化け猫か、神獣か

 彰子の様子を心配していたのは何も佐助たち人間ではない。いち早く彰子が弱っていることを察知し心を痛めていたのは、当然ながら常に傍にいる真朱たちだった。

 元々彰子にべったりな猫たちである。付き合いだって長い。特に真朱は10年以上彰子の傍らにいて、ずっと大好きなママを見続けてきていたから、彰子本人よりも彰子の変化には敏感だった。

 だから、猫たちは食欲不振という形で変化が現れる以前から彰子の思考が段々ネガティブになり、心が疲弊し始めていることに気付いていた。

「かーちゃん、そろそろヤバいんじゃねーの?」

 ぼーっと月を眺めている彰子を見遣りながら、萌葱はボソっと呟く。

「だね……。睡眠時間激減してるし」

 隣で撫子も頷く。以前ならとうに眠っているはずの時間だ。既に深夜を回っている。本来宵っ張りの彰子ではあるが、この世界に来てからは周囲の生活に合わせ、かなり早い時間に休むようになっている。その分朝も早い。

「元の世界なら、そろそろアレたちの出番ですものね」

 深く溜息をつくのは真朱だ。『アレ』とは彰子が弱音を吐くことの出来る忍足と跡部を指している。

 彰子は猫たちに愚痴を言ったり、弱音を零したりすることはある。猫たちは彰子にとって唯一の家族だからそれが出来る。真朱たちも励ましたり慰めたりはするが、それ以上に何かの進展──解決を齎すことは出来ない。愚痴を言ったり弱音を零したりとはいえ、彰子にとって猫たちは子供にも等しい存在なので余計な心配をかけないようにとセーブしてしまうのだ。だから、猫たちは彰子が弱っていることを感じてもただ傍にいることしか出来ず、随分口惜しい思いをしていた。

 けれど、忍足や跡部は違う。彰子を励まし労わり、そして時に厳しいことを言い、時に甘やかし、彰子の心を助けてきた。人に対して警戒心の強い真朱ですら彼らを信頼しているのはそれがあるからだった。

 しかし、ここに彼らはいない。彰子が心を曝け出して弱音を吐ける人も、的確に彰子の心情を察して適切な処置を取れる人もいない。

 彰子にとって愚痴や弱音を吐くというのは、相手に甘えるということだった。相手に心配をかけてしまうことであり、自分の負担を相手に分け持ってもらうことだった。彰子にとってそれらのことは相手に迷惑をかける行為に他ならない。だから、自然とそれをすることが出来る相手というのは限られてしまう。

 彰子は元々自分に自信がない。今では随分改善されているが、『こんな自分を受け容れてくれる人などいない』と思っていた時期もあるほど自己評価は低かった。だからこそ、トリップして若返ってからは様々な努力をした。少しでも自分を好きになれるように、自信が持てるようにと。その甲斐あって、今の自分は結構好きになれているし、努力した過程と成果は少しばかりの自信を彰子にも与えてくれた。何より友人たちが示してくれる好意が彰子の自己評価の低さを改めさせてくれた。

 それでも、やはり誰かに弱音を吐くことはハードルが高かった。『この人は私が多少の迷惑をかけても私を受け容れてくれる』──そう確信の持てる相手でなければ出来なかった。

 これは忍足に叱られたことでもある。もっと友人たちを信頼しろと。相手を侮っていることになりかねないのだと。尤も忍足にも、彰子にそんな心算がないこと、根底にあるのは『心配をかけたくない・迷惑をかけたくない』という彰子の心根の優しさにあるのだということは判っていた。

 つまり、彰子にとって『弱音を吐くことの出来る相手』は、何の遠慮もいらない、心の全てを開放して曝け出せる相手なのだ。

 彰子は佐助や幸村を信頼していないわけではない。彼らのことはとても好きだし、信頼もしている。けれど、弱音を吐けるほどではない。まだ彼らに対しては何処か遠慮してしまう部分があった。

「あいつらは今は異世界にいるから無理だけどさ。政宗なら?」

 じっと彰子を見つめたまま萌葱は言う。この世界に忍足たちはいない。だが、政宗ならいる。

 政宗が彰子の許にいたのは、僅か1ヶ月に過ぎない。けれど、共に生活をした政宗は彰子にとって自分たちと近しい存在になっていたことを猫たちは知っている。政宗になら彰子も弱音を吐けるかもしれない。そして、政宗もそんな彰子を必ず受け止めるはずだ。

「そうですわね。政宗なら、何とか出来るかもしれません」

 真朱も頷く。少なくとも、佐助や幸村よりは可能性が高い。時折、彰子が『政宗さん、如何してるかな』と呟くことを知っている。特に彰子の心が折れそうになってから、それは多くなった。自覚のないまま、彰子は政宗に助けを求めているのかもしれない。

「でも、如何やって、政宗におかーさんのこと知らせるの? 私たち、政宗が何処にいるのかも知らないんだよ」

「そこは佐助に頼みましょう。佐助もママのことを心配しておりますもの。力を貸すはずですわ」

 猫たちは相談しながら、じっと彰子の姿を見守っていた。






 猫たちがそんな会話を交わしていることに彰子は気付かず、ぼんやりと月を見上げていた。か細い月明かりが夜の闇を微りと照らしている。

(確りしなきゃ……)

 佐助や幸村に心配をかけてしまっていることには気付いている。実際に佐助は態々『弱音吐きな』とまで言いに来てくれた。けれど、如何してもそれは出来なかった。

 言っても仕方のないこと。弱音を吐いたって解決はしない。佐助の言うように弱音を吐くことで心が楽になるかもしれないとは思った。心に溜め込むから苦しいのだということは判っている。

 だが、怖かった。不安を口に出すとそれが本当になりそうで。弱音を吐くことで張っていた虚勢も崩れてしまいそうで。心が折れてしまいそうだった。そうなったら、今の自分は二度と立ち上がることが出来ないような気がした。

 忍足に会いたかった。跡部たちに会いたかった。あの世界に戻りたい。苦しくて、会えないことが寂しくて、泣いてしまいそうだった。けれど泣いても解決にはならない。泣くことは、帰ることを諦めるような気がした。だから、泣けなかった。

(会いたいな……、会って、弱気になってる私を叱り飛ばして、笑い飛ばしてほしい……)

 彰子の脳裏にふてぶてしいまでの自信を湛える隻眼が浮かぶ。政宗なら、こんな自分を笑い飛ばして、自分の迷いを払拭してくれそうな気がする。

(政宗さんに……会いたい)






 一度は彰子に弱音を吐かせることに失敗した佐助ではあったが、それで諦めたわけではなかった。

(とはいえ、如何するかねぇ……)

 彰子が予想以上に強情だった。これは苦労しそうだ。やはり信玄に助力してもらうしかないのだろうか。

 今、彰子は幸村と共に城下に行っている。幸村が『美味い甘味屋があると聞き申した。一緒に参りましょう』と彰子を誘い連れ出したのだ。それが幸村なりに彰子を気遣っての行為だったことから、佐助も反対せず同行もしなかった。

 自分は一度失敗したから、今度は幸村に期待だ。戦場以外で──しかも女性に対して幸村が何か策を巡らすことなど出来ないと思うが、逆に真っ直ぐで純真な幸村が彰子から何かを引き出すかもしれないと少しばかり期待している。

 彰子が幸村に対して好意を持っていることは佐助の目にも明らかだ。残念ながら男女のそれではなく、姉が弟に対するようなものだ。男女間の情愛という意味での好意は、甘味を前にした幸村の自制心と同様に全くないといってよいだろう。

 縁側に座り庭を眺めつつ考えていた佐助に、白い物体が圧し掛かってきた。

「うわっ。萌葱、何?」

 犯人は萌葱である。有能な細作である佐助は当然ながら気配に敏感なのだが、この城で唯一佐助に気配を悟らせないのが、この虎である。野生の動物だし、幸村に害を為すわけでもないので、佐助としては気配を感じ取れなくても仕方ないよねーと諦めている。

 佐助の問いに萌葱は答えず(人語を話せることを隠しているから当然だが)、佐助のポンチョの首根っこを咥えると、そのまま佐助を引き摺り移動し始める。

「ちょ……萌葱、自分で歩くから。ついて来いってんだろ」

 ズルズルと引き摺られつつ抗議すれば、萌葱はパッと口を離し、佐助は勢いのまま床に頭をぶつける。

 いてて……と後頭部を摩る佐助に早く来いと目で促し、萌葱はさっさと彰子の部屋へと歩いていく。一体なんだろうと不思議に思いつつ、萌葱と共に佐助は部屋に入る。佐助を出迎えたのは『萌葱、ご苦労でしたね』という、聞いたことのない女の声だった。

 この城で聞いたことのない声に佐助は一瞬で真田忍隊の長の顔へと変貌する。腰を落とし身構え油断なく周囲の様子を探る。──しかし、変わった気配も怪しい気配もない。

 身構える佐助の足を猫パンチして、真朱は『んにゃ~』と一声。佐助が自分に視線を移したのを確認すると、真朱はその同じ口から再び声を発した。

「佐助殿。わたくしです。真朱です」

 当然ながら、佐助は驚愕に目を見開くことになった。『え、今、何が起こったの? 猫が喋ったの?』と。

「あはははーやっぱり驚いてる~」

 先程よりも若い女の楽しげな声がしたかと思えば、

「当然だろ。でも、間抜けなツラだなぁ」

 と、今度は若い男の声までする。出所は、萌葱と撫子だった。

「……未来の獣は人間の言葉を喋るのか」

 かつての政宗と同じことを言う佐助に3匹は苦笑しつつ、説明も面倒臭いので(ここら辺は飼い主に似ている)そのままにしておくことにした。

「佐助殿をお呼びしたのは言うまでもありませんが、ママ──彰子様のことですの。そこにお座りになって」

 佐助の混乱が一段楽したところで、真朱はそう声をかけ、佐助を囲むようにちょこんとお座りをする。元々真朱たちの親(生まれ育った世界からのトリップ後の遺伝子的な親猫)はコンクール入賞経験もある血統正しいソマリであり、真朱が姿勢を正しその気になると女王然とした優美で気品漂う、何処か威厳ある姿に見える。お転婆な撫子や普段はやられ役の萌葱ですら、意識すればまるでお姫様と王様のように見えるのだ──キャラじゃないからと滅多にやらないが。

「これまで人語を解することを隠しておりましたから、申し上げることが出来ませんでしたが、改めて御礼を申し上げます、佐助殿。ママとわたくしたちをこの上田のお城にお連れくださいましたこと、心から有り難く思っておりますの」

 言葉と共に真朱は頭を下げる。萌葱と撫子もそれに倣い佐助に礼をする。

「あ、いや、当然のことをしたまでです」

 何故か敬語になってしまう佐助だった。しかし、猫が喋るとは……。しかも何気に真朱の口調は彰子に似ている。飼い主に似るということか……なんて考えていると、更に真朱は言葉を継ぐ。

「もし、あのまま山中にあって、ママが今の状態になっていたらと考えるととても怖いことです。安全な上田のお城でなければ如何なっていたことかと恐ろしくなりますわ」

 お礼の言葉から話の核心へと繋ぐあたり、真朱も頭が良いらしい。そんなところも彰子に以下同文──と佐助は思う。

「佐助殿にも幸村様にもご心配をおかけしておりますこと、ママも心苦しく思っていらっしゃるんです。でも、如何しても、貴方方ではママは弱音を吐くことが出来ませんの」

 仕方のない方ですわ……と真朱は溜息をつく。これでは彰子の飼い猫というよりは彰子の母か乳母といった感じだ。自分と幸村の関係性を振り返って、何となく真朱に親近感を佐助は抱いてしまう。これまで猫たちの中では一番懐かない真朱にちょっとばかり苦手意識を持っていたのだが。

「ママはご自分をよくご存じなのです。弱音を吐いてしまうことによって心が折れてしまう可能性が高いことを懸念していらっしゃいます。今のこの環境下では、もしそうなってしまったら立ち直れないことを判っていらっしゃるのです」

 決して佐助や幸村を信頼していないわけではない。それを真朱は佐助に伝える。

「だけどさ、真朱殿」

 何故か敬称をつけてしまう佐助。意識したわけではないが、自然につけてしまった。そんな佐助を萌葱と撫子は呆れたような、同情したような目で見遣る。2匹の視線は感じたが、佐助は気付かないふりをして言葉を続ける。気付いたらなんだか、とても切ない気持ちになるから。

「このままじゃ彰子ちゃんはどんどん弱っていくんじゃないの? 旦那や俺様が無理なら、大将に出張ってもらうしかなさそうなんだけど」

 不安に押し潰されないように、今の彰子の心はピンと張り詰めた細い糸のようなものだ。いつ、その糸が切れてしまうか判らない危うい状態だと佐助は見ている。それは幸村も感じているようで、だからこそ不器用ながらも今日は城下に連れ出すことで彰子を力づけようとしているのだ。

「ええ、このままではかなり危険です。でも、信玄公にご助力いただくのも逆効果だと思いますわ」

 真朱の言葉に佐助はやっぱりなぁと頭を掻く。

「でも──ただ一人だけ、この状況を打破出来る可能性を持つ人物がいらっしゃいます」

 ここからが本番──正念場だと、真朱の声が若干硬くなる。佐助が僅かに目を見開き、真朱を、そして萌葱と撫子を見る。

「その方は──奥州筆頭、伊達政宗公」

「……竜の旦那ぁ!?」

 思いがけない人物の名に佐助は驚く。無理もない。彰子は異世界の未来からやって来たのであり、自分たち以外にこの世界に知り合いなどいないと思っていたのだから。

「ええ。わたくしたちがこの世界にやってくる4ヶ月ほど前、突然わたくしたちの許に伊達政宗公が現れました。今のわたくしたちと同じように時代と世界を超えてやって来てしまったのです」

 真朱は簡単にそのときの状況と経緯を説明する。佐助は不思議なこともあるものだと思いつつ、彰子や目の前の獣たちも同じように不思議な現象に巻き込まれて今ここにいるのだからとそれを信じることにした。何より、真朱たちがそんな嘘をつく理由がない。

「約1ヶ月の間に、ママと政宗公の間には深い信頼関係が出来あがりました。そう、家族ともいえるような。ですから、政宗公であれば、この状況を打破出来る可能性が高いと思われます」

 真朱はそう話を締め括った。

 佐助は暫し思案する。今の甲斐の者では、彰子の現状を打破することはほぼ不可能に近い。彰子の性格から考えて相当難しいだろう。だとすれば、少しでも可能性の高い者に頼るのは仕方のないことだ。

「了解。ただ、竜の旦那に会うとなれば、俺の一存じゃ行けない。旦那に許可もらってからになる」

「ええ、そうですわね。それと、ママから並行世界の話はお聞きになられましたでしょ。可能性として、この世界の伊達政宗公がわたくしたちの許にやって来た政宗と違う人物であることも考えられますの。ですから、これを預けます」

 真朱の言葉に、萌葱が佐助の前に小さなカラクリを押し出す。桜色のそれは掌に収まる小さなカラクリで、佐助は恐る恐るそれを手に取った。

「わたくしたちの知る政宗であれば、それが何かを知っています。そしてそれが誰のものであるのかも。それに反応を示さなければわたくしたちのことを知らぬ政宗公です」

 BASARA世界が幾つもあるとは思えないから、恐らくこの世界の政宗はあの政宗と同一人物だろうが、念には念を入れておいたほうがいい。真朱たちはそう判断し、佐助に猫用携帯電話を預けたのである。この携帯電話は逆トリップしてきた政宗が頻繁に使っていたものであり、つけられているストラップは某巨大遊園地で政宗が猫たちへの土産として買って来たものだから忘れるはずはない。

「このカラクリが何か判れば竜の旦那に事情を話す、知らなければ適当に誤魔化して戻ってくるってことか」

 ふむ、と頷いて佐助は携帯電話を懐に仕舞った。

「旦那に許可もらい次第、奥州に行ってくる。まぁ、明日の朝までには戻ってこれるだろ」

 竜の旦那か……。

 少しばかりの頭痛と共に、何処か面白くないと複雑な思いを佐助は抱いたのであった。