「光陰矢の如し……か」
夕餉も入浴も終え、後は寝るだけとなった自室で彰子は手帳を見ながら溜息混じりに呟いた。今日は8月20日のはず。携帯電話の日付もそうなっている。つまり、この世界に来て2ヶ月目に突入したことになる。因みにこちらの暦では7月25日だ。
それはさておき、コミケはとうに終わったはずなのに、未だに草紙神が現れる気配はない。本当に戻れるのだろうかと不安は日々増してくる。携帯電話やパソコンの充電が切れないという不思議現象は未だ続いているから、帰れるはずだと信じてはいるが、やはり不安になってくる。
昼間は幸村や佐助に心配をかけない為にも明るく振舞っているが、夜、周りにいるのが真朱たちだけになると虚勢を張る必要もなく、不安な本音が零れ落ちる。
いや、常に虚勢を張っているわけではない。幸村たちと過ごす時間は確かに楽しいもので、昼間は不安を忘れているといってもいい。幸村も徐々に打ち解けてくれて、一緒に佐助の目を掻い潜って城下に団子を食べに出かけたりなんてこともしている。当然帰ってきたら二人して佐助にお説教を食らったが、それもまた楽しいことだった。弟がいればこんな感じだろうなと幸村を見ていると微笑ましくなる。すっかり気分は姉だ。
だが、夜になり周りが静かになると、元の世界のことを思い出す。忍足は今如何しているのだろう、友人たちは……自分は一体如何いう扱いになっているのだろうと、色々なことを考えてしまう。そして、会いたい、戻りたいという気持ちが不安と共に胸を満たす。
「……ママ、きっと帰れますわよ」
溜息を漏らす彰子に真朱が体を摺り寄せてくる。彰子の不安を理解して慰めてくれているのだ。
「そうだよ、おかーさん。大丈夫だって。草紙神が絶対何とかしてくれるって」
横から撫子も言葉を添える。猫たちの優しさに彰子は笑みを零し、2匹の頭を撫でる。
「うん、そうだね。戻れるに決まってる」
諦めるにはまだ早い。まだ1ヶ月ではないか。
「草紙神がついてる私でもこんなに不安なんだから、政宗さんもきっと不安だっただろうね」
政宗もあの頃こんな気持ちだったのだろうか。いや、一介の高校生に過ぎない自分と違って公の立場もある人だったから、余計に焦燥りと不安は大きかっただろうと思う。草紙神が約1ヶ月という大体の目安を教えてくれた時点でそれを政宗に伝えておけば、きっと彼ももっと心穏やかに過ごせただろうに。自分の配慮が足りなかったと彰子は今更ながらに思った。
「でも、政宗はママの心遣いにとても感謝していましたわよ」
そんな彰子の心情を読み取ったのか、真朱は言う。
「そうそう。おかーさんと過ごす時間は『奥州筆頭』じゃなくて、ただの藤次郎政宗でいられて気楽だって言ってたしね」
「それにかーちゃんと歴史やら政治やらの話をするのも楽しそうだっただろ」
撫子と萌葱も口々に言う。確かに政宗は中々帰れないことを焦燥ってもいたが、それだけではないことも猫たちは知っている。帰りたいという思いと留まりたいという願いと、両方を政宗は持っていたのだ。
「うん。ただ、今の私ならもっと遣り様があったよなーって思っただけ。あの頃はあれがベストだと思ってたしね」
猫たちの気遣いにくすっと笑い、彰子は応える。因みに猫たちは彰子さえいれば何処の世界だろうが構わないと思っている。元の世界に未練はなく、彰子のいる場所こそが自分たちのいるところなのだ。なんせ、異世界トリップした彰子を追いかけて神様を脅して彰子の許に転生してきた猫たちなのだ。
「そういえば、ママ。もし、すぐに戻れたら、それはそれで結構拙いと思いますわよ」
急に真朱が深刻な声を出す。
「今日は8月20日ですわよね。今すぐこの瞬間に戻れたとして、9月まで残り10日あまりしかありませんわ」
その真朱の言葉の意味を理解した瞬間、サーっと彰子の顔が青くなる。今戻ったら、夏休みは残り11日しかない。
彰子が通う学校は名門私立ということもあって、勉強に関してはかなり自主性を重んじる。その為、問題集などの宿題は少ないのだが、レポートやら小論文やら、時間の掛かる『自分でテーマを決めて調べて考察して書き上げる』系の課題が多いのだ。とても10日では間に合わない。問題集ならば友人たちに泣きついて写させてもらうという最終手段もあるにはあるが、レポートなどは到底無理だ。
「……悠兄さんが来たら、トリップ直後の時間軸に戻してもらえるように交渉しよう。協力してね、真朱、萌葱、撫子」
「お任せください、ママ」
真朱はニッコリと笑う。その後ろで萌葱と撫子はシャキーンと爪を出す。
「まぁ、その時間軸に戻してもらえたら、かーちゃんの行方不明もなかったことになるし、助かるよな」
萌葱の言葉に帰ったら帰ったで色々と大変だろうなと溜息が漏れてしまう。幸いというか当然ながら肉親などあの世界には存在しないが、友人たちは心配しているに違いない。自分が失踪したと思われているのか、犯罪に巻き込まれたと思っているのか、状況は一切判らないだけに、如何説明してよいのかも現段階ではさっぱり不明だ。
「悠兄さん来たら、まずは打ち合わせだよね……。絶対時間軸戻してもらわないと」
そうすれば、大切な人たちに余計な心配をかけなくて済む。
「で、かーちゃん、そろそろ寝ようよ。明日も幸村のお守りだろ。確り寝ておかないと体力もたないぜ」
萌葱の言葉に乙女3人(?)は苦笑を漏らし、就寝することにしたのだった。
その日もいつもどおり日の出と共に起き、洗顔着替えを済ませると、彰子は萌葱と共に庭に出た。そこには朝の鍛錬の準備を整えた幸村がいる。
ガウ、と萌葱が一声鳴くと、準備運動をしていた幸村が振り返った。
「おお、彰子殿、萌葱殿、おはようございまする!!」
「おはようございます、幸村様」
朝っぱらから無駄に元気な幸村である。いつもこんなにフルパワーでよく疲れないな、と彰子は乾いた笑いを漏らす。
「では、萌葱殿、今日もお願い致す! いざ、参る!!」
実は萌葱は毎朝幸村の鍛錬に付き合っているのだ。最初は面倒臭がっていた萌葱だが、本猫も槍や刀など、こちらの武器への対処方法も学んでおいたほうがいいと思ったらしく、嫌々ながらというわけではなく積極的に付き合っている。幸村の槍はちょっと危険な猫じゃらしといった認識程度らしい。
幸村の攻撃をひらりひらりと飛んでかわし、猫パンチならぬ虎パンチで時折攻撃を繰り出す萌葱。勿論、萌葱にとっては『遊び』なので爪は出していない。
「あれまー、旦那ってば良いように萌葱に遊ばれてるねぇ」
「おはよ、佐助さん。久しぶりだね」
突然背後に現れた佐助に驚くことなく、彰子は応じる。佐助が突然現れるのはいつものことだし、突然背後にいるのは猫たちで慣れている。姿の見えない猫たちを探していると、いつの間にか背後について回っている……なんてことは猫を飼ったことのある人ならば経験のあることだろう。
「おはよー。大将の命令で色んなところに偵察に行ってたからねー。夕べ帰ってきたんだ」
「そっかー、お疲れさま」
「もー、大将も旦那も人遣い荒くって……」
はぁと溜息をつく佐助に彰子は苦笑を漏らす。そんなことを言いながら、配下にオーバーワークさせない為に自分が動き回っているのだから、結局佐助は人が好いのだろう。
「今度、俸禄関係の書類あったら、佐助さんの金額上乗せしておいてあげる」
公文書偽造になっちゃうかなと笑いながら、彰子はそんなことを言う。忍隊の長の給料がどれくらいなのかは知らないが、佐助の場合はそこに傅役と乳母の賃金を上乗せしてもいいのではないかと思う彰子だった。
「ありがと。でも、萌葱のおかげでちょっとは楽になったよ。鍛錬に付き合わなくてよくなったからね。旦那の体力底なしだからさー、虚弱体質の俺様にはしんどいのよ」
虚弱体質で細作が務まるのかよと思いながら彰子は突っ込まずに笑うだけに留める。
のんびりと佐助と話をしている間に、朝の鍛錬は終わったらしい。これからそれぞれ朝食を摂り、それから執務に掛かることになる。
戻ってきた萌葱に労いの声をかけ、ゴロゴロと甘える萌葱の頭を撫で回し、彰子は一旦萌葱や猫たちと共に部屋に戻る。真朱と撫子も実は一緒にいたのだ。普段は真朱も撫子も彰子の膝の上で観戦しているが、今日の撫子は佐助の頭の上に乗っていた。
部屋に戻ると、タイミングよく朝食の膳を運んできてくれた女中に礼を言い、下がっていったのを確認して猫たちとお喋りをしながら朝食を摂る。元の世界では朝はパンとコーヒー、ハムエッグといった食事が中心だったが、ここでは当然ながら和食。コーヒーが飲みたいなと思わぬでもないが、贅沢は言えない。
食事を終えると厨房まで膳を持って行き、そのまま幸村の執務室へと向かう。初めは彰子が膳を下げることを申し訳なさがっていた女中衆も、彰子がついでだからと言えばそれ以上は強く言わず、そのときに少しばかりお喋りを楽しむなんてことも最近では出来るようになった。
幸村の執務室の前で真朱たちと別れ、彰子は執務室へ入り、猫たちは部屋の前の庭に出ると木陰で昼寝(まだ午前中だが)を始める。
彰子が与えられた文机で仕事の準備をしていると、幸村がいつも以上の満面の笑みでやって来た。今日の朝食に好物でも出たのだろうかなんてことを彰子は考えたが、そうではなかった。
「彰子殿、明後日から躑躅ヶ崎館のお館様の許に参りますぞ!」
へー、躑躅ヶ崎館に行くのか。じゃあ、幸村が帰ってくるまでは仕事ないから暇だなぁ……なんて思った彰子だが、少しばかり幸村の言葉に引っかかった。『行って参ります』ではなく、『参りますぞ』は何となく一緒に行くというニュアンスが含まれている気がする。
そしてその答えはすぐに幸村の口から齎された。
「お館様も彰子殿とお会いするのを楽しみにしておられる由。何、お館様は女子には特に優しいお方、ご心配には及びませぬ」
はぁぁぁぁ? という感じである。
「……わたくしも参るのですか?」
てっきりお留守番だと思っていたのだが、如何やらそうではないらしい。やはりそういうニュアンスの言葉だったのだ。
「お館様が是非にも彰子殿、萌葱殿、真朱殿、撫子殿をお連れするようにと」
百歩譲って武田信玄が自分の存在を知っていたのはよしとしよう。一応幸村の祐筆だから知っていたとしても不思議ではない。更にもう一歩譲って萌葱を知っているのも納得は出来る。珍しい白虎だ。城下でも噂になっていたし、それが甲府まで届いていてもおかしくはない。だが、何故、(表向きは)何の変哲もない猫の真朱と撫子にまでご招待がかかるのだ。
「大将、彰子ちゃんにも萌葱にも、珍しい猫にも興味津々なんだよねー」
笑いを含んだ声で佐助が言う。犯人はてめぇだったのかとジト目で見つめる彰子の視線など何処吹く風という感じで、更に佐助は続ける。
「突然、上田からの書類の文字がきれいな女文字になったし、書類の提出も遅れなくなったからね」
これまで何かといえば執務を抜け出したり、あれこれ言い訳をして後回しにしたり、グダグダと進まなかった幸村のデスクワークは彰子が祐筆となったことで劇的に状況が改善された。元々幸村も真面目に執務をするほうではあったのだが、如何せん体を動かすことのほうが好きすぎて、ついついデスクワークは後回しにしてしまい、ついでに能率も効率も悪かったのだ。しかし、彰子が祐筆となり、彰子の仕事は幸村がちゃんと仕事をしないと如何にもならないことから、『旦那が仕事溜めると、苦労するのは祐筆の彰子ちゃんなんだけど』という佐助の一言で、幸村はサボることはしなくなったのだ。フェミニストで人の好い幸村は彰子に迷惑をかけないようにしなければ! と思ったわけである。
「そんなわけで、大将も彰子ちゃんに興味持っちゃって。俺様も大将の命令だから話さないわけにはいかなくてね」
だからついペラペラと自分の恩人であることから、上田城に来てから今までのことをほぼ丸々包み隠さず話した佐助なのである。ちゃんと、『仕事をもらえないのなら遊郭に身を売る』と幸村を脅したこととか、幸村と一緒に城を抜け出して佐助に大目玉を食らったことなども、多少の脚色を交えて話してある。
とはいえ、何でもかんでも話したわけでもない。流石に未来の異世界から来たと言っていることは彰子との約束もあるから話してはいない。尤も、これから先の状況によっては信玄にだけは話すこともあるだろうが。
「出発は明後日なんですね」
はぁ、と溜息を漏らしつつ彰子は確認をする。嫌だと言ってもどうしようもない。領主の命令ならば、甲斐に住む者である以上聞かないわけにはいかない。現在の彰子は幸村の祐筆なのだから、陪臣とはいえ一応武田家に仕えているようなものだ。
それに、正直にいえば、武田信玄には会ってみたい。武田信玄は戦国武将の中では上杉謙信に次いで好きな武将だ。BASARAでも声が玄田哲章氏ということもあって結構好きなほうでもある。渋い声ばんざーい。となれば、純粋に会えるのは嬉しい。
出来るだけキャラと関わりにならないように……と初めの頃は思っていたものの、こうして幸村や佐助とかなり深く関わってしまった。こうなれば毒を食らわば皿までだと腹を括り、無理に避けるのではなく会える人には会って楽しんでやろうと開き直ってしまったのである。
「然様。ところで彰子殿は馬には乗れるのでござろうか」
乗れないのであれば輿を用意するか、幸村の馬に同乗するかになると言われる。躑躅ヶ崎館までの交通手段というわけだ。
「そうですね……。多分、普通に軽く走らせる分には乗れると思います」
流石に馬術大会に出るほどの訓練はしていないが、広場や森を散策する程度のことは元の世界でもやったことがある。習わされたときにはそれを命じた跡部に対して『このセレブめ!』と思いもしたが、思いの外乗馬は気持ちよくて、今では長期休みになると跡部の別荘で馬に乗せてもらうこともしばしばだ。
「おお、それは良かった。では、早速馬を見に参りましょう」
は? と問い返す暇もなく、幸村はさっさと立ち上がり、執務室を出て行く。馬を見に行くって何? とばかりに佐助を見上げれば、佐助も苦笑している。
「厩にね、彰子ちゃんの乗馬を決めに行こうってこと。まぁ旦那がああなると人の話は聞いてないからね。さっさと行って馬を決めないと、いつまで経っても今日の仕事は始められないよ。行こうか」
なるほどと納得して、彰子も佐助と共に幸村の後を追ったのだった。