それを佐助が聞いたのは、彰子付きの女中・加絵からだった。
「彰子ちゃんの体が弱ってる?」
「はい、猿飛様。彰子様はこのところ食も細くおなりで……」
加絵は眉を顰め、不安げな表情を見せる。
彰子が上田城に来てから、早2ヶ月が過ぎている。僅か2ヶ月とはいえ、元々彰子が佐助の恩人ということで警戒していなかったこともあり、上田城の面々は彰子に対して好意的な感情を以って接している。その代表ともいえるのがこの加絵だ。
加絵は四十路前の古参の奥女中で、幸村も佐助も一目置いている女性である。面倒見がよく、それでいて出しゃばらず余計な詮索をしない、肝っ玉母さんのような女性だ。だからこそ、幸村は彼女を彰子に付けた。彰子は表向き『戦によって家族と村を失った女性』であるから、それを信じている幸村は加絵のような温かな女性が傍にいるほうがいいだろうと判断したのだ。
尤も、彰子は自分が姫などではないからと『お付きの侍女』など拒否することを佐助は予測していた為、彰子には彼女が彰子付きであることは知らせていないし、加絵にもそれは伝えている。なので、彰子にとっての加絵はよく面倒を見てくれる親切な女性という認識だった。
上田城での彰子の立場は、実は結構高い位置にある。幸村には正室も側室もなく、また姉妹は上田城にはおらず母も既に亡い為、女性の中では実質的にはほぼ最高位にいるといっても過言ではない。幸村の祐筆という家臣の立場ではあるのだが、幸村は相変わらず『恩人で客人』という姿勢を崩さず、彰子を尊重する態度を取っている。その為、自然に周囲もそれに倣うことになる。
また、彰子の側にも誤解される要因があった。彰子の立ち居振る舞いが明らかに町娘や村娘と異なり、武家の姫といっても遜色のないものだった為、周りは勝手に彰子はそれなりに身分のある家の出だと思っているのだ。茶の湯、華道の心得もあり、乗馬もこなすことがそれに拍車をかけているらしい。最早上田城では『何処ぞの武将の姫で、幸村様のご正室候補として送り込まれたのではないか』などという噂までこっそり囁かれているほどだった。
その噂を佐助から聞かされたとき、彰子としては笑うしかなかった。武将の姫って……と。確かに自分の祖先は武家らしいというのは父から聞いている。小藩の国家老だったらしい。とはいえ、家系図が残っているわけでもないから本当のところは判らない。今の彰子は明らかに一般庶民、ただの女子高生に過ぎない。
ただ、周りが自分を気遣い尊重してくれることを有り難く思いつつ、申し訳なくも感じている。自分の経歴は佐助によって捏造されたものだ。けれど本当のことを話すわけにもいかない。
その申し訳なさとそれ以上に温かな上田城の人々への感謝の気持ちは常に彰子の中にあり、それが彰子の態度に表れている為、『彰子殿は謙虚でお優しいお人柄』と更なる誤解を呼び、今や彰子は完全に上田城の人々に受け容れられている。
「あまり夕餉をお召し上がりにならなくなって、既に半月ほどになります」
加絵はそう告げる。彰子は元の世界よりも大変であろう農作業や料理の手間を思って、食事を残すことは基本的にはしない。仮令食べたことのない食材や苦手な食材があっても必ず残さずに食べていた。けれど、半月ほど前から彰子の食事にかかる時間が長くなった。食欲がないのに無理をして食べようとするから時間がかかってしまうのだ。
それに気付いた加絵は『お残しになってようございますよ。家に子が待っている者に下げ渡しますから』と告げ、漸く彰子は正直に『食欲が湧かない、申し訳ない』と言うことが出来たのである。それを聞いた加絵はホッとして、それからは彰子の食事の量を調節するようになった。食べられそうな量を察り、それを膳に乗せ、本来なら食べてほしい量を別に取り分けておく。膳に出した分を彰子が食べ終え、まだ食べられるようであれば取り分けておいた分から更に出すというように。
彰子は食事を残すことを異様なまでに気にしており、それが一種のプレッシャーになっていたらしく、そうすることによって若干彰子の心理的負担は軽くなったようだった。しかし、食欲が戻ったわけではなく、下降の一途を辿っていた量が横ばいになった程度のものでしかなかったが。
加絵の心配はそれだけではなかった。食事が一番気付き易かっただけで、生活全般に影響は出ているのだ。
「夜もよくお眠りになれないご様子でございます」
加絵の言葉に佐助は考え込む。食欲もなく睡眠も充分ではないならば、体が弱るのも道理だ。
「医師には見せた?」
「いえ……。彰子様が大事無いと仰せで。夏の疲れが出ただけだから心配はないと」
心配する加絵に彰子はそう言った。加絵も彰子のこれまでのことを考えればそれも納得出来ると思い、敢えて強くは言っていない。山の中に隠れ住んでいた約10日間、恐らく彰子は気を張り詰め通しだっただろう。上田に移ってからも新たな環境や幸村の祐筆となったこと、更にはお館様とのご対面で気の休まることはなかっただろう。漸くこの地での生活にも慣れ、少し気を緩めることが出来たゆえに一気に疲れが出てきたのではないか。そう思えなくもない。
だが、それにしては彰子の表情が暗いことが気になった。
「そっか。あれで彰子ちゃん、結構頑固で強情だからね。俺が何とかする。加絵殿はこれまでどおり彰子ちゃんに接してあげて」
少し思案して佐助はそう請け負う。それに安堵したのか、加絵は『お願い申し上げます』と言うと仕事へと戻っていった。
佐助もこのところ少し元気がないようだとは感じていた。彰子は隠しているが、空元気なのは見ていれば判る。一見人の機微に疎そうな幸村でさえ彰子の様子がおかしいことには気付いており、心配しているのだ。元々幸村は現代風にいえば過剰なほどのフェミニストだ。女性を神聖視している節があり、それが行き過ぎての『破廉恥でござるぅぅぅ』なのである。
幸村のこの女性観は、女性に対して優しすぎるほど優しい信玄の影響によるものだ。早くに父を亡くした幸村を信玄は我が子のように可愛がり、養育してきた。その結果が『虎の若子』といわれるほど勇猛な武将であり、徹底したフェミニストなのだ。しかしながら、佐助にしてみれば『大将、教育間違ってませんか』と突っ込みたくなる。艶福家として名高い信玄が養育したのならば、もう少し女性に対して器用になっても良さそうなものなのに……。
それはさておき、心配する幸村に彰子はやはり夏ばてだと思うといい、幸村も今年の夏は特に暑かったことや慣れない山中での生活を彰子が経験していたことからも、それで納得していた。
尤も暑いとはいえ、信州上田は現代の軽井沢に近い位置にある。避暑地の軽井沢に近いから、彰子が暮らしていた南国九州や都市型の暑さのある東京に比べれば遥かに涼しく過ごしやすい。更にいえば現代のような温暖化が起こる前でもあり、化学物質に汚染されていない世界は随分と涼しい。だから、『夏ばて』は彰子が周囲を納得させる為の言い訳に過ぎなかった。
(旦那や俺に心配かけない為か……)
彰子の空元気の理由を佐助は察している。そして精神的に弱っている理由も。
上田城に来て2ヶ月ということは、この世界に彰子が来てから3ヶ月近くが経ったことになる。恐らく元の世界への望郷の念が増しているのだろう。いつまで経っても元の世界へ戻れないことへの苛立ちや焦燥り、不安も増しているに違いない。その不安が嵩じて、帰れないのかもしれないと諦めさえも感じ、それゆえに彰子の心は弱っているのではないか。佐助はそう考える。
だが、それを彰子は誰にも漏らさない。勿論、何も知らない幸村に話せるはずがないことは判っている。しかし、自分は全てを知っているのだから、己には弱音を漏らしてもいいのではないかと、佐助は何処か不満を感じていた。
帰りたいと言われても佐助には如何することも出来ない。言っても佐助を困らせるだけだと判っているから、彰子は何も言わないのだ。誰にも如何しようもないことだから。その気持ちは佐助にも理解出来る。彰子の性格から考えても、世話になっている佐助を困らせることはしたくないと思っているのだろう。
けれど、それでも佐助はそんな彰子に対して不満と寂しさを感じるのだ。
確かに自分に話したからといって問題が解決するわけではない。だが、話すだけでも、弱音を吐くことが出来るだけでも、心は楽になるのではないのか。今の彰子の心は張り詰めた糸のようで、いつそれが切れてしまうのか判らない不安定さがある。糸が切れれば彰子の心は壊れてしまうのではないか……。
(でも、彰子ちゃん、本当に帰れるのかねぇ……)
佐助は溜息を漏らす。もう2ヶ月だ。帰れるものならばとっくに帰っているのではないのか。そもそも彰子もこれほど長く滞在するとは思っていなかった節がある。10日前後、長くて1ヶ月程度の滞在だと思っていたようで、それは生活用品を揃えようとしなかったことからも推察出来た。
ゾクリと嫌な予感が佐助の背筋を走る。否、『嫌な』ものであると同時に、正反対でもある予感。
彰子は元の世界には戻れず、この世界に留まり続けるだろう。
佐助はそう感じていた。根拠があるわけではない。だが、そう確信してしまった。それが己の願望であるのかもしれないとも思ったが。
もし、彰子が元の世界に戻れないのなら、このまま上田城に留まればいい。幸村を初めとした城内の人間は既に彰子を認め受け容れている。皆、このまま彰子がずっと上田にいるのだと思っているのだから、何の不都合もない。
信玄も彰子を気に入ったらしく、対面以降、幸村に宛てた文には彰子の様子を尋ねる一文が必ず添えられているし、佐助が躑躅ヶ崎館に行けば必ず様子を尋ねられる。時折彰子宛の文を預かることさえある。
城内の噂のように、幸村の室になるのもいいだろう。女性に対して不器用な幸村がごく普通に──少々ぎこちなさはあるが──接することの出来る数少ない女性の一人であり、幸村も満更ではなさそうだ。問題があるとすれば身分だが、そこは信玄に相談すれば何とかしてくれるだろう。
「でも……まぁ、このままじゃいけないよねぇ」
帰れないにしても、彰子がそれを受け容れられなければ意味はない。そして、今はそれ以前の状態だ。今の彰子の精神状態を何とかしなければ、彰子の体は心に引き摺られてどんどん弱っていく。
もう一度佐助は息をつくと、取り敢えず話をしようと彰子の部屋へと向かった。
佐助の予想以上に彰子は強情だった。彰子が強情なのは知っていたから、佐助はストレートに話を切り出した。それによって、彰子は不安を抱えていること、それが原因で少しばかり気が滅入っていることは認めた。けれど、そこまでだった。
「佐助さんや幸村様に心配をかけてしまったのは申し訳ないと思うわ。心配してくれてありがとう。でも、これは私の内面の問題なの。自分で解決するしかないから」
そう言って、佐助に対して愚痴を零すことも、弱音を吐くこともしなかった。
「そうは言ってもさ、愚痴や弱音を吐くことで、気が楽になるかもしれないでしょ。俺様が口が堅いのは知ってるだろ。言っちゃえばいいじゃないか」
佐助は食い下がるが、それに対して彰子は苦笑を零すだけだった。元々彰子は簡単に弱音や愚痴を零せる性格ではない。元の世界にいたときですらそうだった。弱音を吐いて相手に心配をかけてしまうことを気にしてしまうのだ。
生まれ育った世界では、彰子が弱音を吐くことの出来る相手はいなかった。家族にすら出来なかった。両親は彰子のことを『確りした長女』であり、強い娘だと過信していた。両親の見ている自分を感じていた彰子は、そんな両親に対して愚痴や弱音など言えなかった。
トリップした世界では多少、状況も変わった。以前よりも少しは自分の弱い部分を見せることも出来るようになった。ありのままの自分を受け容れてくれていると思える友人たちが傍にいてくれたから。尤も、やはり弱音を吐ける相手となると、それはごく限られた相手だけで、しかもそうなるまでに1年以上の時間も費やした。彰子が心を曝け出せたのは二人だけ、それが甘やかすのが巧い恋人の忍足であり、必要とあれば強引に心に立ち入る強さと優しさを持った親友の跡部だった。
佐助のことを信頼していないわけではない。けれど、彰子にとって佐助はまだ弱音を吐けるほどの相手でもなかった。佐助の気持ちに感謝しつつも、佐助の言葉に諾と応えることは出来なかった。
「佐助さん、私、自分のこと判ってる心算よ。今弱音吐いちゃったら、心が折れそうな気がするの。だから、無理」
何を言ってもそれを曲げない彰子に、佐助は降参するしかなかった。恐らくこの甲斐で彰子が一番心を許しているのは自分だ。その自分にすら弱音を吐くことを拒否するのであれば、最早打つ手はない。
いっそ信玄に彰子の本当のことを話してしまい、信玄の力を借りようかと佐助は考えた。彰子は信玄に対して敬愛の念を持っているし、父親のように感じているらしい。自分や幸村とは別格の存在として信頼もしている。何よりも信玄の懐の深さは彰子の頑なな心をも溶かすのではないかと思えたのだ。
とはいえ、信玄は一国の主である。配下の陪臣のことにまで借り出すのも躊躇われる。それに、信玄を引っ張り出してしまうとそのこと自体を彰子は申し訳なく思ってしまい、新たな彰子の心痛の種を撒くことになりかねない。中々に彰子の心は面倒臭い。
如何すべきか悩んでいた佐助に対して、打開策が示されたのは、彼にとって思いもかけない意外な存在からだった。