扉を開けて

「あれ……?」

 ドアから一歩を踏み出した彰子は呆然として呟いた。

 ゆっくりと瞬きをし、大きく目を見開く。しかし、やはり目の前に展開している風景は、瞬き前と変化はない。

 いつから、合宿所のドアは『何処でもドア』になったのだろう。いや、何処でもドアなら別にいい。部屋と目的地をショートカット出来て便利だ。何処でもドアなら、意図しない場所に繋がるはずはないのだ。偶にニューヨーク→入浴→銭湯なんてベタなミスをやらかしてはいたようだが。それに使った後に消えてしまうなんてこともなかったはず。尤も、ドラ○もんなんて、小学校の頃に読んだっきりだから記憶は相当曖昧だけれども。

 今、自分の背後にドアはない。消えてしまっている。いや、ドアだけではなく、自分がドアを開けるまで周りにあった風景は全て消えている。

 一体何が起こったのか。認めたくはない。認めたくはないが、なんとなく判ってはいる。一種の超常現象だ。自分はテレポーテーションしてしまっているらしい。

 うーん、私はいつから超能力者になったんだろう。なんて有り得ないことを考えてみるが、それ以前にこの状況が既に相当有り得ない。

 夏休み初日から部活の合宿が始まって、マネージャーである彰子も当然参加することになった。3年生はこの合宿と直後に控える全国大会が終われば、部活を引退することになる。約2年半の月日を共に頑張ってきた仲間との最後の1ヶ月。有終の美を飾るべく、根性入れまくって合宿に臨み、彰子は荷物を持って自分に宛がわれた部屋に入ろうとドアを開けたはず──だったのだが。

 如何してこうなった。

 目の前にあるのは、いつも使っていたホテルのシングルのような部屋ではなく、如何見ても森の中としか思えない自然。鬱蒼とした森が両側に広がり、自分が立っているところは土が踏み固められた道らしいもの。

 おまけに何故か──

「……一体如何いうことなのでしょう、ママ」

 自宅で留守番しているはずの愛猫3匹が足元で自分を見上げている。

「えーと……真朱、ママは夢を見てるのかな」

「そう思いたい気持ちは理解出来ますけれど、違うと思いますわ、ママ。萌葱は確かに寝てましたけれど、わたくしは新聞を読んでおりましたし、撫子ははな○るマー○ケットを見ておりました。ちゃんと起きておりましたもの」

 冷静に真朱は言う。

「かーちゃん、やっぱ、なんか変だぜ。どーして俺、こんなもん背負ってるわけ?」

 萌葱の声に改めて彼を見れば、その小さな体には風呂敷が括りつけられている。確かにおかしい。家の中で萌葱がそんなもの背負っているはずがない。それを外して中身を見れば──更に『何でこれが?』と思うものが入っていた。押入れのダンボールの中に仕舞いこんでいたはずのもの。男物の浴衣だ。3ヶ月ほど前にやってきた、奥州筆頭の為に買った浴衣。

「それに、わたくしの首にこれもかかっておりますしね」

 真朱の首には猫たち用の携帯電話がぶら下がっている。出かける前に猫用携帯電話はリビングのテーブルの上に置いておいたはずだ。

 どうやれこれは、不慮の事故というものではなく、周到に用意された超常現象のようである。

「──まずは、状況を整理しようか」

 彰子は自分に言い聞かせる意味も込めて言うと、荷物──1週間分の着替えの入ったスーツケースと部活に必要な物を纏めて入れているショルダーバッグ──を道の脇に寄せる。ついでに萌葱が持っていた風呂敷もスーツケースに仕舞う。

 それからスーツケースの上に座り込むと自分と猫たちの携帯電話を開く。共に圏外の表示だ。山の中だから予想はしていたが……これでは位置情報での現在地把握も出来ない。

「問題は、ここが『いつ』の『何処』かよね」

 ふう、と彰子は溜息をつく。『何処』だけではなく『いつ』も入れてしまうあたり、彰子は自分が超常現象慣れしてしまっていると思わざるを得ない。人生の中で2回も異世界トリップを経験してしまえば、耐性も付こうというものだ。二度あることは三度あるとも言うし……。

 そのとき、背後からガサガサっと草を掻き分ける音がし、彰子はビクっと体を震わせる。恐る恐る振り返るとそこには全身葉っぱまみれになった萌葱がいた。如何やら勝手に周囲の探索に出ていたようだ。

「かーちゃん、こっちに川があったよ。なんか使ってなさそーな小屋もあったから、取り敢えず、そこに行かね?」

 ここがいつの何処であれ、取り敢えず水と落ち着ける場所は必要だろう。

「グッジョブ、萌葱、いい子!」

 勝手に動いたのはちょっとアレだが、これでも萌葱は結構確りしているし、3匹の中では一番サバイバルに強い。3匹の中で唯一の野良経験猫だ。それに唯一の男ということもあって、非常事態における責任感は滅法強いのだ。

 彰子は立ち上がると荷物を持ち、萌葱に先導され森の中に入った。程なく森を抜け、川原に出る。確かに小屋もある。思っていたほど襤褸でもなく、充分に生活出来そうな小屋だ。

「お邪魔しまーす……」

 恐る恐る引き戸の木戸を開ける。やはり人はいない。中には囲炉裏のようなものがあり、板の間と土間に分かれている。土間には鍋らしきものと笊のようなもの、鎌のようなものがあるだけだ。尤も鎌はすっかり錆び付いていて使える状態ではなさそうだが。

 小屋の中を一通り見渡し、彰子と3匹は中に入る。随分使われていなかったのか、中は相当埃っぽい。

「まずは掃除しようか」

 落ち着いて色々考える前に、まずは目の前のやれることからやる。一見落ち着いているように見える彰子と猫たちだが、内心は結構パニックなのだ。ゆえに、目先の出来ることをやることによって、心を落ち着けようというわけである。

 さして広くない小屋の中を探して回り、取り敢えず箒と桶は見つけた。雑巾はないからフェイスタオル1枚を犠牲にすることにして、まずは掃除だ。猫たちが自分たちのふかふか尻尾で掃き掃除を始めようとしたので、それは慌てて止めて、猫たちには周辺の探索をお願いする。

 小屋の造りや中にある物からはここが『何処』なのか、判断はつかなかった。明らかに21世紀っぽいものはない。しかし、現代にもあるものでもあるから、ここが現代ではないとは言い切れない。周囲の樹木の様子や置いてある道具類から、恐らく日本で間違いないだろうとは思うが、アジア圏の他国かもしれない。つまり、さっぱり判らない。

 ひとまず板の間部分の掃き掃除を終え、桶を持って川に行く。川の水はとても澄んでいてきれいだ。やはり山の中の川は都会を流れる川とは違う。

 水を汲んで小屋に戻り、床を拭いて──何度かそれを繰り返し、漸く何とか使えるだろうという程度にきれいになったのは、2時間ほどが経過してからだった。

 桶の水を捨て、汚れた手足と顔を川の冷たい水で洗い、ついでに小屋の中にあった鍋も洗う。鍋は如何やら使えそうだ。

「まぁ……ここでサバイバル生活ってわけにもいかない……よねぇ」

 小屋に戻り彰子は呟く。猫たちは未だ周辺探索から戻っていない。

 ここが何処なのか、何故こんなことになってしまったのか、さっぱり判らない。判らないから考えても仕方ない。考えることを放棄するわけではないが、一旦それらの疑問は脇に置いておく。今やることは現状把握だ。というわけで、自分の所持品を改めて確認する。

 スーツケーツの中には1週間分のお泊りセット。下着と着替えが1週間分。Tシャツ・ポロシャツ、ジーンズにハーフパンツ。基礎化粧品。アメニティは合宿所備え付けのものがあるから持ってきていない。

 それからお菓子類。飴玉2種各1袋(ミ○キーとカ○ロ飴)、箱入りクッキー2箱(バタークッキーとチョコチップ)、カロリーメ○ト2種各3箱。今回の合宿は助っ人マネージャーとして親友の詩史も参加することになっていたから、夜の乙女のお喋りタイム用にとお菓子を持っていたのはラッキーだった。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったが。

 バスタオルも大判が1枚、少し小さめが1枚、フェイスタオル2枚にセームタオル1枚、ハンドタオル1枚。フェイスタオル1枚は雑巾代わりに使ってしまったから、残りは1枚だが。

 それからノートバソコンの予備バッテリーが一つ。

 これでスーツケースの中身は全部だ。因みに今彰子が着ているのはTシャツの上にレギュラーと同じ長袖のジャージ。下はお揃いのジャージパンツにテニスシューズ。暑いからハーフパンツにしたかったが、忍足に『俺以外にナマ足見せたらあかん!!』と我が侭独占欲全開で反対されてしまった。とはいえ、これも今となってはラッキーだ。山の中だから肌の露出が少ないに越したことはない。

 続いてショルダーバッグの中身を確認する。入っているのは財布と携帯電話、それから部活に関する各種データを入れてある超薄型ノートパソコン、B5の大学ノートにペンケース、そして500mlのペットボトル。消毒薬・ガーゼ・テーピングテープの応急処置セット。

 幸い川も発見出来たし、クッキー類もあるから4~5日程度なら何とかなるかもしれない。山の中にずっといるわけにも行かないだろうが、もし最悪の予想が中っていたら、山の中に隠れ住むことになるかもしれない。戻れる日まで。

 そういえば……と思い出し、彰子はパソコンを起動させる。以前友人たちキャンプに行ったときに、このパソコンにそれに関する情報も入れておいたはずだ。食べられる山中の野草、川魚の捕まえ方、遭難しない為の方法、怪我をしたときの応急処置方法──。起動したパソコンにそれらのデータがあることにホッとして、すぐに電源を落とす。予備も1つあるとはいえ、バッテリーがもつのは6時間程度だから、無駄には出来ない。

「ただいま戻りました」

 確認の為に広げていた荷物を仕舞い終えたとき、探索に出ていた猫たちが戻ってきた。

「東西南北、それぞれ見てまいりましたけれど、少なくともわたくしたちの足で1時間程度の距離であれば、全て見事に山の中でしたわ」

「電柱、電線、電波塔、なんもなかった。ダムもなかったし。1個だけ見つけた橋は木と縄で出来た吊り橋で、少なくとも近代的とはいえねーやつだった」

「空も見てたけど、飛行機もヘリコプターも何にも飛んでなかったし、キャンプ場もなかった。ハイキングコースとかにある標識もなーんもなかった」

 真朱・萌葱・撫子がそれぞれそう報告してくる。結局何も判らないということか。──否、正確に言うならば『現代』ではない可能性が高まりつつあるといえるかもしれない。

「取り敢えず、お昼にしよっか」

 腹が減っては戦も出来ぬ──ではないが、空腹では思考もマイナスに向かいがちになる。とはいえ、食糧は限られているから、お腹いっぱい食べるわけにもいかない。猫たちには各1枚、彰子は2枚のクッキーで食事は終わりだ。

「さて、状況整理しますか」

 まずここは何処なのか。何故自分たちはここにいるのか。

「これは夢じゃない。現実に起きていることだよね」

 大前提となることを彰子が言えば、猫たちも神妙に頷く。

「次に、これが単なるテレポートなのか、タイムスリップなのか、異世界トリップなのか──だよね」

 彰子たちがいた世界で場所だけ移動してしまったのか、時間も移動したのか、それとも全く別の世界に来てしまったか。──最後の選択肢を簡単に思いつくあたり自分でも如何かと思うが、仕方ない。自分自身が3年近く昔に異世界トリップしているのだし、つい3ヶ月ほど前には自分の許にゲーム世界から伊達政宗が逆トリップしてきているのだ。不可思議現象が起こったときに異世界トリップを可能性の一つとして挙げるのは、最早彰子にとっては当たり前のことになってしまっている。

「今の状況ではどの可能性もありますわね。暫くは様子を見るしかないと思いますわ」

 溜息をつきながら、真朱が言う。

「一度、川沿いに下って行ってみようか。人がいる場所に出れば、少なくともここが現代なのか、日本なのかくらいは判るだろうし」

 川沿いであれば、間違って山を登ってしまい遭難することもないだろう。いくら彰子が方向音痴気味とはいえ。山を下りれば人里くらいあるだろうし、案外普通に現代日本の町に出るかもしれない。

 2時間ほど歩いてみて、山を下りられる可能性が低ければ一旦この山小屋に戻ってくることを決める。往復4時間なら日暮れ前には戻ってこれるはずだ。ショルダーバッグにタオルとクッキー、財布と携帯、ペットボトルを入れ、その他の荷物は小屋の奥に隠して、一人と3匹は小屋を出る。そして、川に沿って下流に向かって歩き出す。

 無駄に体力を使わないように一定のペースを保ちつつ、気が滅入らないように適度にお喋りしつつ、1時間ほど歩いたとき、それが眼下に広がった。

 川は滝となり、道は途切れていた。そして、視線の先には人里が見えた。直線距離ならば30分も歩けば辿り着けるだろうが、足元は崖である。当然迂回しなくてはならない。いや、それよりも問題は……

「──戦国時代村?」

 ポツリと彰子の口からそんなテーマパークの名が漏れる。

「或いは日光江戸村──ではありませんわね」

 如何見ても目の前に広がる風景は『日本昔話』的なある意味牧歌的な景色だった。

「残る可能性は、タイムスリップか異世界トリップっつーことか」

 萌葱の言葉に残り一人と2匹は力なく頷くだけだった。