月満ちるとき

 名残惜しくて、1秒1秒の時間がとても勿体無くて夜が更けても政宗も彰子もとても眠る気にはなれなかった。だから一晩中話をした。何度も話したような他愛もないこと、この1ヶ月のこと……。話は尽きなかった。

 この1ヶ月の間に沢山の写真を撮った。携帯やデジカメで。元々昭和生まれの彰子であるから、写真はL判でアルバムに整理して残すのが一番馴染み深い。ある程度の枚数が溜まった時点でネットのプリントサービスを利用してプリントアウトし、宅配してもらっていた。最後に頼んだ分は今日の夕方に届き、それ以降の分は数時間前に24時間営業の大型電気店のDPEサービスでプリントアウトしてもらった。

 アルバムに整理された写真を見ながら、あのときはああだった、こうだったと語り明かす。初めの頃など、政宗はカメラを向けるたびにぎこちない表情をしていた。それがだんだん慣れていき、政宗も自分で撮るようになった。たった1ヶ月の間にアルバム1冊が完全に埋まるほどの写真を撮った。

「これを持って還っていいか?」

 政宗と彰子と猫たち──全員揃っての1枚を手に取り、政宗は言う。

「うん」

 政宗の世界には未だ存在しない『写真』。それを持ち帰ることが出来るのだろうかとか、オーパーツになってしまうのでは……などと考えもしたが、思い出を持ち帰りたいのだろうと彰子は頷く。

「小十郎たちには彰子のこと、真朱や萌葱や撫子のこと、ちゃんと話してやりてぇしな」

 異世界に行っていたなどとは到底信じがたい話かもしれないが、あの側近たちが政宗の話を信じないことはないだろう。自分に様々な影響を与えたこの世界のこと、そして彰子のことを彼らにはきちんと話をしたかった。

「変なことは暴露しないでよ」

「A-ha,そりゃ無理だな。Honeyのことはドジや大歩危抜きにしちゃ語れねぇ」

「ひどー」

 クスクスと笑いながら言い合う。どんなことでも政宗にとっては大切な彰子の思い出だった。

 やがて空が白み始め、夜明けがやってくる。猫たちは流石に睡魔に勝てなかったのか、今は政宗の膝の上で3匹揃って寝息を立てている。窮屈そうにしながらも、それでも3匹はそこで寝ることを選んでいた。これが最後だからと。

 最後の朝食を共に作り、最後の食事を摂る。二人で片づけをして、また他愛もない会話を交わす。そうしながらも時間は刻一刻と過ぎていく。

「……そろそろ支度したほうがいいね」

 時計を見上げ、彰子は呟く。あと30分ほどしかない。もう、別れのときが間もなくやって来る。

「ああ……」

 別れを引き伸ばすことなど出来ない。それを自身に言い聞かせるように政宗は頷くと立ち上がった。






 和室から出てきた政宗はいつもとは違う格好をしていた。蒼の陣羽織に刀を差した、この世界に来たときの姿だった。唯一違うのはその右目が晒されていることだけだ。

「準備、出来たんだね」

 リビングに戻ってきた政宗に彰子は声をかける。

「……やっぱり、政宗さん、その格好のほうがしっくり来るね。格好好い」

「Thanks.こっちの世界の服も楽でいいが、やはりオレにはこれだな」

 ただの『政宗』から『奥州筆頭伊達政宗』へと意識が切り替わるような気がした。陣羽織──その名のとおり、戦に出る為の戦装束ゆえに、心身ともに引き締まる。

「──……これ、持って行って」

 そう言って彰子が差し出したのは、三つの眼帯。

「これは……」

「お父様からの贈り物に比べたら、些細なものだけど……。使ってくれたら嬉しいな」

 自分の為に政宗は父親から譲り受けた刀の鍔を売り払った。その代わりには成り得ないだろうが……。

「そんなことはねぇよ。Thanks,彰子」

 政宗はそれを受け取ると、そのうちの一つ──青地の鳳凰紋にコバルトブルーの静海柄の帯紐のものを手に取り、残りの二つは大事に懐に仕舞う。

「Honey,付けてくれるか」

「……もう、最後の最後までハニーっての止めなかったね」

 苦笑して彰子は眼帯を受け取る。彰子は背伸びをして政宗の後頭部に腕を回し、紐を結ぶ。

「きつくない?」

「ああ。丁度いい」

 背の高い政宗に眼帯をつける為に彰子は抱きつくような体勢になる。彰子の体が不安定にならぬよう、政宗は彰子の腰に手を添え体を支える。

「出来たよ、政宗さん」

「……Thanks」

 このまま放したくない。政宗はそう思う。このまま腕の中に抱いていれば、彰子を連れ帰ることが出来るのだろうか……。そんな埒もないことを考えてしまう。

 連れ帰ることは出来ないが……それでも離れ難い。これが最後なのだ。政宗は己の欲するままに、彰子をそっと抱き締めた。

「今まで本当にありがとう、彰子。世話になった」

 本当はもっと別の言葉を告げたかった。けれど、去っていく自分がそれを告げることなど出来るはずもない。

「こちらこそ。1ヶ月、楽しかった。政宗さんがいてくれて、本当に楽しくて、幸せだった」

 彰子は後頭部に回していた腕をそのまま政宗の背に回し、抱き締め返す。政宗と共に過ごした時間は、まるで家族と共にあるかのようにとても穏かで幸せな時間だった。そんな時間と空間を与えてくれた政宗に心から感謝している。

「……そろそろ、時間だね」

 聞こえるはずのない音がする。飛行機が上空を飛ぶような……1ヶ月前に聞いた音。

「そうだな」

 名残惜しい。手を放したくない。だが、離れないわけには行かない。政宗は自分に言い聞かせ、彰子から離れる。

 ああ、自分は確かにこれから『還る』のだ。この世界から自分が切り離されていくのを感じる。

「元気でな……Honey」

 最後だからこそ、悲しい顔など見せられない。政宗は『自分』らしいふてぶてしいまでの自信に満ちた笑みを見せる。

「政宗さんも……大怪我せずに、夢を叶えてね」

 もう二度と会えないのだからこそ、最高の笑顔で別れたい。彰子は精一杯の笑みを浮かべる。

 互いに笑顔のまま、その姿が徐々に薄れていく。まだ涙は見せられない。最高の自分らしい表情で別れたい。

 そして──政宗の姿は消えた。






 ──No matter how much time goes by, I love you.──

 最後に呟いた言葉は、彰子には届かぬまま。











 政宗の姿が消えた瞬間、彰子の体から力が抜けた。そのまま、彰子は崩れ落ちるかのように座り込む。

「行ってしまいましたわね……」

 彰子を慰めるかのように猫たちが体を摺り寄せてくる。

 猫たちの暖かさを感じながら、彰子は堪えていた涙を零した。初めから判っていた別れとはいえ、やはり辛く寂しく悲しい。僅か1ヶ月だったとはいえ、政宗は彰子にとって家族同然だった。

 トリップして来たことによって彰子は家族を失っている。決して良好な家族関係ではなかったとはいえ、憎んでいるわけでもなく、やはり彰子にとっては大切な家族だった。その家族は今は彰子がいたことすら覚えていない。自分の存在は元の世界では抹消されているのだから。

 そんな彰子にとって政宗は家族だった。兄であり、弟であり、父であり、息子であり……家族の全てだった。恋人とも友人とも違う存在になっていた。その喪失感は大きい。

 涙を流す彰子の肩の上に撫子が乗り、膝の上に真朱が乗り、頬を伝う涙を舐めとる。萌葱は体を擦り付け、猫たちは彰子を慰める。

「大丈夫……。今は寂しいけど……時間が解決してくれるから。時が経てば、楽しい思い出が残るから」

 明日からはまた学校だ。間もなく関東大会も始まる。忙しい日が続く。

 そんな日常に紛れて、寂しさも癒えるだろう。自分の傍には猫たちがいる。忍足がいる。友人たちがいる。だから大丈夫。






 政宗が還って、1週間が過ぎた。普段は日常に追われて紛れている寂しさもふとした瞬間に思い出してしまう。

 例えば、食料品の買出し。政宗と献立を考えて、材料をリストアップして……。自分一人なら作ろうとも思わない手の込んだ料理に政宗は興味を示したから、随分色んな調味料も増えた。食材に拘る政宗と低価格優先の彰子ゆえに、あれこれ言い合いながら互いに折り合いをつけて買い物をしていた。

 商店街の八百屋や魚屋、肉屋……店先であれこれと言い合う二人に店の主人は笑いながら『仲が良いねぇ。新婚さんかい?』なんて揶揄いながらおまけをしてくれた。重い荷物は何も言わずとも政宗が持ち、二人で手に一杯の荷物を持って、商店街を歩いた。いつの間にか政宗は商店街の小父さん小母さんと顔見知りになっていて、『政宗ちゃん、活きのいいのが入ったよ!』と声をかけられていた。政宗のおかげで彰子も商店街に知り合いが増えた。2年以上住んでいたのに、これまで殆ど商店街は利用しなかったから、気のいい小父さんや小母さんとの交流は新鮮で楽しいものだった。

 これからの買い物は今までどおりだ。政宗が来る前に戻る。1週間分のお弁当の材料と、週末の忍足との食事の為の材料、それから作り置き出来るお手軽料理の材料。スーパーのちらしで安い材料を選んで、その中でメニューを決める。自転車でスーパーに行って、買えるだけ買い込んで、それで終わり。何か特別なことがなければ新たな料理になど挑戦もしない。

 以前と同じに戻るだけなのに、何処か寂しい。何か物足りない。そんな風に感じてしまう。それだけ、あの1ヶ月は彰子の中で大きかった。

 政宗はもういないのに、今にも政宗が和室から出てきそうな気がする。

 政宗が使っていた和室はそのままにしてある。二度と彼がこの部屋を使うことがないことは判っているが、掃除をしてしまうとそこから政宗の残した気配が消えてしまうような気がして何も出来なかった。

「でも、このままじゃいけないよね」

 自分に言い聞かせるように彰子は呟くと、1週間ぶりに和室へと入った。

 そこには几帳面に衣服が畳み並べられている。彰子が使えそうなものと到底使えないものとに分けてある。

「……政宗さん、意外に几帳面なんだよね」

 クスっと笑いが漏れる。

 ダンボールに仕舞おうと畳まれている服の前に座り、その服の上に紙が置かれていることに彰子は気付く。手に取ると、そこには和歌が書き付けられていた。


 ながらへば またこのころや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

 限なく 結びおきつる 草まくら いつこのたびを おもひ忘れむ


 書き付けられた和歌を読み、彰子は再び笑みを漏らす。2首目など恋歌ではないか。

 1首目は恐らく寂しがっているだろう自分に向けて励ます為のものだろう。簡単に要約すれば『時間が経てば辛い思い出も懐かしく思えるよ』だ。2首目は本来恋歌だが、要は『会えて良かった。お前を忘れない』という意味になる。

 共に平安期の貴族が詠んだ歌で、こういうものがさらりと出てくるあたり、政宗の教養の深さが窺われた。そういえば、この世界の政宗も教養人としても有名だ。

「……私も会えて良かったよ、政宗さん」

 今は別れたことが寂しい。二度と会えないことが悲しい。けれど、出会ったことを後悔はしていない。1ヶ月の時間は彰子にとってもとても大切な時間だ。政宗と過ごした日々はかけがえのない時間だ。恋人や友人たちと過ごす時間とはまた別の意味で大切な時間だった。

「今は寂しい思いのほうが強いけど……いつか懐かしい思い出になるよね」

 和歌の記された紙を丁寧に残されたノートに挟む。服はダンボールに片付け、押入れに仕舞う。いつまでも未練がましく部屋に置いておくのは政宗に笑われてしまいそうだ。

 ノートを手に寝室へ行くと、本棚の一画にそれを並べる。そこにはこの世界に来て撮った写真のアルバムが並べてある。政宗と撮った大量の写真もそこにある。

「今はまだ、中は見れないなぁ……。今見ると寂しくて泣いちゃいそうだわ」

 自分が結構寂しがりやなことは自覚している。普段は強がって独りでも大丈夫と思ってはいても、それが本当は独りになることが怖いから自分に言い聞かせていることも判っている。だから、今はまだ、政宗のノートもアルバムも見れない。

 それでもいつか、このノートを開き、写真を見ることも出来るようになるはずだ。猫たちと懐かしい思い出として語り合うことが出来るだろう。











「いつか、また、会えたらいいな」

 叶わぬ願いだと判っていても。

 そうして、彰子はまた日常の中に戻っていく。友人たちと、恋人と過ごす『日常』の中に。