再会の序曲

 日課の幸村と萌葱の早朝の鍛錬を眺めながら、彰子は明け方に見た夢を思い出していた。妙な、けれど何かを期待させるような夢だった。暁方の目覚め直前に見た夢は正夢になるというが……。

(あれがそのまま現実になるわけないよね。いくら何でもありのBASARA世界とはいえ……)

 彰子が見たのは、天空から日本列島を眺める夢だった。自分が自力で飛んでいるわけではなく、彰子は竜の背に乗っていた。蒼い竜の背に。

 青い竜となると、この場合は東海青龍王になるのか。青龍・白虎・鳳凰・玄武の四神の中で、青龍は東の守り神だ。日本は極東の地で、東海(無茶苦茶な要求をしていて問題のありまくる一部極東国家での日本海での呼称)もあるから、東の守護神獣がいたとしても不思議ではない。

(でも、始兄ちゃんやコァン様の背中っていうよりも、あれは……)

 大好きな某遅筆作家の竜王四兄弟長男や某少女漫画の中国神話ファンタジーの竜王──共に東海青竜王敖広──を思い浮かべてみるが、決して彼らが夢に出てきたわけではないことは彰子にも判っている。

(この世界で『青』い『竜』っていったら、やっぱり政宗さん……だよね)

 そもそも東海青龍王ならば、色は青ではなく緑に近いはずだ。古語でいう『青』は現代の色でいえば緑に近い色を示すのだから。しかし、夢の竜は紛れもなく青──蒼だった。

 蒼い竜──政宗の背に乗って日本を見下ろす夢。一体どんな意味があるのだろう。何かの願望の現われなのだろうか。

(青龍──東海の支配者と日本を見下ろす……。竜の背に乗る……。政宗さんと一緒に天下を支配するとか?)

 考えて、有り得ないと苦笑する。政宗が天下を獲るのは有り得ないことではないが、それを自分が共に……というのは有り得ない。というか有り得て堪るか。それはつまり、彰子が忍足たちの待つ元の世界に戻れないということになってしまう。

 第一、夢の全てに何らかの意味や願望が隠れていると考えるのは、一部の占い師と心理学者くらいなものだろう。何の意味も持たないただの『夢』のほうが多いのだから。目覚めて思い出して『流石、夢』と笑ってしまう荒唐無稽な夢がどれほどあることか。

 けれど……漠然とした予感があった。何かが起きる。動き出す。そして、そのきっかけとなるのは恐らく、蒼い独眼竜。

 いつもと同じ朝なのに、何かが違う気がした。幸村も佐助もいつもどおりだ。真朱と撫子は何処か機嫌が良いようで、髭もピンピン、尻尾もピンと立っている。萌葱も何処かウキウキしているように見える。

「ねぇ、真朱。ご機嫌だけど、何か良いことあったの?」

 鍛錬を終えた朝食の席でそう尋ねてみるものの、

「今に判りますわ、今にね」

 と、お前は何処の往年の大女優月影千草だと突っ込みたくなる返事をしただけで、後は答えない。

 取り敢えずその返答で、近いうちに何か良いことが起こるらしいことは判ったが、それ以上はさっぱりだ。

 おまけに食事の前には佐助がやってきて、今日の仕事は休みだと告げてきた。

 幸村の手蹟も以前に比べれば随分改善されたことで、書類量が少ないときには彰子の仕事は休みになることがある。書類量が多いときには幸村が走り書きしたものを彰子が清書したり、口述筆記したりするのだが。大抵は前日のうちに休みなどの予定は告げられるから少々意外には思ったが、休みを与えられて拒否する謂れもなく彰子は素直に了承しただけだった。

「今日は来客があるから、彰子ちゃんもその心算でね。いつもより良い小袖着ておいて」

 如何やら来客があるから仕事の予定が変更になり、彰子は休みとなったようだ。しかし、何故来客があるからといって自分がいつもより良い小袖を着なくてはならないのかと、彰子は首を傾げる。彰子に関係のある来客ならば誰が来るのか教えてくれるだろうし、そうでないならばそもそも彰子が会うことはないのだから、どんな着物であれ関係はないだろうに。

 だが、何処で姿を見られるか判らないからかもしれない、それほど重要なお客様なのかもしれないと思い直し、食事を終えると彰子はつい先日作ったばかりの小袖に着替えた。

 いつもの小袖よりは上質で華やかなそれは、躑躅ヶ崎館から戻った後に誂えたものだ。また信玄や謙信と会うことがあれば、今度は幸村から借りなくてもいいようにと、佐助の勧めもあり作ったのである。

 必要のないもののようにも思えたが、既にこの世界に来て3ヶ月が経過している。いつ帰れるか判らない以上、こうした着物も必要だろうと誂えたのだが、少々複雑な気分に陥った。こちらでの生活用品を揃えていくことは、こちらに腰を据えることを受け容れているような気になってしまうのだ。それでも華やかな柄の美しい着物に胸が躍ったのは、やはり彰子も女性だったということだ。

 因みに大抵の女中たちは反物を買って自分で仕立てているのだが、彰子は和裁の経験がない為、申し出てくれた加絵の好意に甘えて仕立ててもらった。そのついでに加絵に和裁も習うことにして、空いた時間にちょこちょこと教えてもらっている。

 突然出来た休日はその和裁に宛てることにして、彰子は機嫌のいい猫たちとお喋りしつつ、縫い物に取り組んだ。今作っているのは真朱サイズの浴衣だ。端切れを使って小さなサイズで練習というわけである。

 和裁が出来れば、元の世界に戻っても役に立つだろう。例えば、将来結婚したときに夫や子供に浴衣を縫ってあげたり。そんな未来を思い浮かべ、彰子は苦笑した。

(気が早いっての。まだ高校生なんだし……結婚なんてまだまだ先の話だわ)

 忍足は同級生だが、医者を目指している。大学だって彰子よりも長く行かなければならないし、更に研修医の間は結婚は無理だろう。早くてもあと10年くらいは先の話かもしれない。

 だが、脳裏に浮かんだ『夫』の姿に彰子は違和感を覚えた。元の世界にいる忍足のはずなのに、そうではないようにも思える。

(つーか、想像くらい顔見せろよ)

 後姿で出てきた忍足に突っ込みを入れる。──そう、忍足のはずなのに。

(浴衣だから、被っちゃったのかな。侑士の浴衣姿なんて見たことないし……)

 きっとそうに違いないと彰子は思うことにした。彼らの後姿はよく似ていたから、そう見えただけなのだと。

 猫たちとの他愛もないお喋りを楽しみつつ針を動かしていると、ピクリと耳を動かし萌葱が外──城門の方向を見た。

「来たみたいだな、『来客』」

 萌葱の言葉に、真朱も撫子もニヤリと笑う。しかし、それを彰子は見ていなかった。その来客が自分に関わるとは思いもせず、『へぇ』と返しただけで、彰子は縫い物を続けたのだった。






 時間は少々遡る。

 上田に程近い山中を2騎の武将が駆け抜けていた。奥州から馬を飛ばしている政宗と小十郎である。

 その姿は常の鎧兜ではなく、素襖に袴の上からいつもの陣羽織を羽織っただけの軽装だった。武器は当然ながら携帯しているが、武装しているわけではない。速度を重視するのであれば、重い戦装束は邪魔でしかないのだ。

 2騎は無言で馬を疾走させている。話そうものなら舌を噛んでしまう疾駆ぶりだった。途中通過した村では、あまりの速度に村人たちは何が起こったのか判らず、『天狗でも駆け抜けたんだべか』と暢気な会話が交わされたほどの疾走である。

 それほどの速さでありながら、まだ小十郎には政宗の表情を観察する余裕があった。政宗は夜明けから全速力で馬を駆っているとは思えないほど、明るい表情をしている。疲労など微塵も感じられない。馬も久しぶりの全力疾走が嬉しいのか、速度の聊かの衰えもなく主を目的地へと運んでいる。

(それほど彰子殿にお会いになりたいのか)

 小十郎としては苦笑せざるを得ない。これまで政宗を喜ばせるものといえば、二つだけ。領民の笑顔と真田幸村との対決だった。領民の笑顔は統治者としての政宗にとって何よりの喜びであり、真田幸村との戦いは武人としての喜びだった。

 けれど、今の政宗の喜びはそのどちらとも違う。何の肩書きもない、ただの一人の男としての喜び。愛しい女性、それも二度と逢うことが叶わないと諦めていた女性との再会なのだ。

(この俺にも知らぬ政宗様の顔があったとはな)

 政宗の全てを知っていたはずの自分すら知らなかった政宗の一面に小十郎は少々寂しさを感じる。子どもが親離れをするときの親の気持ちと似ているのかもしれない。

(長岡彰子殿……か)

 どんな女性なのだろうと小十郎は想像する。政宗から散々話は聞かされている。顔とて政宗が持ち帰った『写真』という絵で見ているから知ってはいる。

 頭が良く懐が深く優しく面倒見が良い女性。突然異世界からやって来た政宗を何の躊躇いもなく受け容れ、世話をしてくれたという。歴史や政治に詳しく、政宗と対等に議論したこともあるというし、政宗の天下統一への考えにも多少なりとも影響を与えているようだった。

 政宗から話を聞くたびに、話す政宗の表情を見るたびに、叶うことならばこの世界に彰子が来てくれないものかと願っていた。

 奥州筆頭──支配者である政宗に対等な位置にいる者はいない。いてもそれは他国の領主であり、つまりそれは『敵』となる者でしかない。支配者は孤独なのだ。政宗は常に『奥州筆頭』であり、伊達藤次郎政宗というただ一人の人間になる時間はないといっても過言ではない。周りの者は常に政宗を『奥州筆頭』或いは己の主として見る。

 それは傅役で一番傍にいる小十郎とて例外ではない。自分を含めた側近は、多少他の者よりも近い位置にはいる。だから、ごく私的な場では人同士、男同士としての交流がないわけではない。けれど、やはり最終的には政宗に対して『伊達家当主』としての判断を優先させるのだ。

 だが、彰子は違う。彰子は政宗が『伊達家当主』であることも『奥州筆頭』であることも知っていたが、そうは接しなかったという。飽くまでも『政宗』という一人の人間として接したのだと。それは彰子が奥州の民ではないこと、彰子が生まれ育った平成の世に身分がなかった所為かもしれないが、この世界では誰にも出来なかったことだ。

 肩書きも何も関係なく接する存在に、政宗がどれほど心を慰められたかは、政宗の表情を見れば容易に想像がついた。だから、小十郎はずっと願っていたのだ。彰子にこの世界に来てほしいと。そして、政宗の傍に在り、正室になってほしいと。

(これは神仏が与え給うた好機かもしれねぇな)

 柄にもないことを考えてしまう。それほど小十郎は願っていたのだ。恐らく政宗本人よりも強く。

 手に入らないと一度は諦めたものが、再び政宗の前に現れたのだ。それを二度と手放さない為になら、小十郎は神さえ敵に回しても構わないとすら思えた。

 出立する自分たちを見送った成実も綱元も喜多も、恐らく同じような心情だったに違いない。政宗の為にも彰子を連れ帰る。政宗の許に彰子を留めたいと願っている。

「どんなことをしても彰子殿を連れ帰れ。巧く真田を騙して身分を手に入れるんだぞ、小十郎」

 こっそりと自分に耳打ちした綱元の冷徹な声を思い出して、小十郎は内心で苦笑を漏らす。いざとなったら彰子を攫ってでも奥州に連れ帰れといわんばかりの口調だった。多分、その為に綱元は黒脛巾の精鋭を上田に送り込む手配もしているのだろう。

(そんなことになったら、甲斐と事を構えることになりかねんな。責任重大だ)

 こっそりと溜息をつく。佐助が態々知らせに来たほどなのだから、上田城での彰子の扱いにも想像がつくというものだ。恐らくはかなり大切にされているのだろう。他国で保護されている人物を攫うだけでも問題があるのに、大切にされている女性を攫ったりなんかしたら如何なることか。同盟を結ぶ為に出向き、同盟が成るどころか戦になったら洒落にすらならない。

 だがそれでも、政宗の為に骨を折るのであれば苦労でもなんでもない。一番の側近としてよりも何処か父親に近い心情で小十郎はそう思う。自分は奥州筆頭の側近としてではなく、政宗の保護者として行動しようとしているのだ。竜の右目・片倉小十郎景綱ともあろう者が。

 そんな自分に苦笑していた小十郎は、ハッと我に返る。

「政宗様っ!! 馬の足を緩めなさいませ!!」

 そのままの速度で城下町に入ろうとした政宗を慌てて制止する。流石に人の多い通りでの全力疾走は拙い。普段の政宗だったら言わずとも判ったであろうに……と思えば、それだけ彰子に逢いたくて気が逸っているのだとまた苦笑が漏れる。

「Oh,オレとしたことが……」

 城下町に入ったことに今気付いたかのように政宗は馬の足を緩める。それでも並足ではなく軽く駆けさせているのは、やはりそれだけ心が逸っているのだろう。

「間もなく上田城でございますな」

 と言っている間に、二人は上田城の城門へと辿り着いていた。

 突然現れた一応敵国のトップ2の姿に、城門を守る兵士は目を丸くする。

「戦をしに来たわけじゃねぇ。真田殿に話がある」

 今にも城門を突破しそうな政宗を横目で確認しつつ、小十郎が門番に告げる。早く取り次いで城内に入れてくれなければ、確実に政宗は強引に力づくで城門を突破するだろう。

 だが、門番は如何やらかなりの下っ端の、しかも新人らしく、すぐに通して良いものか判断がつかない様子で、おろおろとしている。自分で判断がつかないのであれば誰かに指示を仰ぎにいけばよいものを、それすら思いつかないらしい。苛々しつつ政宗を抑えながら小十郎が再び口を開こうとしたとき、聞き慣れた飄々とした声が頭の上から降ってきた。

「……速すぎだろ。どんだけ彰子ちゃんに逢いたかったんだよ、竜の旦那」

 呆れた声と共に現れた佐助によって、政宗の城門強行突破という危険は回避されたのであった。