もどかしい想い、切なる願い

 過ぎて欲しくない時間ほど速く去っていく。

 この1週間は政宗にとって、まさにそんな時間だった。今日は土曜日。もう明日には自分は『還る』のだ。この地を去らなければならない。

 政宗と彰子が過ごす最後の1週間。運がいいのか悪いのか、ちょうど彰子の中間テストの時期に当たっており、部活は休みだった。木曜と金曜に中間テストがあり、金曜と土曜は部活があったものの、土曜日の練習は午前中だけだったから、やはりそれなりに政宗と共に過ごす時間は普段に比べれば多かった。

 最後の1週間だから……と彰子の中での優先順位は政宗>テニス部>勉強となっていた。別にテスト勉強からの現実逃避ではない。テニス部は跡部の主義もあって赤点即ち練習禁止なので手は抜けない。しかもレギュラーと首脳部(つまり彰子を含む)は順位が落ちてもいけない。まぁ、これは変動の範囲内ということで10位程度までであれば許されるのだが、常に首位を跡部と争っている彰子は1位か2位でないと許されない(跡部に)。

「普段の復習が大事なのよ」

 と嘯きつつ、彰子の勉強時間は政宗が見る限り大して平常時と変わりなかった。尤もその分彰子は普段なら友人とお喋りして過ごす休み時間に問題集と解いたりして勉強に当てていたのだが。






「この部屋も……今日がLastか」

 部活に行って彰子のいない部屋で政宗は呟く。その声は如何しても寂しげなものになる。

 約1ヶ月をこの家で過ごした。あっという間の日々だった。

 政宗はこれまでの礼だと、家中を丁寧に掃除した。恒例の食材の買出しは彰子が帰ってきてから一緒に行くことになるが、それも最後だ。今日は最後の晩餐ということで彰子が腕を振るうと言っていた。

 彰子によれば、自分が『還る』のは明日の午前中。恐らく政宗がこちらの世界に来たのと同じ時間になるはずだという。今夜が彰子と過ごす最後の時間になる。

 自分の世界に戻れることは純粋に嬉しい。だが、何処かで還りたくないと願う自分がいることも政宗は判っていた。

 あのとき──約1週間前の、自分がいつ戻れるのかを知った日──『還れる』ことを知った自分は思ったのだ。

 この世界にいられるのは……

 去らなければならない……

 と。自分が思った言葉の意味を政宗は後になって気付いた。本当に戻ることを望むのであれば、『いられる』ではなく『いる』であり、『去らなければならない』ではなく『去る』なのだ。心の何処かで、自分はこの世界に彰子と共にあることを願っているのかもしれない。

 元の世界に戻りたくないわけではない。小十郎や成実、綱元をはじめとした家臣という名の仲間たち。真田幸村という好敵手。武田信玄や上杉謙信をはじめとした諸国の大名との覇権争い。奥州の主としての責任。大切な人たちがいる。成し遂げたい野望ゆめがある。

 この世界に来て、彰子と出会い、政宗は己の夢に明確なビジョンを持った。自分と伊達家の目標であった『天下統一』は夢ではなくなった。己の夢は争いのない平和な世を作ること。民が安心して10年後、20年後を語れる世界を作ること。この平成の世のような豊かで平和な世界の礎を作ること。

 天下統一は目標ではなく、己の夢を果たす為の手段になったのだ。天下統一は終着点ではなく通過点になった。

 全てが彰子の影響とはいわない。漠然と感じてはいたことだ。領民の姿を見、民を守らなければと思っていた。けれど、政宗は『奥州の主』だった。領民さえ豊かに暮らせるのであれば、それでいいと思っていた。

 生まれたときから奥州──当時は出羽一国ではあったが──の次期当主だった。民のことを考えるのは政宗にとっては義務だった。政宗の望みではなかった。だから、天下に覇を唱えることだけが、自分の純粋な『欲』であり『希望』なのだと思っていた。天下統一は民の為に為すことではなく、自分の覇気の赴くままの野望だと。

 けれど、そうではないことを彰子に気付かされた。

「政宗さんの考え一つで、奥州の人が幸せにもなるし、不幸せにもなる。それって凄いことだよね」

 彰子はそう言った。己にとって義務でしかなかった奥州の統治。それは政宗に天から与えられた権利なのだと彰子は言った。思ってもみなかった視点だった。自分は義務を果たしているだけだと思っていた。

「人間って、『幸せ』や『不幸せ』を感じられる時点である意味幸せなんだと思うな」

 更に彰子はそうも言った。人は命があってこそ、幸不幸を思うことが出来るのだと。命を全うすることが出来なければ、幸せだと喜ぶことも不幸を嘆くことも出来ない。日々の食があり、命を繋ぐことが出来るからこそ、不幸を嘆くことも出来るのだと。命を繋ぐ為の政は最低限の義務だ。領民が安全に暮らすことが出来るようにすることは最低限の義務なのだ。けれど、人々が『幸福』に暮らす政を行うのはその義務から一歩先に進んだところにある。『領民が幸福に暮らせる』ことを望む政宗は義務で政をしているのではなく、自分の望みを持って政に取り組んでいるのだと彰子は言った。

 その言葉に政宗は心が暖かくなるのを感じた。目から鱗が落ちるというのはこういうことかとも思った。自分の中でもやもやと形にならなかったものが、明確になった気がした。

 もしかしたら、自分の側近たちも同じことを思っていたのかもしれない。彰子だけの特別な考えでも、この世界だからの特別な考えでもないのかもしれない。

 だが、この世界だからこそ、彰子の言葉だからこそ、それはすんなりと政宗の心に染み込んでいった。政宗にとって非日常の世界だからこそ。

「彰子がオレの傍にいてくれれば……オレは何処までも駆けていける」

 ぽつりと政宗は呟く。彰子が傍にいてくれれば、自分は天翔ける竜となれる。何処までも高く、力強く空を駆ける飛竜となれる。奥州筆頭ではなく、政宗個人を理解し、見てくれる存在。自分が心安らかになれる存在。

「──まさか、異世界でそんな女に出逢っちまうとはな」

 そんな存在が元の世界にいたのであれば、すぐにでも正室にしただろうに。けれど皮肉なことに、出逢ったのは本来ならば出逢うはずのない女だ。神の悪戯で道が一瞬だけ交わったに過ぎない相手なのだ。

「彰子を……奥州に連れて行ければな」

 言っても詮無いことだとは判っていても、言葉が漏れる。果敢無い望みだ。有り得ないほど儚い奇跡と偶然とが重なった結果の出逢い。自分がこの世界に来たことが奇跡なのだ。更なる奇跡が積み重なるはずはない。

 彰子にはこの世界に家族がいる。大切な人たちがいる。彰子の全てはこの世界のものだ。それを全て捨てさせて己の世界へと連れ去ることは出来ない。そんな権利は政宗にはないのだ。

 それでも──政宗は望みを捨て切れなかった。






 家中の掃除を終え、政宗はいつの間にか増えていた荷物の整理を始めた。数日分の洋服や下着、靴。筆記用具をはじめとする文具や本。政宗が興味を持ったものをいつの間にか彰子は購入し与えてくれたのだ。政宗さんが家事をやってくれるから助かってると言って。

 ぱらぱらとノートをめくる。この世界の仮名を綴っているものだ。仮名が統一されているというのは便利なものだと感心したのはほんの1ヶ月前。形が明確な楷書は読みやすく、この世界のような教育を民に施すのであればこの楷書を普及させるといいのかもしれないとも考えた。仮名を統一し、楷書を普及させる。還ったらそれに取り組もうかと政宗は考えた。

 幸い奥州は隣国が甲斐と越後ということもあり、戦場にはなり難い。軍神はこちらに非道な行いがなく、領内から助けを求められない限り奥州に攻め入ることはしない。甲斐の虎とて無用な戦は起こさない。それに織田が台頭している現在、彼らの目は西に向いている。織田を警戒し、危機感を持っている。それは自分とて同じなのだが、幸運なことに織田との間には武田信玄と上杉謙信という戦国最強の大名がいる。

 この世界の織田信長は決してこの両者と直接戦おうとはしなかったという。武田を滅ぼしたのは信玄の死去の後であり、唯一上杉と戦った折には謙信によって散々な敗北を味わわされているという。自分たちの世界の魔王を名乗る信長がそこまでの敬意と畏怖を両者に抱いているかは不明だ。そもそもあの魔王は天下泰平など目指してはいないように思える。己の欲望のままに日ノ本を破壊しつくしたいだけなのではないかと思えるのだ。

 帰還したらまず織田に対する備えを固めなくてはならない。織田がこのまま日ノ本を蹂躙するのを手を拱いて見ているわけにもいかないだろう。だとすれば……天下獲りの趨勢はどうあれ、先ずは織田を潰すことを第一に考えるべきかもしれない。

 とすれば……

 気付けばノートに『織田』『武田』『上杉』『同盟』といった言葉を書き散らかしていた。それを見て政宗は苦笑する。還りたくないと思っていたはずなのに、既に意識は元の世界に戻っているではないか。政治と軍略をこうして考えているではないか。やはり自分はあの世界の戦国大名なのだ。

 己の目指すもの、欲するものはあの世界にしかないのだ。

「還ったらやることが多いな……。仕事も溜まってるだろうし」

 その上、対織田戦略の為に各地への同盟を働きかけなければならない。その前に同盟を提案することを家臣に納得させなければならない。小十郎や綱元は理性的に考え納得するだろうが、血気盛んな連中は中々納得はしないだろう。況してや、自分が場合によっては武田信玄に膝を折っても良いと考えていると知れば。これには小十郎とて納得はしないだろう。

 だが、政宗は天下統一が手段になった時点で『自分が天下を獲る』ということをそれほど重要視しなくなった。天下を獲りたくないわけではない。それは武将として当然の欲求だ。しかし、自分が天下を獲ろうとすることで戦乱が長引くのであれば、リタイアしても構わないと思うようになったのだ。

 第一の目標は自分が天下を獲り、平和な世を築くこと。けれど、時間がかかるのであれば、これはと認める武将の配下となり1日も早い天下統一を成し遂げる。自分は──自分たちは礎になるのだ。

「まぁ……オレが獲るがな」

 決意を新たに政宗は呟き、再びノートに目を落とす。そこに書かれているのは自分が元の世界で使っている文字。彰子に請われて書いたものだ。

『古文書読めるようになりたいんだ』

 彰子にそう強請られて幾つかの和歌や古い物語の一節を書いたものだった。彰子は物語──小説を書いているらしく、その参考資料として古文書も読めるようになりたいらしい。政宗が記した文字を読み、自分でも書き、今ではそれなりに読めるし書けるようになっている。政宗がこの世界の仮名を読み書き出来るようになったのと同じように、彰子も政宗の世界の文字を習得しているのだ。

「……これならオレの世界に連れて行っても困ることはねぇな」

 出来るはずはないことなのに、そう政宗は呟く。

 手の届かぬ叶わぬ夢ほど、恋焦がれるものなのだ。

 政宗は苦笑してノートを閉じた。間もなく彰子も帰ってくるだろう。






 その日の夕食はロールキャベツのトマト煮込み、玉葱とトマトの和風サラダ、ビシソワーズというものだった。彰子が腕を振るうと言っていたが、最後なのだからと政宗も手伝い、二人で厨房に立った。

 野菜中心のメニューになったのは、野菜を政宗が好むからだ。今風にいえば肉食系男子の代表格のような政宗だが、意外に食生活は草食系……と彰子は何処かずれたことを考えたりもした。

 元々は政宗の偏食を治す為だったという小十郎の兼業農業。その野菜は政宗にとって奥州一の味なのだという。そりゃあ野菜の肥料の第一成分は政宗への愛情なのだからそれも当然だろうなんて彰子は思う。政宗の話から受ける小十郎の印象は、政宗の父であり母であり兄だ。政宗にとって一番必要な愛情を注いでいるように思える。

 尤も、舌の肥えた政宗にはこの時代の野菜は味が薄いらしく、食材は味よりも安さ優先の彰子も野菜だけは産地直送の有機野菜・お値段それなりの物を買うようにしている。ぶっちゃけ、この1ヶ月はエンゲル係数が跳ね上がっている。とはいえ、やはりいいお野菜は味もよく、やっぱり食材って重要だなと彰子はこれまでの考え(味<価格)を改めることにした。

 今日のメニューを何にするかは彰子も頭を悩ませていた。美食に関心の薄い彰子はご馳走といえばステーキという単純さである。普段の食事は日々忙しいこともあり手軽さを第一に考える。自然、作り置きの出来るカレーやシチュー(多めに作って冷凍しておく)や、材料を鍋に入れて煮るだけのポトフ系、或いはパスタなどの麺類になりがちだ。政宗が来てからもそれは余り変わっていない。この1ヶ月は殆ど政宗が食事を作っていたから、それなりに手の込んだ料理を食べさせてもらってはいたが。

 1ヶ月を振り返ってみて、この時代の代表格・ハンバーグを作っていなかったことに気付いた彰子は一旦はメニューをハンバーグに決めた。だが、より美味しいものを作りたいとレシピ検索していたときにロールキャベツを見て、如何してもロールキャベツが食べたくなってしまった。それで材料も大して変わらないからとあっさりメニューを変更したというわけである。

 出来た料理に舌鼓を打ちながら、最後の晩餐を楽しむ。猫たちは政宗と彰子の邪魔をしないようにと思っているのか、自分たちの食事を終えるとすぐにリビングへ戻り、寝てしまった。

「あっという間の1ヶ月だったね」

 そう呟く彰子は寂しげに見えた。彰子も自分と別れることを少しは惜しんでくれているのだろうかと政宗は少しばかり嬉しくなる。

「そうだな。得難い1ヶ月だったぜ」

 政宗は相槌を打ち、同意する。本当に色々なことを経験した1ヶ月だった。何より政宗にとっては初恋なんていう、切なくも甘酸っぱい想いを経験することになったのだ。──同時に失恋も。

「Honeyのおかげで色々なことを知ることが出来たし、考えることが出来た。還ったら……オレが天下を獲る」

「奥州伊達幕府かぁ……。政宗さんならきっと出来るよ。名乗りを上げてる大名の中でも最年少だから、統一までに10年かかったとしてもまだ30前でしょ。そのあと20年……30年は第一線で政を執れるだろうから、それだけの時間があればきっと磐石な基盤が作れると思うわ」

 彰子はそう言って微笑む。自分の目標が天下統一ではなくその先にあることを彰子は理解してくれている。そう思うと政宗は捨てたはずの望みがまた頭を擡げるのを自覚した。

「……Honeyもオレと一緒に来ないか?」

 意識せずにその言葉が口から漏れていた。それが本当の望み。自分の世界を失わず、且つ真実欲した女と共にいられるたった一つの方法。そして、それは絶対に不可能な方法。

「軍神や虎のおっさんに会ってみてぇだろ」

 だから、そうやって冗談のように紛らわす。

「確かにねー。謙信公や信玄公もだけど、小十郎さん、成実さん、綱元さんはじめとした政宗さんご自慢の家臣団にも会ってみたいわ」

 クスっと彰子は笑う。

「でも、観光ってわけにも行かないものね……。確実にここに戻ってくる方法があれば行ってみたいんだけど」

 残念そうに彰子は言う。『ここに戻ってくる』その言葉に、政宗の心は冷水を掛けられたように冷えていく。そうなのだ。彰子が生きる世界は『ここ』なのだ。自分にとって元の世界がそうであるように。

「政宗さんが作る世界、見てみたかったなぁ……」

 叶わない希望ではあるが、彰子にとってそれは本心からの言葉だった。

 共に過ごした1ヶ月は彰子にとっても貴重で大切な時間だった。別れを寂しく思っているのは政宗だけではなかった。彰子とてそれは同じだったのだ。

「一度縁があって繋がったんだ。また何処か先の未来で交わることもあるだろうさ」

 そう願いたかった。一度起きた奇跡がもう一度起こらないとは言い切れないのだから。

「そうね……」

 少し寂しげに彰子は微笑んだ。

「ところで、Honey」

 別れは寂しく切ない。明日還ってしまえば政宗はもう二度と彰子に会うことは出来なくなる。けれど、二度と会えないからこそ、こんな気持ちで最後の大切な1日を過ごしたくない。彰子と2人笑い合い、楽しい思い出を残したい。だから政宗は話題を変えた。

「うん? 何?」

「今日でLastだ。一緒に風呂に入るか」

「…………………」

「……Sorry.冗談だ。そんな顔で睨むな」

「殿がご希望であればお背中流しましょうか?」

「本当に悪かった。心から謝る。目が笑ってねぇから怖いんだよ、Honeyの顔が……」

「誰の所為だよ」

「It apologizes sincerely」

 謝る政宗に、彰子は仕方なさそうに苦笑し、それで許すことにした。






 幾許かの切なさと寂しさを伴って、最後の夜は更けていった。