上田城を出発してから3日後、幸村と佐助、彰子と真朱、萌葱、撫子は甲府の真田屋敷に到着した。
彰子が乗っている馬は栗毛の雄で、戦場に出すには気が優しすぎるというか気が小さすぎるということでこれまで乗り手のいなかった馬だった。
馬が信頼している幸村の紹介(?)だった所為か彰子には割合早くに懐いたものの、流石に虎の萌葱には初めのうちは怯えていた。肉食獣にすんなり警戒心を解く草食獣などいるはずもない。だが、萌葱が『彰子を主とする仲間だから怖がらないでくれ』と根気強く馬に呼びかけ、なんとか怯えなくなったのは出発する直前のことだった。
馬は彰子の滞在中は彰子専用となることになり、『優瞳』と名付けた。戦馬にはなれない気の優しい馬というのも頷ける、実に優しい目をした馬だったからだ。後から撫子には『見たまんまの名前だね。おかーさん、センスいまいち』と厳しいことを言われたが、彰子としては結構いい名前なんじゃないかと思っていたりする。
真田屋敷に到着したのは夕刻を過ぎてからだった為、躑躅ヶ崎館へ出向いての挨拶は翌日にすることになった。その日は慣れない馬での長距離移動に彰子も疲れきっており、入浴と食事を済ませると早々に休んだのだった。
そして、いよいよ信玄との対面の日となったのである。
躑躅ヶ崎館は真田屋敷から目と鼻の先ということもあり、幸村ら一行は徒歩で館へと向かった。こんな場所に屋敷を与えられているということは、真田家はそれだけ信玄の信任が厚いのだろう。
そういえば、アニメや漫画では高坂弾正昌信や穴山梅雪とか山県昌景とか山本勘助が出てきた記憶がないが、この世界にはいるのだろうか。取り敢えずゲームではモブ武将として出てきていたから、いないことはないと思うが。小山田信茂らしい人物はアニメにも出ていたが、その声にファーストガンダムが好きな彰子は驚き身悶えしたものだ。あれだけ主役を張っていた人が1話限りの脇役として出ていたことに世代交代を感じて切なくなったりもした。
それはともかくとして、もし彼らがいるのであれば会ってみたいなとも思う。武田は家臣団に有能な人物が揃っていたことでも有名だし、興味がある。尤も高坂弾正は某少女小説の、山本勘助は某大河ドラマの印象が強いのだが。
館に足を踏み入れると一挙に緊張が増した。これから武田信玄に会うのだと思えば、緊張するなというほうが無理だ。真朱や萌葱、物怖じしない撫子ですら緊張しているくらいなのだ。
因みに、今日彰子が身に纏っているのは幸村から借りた小袖と袿だ。袿なんて初めて着るから所作には苦労したが、テレビドラマの女優さんの動きを思い出して真似ることで、何とか見っとも無いとは思われない程度の振舞は出来ているように思う。というか思いたい。
上田城で着ているのは城下の古着屋で買い求めた小袖が殆どで、根が庶民な彰子としては汚しても平気な安いものを購入している為、色も柄も18歳の女性が着るには素っ気ないものだ。今回借りたような、如何にも高級品といった上質の絹を使った小袖など着たことがない。況や華やかな模様の入った袿をや、というところだ。
この小袖と袿は幸村の亡母のものだということで、初めはそんな大切なものを貸してもらうわけにはいかないと彰子も固辞した。しかし、信玄に対面するのに相応しい着物など彰子が持っていようはずもなく、結局有り難く借り受けることにしたのだ。
実は幸村は新たな小袖と袿を彰子の為に誂えようとしていたのだが、それは佐助が止めた。佐助はこの1ヶ月で凡そ彰子の性格を把握していたから、如何にも高級な小袖や袿を自分の為に買ったと判れば必要以上に申し訳なさがると判断したのだ。最終的には受け取るにしても、代金を自分の禄から天引きにしてくれと言うに決まっている。
そもそもこの禄だって彰子は当初拒否したのだ。『置いてもらっているお礼にやっていることなのに、禄をいただくのはおかしい』と。そこで佐助が一般的な祐筆の禄の額を挙げ、そこから凡その食費を差し引いた金額を提示した。その上で『俺らが彰子ちゃんから労働力もらいすぎになっちゃうからさ。遠慮なく扱き使う為にも禄をちゃんと貰ってよ』と説得したのだ。そう言われると彰子も拒否出来ず、受け取るようになった。
そんなわけで日頃着慣れない華やかな衣装に身を包んだ彰子は、通された部屋で緊張度マックスになりながら信玄の登場を待っていた。いつもは好奇心の塊である撫子ですらぴったりと彰子に寄り添い不安げな緊張した表情を見せている。女王様気質でプライドの高い真朱は緊張を隠しているが、彰子の目から見れば緊張しまくっているのはバレバレだ。萌葱は部屋に通されたあたりから開き直り幾分緊張を解いたらしく、寧ろ好奇心に満ちた目でワクワクと信玄の登場を待っているようだ。
「彰子殿、そのように緊張なさらずとも大丈夫でござる。お館様はお優しい方ゆえ」
彰子のあまりの緊張っぷりに幸村は苦笑する。彰子が緊張してる姿など初めて見たのだ。道中はずっとお館様に会えることを楽しみにしていたというのに。
「はい。とは申せ、甲斐の虎と呼ばれる名高き信玄公にお目通りするのです。緊張するなというほうが無理ですわ」
幸村の言葉に苦笑を滲ませつつ、彰子は答える。何しろ、歴史上の好きな人物男性部門第2位の武田信玄に会うのだ(因みに男性部門第1位は勿論上杉謙信で、女性部門第1位は上東門院彰子だ)。自分の知る歴史上の人物とは別人だと判っているが、BASARAの信玄は自分が持っている武田信玄のイメージとかなり近いこともあって、やはり会うのが楽しみだ。嬉しすぎて緊張する。緊張している所為か、実は内心でテンションは上がりまくっている。
ドキドキワクワクしながら待っていた彰子だが、不意に空気が変わったのを感じた。嫌な変化ではない。そう、喩えて言うならば、某歌劇団でトップスターが登場するときに感じる華やかなオーラと他を圧倒する存在感、それを何倍にも強めたものを感じたのだ。男性の、しかも老年の武将に対して使う言葉ではないかもしれないが、圧倒的な『華』。
幸村と佐助が礼を取ったのを見、やはり信玄が現れるのだと確信する。彰子も礼法でいうところの双手礼を取り、信玄を待つ。背筋を伸ばしきれいな形を作ることを意識し、頭を下げすぎないように気をつける。幸村よりも若干深めにすればいいだろう。自分のほうが身分は低いし、かといってあまり深すぎる礼は卑屈に見えるだろうし……礼儀作法って難しい。高まる緊張を解す為にそんなことを考えつつ待つこと数分。いや、数秒だったかもしれない。
襖が開き、人の入ってくる気配がする。圧倒的な存在感。信玄その人が入室したのだと、声を聞かずとも姿を見ずとも判る。
「遠路、ご苦労であったな。面を上げよ」
信玄の声に、彰子はゆっくりと顔を上げたのであった。
用意された部屋に戻るなり、彰子は座り込むと脇息に凭れかかった。
信玄との対面は思っていたよりもずっと気の張るものだった。別に信玄が気難しいとか、怖いとか、そんなものではなかった。座の雰囲気そのものは至って和やかでフランクで、何処か家族的なものだった。
実はいつ武田名物『殴り愛』が始まるかとワクワクしていたのだが、残念なことに今回は至って穏やかな対面だった。
幸村や佐助から彰子のことを既にある程度聞いていたらしい信玄は
「辛い思いをしたのであろうな。この甲斐を第二の故郷と思うて、上田にて心安く過ごせば良い」
と彰子を労わってくれた。その上、
「そなたのような者を少しでも減らす為、1日も早く天下統一を成し遂げ、戦をなくさねばならぬ。そなたも力を貸してほしい」
とまで言った。佐助が何か告げているらしく、信玄は彰子をただの『町娘』とは思っていないらしい。確かに彰子は歴史を学んでいるし、その所為で散々幸村や佐助に『ぽっと出てきた身元不明の自分をあまり信用しないほうがいい』と何度も言ってきた。そういったある種の用心深さなどを聞いているのだろう。
尤も、最近では上田城でも『彰子殿は恐らく武家か武家に近しい公家の出』という噂があることも彰子は知っている。如何やら彰子の持つ知識やスキルがそう思わせているらしい。
武家も公家もピンからキリまであるわけで、一々噂を気にしても仕方ないから彰子としてはスルーしているのだが、幸村や佐助への態度からそう誤解を受けてしまうのは仕方のないことかもしれない。普通ならば城主や忍隊の長と言葉遣いこそ遜っているとはいえ、対等な立場で話すことなど出来ようもないのだ。ここは身分社会なのだから。
「わたくしがどれほどお役に立てるかは判りませんが、出来る限りのことはさせていただきます」
信玄の言葉に彰子はそう答えた。自分から積極的に何かの情報を与えて意見することはしないが、問われれば内容を吟味した上で答える用意はある。自分がいた世界とは別の世界なのだから、そのことで自分の世界の歴史が変わることはないし、この世界の未来が如何なっているのかは知りようがないから、自分の行動によってこの世界の歴史が変わるか如何かも判らない。恐らく彰子という異分子が入り込んだことによって歴史の流れは何かしら変わっている可能性もあるし、或いは自分がこの世界に迷い込んだことすらも歴史の流れに組み込まれているのかもしれない。
つまりは判らないことだらけだから、考えても仕方ないと彰子は結論付けたのだ。だから、積極的に自分から意見はしないが、求められれば応じることにしたのである。
半刻ほどの信玄との対面で、信玄の人としての大きさ、懐の深さを彰子は感じていた。『動かざること山の如し』というようなどっしりとした安定感。全てを包み込んでくれる大地や海のような包容力。まさに理想の『父』を体現したかのような人物だった。
いくら幸村の祐筆とはいえ、本来身分も何もない身元不明の女を側近くに置いて、警戒する素振りすら見せない。自分が気付いていないだけかもしれないと思いもしたが、彰子が信玄から感じたのは、労わりと慈愛だけだった。
戦によって故郷の村を焼かれ家族と家を失った──そう彰子の境遇は設定されているが、『何処』から来たのかも告げていない。一応、『東のほう』と佐助と口裏は合わせている。甲斐に接しているのは、西は織田、南は今川と北条、東が伊達で北は上杉だ。西や南では明らかな敵国である為に無用の詮索と警戒を招きかねないし、北の上杉はここ最近戦場にはなっていないから設定的に無理がある。東の伊達には北条がちょこちょこちょっかいをかけているらしいから、一番無難だろうというわけだ。──まさかこの設定が後に妙な説得力を発揮することになるとは、このときの彰子も佐助も思いもしなかった。
信玄の人柄は真朱たち彰子の超過保護な護衛にもすぐに判ったらしく、真朱も萌葱も撫子も信玄に甘えるようになった。たった半刻の間に懐くなど、この3匹にしては珍しいことで、彰子もかなり驚いた。幸村は慣れてもらうまでに撫子ですら10日以上かかったものだから、信玄の膝の上で丸くなってゴロゴロと喉を鳴らす撫子を見てしょんぼりしていたほどだ。まぁ、元々猫は騒々しいものが嫌いだし、構い倒されることを嫌う傾向にあるから、猫たちが幸村を敬遠したのは仕方のないことだ。
萌葱も相当信玄が好きになったらしく、肩に前足をかけ信玄の顔を嘗め回し、すっかり甘えている。また信玄がそれに動じることなく(仮にも肉食獣の虎に嘗め回されているのに)、『愛いヤツだ』とばかりに萌葱の頭をぐりぐりと撫で回すものだから、更に萌葱は喜んで戯れ付いていた。
唯一、真朱だけは信玄に頭を撫でられて『にゃー』と挨拶をしただけで彰子の許に戻った。とはいえ、元々真朱は人見知りが激しく、彰子の本当の家族にすら懐かなかったくらいだ。真朱が自ら抱っこされることを望むのは彰子だけだし、抱っこされることを許容するのは彰子の恋人の忍足の他は政宗のみ。頭を撫でられることを受け容れただけでも破格の好意を示したことになる。
「この後、夕刻には宴を催す。彰子も席に参るが良い。普段は女子が出ることはないゆえ、皆喜ぼう。ことに彰子の如く若く見目麗しい乙女であれば尚のことな」
彰子は立場上幸村の家臣であり、信玄にとっては陪臣に過ぎない。そんな身分の者がお館様の宴に出てもいいのだろうか、身分不相応ではないかと思いもしたが、陪臣の身で主君に『否』と言えるわけもない。フランクでアットホームなのが武田の家風なのだろうというのは漫画やアニメから何となく感じていたし、幸村の態度からも想像していたので、彰子は礼を述べて『諾』と応じた。
そうして、対面も終わり、彰子は真朱たちと共に与えられた部屋へと戻って漸く一息をついたのだ。
信玄との話は楽しかったし、信玄は予想通りとても『素敵なオジサマ』だった。だが、流石は『甲斐の虎』と異名を取り、上杉謙信・北条氏康と並んで戦国時代三英雄の一人に数えられるほどの人物だ。オーラが半端じゃない。存在感に圧倒された。失礼のないように、襤褸を出さないようにと気を張っていたこともあり、ずっと緊張し続けていたから、彰子はすっかり気疲れしてしまった。
「この上宴か……」
はぁ、と溜息が漏れる。どんな人が出るのだろう。やはり重臣クラスだろうなと彰子は憂鬱になる。こちらの世界の宴会の作法なども判らないし、それも不安だ。
生まれ育った世界では社会人経験もあり、会社での宴会もあったが、そんな席も実は苦手だった。お酒は嫌いではないし同僚との飲み会は好きだったが、上司が複数同席するような宴会は苦手だった。態々お酌に行かないといけないのも面倒だったし、どのタイミングで、かつ最上長と直属上司以外をどの順番で回るのかも厄介な問題だった。親しい上司にはゆっくり話せそうな人の少ないときに回り、それ以外は宴会の初めのうちに友人と二人でとっとと回ってしまって義務を早々に終了させていたくらいだ。特に扱いの面倒な上司は酔っ払う前の、かつ人が多くて挨拶だけで済む時間帯に済ませていた。
この世界の宴でもお酌をして回らないといけないのかな……いや、そもそも身分の低い者が自分よりも上の者に声をかけること自体が不敬とされていたのではなかっただろうか……などと疲れた頭はぐるぐると答えの出ない疑問を考え続けてしまう。頼りの佐助は細作ということもあって、宴席には連ならないらしい。
如何しよう如何しようと思っているうちに時間になってしまい、幸村と佐助が迎えに来てしまった。
「宴ではそれがしの隣の席に座り、話しかけてきた方のみと接すればよろしゅうござる。特に何かをする必要などございませぬ」
宴で自分は如何すればよいのかと尋ねた彰子に幸村はそう教えてくれ、佐助も隠れて近くに控えているから困ったことがあったら呼ぶようにと言ってくれた。それでかなり気楽になって、彰子は宴の開かれる広間へと向かったのである。
だが、そこでまさかの衝撃の出会いがあるとは、夢にも思っていなかった。
「そなたがかいのとらのもうしていたにょしょうですか。たしかにりんどうのようにすずやかなうるわしいおとめですね」