目覚めた翌日、未だ歩けない佐助は大人しく布団──大判のバスタオルを敷布、小判のバスタオルをタオルケット、Tシャツ数枚をフェイスタオルで包んだものを枕代わりにしたもの──に横になっていた。彰子は猫たちをお供に食糧調達に行っており、小屋の中には佐助一人だ。
足の状態は傷そのものは塞がったものの体重をかけると痛みで歩くことが出来ず、未だ立ち上がることもままならない。体重さえかけなければ何とかなりそうなのだが、体を支える杖になるものもなく、如何しようもないから大人しく寝ているしかない。一応、彰子に何か良さそうな木があれば持ってきて欲しいとは頼んだが、こればかりは運に任せるしかない。
佐助は小屋の中を見回す。昨日、自分が眠ったと思ったらしい彰子は何やら不思議なカラクリを扱っていた。一見すると漆塗りの箱に見えるそれは、蓋を開くと眩い光を発していた。それに向かって彰子は何かをしていて、時折カチカチと微かな音もしていた。彰子の背で隠れていたし、よく見えなかったのだが、これまで佐助が見たこともない道具だった。
その他にも行李と思われる箱も見たことのない素材で作られているし、荷物を入れているらしい袋などは見たこともない形をしている。彰子の着物も昨晩とは違うものになっているが、昨日の物と同じく佐助が見たことのない形状と生地で作られているようだった。
彰子の持ち物も不思議なものばかりだ。それに彰子自身も不思議な人物だった。自分に対しての害意がないことは既に充分理解している。立ち居振る舞いは粗野ではないし、どちらかというとそこらの奥女中よりも洗練された身のこなしだ。やはりそれなりの身分のある家の出なのかもしれない。けれど、歩くときにはギシギシと音を立てる。この小屋自体ガタが来ていて、普通に歩けば音がしてしまうのだろう。だが、細作やある程度の武将であれば足音一つ立てずに歩くことは出来る。
何よりも、彰子の持つ雰囲気がこの時代にそぐわない。戦国乱世のこの時代、物心つく頃には命の危険と隣り合わせであることは理解しているし、その分緊張感を持っている。どんな幼子であれ。なのに、彰子が持つ雰囲気はまるで戦など知らないかのようなのんびりとしたものだ。
この時代にあって戦を知らないなど、余程屋敷の奥深くで育てられたお姫様以外考えられない。武家であればいくら奥深く、外の事情を知らぬままに育てられたとしても、そこはやはり戦とは無縁ではいられないから、武家ではなく公家と考えたほうがいいだろう。
だが、彰子を公家の姫と思うにも無理がある。公家の姫がこんな何もない山中で自力で生活出来るはずがない。彰子は山で山菜を採り、川で魚を獲ってくる。屋敷の奥深くで育てられたお姫様にそんな生活能力はないだろう。
しかしそうすると、彰子の明らかに『戦』を知らない雰囲気の理由が判らなくなる。
見慣れぬ衣服と道具類、そして彰子の持つ雰囲気。
それらから佐助は『別世界の存在』じゃないのかと思い、自分の突拍子もない考えに苦笑する。月の世界や天の世界、仙の世界……そんなところから来たのではないかと。そう考えれば見慣れぬ道具をもっていることにも納得は出来るというものだ。人間の世界ではないのだから。
「でも、彰子ちゃんは天女とか仙女とか……じゃないよねぇ」
あんなに口が悪い天女だったら夢が壊れると、佐助は彰子が知ればぶん殴りそうなことを呟く。
一体彼女は何処から来た何者なのだろう? 純粋な好奇心と共にこの地を守る者の一人として冷徹な理性を以って考える。真実を話すとは限らないが、この疑問は彰子本人にぶつけるしかない。それに恐らく、彼女は嘘をつかないだろう。
そんなことを考えていると、如何やら彰子が戻ってきたらしく、小屋の外に気配がする。
「ただいまー」
小屋の戸を開けて入ってきた彰子の両手には籠いっぱいの山菜と薪がある。虎の萌葱が口に咥えているのは自分が依頼した杖になりそうな木だ。
「一番太くて丈夫そうなものを持ってきた。これで如何かな」
籠と薪を小屋の奥に置いて、萌葱から木を受け取った彰子はそれを佐助に渡す。佐助は受け取ると強度や太さを確認し、これなら充分と頷く。すると、萌葱が彰子の腕を突付くようにし、それに気付いた彰子は耳を萌葱の口の傍に寄せている。彰子が頷くと、萌葱は縄で取っ手をつけた桶を咥えて小屋から出て行く。昨晩から何度か似た光景を目にしている。猫や虎が彰子の体を突付き、彰子が顔を寄せる。まるで何かを話しているかのようだった。
「もしかして……彰子ちゃんってあの動物たちと話が出来るとか?」
「え……ああ、うん」
佐助の言葉に彰子はぎょっとする。もしかして小声で話していたとはいえ、真朱たちの声が聞こえたのだろうか? やっぱりこんなことなら猫語をマスターしておくんだったと彰子は半分パニックになりながら思った。
実は猫たちが人間の言葉をマスターした後、今度は彰子が猫の言葉を覚えようとしたのだ。しかし、『んにゃー』としか聞こえない鳴き声にも猫たちに言わせれば幾種類かのバリエーションがあり、その微妙な違いで『遊んで』『お腹空いた』『眠い』『触るな』『放っておいて』などの意味を使い分けるのだという。その微妙な差異が人間の喉では表現出来ないらしく、また違いも人間の耳──少なくとも彰子の耳──では聞き分けられず、結果猫語習得は出来なかったのだ。
「この子たちは生まれたときから一緒だから、なんとなく判るって感じかな。他の動物の言葉は判らないよ」
気付かれているのかいないのか、佐助の表情からは判らないから彰子はそう返す。すると佐助はそれで納得したようだ。
彰子はそれ以上追及されないようにと、そそくさと食事の支度に取り掛かる。尤も、鍋に水を入れて囲炉裏に掛け、その中に野草を千切って入れていくだけなのだが。
やがて萌葱が桶いっぱいに魚を捕まえて小屋に戻ってくる。彰子がご苦労さまと萌葱を労うように頭を撫でると、萌葱は嬉しそうに彰子の体に頭を擦り付けている。それからふと何かを思いついたかのように彰子の耳元に顔を寄せ、再び桶を咥えると今度は背中に撫子を乗せて小屋を出て行った。
それらを見ていた佐助は萌葱の頭の良さに感心する。いや、萌葱だけではなく真朱と撫子も彰子の言うことをよく聞くし、小さな体で彰子の手伝いをしている。皆、かなり動物にしては賢いようだ。
「佐助さん、今萌葱が佐助さんを拾った場所に行ってる。そこに落ちてたクナイ持って来るって」
彰子は魚を串に刺しながら言う。
「クナイ……?」
ああ、俺に傷を負わせたヤツのものかと佐助は納得するが、如何して態々それを萌葱は取りに行ったのだろうと新たな疑問が湧く。動けるようになったら取りに行こうと思っていたから手間が省けるのは助かるのだが。
「うん。クナイの形とか、残された毒の臭いとかから、相手のことが何か判るんじゃないかと思って。ほら、鏃なんかはその結び方で何処の軍とか誰の矢とか判るって言うし、もしかしたらクナイもそうなんじゃないかって話してたのよ」
確か何かの小説で鏃の結び方についてそんな記述があったような気がする。だとしたら細作の使う道具にもそれに似た使用者を示す何らかの特徴があるかもしれないと思ったのだ。佐助は昨夜正体不明の敵に襲われたのだと言っていたから、敵の得物であるそのクナイがあれば何か判るかもしれない。そう思って萌葱に取りに行ってもらうことを昨晩のうちに決めていたのだ。
「……彰子ちゃん、何でそんなこと知ってるの」
微かに佐助の声が低くなる。彰子が戦を知らないという佐助の印象は変わっていない。最早それは確信に近い。なのに何故そんなことを知っているのか……。
「えっ……。書物からの知識だけど……違ってる?」
げっ、ヤバイ。藪突付いちゃったー!? と内心焦りながら彰子は応える。言っている内容に嘘はない。小説の中に書いてあったことなのだから書物から得た知識だ。
「いや、間違ってない。ふーん、書物ね……」
何処か含みのある声で佐助は頷く。書物から知識を得ることが出来るのは武家や公家、ある程度の富裕層に限られる。佐助は得た情報から彰子の出自を想像するが、判らないことだらけだ。やはりここは率直に彰子に聞くのが一番いい。
「あのさ、彰子ちゃん。あんた、何者? 何処から来たのさ」
佐助の問いに、彰子の体は一瞬強張る。脳内では『キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!! 』な顔文字が踊りまくる。
(ついに来た……。トリップ定番な説明事項……)
「何者って……ごくごく普通の庶民ですが」
トリッパーだけど。
「そうは思えないから訊いてるんでしょ。確かに俺に対しての敵意も害意もないのは判るけどさ。不思議なものばっかり持ってるし」
やはり誤魔化しは効かないらしい。
「通りすがりの命の恩人。それでいいでしょ。佐助さんの足が良くなればそれでサヨナラ。もう会うこともないんだし」
果敢無い抵抗と思いつつ、それでも拒否ってみる。言っている内容は彰子にとっての本心だ。偶然関わってしまったが、佐助が出て行くまでの関係と割り切っている。何れは元の世界に戻るのだから、この世界の住人と必要以上に関わる気はない。
「俺、出て行くときは彰子ちゃんも連れて行くよ。こんな山の中に、虎と一緒とはいえ女の子一人で置いておけるわけないでしょ」
いや、別にそこで紳士にならなくていいから! と心の中で彰子は拒否。放っておいてくれていいです。寧ろ放っておいてください。
「それに彰子ちゃんが話してくれないんなら、俺様勝手に判断するよ。持ってる道具は不思議なものばっかりだし、月の世界から来た天女様とか」
「天女って……柄じゃねーし!!」
やめてくれよーと思う。天女なんていわれたらきっと元の世界の友人たちはひきつけを起こすくらい笑いまくるだろう。
『ほれ、話せ話せ』と佐助はじっと見つめてくる。その視線を感じて彰子は溜息をつく。諦めと降参だ。
「今から話すことを信じる信じないは佐助さんの勝手。でも私は一切の嘘は言わないからね」
言わずにおくことはあるけどね、と思いつつ彰子は話し始める。部屋に入ろうとしたら、何故か山の中にいたこと、いるはずのない猫たちも一緒にいたこと。そして──自分がいたのはこの時代よりも400年ほど先の世界であること。
「先の世……?」
「そう。戦も何もない、平和な時代。公家も武士も細作も何もいなくて、身分の違いのない時代よ」
佐助は信じられない……といった表情で暫く思案していたが、やがて納得したように顔を上げた。
「確かに彰子ちゃんが嘘を言ってるようには見えないし、信じるよ。400年も先の世だったら、彰子ちゃんが持ってる不思議な道具にも納得がいくし」
俄かには信じがたい内容だが、それならば佐助の抱いた疑問全てに納得がいく。
「でもそうなると、余計に彰子ちゃんをここに残してはいけないな。危険だし」
彰子にとっても、自分たちにとっても。もし彰子の存在が何処か余所の国に知れてしまったら、それは相当拙いことになる。400年先の世界から来たということは、これから先のことを知っているということだ。誰が天下を取り、如何なっていくのか。どんな戦いがあり、誰が勝つのか。それが判るのだから。彰子を手に入れることは神の如き予言者を得たのと同意になる。
「ああ……私の知識を利用する人が出てくるかもしれないってことね」
気のいい、軽いお兄さんから真田忍隊の隊長の顔へと変わった佐助を見て、彼が何を考えたのかを彰子は察する。確かに彼がそう心配するのは尤もだろう。自分の存在は彼にとって──彼が仕える武田にとって有利にも不利にもなる。
「でも、その心配は要らない。私はこの時代から続く未来から来たわけじゃないから。ここは私がいた世界の過去じゃないもの」
再び彰子の口から発せられたとんでもない発言に佐助は目を丸くする。
「それって如何いう……」
「私の時代には普通にある考え方なんだけど、並行世界っていうのがあるとされてるの。世界は一つじゃなくて、幾つもある。似ている世界もあれば、全く違う世界もある。で、ここは私がいた世界と似てはいるけど、異なる世界なの」
並行世界の説明は面倒臭いので、短く纏めて終了。政宗のときと同じく、彰子は相変わらず大雑把な説明をする。
「如何してそう断言出来るのさ」
「うん。私の世界の過去なら、貴方は実在しないから」
キッパリと彰子は告げる。自分の世界の『猿飛佐助』は飽くまでも架空の人物とされている。だが、目の前には生きている猿飛佐助がいる。佐助が詐称しているのでなければ、生きた猿飛佐助がいるこの世界は、彰子がいた世界の過去ではない。そう彰子は説明する。
「だから、異なる世界ってことになるし、そうなると私の知ってる歴史は役に立たないから心配無用」
彰子は説明を終えるが、佐助は別のところでショックを受けている。無理もないが。
「俺様が……架空の存在」
「それは私の世界での話だって。ここの佐助さんは私の目の前で生きてるじゃない。それとも私の世界では猿飛佐助ってのは絶世の美女ってことになってるとでも言って欲しかった? まぁ、確かにうちの世界じゃ、上杉謙信公が実は女だったなんてとんでもない俗説もあるくらいだけどさ」
一人暗くなっている佐助にちょっとばかりうんざりしつつ彰子は言う。気持ちは判らなくもないが、そこまで落ち込んでいられては鬱陶しい、もとい話が進まない。
「……確かにあの軍神は性別不明だよな」
お、謙信公に食いついた。ならばここから話を進められると彰子はホッとする。
「謙信公のこと知ってるの?」
「うちの大将の好敵手だよ」
「謙信公の好敵手ってことは、武田信玄公?」
「よく知ってるね」
「じゃあ、ますますここは私がいた世界じゃない。貴方が猿飛佐助ってことは、主は真田幸村でしょ? でも、私の世界だと、武田信玄公に仕えた真田氏は真田幸隆であって、真田幸村の祖父。完全に世代が違ってるから仕えられるわけがないもの」
うわー、大将に仕えてないなんて旦那が知ったら泣いちゃうよ……いや、待て、仕えてないならあの暑苦しい『殴り愛』は存在しないのか。それは羨ましいなぁ……などと漸く若干浮上した頭で佐助は考える。
ともあれ、彰子は本当に嘘は言っていないらしい。ならば彰子が利用されることはないだろう。しかし、やはりこんな山の中に彰子一人を残しておくことは出来ない。戦国乱世の山の中に性格はともあれ可憐な(性格からはそう言い難いが)少女を一人で置いておくなど出来ないことだ。
もう一度、自分と共に山を下りるよう説得しかけた佐助を止めたのは、戸を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた萌葱(と背中の撫子)だった。