越後の竜

 その人を見、声を聞いた瞬間、彰子はフリーズした。

 何でここに冬獅郎がーー! いや、エドワード・エルリックか!? 違う違う、上杉謙信だぁぁぁぁ。如何してここに謙信がいるのだ? ここは甲斐だ。何でだ!? つーか、謙信が来てるなんて聞いてないよ!!

 というように、フリーズから解けた彰子の脳内はパニックになっていた。

 だが、考えてみれば、単に幸村や自分が来たからといって宴を開くわけはない。そもそも自分に会う為に信玄が幸村を呼び寄せたのではないことも判っている。何か用事があって幸村を呼ぶついでに自分たちを連れて来いと信玄は命じたのだから。

 つまり、この用事というのが、謙信の甲斐来訪だったのだろう。

 しかし、しかしだ。同盟国の国主までもが来ている宴に、如何して自分のような身分の者が参加しなければならないのだ。明らかに身分不相応ではないか。元々そう思っていたところに謙信まで現れたのでは、そのまま回れ右して上田城まで帰りたくなる。

 幸村も佐助も、何故教えてくれなかったのか。幸村はそこまで気が回らなかったのかもしれないが、抜け目のない佐助が言わなかったのは明らかに故意犯だろう。今も天井裏あたりから自分の驚いた顔を見てニヤついているに違いない。佐助は(世界が違うとはいえ)彰子が謙信のファンであることを知っているのだから。

 挨拶に赴いた席で、彰子は失礼にならないように気をつけつつ、謙信の顔を盗み見る。

 うーん、やっぱり性別不明。男といわれても女といわれてもどっちでも納得出来るなんてことを彰子は思う。ゲームの謙信は某歌劇団を意識しているらしいが、確かにそこのトップスターだといっても通じそうだ。今は専科にいて最年少の劇団理事にもなっている同郷出身の元雪組トップスター様が謙信を演じたら相当似合いそうだなとも考える。あの方は謙信だろうが、信玄だろうが、政宗だろうが、毛利元就だろうが、果ては第六天魔王だろうが、どの役でも難なくこなしてしまわれそうだが。というか、かの御方の信長だったら是非とも観てみたいものである。

「そなたはとらにまもられているとききました。そのびゃっこはいまここにはおらぬのですね」

 流石に宴席に動物を連れて来ることも出来ないから、萌葱は部屋でのんびりしている。信玄との対面は図太い撫子ですら疲れたらしく、彰子が部屋を出るときには既に真朱以外は夢の中だった。きっと真朱も今は眠っていることだろう。

 やはりというか当然ながらというか、謙信も珍しい虎の存在には興味を持ったようだ。

 確かに虎というのは猛々しいものの代名詞とされているから、武将にとっては興味をそそられるものなのかもしれない。三大英傑といわれる信玄・謙信・北条氏康をそれぞれ『甲斐の虎』『越後の虎』『相模の虎』との二つ名で呼ぶのもその例だ。尤も謙信の場合は『越後の竜』のほうがポピュラーと思われるが、これは信玄のライバル関係から『竜虎相打つ』に准えているのではないかと彰子は思っている。

 この時代の有力武将の名前や幼名には虎の字が入っている人物も少なくない。謙信の俗名も景虎だから、やはり虎の字を使っている。その後、偏諱を賜って政虎・輝虎と改名しているが、虎の字は変えていない。もしかしたら個人的にも謙信は虎という獣に思い入れがあるのかもしれない。尤も目の前の謙信は虎というよりも神速と呼ばれる速さと線の細さからチーターを髣髴させるのだが。

「とらはたけだけしきけものとききますが、そのとらがまもっているそなたはさいおうぼでしょうか」

 謙信の言葉に彰子は一瞬呆気に取られた。西王母だなんて、それは中国の神話の天帝の娘で玉皇大帝の后ともされる仙女ではないか。西王母は中国西方の果てに住むとされているし、白虎は西の守り神だ。だからこそ謙信はそんなことを言ったのだろう。

 けれど、謙信が本気でそんなことを思っているわけでもないことにはすぐに気付いた。要は『虎に守られているお前は一体何者なんだ』ということだろう。だからといって警戒しているというわけでもなさそうだし、純粋に興味を持っているという感じだ。

 しかし、流石に信玄も謙信も亀の甲より年の功である。佐助やかつての政宗のようにずばりと『アンタ何者』とストレートに尋問したりしない。信玄はどっしりと構えて『言いたくなったら言えばよい』とばかりに何も訊かない。そして謙信は、なんとも雅やかというか風流ともいえるような問いかけをするのだ。

「わたくしは一介の町人にすぎません。あの虎──萌葱は赤子のときからわたくしが世話をしておりますゆえ、わたくしを母と思うているのでございましょう。男ゆえに自分が母たるわたくしを守らねばと思うておるのやもしれません」

 彰子は苦笑しつつ答える。何一つ嘘は言っていない。異世界トリッパーであることを除けば、彰子はごく普通の女子高生に過ぎないし、萌葱を生後数ヶ月の頃から世話をしているのも事実だ。萌葱からは『かーちゃん』と呼ばれているし、萌葱が虎に変身してしまったのは『男だから俺がかーちゃんたちを守る』と力強く宣言してのことだから、これも紛れもない事実だった。

「とてもかしこいとらなのですね。わたくしもおうてみたいものです」

 ほんのりと謙信は微笑む。その優しげな微笑はなお一層性別不明な印象を与える。

「彰子の白虎はとても賢いぞ、謙信」

 すっかり萌葱に懐かれている信玄は横からそんなことを言う。確かに、人語を解しているから賢いだろうし、人語を解するゆえに行動も人の意を汲んだものになるから一層賢く思えるのだろう。

 元々萌葱は人の顔色を見るのが得意な猫だった。とても人懐こいし、人に媚びることもする。愛想のいい、愛嬌ある行動で猫嫌いの母にまで可愛がられていたほどだった。生まれた世界で生後間もなく野良の母猫に捨てられて、そこを人間に拾われ命を救われた所為かもしれないが、『人の手助けがなきゃ生きていけない』と判っているようなのだ。そこが生まれたときから飼い猫である真朱や撫子と違うところだ。

 信玄はそんな萌葱をかなり気に入ったらしく、相当乱暴に撫で回し、それを萌葱が喜ぶものだから、危うくバトルかと思うほど過激なコミュニケーションに発展していたくらいだった。萌葱も懐の深い如何にも『父親』な信玄を大好きになったのか、彰子にこっそりと『信玄のおっちゃん、超大好き』と言っていた。

「萌葱は如何やら人の言葉が判るようでのう。儂の言葉にも鳴いたり仕草なりで返事を致すぞ。のう、幸村」

「はっ。まことに萌葱殿は優れた虎にござりまする」

 幸村は然りと答え、ただ萌葱の言葉が判るのは彰子だけだと残念そうに呟く。真朱たちは用心して人語を彰子にしか使わないから、彰子以外には判らないというだけなのだが。尤も彰子にしてみれば、一番付き合いの長い真朱で10年以上、一番短い撫子でも8年以上一緒に暮らしているのだから、飼い主として人語がなくともある程度の意思疎通は出来ていると思っている。

 そのまま幸村と彰子が信玄・謙信を独占するわけにもいかず、頃合を見て御前から下がり自分たちの席へと戻る。知らず知らずのうちにホッと溜息が漏れた彰子に幸村は心配そうに声をかけた。

「お疲れになられましたか、彰子殿」

「少し。お館様のみならず、越後の上杉様までおいででは……わたくしのような者には恐れ多くて」

 何しろ歴史上の好きな人物ランキングダントツ首位と2位が揃っていたのだ。緊張もしたし、内心では上がりまくっていたテンションを表面に出さない為の努力も必要だった。

 それに謙信はなんとも不思議な雰囲気を持つ人物だ。あの切れ長の目で見つめられるとどうにも居心地が悪い。何もかも見透かされているような気がしてしまう。別に謙信が彰子の何かを探ろうとしているわけでもないのは判るのだが、秘密を抱えている身としては如何しても後ろめたいような気がしてしまうのだ。

「お館様がとても気さくな方なのも判っております。お会いするのを楽しみにしておりましたし、お会い出来てとても嬉しく思いました。とても素敵な……素晴らしい方であられますね」

 彰子の『恐れ多い』という言葉に寂しそうな顔をした幸村に気付き、彰子はそう言葉を続ける。本心からの言葉だ。飽くまでも立場的に『恐れ多い』と思っただけで、信玄本人はとても親しみやすい人柄だった。温かくて大きくて、彰子は歴史上の人物ではなく、今日出会った『お館様』を大好きになった。亡くなった祖父といたときのような安心感を齎してくれる、お館様はそんな人だった。

「祖父を思い出します。お館様のような立派な武将ではありませんでしたが、共にいればホッとする、安心出来る人でした。尤もお館様はそんな御歳ではいらっしゃいませんが」

 彰子の言葉に今度は嬉しそうに幸村は笑った。敬愛するお館様のことを彰子が好きになったのであれば、これほど嬉しいことはない。とにもかくにもお館様激愛の幸村なのだ。

「謙信様はお美しくて、周りの空気が清浄で、何やら心穏やかになれるような気が致しました。それでいてお館様が唯一の好敵手と認めるほどの武人であられる。とても不思議な方でいらっしゃいますね」

 これも正直な感想だった。謙信の持つ雰囲気はまるで神域にいるかのような清浄さと厳かさがあり、何処か不思議なものだった。

「然様でございまするな。あのような細身のお体でありながら、お館様と対等に戦われる。何処にそのような力を秘めておいでなのか。流石は軍神と異名を取る方でござる」

 うむうむと頷きながら、幸村も同意する。

 そんな会話を交わしながら、宴の膳に舌鼓を打ち、旅芸人の舞や楽に耳目を楽しませる。やがて夜も更け始めた頃、徐々に宴は無礼講の様相を呈してきた。これまでそれぞれが一角の武将と思われる威厳を備えていたのに、段々とただの酔っ払いオヤジになり始めている。

 彰子がそんな武田家重臣に戸惑っていると、何処からともなく佐助が現れ、何やら幸村に耳打ちした。

「うむ。確かにそうだな」

 佐助の言葉に幸村は頷くと、彰子にそろそろ宴から下がる為信玄に挨拶に行こうと告げた。

「途中で帰ってしまっても良いのでしょうか」

「何、構いませぬ。これよりは無礼講となりますゆえ、お館様に申し上げれば問題ございませぬ」

 幸村の言葉に彰子はホッとして、信玄と謙信に挨拶に行く。確かに段々無礼講になって、広間の一角では裸踊りなんてものまで始まっていたから、助かったと思ってしまうのも無理はないだろう。

 幸村と彰子が辞去の意を伝えると、信玄と謙信は気にしなくても良い、ゆっくりと休めとあっさり許可をくれた。

「りんどう、またあいたいものです。そのときにはわたくしにもぜひ、びゃっこをあわせてくださいね」

 竜胆って私か!? と内心突っ込みつつ、彰子は一礼を以って返答に代える。口を開いたらうっかり突っ込んでしまいそうだったのだ。

 宴席から下がり、躑躅ヶ崎館を出たところで佐助も合流した。3人で夜道を歩きながら、漸く彰子の肩から力が抜ける。因みに真朱と撫子は夢の中なので彰子と佐助に抱っこされ、萌葱はぴったりと彰子に寄り添って歩いている。

 慣れない宴席に、慣れない武家風の丁寧な言葉遣い、絶対に慣れることのない雲の上の人との会話に、彰子は疲れていた。けれど、嫌な疲れではない。心地良い疲れだった。

 その日の彰子の日記が異様なまでのハイテンションで綴られたのは言うまでもない。






 彰子の甲府滞在期間は3泊4日だった。

 宴の翌日には謙信が不意打ちで真田屋敷を訪れ、そこで彰子はかすがとも対面した。そのナイスバディに同じ女としてちょっとばかり羨望を覚えつつ、幸村のお館様激Loveに勝るとも劣らない謙信様超絶激Loveっぷりに苦笑してしまった。

「かーちゃんもあれくらいナイスバディで色気ありゃいいのにな」

 と小声で呟いた瞬間、真朱と撫子に恒例のライダーキックを食らった萌葱には同情しない。

 謙信は萌葱と会えたことに満足したようで、何処となく機嫌がよく見えた。彰子と取り留めのない話をしつつ、

「うつくしきつるぎとりんどう、このようにうつくしきはなをどくせんしては、よのおのこにうらまれてしまいますね」

 なんてことを言うものだから、彰子は謙信はまさに宝塚男役スター系の天然タラシだと呆気に取られた。尤も、謙信のその言葉でかすがが身悶え薔薇をを撒き散らしたものだから、そっちのほうで一層呆然としたのではあったが。

 一刻ほどの滞在で謙信とかすがは躑躅ヶ崎館へと戻り、その後は真朱たちと謙信らの話で盛り上がってしまった。この日の彰子の日記も異様なハイテンションとなったのは仕方のないことだろう。

 最後の日には、幸村と共に暇乞いの為に再度躑躅ヶ崎館を訪れた。信玄は最後まで温かな慈愛に満ちた目で彰子や猫たちを見、

「幸村のお守りを頼むぞ、彰子、萌葱。何か困ったことがあれば、すぐに儂にに伝えよ。力になるぞ」

 と優しい言葉をくれた。

 信玄の好意が彰子には頼もしくとても嬉しかった。幸村や佐助が頼りにならないというわけではない。ずっと自分を保護してくれて守ってくれている彼らのことは信頼しているし、頼りにしている。しかし、信玄はまた彼らとは違っている。信玄の懐の深さと頼もしさは別格だ。まるで父親のような安心感を信玄は与えてくれる。生まれ育った世界を結果的に捨てた彰子にはもう親はいない。信玄はそんな彰子にとって、やっと出会えた父親のように思えたのだ。

 異世界トリップをしている彰子だから、もしかしたら、もう二度と信玄に会う機会はないかもしれない。それが寂しいと感じた。






 信玄と謙信、戦国時代の2大英雄と出会って、彰子の初の甲府訪問は幕を閉じた。

『父』信玄と謙信──彰子の二人の『保護者』との出会いであったことは、後になって判明することだった。