山姥というには若いけれど

「警戒するのも結構ですけどね。毒とか入ってないのは、私が食べたのを見てたら判ったでしょう。体力落ちてるんだから、食事しなきゃ死ぬよ。死にたいなら勝手にすればいいけどさ、3日間寝ないで看病した私の労力を返してよね」

 怒ったような声でそう言う、目の前の女を佐助は観察するように見つめた。

 目が覚めたらこの山小屋にいた。目の前の女の話によれば、自分は3日間眠っていたのだという。しかも今朝方までは高熱を発していたらしく、それを看病してくれていたらしい。確かに体の怠さからそれらのことは佐助自身にも理解出来た。

 信玄の命により佐助は偵察に出ていた。このところ頻繁に奥州への偵察を命じられる。だが、それは奥州を攻略する為ではないようだと佐助は感じている。如何やら信玄は越後と同じように伊達とも同盟を結び、織田や豊臣に備える心算らしい。まだはっきりと信玄がそれを口に出しているわけではないが、自分に命じられる内容から恐らくそうなのだろうと佐助は考えている。

 今回もそんな信玄の命を受けて奥州へ偵察に赴き、その帰りに何処かの細作に襲われたのだ。伊達の黒脛巾ではなかったと思うが、はっきりしない。ただ、佐助が探った範囲内では、如何やら奥州も甲斐との同盟を視野に入れているらしく、甲斐に偵察の為の細作を放つことはあっても、佐助を襲ったりはしないはずだ。襲われたときには甲斐に入っていたことを考えると、甲斐を窺っている今川や徳川、或いは北条かもしれない。

 一応、佐助は腕利きの細作である。そのことはそれぞれの大名家に仕える細作たちの間でもそれなりに知られているから、もし北条が甲斐に忍び込むのだとしたら下手な者は送って来ない。佐助を上回る腕を持つ伝説の細作・風魔小太郎を送り込んでくるだろう。そして風魔小太郎が相手だったとしたら、自分が今こうして生きているはずはない。

 とすれば、やはり今川か徳川あたりが怪しいかもしれない。しかし、判断材料はない。襲ってきた細作は身元が判るような物は何も持っていなかったし、死に際にしても口を割らなかった。基本的に細作はそういうものだから、仕方ないといえば仕方ないかもしれない。

 だが、その後が拙かった。絶命する間際、相手の細作は持っていたクナイを佐助の大腿に突き立てた。最早逃げることは叶わぬまでも、自分が潜入していたと報告されるのを少しでも遅らせようとしたのだろう。深々と突き立てられたクナイは肉を裂き、筋を傷つけたのかもしれない。歩くことすら佐助は出来なくなった。

 更に悪いことに、どうやらクナイにには毒が塗り込められていたらしく、足から徐々に力が抜け、全身が痺れていくのを感じた。

 出血を抑える為に苦無を抜かずにおいたのが拙かったらしい。これ以上毒を体に入れぬようにと佐助はクナイを抜き取り、懐から常備薬を取り出した。細作特製の解毒剤の丸薬を飲み込む。知る限りの毒には対応しているものではあるが、自分に使われた毒が未知の物であれば効果はない。

(やばいな……。旦那に怒られちまう……)

 そう思ったところで自分の意識は途切れた。全身に回った毒とクナイを抜いた所為で大量の出血をした為だった。

 そして、目が覚めたらこの状況だった。

「……食うよ。あんたは命の恩人だしな」

 未だ怒った表情の女に佐助はそう告げると、お椀を取った。3日間何も食べていないのであれば、急激に掻き込んで食べるのは胃の負担になる。場合によってはそれは死に繋がるから、佐助は少しずつ確りと咀嚼して食べた。

「食べ終わったら、また眠ったほうがいいわ。熱は下がったけど、その分体力を消耗してるはずだしね」

 佐助が食事を始めたのを見て、女はホッとしているようだった。芝居などではなく、心から佐助を案じてくれていたらしい。だからといって佐助の警戒が簡単に解けるわけもないのだが。

 ゆっくり時間をかけて食事を摂りながら、佐助は小屋の中を窺う。何の変哲もない、至って普通の山小屋だ。元は猟師たちが使っていたものが長期間放置されていたらしく、あちらこちらが傷んでいる。

 小屋自体はごく普通の小屋なのだが、そこにいる者が普通ではない。まず、普通の山小屋に白虎はいないだろう。この山には虎だっていなかったはずだ。そういえば城下で山に虎が出るという噂がここ数日流れていて、興味を持った主が虎狩りに行きたそうにうずうずしていたなと思い出す。最近、落ち武者崩れの盗賊が近隣の村を襲うことが頻発し、その対応と捜索に追われている主にそんな時間はなく、残念そうに『それがしが盗賊退治を終えるまで、山にいてくだされ、白虎殿ー!!』と山に向かって叫んでいた。

 そして、自分を助けた女。顔立ちと線の細さと髪の長さ、声から女と判断したが、着ている奇妙な着物の所為で体型が隠されていて確実とはいえない。世の中には女と見紛う男もいるにはいるのだから。しかし、本当に着ている着物は奇妙なものだ。背には異国語で何か書かれているが、目の前の女が異国人というわけでもない。

 異国語といえば、隣国の隻眼の俺様を思い出すが、関係者なのだろうか? だが、あの国でもこの女の着物は見たことがないし、第一、異国語を操るのは領主だけで、その家臣たちはなんとなく雰囲気で察しているに過ぎない。

「あんた……名前、なんていうの」

 これも情報収集だと、佐助は問いを発する。すると女は驚いたように佐助を見た。何故名前を尋ねただけでそんな表情をされるのか、佐助には判らなかった。

「人に名前を尋ねるなら、自分から名乗るのが礼儀なんじゃないの?」

 女はそう問い返してくる。尤もといえば尤もな言葉に佐助は一瞬言葉に詰まる。いや、別の本名を名乗る必要はない。佐助が一瞬のうちにそう判断し、いつものように偽名を名乗ろうとしたところで、再び女が口を開いた。

「まぁ、細作しのびがあっさり名乗るわけないよね。偽名使われても嫌だし、言いたくなったら言って。で、私は長岡彰子。判断に困ってるみたいだから一応付け加えると、女だから」

「……なんで、俺を細作だと思ったんだ?」

 取り敢えず『細作と判った』とは訊かない。そう訊けば細作であると認めたことになる。

「その服装と持ち物。それに警戒心の強さ。武将かなとも思ったけど……なんか違う気がしたから、細作かなって」

 3日間意識がなかったのだから、持ち物を勝手に見られていたのも仕方ない。仕方がないとはいえ、場合によっては甚だ拙い。この山中にいるのならば甲斐──正確には信濃──の民だろうが、人里から離れて暮らしていることを考えれば、余所者ということも有り得る。余所者だったら……間者の類ならばここで始末しておいたほうがいいだろう。

 気付かれぬように佐助は己の懐に手を忍ばせる。そこにはクナイがある。鋼の感触に安堵し、そこで佐助はハタと気付く。何故、自分の武器をそのままにしているのかと。

 敵であれば自分から得物を取り上げておくだろう。細作であることに気付いているのならば尚のこと。しかし、足の手当てが為されている以外は、自分の体──持ち物に変化はない。いや、敵ならば自分を細作だと気付いたことなど態々告げないだろうし、そもそも助けたりしないはずだ。

(もしかして……本当になんでもない一般人?)

 そう思った佐助は試しに殺気を放ってみる。武将や細作であれば、何かしらか反応する。表面上は平静であっても、筋の一部なりが動く。──が、女は全くの無反応。殺気を向けられたことに気付いていないらしい。

(これが芝居だとしたら、相当な手練だよな。だとすれば、俺様が今更ジタバタしても仕方ないか)

 十中八九、何の害もない一般人だと佐助は判断する。いや、小屋の中にある道具や彰子の服装を見れば『一般人』というのは当てはまらないかもしれないが、南蛮貿易の商人とかカラクリ師とか、そういった類かもしれない。苗字を持っていたからそれなりに裕福な家の出かもしれない。長岡という姓を記憶と照らし合わせてみても、知る限りの武将は引っかかってこないから、商家とか。ともかく、佐助に害意がないのは明らかなようだ。

「悪かったね。何処かの敵さんに襲われたもんで警戒してた。彰子ちゃんだっけ。助けてくれてありがとう」

 取り敢えず敵ではないとすれば、友好的に接するに限る。笑顔や柔らかい声は相手の警戒心も解く。──尤も彰子は少しも自分を警戒している様子はないのだが。それって年頃の女の子として如何よ、とお節介な感想を佐助は抱く。見たところ、年齢は己の主である幸村と同じか少し上程度。山の中に年頃の女と一応男が一緒にいることへの警戒はないのかと。まぁ、佐助は足の怪我もあって殆ど動けないから警戒していないのかもしれないが。寧ろ傍にいる虎と猫──見慣れない姿をしているが、泣き声からして猫だろう──のほうが余程自分を警戒している。

「どういたしまして。流石に怪我した人連れて来られたら、放置も出来ないもの。そこまで私も非道じゃないし」

 彰子はそう言って笑う。

「貴方が持ってる薬、見せてもらったけど、何がなにやらさっぱり判らなかったから、飲ませてない。あと、武器とかそういうのも触ってないから」

 頭の回転の速い女だなと佐助は感心する。自分が警戒を解いたことを理解した上で、更に情報を与えてくる。害意は一切ないのだと。

「薬の中に造血作用とか体力回復作用のあるものがあれば、飲んでおいたほうがいいと思うわ。どれくらい出血したのか判らないけど、結構酷かったし」

 佐助が食べ終わった食器を片付けながら、彰子は言う。あっさりと自分に背中を向けるあたり、かなり無防備だ。佐助の警戒心はどんどん薄れていく。

「えーと……名前ないと不便だから『迷彩透波すっぱ』って呼んでいい?」

「……やめてくんない? 佐助だよ。猿飛佐助」

 見た目そのままの呼び名にげんなりして、佐助は名を教える。

「あら、名前教えてくれる程度には危険がないと判断してくれたんだ」

 クスっと彰子は笑う。

「命の恩人だしね。それに殺気向けても無反応だったし」

 虎と猫は反応していて、虎などは佐助が指1本でも動かそうものならその瞬間に襲い掛かろうと構えていたのだが。

「殺気……ああ、だから、萌葱たちが警戒してたんだ」

 のほほん、という言葉がぴったりな口調で言う彰子に佐助は脱力する。芝居でもなんでもなく、本当に気付いていなかったのだ。と同時に新たな疑問も沸きあがる。

 仮令商人であろうともカラクリ師であろうとも、今の世、子供ですらある程度の殺気には何らかの反応をする。この戦乱の世を生きる者たちは武士ではなくとも、庶民であれ、常に命の危険と隣り合わせだ。いつ何処から攻められるか判らない。それを民は理屈ではなく肌で感じている。

 なのに、この彰子は如何だ。盗賊も横行し、他国の間者が忍び込むような山中にいて、全く命の危険性を感じていないようだ。虎がいるからというわけでもなさそうで、そもそも『命の危険性』などというものがあること自体知らないとすら思える。

「彰子ちゃん……殺気放った俺様が言うことじゃないけどさ、もう少し危機感持ったほうがいいよ」

 あまりにもお気楽な彰子の態度についつい余計なお節介を焼いてしまう。こんな女の子を山の中に置いておいて大丈夫なのか。

「あー……佐助さんは動けないから心配いらないと思って。それに何かあっても萌葱がいるし」

 一応用心して、猫たちが見回りをし、人の気配があるときにはじっと小屋の中に身を潜めているのだと彰子は告げる。全く警戒していないわけではなく、それなりに考えてはいるらしい。だとすれば、彰子が今、警戒心が薄いのは佐助に危険がないと判断しているのだろうか。

「ま、ともかく、私のことはいいから、佐助さんはもう少し休んだほうがいいよ。まだ体力戻ってないんだし」

 彰子はこれで話は終わりとばかりに佐助にそう告げる。佐助としては先程まで寝ていたこともあり睡魔を感じてはいなかったが、確かに体力を取り戻すのが先決と大人しく彰子の言に従うことにした。

(戻ったら旦那、五月蝿いだろうなぁ)

 それを想像すると少々げんなりする。武田軍の気質なのか、普通は使い捨てで人間扱いされない細作も、幸村をはじめ武将たちは一人の人間として、武将として扱う。特に幸村は自分を己の傅役もりやくとでも思っているのか、他の細作よりも信用してくれて重用してくれている。それは有り難いのだが、気安すぎて偶に自分は部下ではなく母親と思われていないかと不安になったりもする。

 ともかく、本来であれば3日前には城に戻り幸村と信玄に報告を済ませていたはず。それが未だに戻ってこないとなれば、幸村は相当気を揉んでいることだろう。別に佐助の細作としての技量に不安を抱き心配しているわけではない。佐助の細作としての腕は高く評価してくれている。だからこそ、帰還が遅れると幸村は過剰に心配するのだ。手練の佐助が帰還が遅れるほど苦戦している相手がいる、帰還が遅れるほど困難な状況にいると判断して。

(体力が半端で戻ると……旦那のあの大声で残りの体力全部削られるな。ここは彰子ちゃんの好意に甘えて確り休養しとこ)

 さしあたって緊急を要する報告はない。ここのところ過剰労働を課せられていたに等しいから、この際ゆっくり休んでしまおう。

 佐助はそう決めると、眠りに就いたのであった。