戦国キャンプ村

 少なくともここが現代日本ではないという嬉しくない事実が判明し、彰子たちは一旦山小屋に戻ることにした。

 山から見た景色はどう見ても近世日本。明治時代よりも前になりそうだ。否、山中の田舎だったら、戦前までなら可能性としては有り得るかも知れないが、どちらにしろ、彰子がいた時代ではないことは確実だ。やはり建物の感じからして、恐らくここは江戸時代かそれ以前の日本と考えたほうがかなり妥当だろう。

 しかし、だとすれば、彰子たちがここの住人たちと接するのは拙いかもしれない。危険かもしれない。

「ここは……大人しくこの小屋で還れる日を待ったほうがいいかもしれないね」

 平和になっている江戸時代ならばまだしも、戦国時代だったら……そう思うと怖くなる。タイムスリップにしろ異世界トリップにしろ、これまでの経験からすれば、暫く時が経てば元の世界に戻れるはずだ。

「そうですわね。タイムスリップにしても異世界トリップにしても、元の世界からわたくしたちが消えているのですもの。草紙神が気付いて連れ戻してくれるはずですわ」

 真朱の言葉に少し考えてから彰子は頷く。

 自分を生まれ育った世界から『テニスの王子様』の世界へとトリップさせた神──草紙神。自分の存在はその神の管理下にあるのだから、自分が存在すべき時空軸にいなければ必ず気付くだろう。それにこのトリップ──タイムスリップか異世界トリップかはまだ不明だが──には少なからずこの神が関わっているのではないかと彰子は思っている。

 根拠は猫たちも来ていることだ。自分だけではなく、自宅──彰子と全く別の場所──にいた猫たちが同じ場所に来ていたのだ。しかも持っていなかったはずの猫用携帯電話を首にかけ、萌葱に至っては押入れに仕舞いこんでいた浴衣を風呂敷包みして背負っていた。明らかにおかしい。何らかの意図が働いていると考えるべきだろう。

「悠兄さんが迎えに来てくれるまではここで暮らすしかないわね。──じゃあ、まずは生活準備しようか。薪集めからだね」

 彰子は猫たちを見てそう頷き合うと、薪となる枯れ枝を集める為に森に入った。今はまだ陽も高いから気温は暑いくらいだが、日が沈めば当然気温も下がる。山の夜は侮れないし、明かり取りの為にも火は必要だ。幸い合宿最終夜に花火をする心算で、チャッカマンも用意しておいたから、火を熾す苦労はなくて済む。

 迷わないように、と森に入る前に大きな石を積み上げ、その上に箒を逆さまに立てておく。これを目印にして、これが見える範囲で行動しようというわけである。

 小1時間ほど、何往復かして両手一抱えの枯れ枝を3束分ほど集めることが出来た。これでどの程度もつのかは判らないが、小屋の中には幾許かの薪もあったから、少なくとも今夜一晩は何とかなるだろう。

 枯れ枝集めと同時に野草や茸、木の実も採取し、これは後からパソコンを起動して食べられるかを確認しよう。木の実は鳥が食べた跡があったから多分大丈夫だろうが。

 一応の食糧はあるにはあるが、ここの滞在がどれだけの期間になるか判らないから、大切に少しずつ食べていかなくてはいけない。だとすれば自力で食糧をゲット出来るようにしなければ。

「そろそろ戻ろうか」

 そう猫たちに声をかけようとしたとき、撫子が慌てて走り寄って来た。

「おかーさん、何か来る! 多分人間!!」

 小屋とは反対側の森の先──彰子たちがこの世界に来たときにいた道のようなもの──を示しながら撫子は言う。

 耳を澄ませば確かに何かの物音がする、ような気がする。

「人と……何か動物の気配がしますわね」

 気配は段々近づいてきている。小屋に戻っている暇はなさそうだと判断し、彰子は木の陰に身を潜める。森の中は暗いから、外からは気付かれにくいだろう。

 息を潜めること数分。目の前を10人ほどの集団が通り過ぎて行った。用心の為に5分ほどそのまま動かず、気配が完全に消えてから彰子は猫たちと小屋に戻った。

 心臓がバクバクいっている。遭遇したものに対する恐怖ではない。見つかることを恐れていたからでもない。否、確かに目にした集団は怖かったし、見つかることも恐ろしかった。だが、それ以上に目にしたものそのものが信じたくないものだった。

「映画の撮影とかじゃないよな……」

「だね……。カメラとかなかったし」

 萌葱と撫子も信じたくないのだろう、悪足掻きをするように呟いている。

 真朱は顔色が悪くなった彰子を案ずるように、体を摺り寄せ主の様子を窺っている。

「やっぱり……戦国時代だね」

 旗指物はなかったから何処の兵かは判らないが、武装は統一されていた。馬は荷を運ぶ1頭しかいなかったし、鎧の簡素さからいっても恐らく足軽か何かではないかと思われる。漏れ聞こえた会話から、戦に勝ち幾らかの報酬を得て故郷の村に帰っているところだと察せられた。

 この目で見、この耳で聞いてしまった以上、受け容れるしかない。ここは戦国時代なのだと。

 江戸時代ならば、いざとなれば人里に下りるのもありかと思っていた彰子だが、戦国時代ともなればそうもいかない。人里に行くことは戦乱に近づくことだ。おまけに不審者と思われることは間違いないから、間者と疑われる危険性もある。

「草紙神が迎えに来てくれるまで、山の中で生活することになりそうですわね。1日も早く迎えに来てくれるとよいのですけれど……」

 彰子の考えを見抜いた真朱がそう呟く。

「うーん、1週間はかかるかもね」

 草紙神は二次創作作家の守護神である。ゆえに年に2回、特に滅茶苦茶忙しい時期がある。そう、コミケ前だ。夏の場合だと7月中は滅茶苦茶忙しいらしい。彰子も元々はこの神の管理下にいた二次創作作家だが、ネット発表オンリーの所謂オン専だから、今一つその忙しさは判らない。しかし、毎年この時期に合宿があり、猫の世話を草紙神がしてくれている為、猫たちは散々愚痴を聞かされているらしい。

「ああ、そうでしたわね」

 何処か遠い目をして、真朱は頷く。

「じゃあ、まず、1週間……ううん、10日を目安にサバイバル生活を始めますか」

 気持ちを切り替えるように彰子は明るく言い、猫たちを見回す。──が、その視線が萌葱にきたところで固まった。

「……萌葱……あんた、体が光ってる……」

 何故か、萌葱の体だけが淡い光を発している。真朱も撫子も驚いたように萌葱を見る。

「俺……俺が、かーちゃんとねーちゃんと撫子を守る!!」

 そう、萌葱が力強く宣言した瞬間、萌葱から発する光は一層強くなった。そして一瞬の後、その光は消え、そこに萌葱の姿はなかった。

「……えっと……萌葱……?」

 萌葱がいたはずの場所には一頭の白虎がいた。

「あれ……?」

 虎の口から出てくる声も間違いなく萌葱のものだ。

「うわっ。パパ、変身してる! すごーい、如何やったの!?」

 物怖じしないにも程があると評される撫子は、目の前で起きた不可思議現象もなんのその、父の変身に興奮している。

「如何……って……。ここが戦国時代なら、色々危ないだろうな、俺は男だし、俺が皆を守らなきゃって思って……力欲しい! って思ったらこうなった」

 能天気な娘よりは少々戸惑った様子で萌葱は呆然と呟く。

「流石、わたくしの夫です、萌葱。その心意気褒めてさし上げます」

 一瞬呆けていた真朱も立ち直ったらしく、虎となった夫──普段は決して認めないが──を見上げる。

「強く願ったら変身出来るんだー。じゃあ、私は偵察出来るように鳥になるー! 鷹がいい!!」

 撫子までがそんなことを言い、うーんうーんと唸り始める。

「あ、いや、ならなくていいから、撫子! ストップ!! 猫のままでいい!!」

 慌てて彰子は止める。トリップしただけでも充分パニックなのに、愛猫たちまでこんなことになって半泣き状態だ。

「えー……ダメ?」

「ならなくていい! 萌葱も戻って!!」

 彰子の半泣きの声に渋々撫子は念じるのを止める。萌葱も元の姿に戻ろうと念じ始めたのだが……

「戻れない……」

 5分念じ続けても萌葱は虎のままだった。

「まぁ、確かに危険な時代ではありますし、萌葱はこのままでも良いのではありませんか、ママ。草紙神が来れば元に戻してくれますわよ」

「そう願いたいわ」

 でなければ、萌葱を飼うのが困難になる。虎は猛獣だから色々手続きが必要になるだろうし。






 そんなわけで、彰子と猫2匹虎1頭の戦国キャンプ生活は始まった。

 日の出と共に起き、朝はクッキー2枚とカン○飴で糖分を補給する。昼の間に木の実と食べられる茸、野草を集める。萌葱が川に入ってはまるで熊のように魚を川岸に跳ね上げてくれるので、毎晩焼き魚も食べられる。因みに如何やら萌葱は狩りをして野鳥や野兎を食べているらしい。彰子がスプラッタは苦手なことを知っているので、彰子の前では食べないのだが。元々猫は雑食で肉も食べるから、真朱や撫子も萌葱が獲ってきた物を食べているらしく、持ってきた食糧はほぼ彰子専用と化している。

 日が完全に暮れる前に川で水浴びをして、夕食を摂り、1日の日記をパソコンでつける。

 ここでも不可思議現象は起きており、何故かパソコンのバッテリーが切れないでいる。既に6時間以上起動しているのだが、まだ予備のバッテリーを使わずに済んでいる。いや、それどころか、一向に充電が切れる気配もない。

 それもあって、彰子たちは少しばかり精神的な余裕を持つことが出来ていた。やはりこのトリップには何らかの意図が働いているのだと確信したからだ。

 とはいえ、既にこの地に来て1週間が経過している。未だに草紙神からのコンタクトはない。まだ忙しさに感けて気付いていないのか。否、あの日から草紙神は猫の世話の為に彰子の部屋に来ることになっていたのだから、気付いていないはずはない。

 だとすれば、自分たちが何処にいるのか探し出せていないのだろうか。或いはコミケが終わるまで完全に後回しにされているのかもしれない。コミケ関係のほうが草紙神の本来の仕事なのだし。

「元の世界でも同じだけの時間が過ぎているとしたら、大騒ぎよね」

 川で洗濯しながら、彰子は呟く。合宿所に到着して部屋に荷物を置きに行って、そのまま行方不明なのだ。本来ならとっくに合宿は終わり、あと2日もすれば最後の全国大会が始まる。せめて草紙神があちらとこちらの時間の流れを切り離しておいてくれればいいのだが。

 そうでなければ、きっと皆大騒ぎしている。部長の跡部の実家は財界の大物だし、仲間の中には父親が警察庁幹部なんて者もいる。しかも揃って心配性なのが友人たちだ。なんだか大事になっていそうな気がする。そうなっていないにしても、最後の全国大会を前に無用の心痛を与えてしまっているだろう。

 彰子としてもただ草紙神が現れるのを待っているだけではなかった。毎日トリップしてきた時間にあの場所に立ってみている。もしかしたら還れるのではないかと期待して。毎晩眠りに就く前にも草紙神に呼びかけ、期待して眠りに就く。目が覚めれば自分の部屋なのではないかと。相変わらず圏外になっている携帯電話から草紙神の番号へも発信している。けれど、そのどれも、全てが徒労に終わっている。毎日何かしら期待し、それは悉く裏切られていた。

 もしかしたら、還れないのかもしれない。

 そんな不安が心をよぎる。

 だから──パソコンのバッテリーが切れないことは彰子にとって、唯一といってもいい、心の拠り所となっていた。

 いつまでも切れないパソコンのバッテリー。それに彰子の携帯電話も猫たちの携帯電話も充電が切れない。普通に考えて有り得ないことだ。きっと元の世界との繋がりが維持されているから、そうなっているのだ。だから自分たちは必ず還れるのだ。そう思いたい。

 けれど、そう思う一方で、還れないかもしれないという不安も強くなっている。

 押入れに仕舞いこんでいた政宗の浴衣と共に、もう一つ、持ってきていなかったはずのものが手元にあった。政宗から贈られたラピスラズリのペンダント。自宅のアクセサリーケースに仕舞っておいたはずのそれが、自分の首にかかっていた。

 そういった『有り得ないこと』──この際、トリップしたという最大の『有り得ないこと』は考えないことにして──を考え合わせると、やはりこれには何らかの意図が働いているのだと思う。

 そして、確証はないながら、彰子はこれが異世界トリップであることを予測している。浴衣とペンダント──この二つが示すものは政宗だろう。だとすれば、ここは政宗がいる世界なのではないだろうか。

 政宗の世界に意図的に異世界トリップさせられている──そんなふうに彰子は感じている。それが誰の意図かは判らないが、そうなると還れないのではないかと不安が増す。

 還れるのか、還れないのか……それは今の彰子には判らない。けれど諦める心算はない。

 それと同時に、ここが政宗のいる世界なのだとしたら、余計に人との接触には注意を払わなければならない。このトリップに何らかの理由があるとすれば、それは恐らく政宗に関わることだろう。それしか考えられない。ならば、下手に政宗と敵対する陣営に関わったりしたら、色々と面倒なことになりかねない。

「ま、飽くまでも推測の域を出ないんだけどね」

 洗濯を終え彰子は立ち上がる。

 これが異世界トリップだというのも、何らかの意図があると思うのも、全て彰子が考えているだけに過ぎない。真実は判らない。単に考えすぎているだけかもしれない。

 還れる日を信じて、今はじっと時が経つのを待ち、流れに身を任せるしかないのかもしれない。






 ──そんな彰子の心に呼応するかのように、事態が動いたのは、その夜のことだった。