本当にあと10日で還ることになるのだろうか。
日課の素振りをしながら、政宗は昨晩の彰子の話を思い返していた。
あと10日……長いようで短い。これがこちらの世界に来たばかりの頃であれば、1日も早くその日が来ることを望んでいただろう。だが、今の政宗には『あと10日しかない』と感じられた。
己の迷いを振り切るように政宗は竹刀を振るう。あと10日なのであれば……その時間を有効に使わなくてはならない。
ずっと彰子の恩に報いたいと思っていた。だからこそ、日頃学校生活──学業や部活に忙しい彰子の負担を軽くしようと出来る限りの家事をやってきた。夕食の支度に掃除と洗濯、猫の世話。朝食と弁当は彰子が作ったし、流石に下着の洗濯と彰子の寝室の掃除は彰子が拒否した為にやってはいないが。
初めの頃は政宗が家事をすることを彰子は申し訳ないからと謝絶しようとしていた。しかし、何を言っても政宗が聞かないと判ると諦めたようだ。今では毎日『今日もありがとう』と言うようになっている。そのときの笑顔が政宗にとっては何よりの報酬となっているのに、彰子は家事労働の対価として『お小遣い』まで渡してきた。政宗が拒否すると、『それなら一切の家事をやらせない』と脅してきた。どういう理屈だ……と呆れはしたものの、仕方なく政宗はその『お小遣い』を受け取ることにした。
労働の対価としての金銭を受け取ることは政宗にとって初めての経験で、それは妙にこそばゆく嬉しいものではあった。自分の家臣たちも禄を受け取ったときにはこんな気持ちになったのだろうか。だとすれば、働きに応じてもっと厚く報いても良いかもしれない。そんなことも思った。
尤も、政宗にしてみれば家事をしているのは滞在費の代わりでもあり、それに対しての報酬というのも微妙なものではある。ゆえに基本的に貰った金は使わず、還るときにそっくりそのまま置いていく心算だ。先日酒を買うのに少々使ってしまったのだが。
日々の家事労働で感謝の念は伝えている心算ではあるが、彰子には何かを贈りたかった。自分の感謝と告げる心算のない想いの形見として。
言葉では足りない。何か、心を形にして渡したかった。──自分が去った後も彰子の許に残る何かを渡したかった。自分を忘れぬように、それを見るたびに自分を思い出してくれるように。
だが、それを購うのに彰子から貰った金銭を使うことは出来ない。それは彰子の善意によって与えられた金銭だ。
その金銭を如何やって得るかが問題だ。政宗は何の身元保証もない不審人物だから、真っ当な労働によって金銭を得ることは不可能だろう。こちらの世界に随分慣れたとはいえ、自分に出来る仕事など、そうそうあるとも思えない。
「どうするか……」
竹刀を仕舞いながら、政宗はふぅと息をつく。如何すればいいのか……。
「あいつらに聞いてみるか」
判らないのであれば、判る者に聞けばいいのだ。判らないことを延々悩んだとしても時間の無駄でしかない。そして政宗には無駄に出来る時間などないのだから。
帰宅した政宗は日課の家事を終わらせると、早速問題解決に取り掛かった。
「政宗が金銭を得る方法……ですか?」
尋ねられた真朱は目を丸くして問い返す。
「Yes.欲しいものがある。それを購う為に金がいる」
彰子に贈る物は既に決まっていた。ゴールデンウィークに彰子と出かけたときに、彰子がじっと見つめていた首飾り。瑠璃色の石と細い白金の鎖のものだった。神秘的な輝きを持ち、大きな力を感じる石。その深い蒼と細い鎖は、きっと彰子の白い肌に映えることだろう。
「いくら欲しいんだよ」
「確か、5万円……だったはずだ」
「5万円かぁ……。簡単じゃないね。何が欲しいの?」
器用に眉間に皺を寄せ、撫子が政宗に問いかける。
「……お前らのMomへのpresentだ。あいつにはsecretだぞ」
協力を頼むのだから、隠すわけにはいかない。内緒だぞと念を押すが、少々不安だ、萌葱が。萌葱に関しては真朱と撫子に頼んでおけば、うっかり萌葱が口を滑らせかけてもフォローしてくれるだろう。
「彰子には随分世話になったからな。感謝の気持ちを贈りたいんだ」
政宗の気持ちに気付いている猫たちは、その言葉を聞くと真剣に考え始める。感謝の気持ちだけではなく、想いも篭めたものを贈りたいのだろう。
「……手っ取り早く稼ぐなら、夜の街に立つとかかな」
萌葱が呟いた瞬間、真朱と撫子は両サイドから萌葱にライダーキックを食らわせた。
「何処でそんな知識を手に入れたんですか、お前は!!」
「パパ、不潔!! 最低!!!」
「……萌葱、流石にオレでも、それはどうかと思うぞ」
何で猫がそんな知識を持ってるんだと頭が痛くなる政宗である。彰子が知ったらショックで寝込んでしまうかもしれない。
「政宗だったらイケメンだし、体もいいし、楽に稼げるだろ。2丁目でもいけるんじゃね?」
妻と娘のキックにもめげていないのか、萌葱は更に言葉を継ぐ。当然、萌葱に二度目のライダーキックが炸裂したのは言うまでもない。
「痛いじゃねーか、ねーちゃんも撫子も! 仕方ねーだろ。戸籍も住民票もない政宗が真っ当な労働で金稼げるわけないんだから!!」
尤もな萌葱の発言に真朱と撫子は一瞬怯む。確かにそうだ。だからこそ、政宗は自分たちに知恵を貸して欲しいと言ってきたのだから。とはいえ、流石に夜の街に……というのは問題がありすぎる。
「萌葱。もし、政宗がそうやって金銭を得て、それで贈り物をされて、ママが喜ぶと思いますか」
「……思いません」
「よろしい……………それはそうと、お前は何処からその知識を手に入れたんですか」
真朱──一応、妻であり、母親代わりだった絶対上位者に詰め寄られ、萌葱は視線を彷徨わせつつ、二人の男の名を挙げた。忍足と跡部である。
それを聞いた真朱は、二人には今度お仕置きをしなければと決意する。とんでもない余計な知識を与えてくれたものだ。これが彰子にとって一番近しい二人だと思うと彰子に二人との付き合い方をもう少し考えるべきだと言いたくなる。彰子の前でそんな話をしていない分、マシだろうが。
「あ、別にあいつらがやってるわけじゃねーからな! そういうヤツラがいるから何とかしないとって難しい顔して相談してただけだから!!」
二人の名誉の為にと萌葱は言葉を添える。
「判っています。あれたちがそんな愚か者ではないことくらい」
フンと鼻息を吐きながら真朱は必死な萌葱を一蹴する。
「んで、パパのお仕置きは後回しにして……問題は如何やって政宗が5万円を手に入れるかだよね」
まだ萌葱へのお仕置きは終わりではないらしい。心の中で萌葱にご愁傷様と声をかけながら政宗は頷く。
「まぁ……考えられるのは手持ちの何かを売ることでしょうか」
「なるほど、オレの持ち物ね」
自分の持ち物ならば、あの世界でもそれなりに値打ちのあるものだ。伊達に一国の領主ではない。陣羽織は京織物を使った高級品である。流石に普段着である素襖と袴は高級品とはいえないが。
「仮令高級品とはいえ、古着ですからそう高くは売れないでしょうね」
そもそも陣羽織を買い取ってくれるところがあるのかも疑問だ。あったとしても、そこまで高くは買い取ってくれないだろう。
「だよなー。政宗が400年前から来てるとはいえ、その陣羽織には骨董的価値はねーもん」
400年前のものであれば、充分な骨董品であり、歴史的資料になるから相当な高値がつくだろうが……何しろ、400年前からタイムスリップ(正確には異世界トリップ)してきたのだから、陣羽織自体は400年の時を経た骨董品ではない。つまり、陣羽織という珍しいものでもあり高級品ではあるが、扱いは古着にしか成り得ないのである。
「眼帯は? 刀の鍔でしょ」
残る政宗の持ち物は刀と眼帯。流石に刀は簡単に売れるものではない。持ってきた刀は六爪として使っているものではないがそれなりの業物であり、また武士として刀を手放すことは出来ない。それにこの時代は刀を許可なく所持することは出来ないのだから、当然許可など持っているはずのない政宗がそれを売ることも出来ないのだ。
「これか……」
己の右目を覆う眼帯に触れる。
幼い頃右目を失った政宗に父・輝宗が与えてくれたものだった。己の弱さを克服し、伊達の次期当主として強くなるのだと誓った政宗に、ならばと父が与えてくれたのだ。伊達家中興の祖といわれる、自分と同じ名を持つ祖先──大膳大夫伊達政宗──の愛刀の鍔。とても大切なものだった。
けれど、確かにこれならば価値はあるかもしれない。自分がいた時代から200年ほど前に作られたもので、骨董的な価値も充分にあるはずだ。
それに彰子への想いを篭める物を購うのにこれ以上に適した物はないとも思えた。自分にとって大切な思い出の品。父からの愛情の証でもあり、これまで自分を力づけてくれたもの。それを売ってでも、彰子への贈り物をしたいと政宗は思った。
これが単に生活に必要な費用を得る為ならば絶対に売ったりしない。仮令どんなに高額を提示されたとしても。けれど、彰子への贈り物になるのであれば、逆にこれ以上のものはないと思えた。
この眼帯そのものを渡してもいいのかもしれないとも思った。けれど、刀の鍔の眼帯では彰子には使いようがない。やはり彰子が欲しいと思っているもの、彰子が身につけてくれるものを贈りたい。
「これにどれくらいの価値があるかだな」
問題はそこだ。これに篭められた政宗や輝宗の想いは価格には関係ない。
「5万円以下ということはないと思いたいですが……取り敢えず、持って行って査定してもらって、価格に納得がいかなければまた別の方法を考えましょう」
他に方法があるとも思えないが、真朱はそう提案する。動いてみなければ何も判らないのだ。如何にもならなかったら、そこは草紙神を呼び出して何とかするしかないと真朱は決意を固める。
政宗は自室となっている和室に入ると、そこに置かれたパソコンの電源を入れる。
このパソコンはゴールデンウィーク中に彰子が購入したものだ。流石に彰子の不在中に女性の部屋へ入ることを政宗が遠慮したこともあり、新たなパソコンを買ったのだ。政宗の為だけではない。要は彰子が元々欲しがっていたMacintoshを自分に言い訳する口実が出来、これ幸いと購入したのである。ネットで調べ物しかしない政宗にしてみれば、OSの違いなど大したことではなく、この数日思う存分活用させてもらっている。主に夕食のレシピ検索に。
ネットで刀の鍔の買取をしている骨董品店を調べ、場所をメモし、パソコンの電源を落とす。外出着に着替え、必要な物を持つと、政宗は早速出かけることにした。
「行ってくる。留守番頼んだぜ、Kitties」
「判りましたわ。留守番の対価と口止め料にミルクプリンを所望します」
ニッコリと笑って真朱たちは政宗を送り出したのであった。
3件目の骨董品店で、眼帯は10万円近くの価格で買い取ってもらえた。店主はとても興奮した様子で他にもいいものがあれば是非買い取りたいと言ったくらいだった。古い時代のものであり名品だと目利きを自負している老爺は政宗の言い値の2倍で買い取ってくれたのだ。顔につけるものだからと日頃から丁寧に手入れをしていたことも幸いし、状態もかなり良かったらしい。
これで求めるものが買えると政宗は満足し、彰子とかつて訪れた街に向かった。余った金は『お小遣い』と一緒に残していけばいい。
記憶を頼りに目的の店を探し出し、店内に入る。パワーストーンといわれる半貴石をメインに扱っている宝石店だった。彰子はゴールデンウィークに来るべき関東大会・全国大会へのお守りとしてカーネリアンを買いに来たのだ。
そのときに彰子が目を留めていたのがラピスラズリのペンダントトップだった。大きく、それでいて神秘的な深い蒼の輝きに彰子は見入っていた。長く細いプラチナのチェーンがついたそれは即決して買うには躊躇う価格で、散々迷った挙句、彰子は購入を諦めたのだ。
その後政宗はその石のことを調べ、それが彰子の誕生石であること、幸運と成功を呼び寄せる石といわれていること、古くから『聖なる石』といわれていることも知った。誕生石であれば、彰子にとって守りの力ともなる石だろう。
だから、彰子に贈るとすればこのペンダントをおいて他にはないと政宗は思っていた。
「こちらをお求めでいらっしゃいますか?」
じっとペンダントを見ていた政宗に店員が声をかけてくる。
「ああ」
それに政宗が頷くと、店員はショーケースからペンダントを取り出し、これで間違いないかと政宗に確認するように見せる。
「贈り物ですか?」
「あ……ああ」
改めて他人の口から言葉にされると、妙にこそばゆかった。そうだ、これは自分が初めて異性に贈る贈り物だ。
代金を支払い、きれいにラッピングされたペンダントの入った紙袋を受け取り、政宗は店を出る。
彰子は喜んでくれるだろうか。これまで誰かに何かをプレゼントしたことなどなかった。家臣に与えるのは働きに応じた褒賞であって、プレゼントではない。思い返してみても誰かに純粋な贈り物などしたことがないような気がする。況してや異性──それも想う相手になど。
そこまで考えて政宗は苦笑した。そうだ、これは自分にとって初恋なのだと。
幼い頃から、伊達家の跡継ぎとして日々学問や鍛錬に追い回されていた。傍にいるのは強面な忠義者。側近くにいた女性といえば乳母くらいのもので、他の侍女は政宗の右目の醜さを厭い、滅多に傍には寄ってこなかった。
城主の嫡男である政宗が同世代の異性と知り合う機会があるはずもなく、恋などする間もなく、性愛だけを知った。
元々領主ともなれば婚姻は政略抜きには考えられないこともあり、恋だのなんだのということは考えもしなかった。何処ぞの傾奇者のように『恋』というものを考えたこともなかった。周りにいるのが無骨な男たちばかりだった所為もあるかもしれない。政宗にとってはそんなものなくとも生きていけるし、自分には為すべきことも為したいこともあった。それで充分だったのだ。
そんな政宗であったから、紛れもなく彰子への想いは初恋だった。
誰かを傍に置きたいと願い、その心を得たいと願ったのは初めてのことだ。
こんなにも誰かを求めたのは初めてかもしれない。
幼い頃に自分を疎んだ母を求めたものとは違う。あのときの苦しく寂しい思いとは別物だった。こんなにも切なく、甘く、そして苦しい。
「Ha! この世界に来てからは初めてのことばかりだぜ」
照れ臭く、そして何処か物哀しい思いを誤魔化すかのように政宗は独り言ちる。
己の気持ちはとうに認めている。自分が彰子に惹かれていること、想っていること、欲していること。けれどそれは叶わぬ想いだ。彰子には恋人がいる。彰子が相手を深く想っていいることは、共に暮らしていれば嫌でも判る。
それでも構わなかった。自分と彰子に未来がないことなど、初めから判りきっていることだ。
だから、ただ、彰子が自分を忘れないでいてくれればそれだけでいい。自分という男と僅かな時間を共有したことを。
自分の想いを伝えることはない。この贈り物だって、彰子には感謝の印として渡すのだ。それ以上の想いは彰子にとって負担になるだけだろう。
「Honeyが喜んでくれりゃ、それだけでいいんだ」
Honey──愛しい相手に使う言葉。
もしかしたらこれから先の長い人生の中で愛しむ女が現れるかもしれない。彰子以上に求める女が現れるかもしれない。そして彰子は思い出の中だけの存在になるかもしれない。
けれど、それでも自分が彰子以外の誰かに『Honey』と呼びかけることはないような気がした。それは奇妙な確信だった。
彰子だけの、特別な呼称。
「Honey」
もう一度、低い声で政宗は呟く。何処か切なく、甘い声で。
それはまるで政宗の心そのままの声の色だった。