねぇんだ。女中仕事してるときに人前でいきなり消えちまったら如何する気だ。それに出来るだけ関わる人間は少ない方がいいだろ。余計なpanic抑える為にもな。だから、オレの妻妾として奥にいるほうがいいんだよ」

 全くの方便というわけでもないが、咄嗟に思いついた理由を尤もらしく政宗は述べる。それには彰子も納得したらしく、頷いた。

「正室候補が駄目なら、側室だな。平成の世のHoneyからすりゃ、あんまり嬉しくねぇ立場だろうが」

「んー、別にそれは構わないよ」

 政宗は現代で仕入れた知識で側室=愛人と思われがちなことを心配しているのだろうと彰子は想像した。が、彰子は側室もちゃんとした妻であることを理解している。一夫一妻制ではないのだ。正室も側室も妻であることには変わりない。中国の後宮もアラブのハレムも然り。妻たちにも身分と階級があるというだけだということを彰子は知識として知っている。

 それに側室ならば、正室ほど身分も重要視されないだろう。確か徳川家康の側室には身分の低い女性もいたはずだし、徳川五代将軍綱吉の生母は八百屋か魚屋の娘だったはずだ。

「側室なら、正室と違って理由をつけて城から出すことも出来るからな」

 彰子の決断を促すように、政宗は言い添える。突然いなくなっても側室ならばなんとでも言いようがある。流石に正室だと面倒だが、側室は家臣に下げ渡されることもあるし、城を出て新たな人生を歩む者もいるのだ。その言葉に彰子も同意するように頷く。

「それでも、やっぱり、身元不詳じゃ政宗さんに迷惑かけちゃうと思う。私のときとは違うもの。立場が違いすぎるわ。私は一介の学生に過ぎなくて、でも政宗さんは奥州筆頭。仮令側近の人たちが承知していたとしても、他の人は私のこと調べようとするかもしれない。そうなったら、絶対迷惑かけることになるよ」

 先のことまで心配する彰子に、政宗は何度目になるか判らない苦笑を零す。こういう彰子だから自分は惹かれたのだと改めて感じる。そして、こんな彰子だからこそ、連れ帰って正室にしたいと願ったのだとも。

「それもNo Problemだ。今小十郎が手を打ってるはずだ」

 政宗はニヤリと笑い、綱元の考えたシナリオを説明する。

「……幸村様なら信じそう……」

 彰子は苦笑する。幸村は良く言えば純真で、悪く言えば単純な青年だ。昭和の少女漫画のような悲恋の恋人たちに物語に涙し、全力で力を貸してくれそうだ。幸村を騙すことにはなるのだが、真実を話すことが出来ないから仕方ない。彰子だけではなく奥州にも関わる事項だけに滅多なことで真実は明かせない。

「あら、だとしたら、私は政宗さんのこと、藤次郎様って呼んだ方がいいのかな? 政宗さんの身分を知らずにいたってことになるわけでしょ? 一応武家の娘が主君の名前を知らないはずないだろうから、政宗さんは名前も隠してたってことになるよね?」

「ああ、そうだな。まぁ、甲斐にいる間はそうしたほうがいいかもしれねぇな。奥州に行きゃ、人前ではオレのことは『殿』って呼ぶことになるだろうけどな」

 彰子の問いにそう返して、そこで政宗は気付いた。彰子のその問いは奥州へ行くことを前提としたものであることに。

「そっか、殿、ね。なんか時代劇の登場人物になったみたい」

 クスクスと彰子は笑う。漸く自分の居場所を見つけたかのような、安心した表情だった。

「平成の世からしたら、まさに時代劇だろ。その心算で楽しめばいいさ。──Honey、何も心配はいらねぇ。お前が還るそのときまで、オレが守ってやる」

「ありがとう、政宗さん。よろしくお願いします」

 彰子は政宗の目を正面から見つめ、微笑む。その安堵し政宗を信頼した表情に、政宗は思わず彰子を抱き締めそうになり、慌てて話題を変えた。

「ところで、真朱たちはどうした? 一緒に来てるんだろ」

「ああ……そういえば、政宗さんが来るちょっと前に隣の部屋に……」

 実は猫たちは気を利かせて邪魔をしないようにと隣室で息を殺していたのだ。政宗の声が聞こえたのか、隣室との境の襖が開き……

「色々と遅いですわよ、政宗!!」

 真朱と撫子のライダーキックが政宗の額に炸裂したのであった。






「ところで、なんで萌葱は虎になってやがるんだ」

 真朱と撫子の容赦のないキックによって少しばかり赤みのさしている額を摩りながら、政宗は目の前で寝そべっている萌葱に問いかける。

「かーちゃん守る為。つーか、おめー、おせーんだよ。俺たちがいないのに気付くの。政宗のクセにいい根性してるじゃねーか」

 虎の姿になっても萌葱は萌葱のままで、その隣にちょこんと座っている撫子も、政宗の膝の上に陣取っている真朱も昔のままで、政宗はついつい笑いが漏れる。

 懐かしい風景がそこにある。彰子がいて、真朱がいて、萌葱がいて、撫子がいる。

 永遠にこれが続くわけはないと判ってはいても、一度は失い諦めたものが目の前にあることに、政宗は喜びを感じていた。