佐助が消えると、小十郎は成実と綱元、それから奥向きの一切を取り仕切る喜多を呼ぶ為に政宗の部屋を出た。城内に住んでいる喜多はともかく、成実と綱元は城下のそれぞれの屋敷に帰っている為、人を手配して呼び戻さねばならなかった。
小十郎が出て行った部屋で政宗は佐助から受け取った携帯電話を弄っていた。画面には懐かしい彰子の姿がある。
会いたくて会いたくて、会えないことなど判っていながらそれでももう一度会いたいと願っていた、愛しくて堪らない女性。その彼女が今、この世界に来ているのだという。佐助が嘘を言うはずはないし、言うにしても彰子のことを知らなければこんな嘘はつけない。彰子のことはこの奥州でもごく一部の政宗の側近しか知らないことだ。それに何より、ここにこうして猫たちの携帯電話がある。しかも真朱からのメッセージまである。確かに彰子は今この世界にいるのだ。自分と同じ世界に。
何故彰子はこの世界に来たのだろう。そう考えて政宗は苦笑する。不可思議な現象は人の業の範疇ではない。神仏や妖、そういった力が働いているとしか思えない現象だ。そして、そこには偶然以外の意味はないのだと政宗は知っている。──密かに自分は彰子と出逢う為にトリップしたのではないかと思ってはいても。あまりにロマンティックな解釈に政宗は自嘲したくらいだが、それほど彰子との出会いは政宗にとって大きな出来事だったのだ。一人の男としても、奥州筆頭としても。
「オレに会う為に来たのか、Honey?」
画面の彰子に向かって問いかける。
彰子がこの世界に来たのは自分がそれを強く望んでいたからではないのか、そんなことを思った。彰子は自分の為にこの世界に来てくれたのではないだろうか。だが、それが自分にとって都合のいい解釈でしかないことも政宗は判っている。神ならざる身に如何やって異世界を渡らせることが出来よう。
彰子はこの世界に来て既に3ヶ月になるのだという。しかも初めの半月は山の中に隠れ住んでいたのだと。どんなに不安だっただろう。自分のときを思い出して、政宗はぞっとする。
自分は気付いたときには既に彰子の保護下にあった。訳の判らない非常事態の中にあって、必要な情報を与え、冷静な態度を崩さなかった彰子の存在は政宗にとって安心感を齎すものだった。その上、彰子は政宗に生活の場を与え、保護してくれたのだ。だからこそ、政宗のパニックは最小限に抑えられ、恐怖心など感じることもなかった。
けれど、彰子は違う。自分が渡った世界は平和な平成の世。彰子が渡ってきたのは戦国乱世。武将でなくとも常に死と隣り合わせの世界なのだ。そんな世界に庇護するもの者もなく、何の情報もなく突然放り出された。突然の異常事態に彰子はどれだけ不安に陥っただろう。状況を把握するまでにどれだけの恐怖を感じたのだろう。真朱たち頼りになる猫が共にいたのは不幸中に幸いだったとはいえ、だからといって彰子が不安や恐怖心を抱かなかったはずがない。
「上田……か。真田幸村が彰子を保護してくれたのか」
自分の好敵手・真田幸村。佐助によって保護された彰子を幸村はあっさりと受け容れたらしい。真田らしいと苦笑しつつ、政宗は少しばかりの悔しさも覚えた。この数ヶ月、彰子の傍にいたのは自分ではなく真田幸村なのだと思うと、それが悔しく妬ましくなる。
「どうせこっちの世界に来るなら奥州に来いってんだ」
などと彰子には責任のないことへの文句すら零れる。
ここがどの世界か判ったのなら、すぐにでも自分を頼れば良かったものを……そう思いつつも、彰子の性格からいえばそれも容易ではないと簡単に想像はついた。どうせ彰子のことだ。政宗が彰子を知らぬ世界である可能性(真朱の伝言から察せられる)をはじめとして、色々な可能性を考えたのだろう。そして、万が一にも彰子自身の存在が政宗の足枷にならぬようにとも考えたに違いない。
「……ったく、慎重にほどがあるぜ、Honey」
自分一人で全てを抱え込んで、自分を追い込んでしまっただろうことは容易に想像が出来る。態々佐助が本来の勤めとは全く関係のないことで、この奥州にまでやって来たほどなのだ。真朱が政宗に『至急迎えに来い』と命じるほどなのだ。それほど彰子の精神状態は弱っているのだろう。
共に過ごした1ヶ月の間に、政宗は凡そ彰子のことを理解したと思っている。面倒見がよく姐御肌で博識で……確り者の女性と思われがちな彰子が、実は精神的には不器用なのだということ。博識で色々なことを考え想定して行動するのは、本当は自分に自信がなくて臆病だからだということ。甘えることが苦手で、弱音や愚痴を言うことは相手に心配をかけることと勘違いしていること。部活や学校生活などの愚痴は言えても、己の内面に関する愚痴や弱音は殆ど口に出すことが出来ず、心に溜め込んでしまうこと。不安や弱音などの、己の内面を吐露することを彰子はとても苦手にしているようだった。
そんな彰子が辛うじてそれらを口にすることが出来る相手は限られていた。そして、その限られた相手の中に何とか政宗も入ることが出来ていた。共に生活していたからかもしれないし、政宗が何れ自分の世界に帰ると判っていたから気安かったのかもしれない。それでも政宗は忍足や跡部と同等とまでは行かなくとも、それに準ずる程度の信頼は得ていたように思う。
だからこそ、真朱は自分を呼んだのだ。ならば、一刻も早く彰子の許へ行かなければ。
けれど、政宗は一国の主だ。そう簡単に私情だけで動くことは出来ない。領内であればともかく、行き先は仮にも敵国だ。今は戦争状態にはないし、同盟を検討している相手ではあるが、未だに同盟を結んでいないのだから、やはり敵国なのだ。
そんなところへ、ただ彰子を迎えに行くというだけで出かけることは出来ない。仮令その人物が政宗にとってどれだけ大切な者であったとしても、『奥州筆頭』としての伊達政宗が簡単に動くわけにはいかない。それが判っているから、政宗は今こうして小十郎たちを待っているのだ。
これを機に甲斐との同盟を成立させる。甲斐は既に越後と同盟を結んでいるから、越後との同盟も容易になるだろう。ただ彰子を迎えに行くだけではなく、そこに『奥州筆頭』としての役目も持っていく。そうすることで家臣や外部への政宗が甲斐に出向く理由付けとなる。本来の目的を隠すことが出来る。何より、彰子が後に感じるだろう申し訳なさを減らすことも出来るだろう。
夜が明ければ、小十郎を伴って上田へと馬を駆る。自分と小十郎であれば、昼前には上田に到着することが出来るだろう。明日の昼には彰子に逢える。
そう思うと、時間が経つのが遅く感じられて、もどかしい。早く夜が明ければいいのにと。
「政宗様、皆、揃いました」
部屋の外から小十郎の声がし、成実、綱元、喜多と共に入ってくる。小十郎は深夜の呼び出しの理由を何も言っていないらしく、3人の表情は程度の差こそあれ、一様に不審と緊張を纏ったものだ。
「そんな時化たツラしてんじゃねぇよ。Bad Newsじゃねぇ。寧ろGood Newsだ」
4人が座に就いたところで、政宗はそう切り出した。確かに自分にとって、そして恐らく奥州にとってはグッドニュースだろう。けれど、当事者の彰子にしてみればトリップしてきたことはバッドどころかワーストな事態に違いない。それを考えると、やはり一刻も早く彰子を奥州へ連れてきて、少しでも心安らかに過ごせるようにしてやりたいと政宗は思った。
「彰子がこの世界に来てる。真田幸村の許で保護されているらしい。猿が知らせに来た」
政宗の言葉に、既に知っていた小十郎以外の3人が驚愕に目を見開く。彰子のことはこれまでに政宗から聞かされている。二度と会うことのない相手としての寂しさを伴った声や表情と共に。その彰子が、この世界に来ているとは……。
「猿が、真朱──彰子の猫からのmessageを持ってきたし、携帯電話も持ってきたから、嘘じゃねぇ。確かに彰子が来てる」
政宗はふと悪戯心を出し、携帯電話のボイスメッセージを再生する。
『このメッセージに気付いたのであれば、わたくしたちの知る政宗ですわね。安心しました。詳しい事情は今は省きますが、ママとわたくしたち、こちらの世界に来てしまいましたの。ママを迎えに来なさい、政宗。いいですわね。大至急ですわよ』
小さな箱から突然女の声が流れ出し、これには小十郎も含め4人が更に驚いた表情をする。滅多に見ることのない喜多姉弟の驚いた顔に政宗はこっそり笑った。
「その声が真朱? 喋る猫だってのは聞いてたけど……。凄いな。梵に命令しているし」
一番早く衝撃から立ち直ったのは成実で、苦笑しつつ感想を述べる。
「あいつにとっちゃ、オレは弟分みたいなモンらしいからな」
政宗も苦笑しつつ、言葉を継ぐ。
「ってことで、オレと小十郎は夜明けと同時に上田に彰子を迎えに行く」
異論はないな、と4人を見渡したところで小十郎が口を開いた。
「彰子殿を奥州にお迎えすることに反対はいたしませんが、どのようなお立場にて城に置かれるお心算ですか。甲斐からただ連れ帰ったというだけでは、老臣たちは城に置くことを納得致しますまい」
政宗が彰子を側近くに置くことは容易に想像が出来ることであり、小十郎たちもそれを反対する心算はない。これまでの政宗の話から判断して彰子は政宗や奥州にとって害になる存在ではなく、寧ろ様々な益を齎す存在になるだろう。特に政宗の精神面において、彰子が傍にいることは良いことばかりのように思える。
たが、仮にも奥州筆頭の居城である。政宗の側近くに置くとなれば、その住まいは当然城内の、それも中枢部──或いは今は空っぽの奥に住まうことになる。そんな場所に突然連れてきた女を入れることは、様々な波紋を呼び起こすことだろう。
「彰子殿のことを存じ上げているのはここにいる者と黒脛巾頭領のみ。余の者は知りません。いきなりでは不審を抱かれましょう」
その小十郎の言葉に現実問題を思い出し、政宗は少々苦い顔をする。奥州筆頭・伊達家当主として好き勝手にやっているかに見える政宗ではあるが、実際のところ結構気を遣わなければならないことも多いのだ。
「正室候補ってことにすりゃいいだろう」
これまで誰が何と言おうと一人の女も傍に置かなかった政宗だから、家臣たちは安心するだろう。
「正室候補は聊か問題がございましょう。彰子殿はこの世界には当然ながら身寄りもなく身分も何もない女性。正室としようとすれば、老臣たちが反対するのは必至。彰子殿に要らぬご苦労ご心労をおかけすることになるかと存じますが」
小十郎にそう言われれば政宗としても頷かざるを得ない。もし彰子がこの世界にいたら正室にしたいと思っていた本音がポロっと零れてしまったのだ。
「だったら側室だな」
飽くまでも自分の妻妾として傍に置きたいと願う政宗だ。彰子の性格を考えれば政宗付きの侍女としたほうがいいのだろうが、政宗としてはこれは譲れない。僅かな間でもいいから、彰子を自分の『妻』にしたいと願ってしまうのは、叶わぬ恋の切ない我が侭だった。
「そのあたりが妥当でございましょうな」
それまで無言だった綱元が同意を示す。何れは突然消えてしまう可能性の高い彰子だから、不用意に関わる人間を増やすわけには行かない。だとすれば、政宗の妻妾候補として奥深くにひっそりといてもらったほうがいい。だから、奥女中という立場を与えるわけにはいかない。
だからこそ、小十郎も綱元も成実も喜多も政宗の『妻妾』として奥に置くという希望に反対はしなかった。勿論、政宗の切ない願いも判っているからこそ、それを受け容れたのだ。
尤も、余計な波風を立てない為にも『正室候補』には反対した。正室は個人的感情だけでは選べない。だからこそ、今まで政宗も正室を迎えなかったのだ。家と家とのしがらみがある。国と国とのしがらみもある。利害関係など、様々な要素が絡み合って領主の婚姻は成立する。
だが、側室ならばそのしがらみが皆無とはいえないものの、そのハードルは低い。政宗が気に入ったという理由さえあれば、ある程度のことはなんとでもなるのだ。
「でもさ、彰子ちゃんを側室として奥に迎え入れるのはいいとしても、一応仮の身元は必要だよね。身元不詳じゃ老臣たちは納得しないだろうし、彰子ちゃんもきっと肩身の狭い思いをすることになるだろうし」
正室候補ほどではなくとも、ある程度の身分なり、身元なりは必要だ。仮令それが農民でも町人でも構わないが、出自がはっきりしていないことにはやはり老臣たちからは軽んじられることになるだろう。そう成実が言えば、それにはあっさりと綱元が答えを示す。
「それは真田幸村に協力してもらおう。かの御仁は良くいえば義侠心にも情にも厚い男。悪くいえば単純で騙されやすい。こちらから頼まずともある程度の事情を話せば、自ら身元を保証してくれよう」
冷静に綱元はそう言葉を繋ぐ。
「彰子殿のまことの事情を話す必要もない。猿飛の話によれば、彰子殿が平成の世から来たことを知る者は猿飛のみ。真田も甲斐の虎も知らぬこと。ならば、彰子殿の過去はこちらで捏造すれば良い」
そう言って、綱元は更に『彰子の過去』について説明する。
「多少、殿には情けない男の役を演じていただくことにはなりますが、これであれば、単純で義侠心に厚い真田幸村のこと、彰子殿を助けようと手を打ってくれるはず」
ニヤリと笑う綱元に、政宗も小十郎も成実も苦笑を零すしかない。
「しかし、梵が本気で愛おしんでる彰子ちゃんに逢えるんだねぇ。会うことはないと思ってたから、楽しみだし嬉しいな」
一通りの心配事の種が解消され、安心した成実は明るく言う。ずっと政宗から聞かされていた彰子という女性。僅か3日に不在の間──政宗にとっては1ヶ月だったが──に政宗を成長させ、新たな決意と強い意志で天下統一を改めて目指させた存在。叶うことならば逢ってみたいと誰もが思っていたことだった。
「それから、これを機に甲斐と同盟を結ぶ」
政宗の表情が一変し、『奥州筆頭』のものになる。
甲斐側に対しては彰子を迎えに来たこと、彰子を保護してくれたことへの謝意を示すことを建前に信玄と面会をし、同盟を持ちかける。愛しい女を迎えに来たという建前があれば、単身(正確には二人だが)で乗り込んでも警戒はされないだろう。
奥州領内に向けては事後承諾で問題ない。政宗のこういった突然の行動には老臣たちも慣れっこなのだ。
「では早速に同盟に関する諸条件を書面に纏めましょう」
小十郎と綱元がそう言って作業の為に下がろうとするのを、政宗の一言が止めた。
「場合によっちゃ、オレは甲斐の虎に膝を折るぜ」
「──それは最終手段にございます、政宗様。飽くまでも対等な同盟を」
政宗がそう考えていることは、側近たちも薄々気付いていた。
天下統一を成し遂げたいという政宗の強い願い。けれど、自分が信玄に膝を折ることで天下統一が早まるのであれば、それをも厭わない。
はっきりと政宗がそれを口にしたことはなかったけれど、長年傍に仕えているのだ。政宗の行動を見ていれば察することは出来た。だからこそ、政宗の帰還後、同盟を考えながらもそれに踏み切らなかったのだ。
小十郎も綱元も成実も──政宗に仕える者たちは皆、政宗に天下を獲ってほしいと望んでいる。けれど、政宗の考えにも納得出来るものがある。奥州だけではなく、日ノ本全体の将来を見据えての政宗のこの考えには、政宗の内面の成長を感じ取ることも出来た。ゆえに小十郎も綱元も同盟を焦ることなく、信玄の政治、人柄を見極めようとしていたのだ。
「勿論、オレが天下を獲る心算ではいるがな」
政宗がニヤリと笑うと、小十郎と綱元は心得たように頷き、書面を纏める為に政宗の部屋を出て行った。
「彰子様のお傍に仕える侍女の選定に入りまする。口が堅く信の置ける者をお傍に。それに柳原戸兵衛殿とも諮り護衛の黒脛巾もつけましょう。今まで空だった奥に女性が入るのです。何が起こるか判りませぬゆえ」
男たちの話がひと段落ついたのを見て、喜多が言う。ずっと無言で政宗たちの話を聞いていたのだ。まだ女が口を挟むことではないと思って。
「ああ、頼む。奥向き一切はお前に任せる」
誰よりも信頼の置ける乳母に政宗は応じる。喜多に任せておけば何の問題もない。
政宗の言葉に喜多はニッコリと笑う。政宗の心を動かしたただ一人の女性を城に迎えるのだ。奥を束ねる者として、最大限の歓迎の姿勢を彰子に示したいと喜多は考えていた。謝意とそれとは別の願いと共に。
「では、政宗様。もうお
コロコロと笑いながら、喜多は言う。
「Oh,I see.ったく、喜多には敵わねぇな」
苦笑して政宗は頷く。幼い頃から傍にいる乳母には如何やっても敵わない。
喜多と成実が出て行くのを見送り、政宗は寝所へと入った。
──再会への期待に中々眠れそうにはなかったけれど。