忍足の部屋に泊まった翌日の日曜日、彰子はやはり政宗を放っておくことに気が咎めたのか、午前中には戻ってきた。
「……なんか、外泊の後って、恥ずかしいというか、照れくさいというか、気まずいというか……微妙な感じだね」
元の世界にいたときには、実家住まいの頃に外泊したことはなかったから、余計に『家族』とどんな顔をして接すればよいのか彰子には判らなかった。
政宗にしても自分の感情に気付いているから、想いを寄せる相手が別の男と閨を共にした翌日にどんな顔をすればいいのか判らないでいる。とはいえ、自分の気持ちを彰子は知らないのだし、自分が複雑な思いを抱いていることは気付かれないだろうが。
「まぁ……確かにな。オレも昔は遊郭に行った後に小十郎と顔を合わせるのは嫌だったな」
「……遊郭とか行くんだ」
「……………昔の話だ」
仕舞った、と思ったが後の祭だ。かつて一時期、放蕩生活を送ったことは事実とはいえ、そんなことを彰子に言う必要などなかったのに。彰子に話を合わせる為とはいえ、如何してこんな余計なことを言ってしまったのか。
「まぁ、政宗さんも健康な男だしね。そういえば、政宗さん、奥さんはいないの?」
「まだいねぇな。正室も側室も。面倒くせぇ」
「へぇ……。こっちの政宗公は13歳くらいで結婚してたし……側室は10人近くいたみたいだけどね」
「こっちの伊達政宗は早熟で絶倫か」
「まぁ……子どもも15~6人いたみたいよ」
「……。オレじゃねぇしな。オレは……妻は一人いりゃいい」
彰子が手に入るのなら彰子だけでいい。けれど、彰子を妻にすることは不可能だ。ならば誰でも同じこと。伊達の害にならない女ならば誰でもいい。
「難しいよね。領主ともなれば個人的な感情だけでは奥さんを選べないもの」
あの時代は政略結婚が殆どだ。否、歴史を見ればある程度の身分を持つ者ならば自由恋愛による結婚のほうが稀だ。だから、彰子は政略結婚即ち悲劇とは思っていない。政略結婚の駒に使われることは実家全てを背負うことの出来る有能な娘と認められた証といわれていることも知っている。政略結婚に使われない娘は『その役割を果たせない無能』という判を押されたことになるのだ。だから、今現在の自由恋愛で相手が選べる結婚と比べれば、遥かに大変で重責を背負っているのだろうなと思う。それゆえの悲劇もあるし、悲劇といわぬまでも夫婦互いに不幸になった例も少なくはない。
「妻なんざいなくてもいい。弟もいるし、オレに跡継ぎが出来なきゃ弟かその子どもに継がせればいい」
政宗はあっさりと言う。弟の小次郎政道は自分が後継者争いの火種になることを避ける為に出家しようとしたが、それを止めたのは政宗だ。本人は『兄上にお子が出来たら即、仏門に入る』と公言している。
側近たちは政宗が側室の1人も持たず、未だ子を成していないことを案じているが、政宗は家の後ろ盾──つまり、面倒臭いしがらみを持った女を相手にする気にはなれず、弟がいるのを幸いと妻帯する気はまるでなかった。
「へぇ、弟さんいるんだ」
「ああ。二人な。どっちもオレに似ずに穏かで優しい気性だ」
政宗の表情に彰子はホッとする。こちらの世界と違って兄弟仲はいいようだ。だとすれば、母親との関係も悪くはないのかもしれない。右目もトラウマにはなっていないようだし……。
こちらの世界の伊達政宗とは違うことに安堵する。過去に苦しみやトラウマの原因となるような、心の傷を負うことが少なかったのならいいのだけれど。それにこのまま小次郎との仲も巧く行ってくれればいい。こちらの世界の政宗は5年後に自らの手で小次郎を斬るのだから……。そんなことにならなければいい。
「……さて、今日はこれから買出しに行って……夕食は私が作るね。いつも政宗さんに作ってもらってるから、腕を振るうよ」
暗くなってしまいそうな思考を振り切るように、彰子は明るく言う。如何してこんな深刻になる話題になってしまったんだかと苦笑が漏れる。
とはいえ、深刻になってしまったのはこちらの世界の伊達政宗と比べてしまった彰子だけで、政宗自身は少しもそんなことはない。寧ろ弟のことは如何でもよく、自分の過去の悪行を自ら想い人に暴露してしまったことに少しばかり落ち込んでいたのだが。
「Honeyの手料理か。楽しみにしてるぜ」
日曜には彰子特製の手羽元のオレンジジュース煮込みとヨーグルトサラダという夕食を摂り、政宗の世界のことなどを話しながらのんびりと過ごした。
月曜からはまた彰子は学校へ行き、政宗が家事をし……1週間前と変わらぬ『日常』が始まった。
早いもので、政宗がこの世界にやってきてから20日余りが経っていた。
「ふーん、従弟の成実さんってそんなに政宗さんと似てるんだ」
いつものように政宗の作った夕食を摂り、二人で後片付けをして、のんびりとリビングでコーヒーを飲む。
いつもならば彰子は部屋に篭り勉強をしているのだが、明日は1日中球技大会だ。授業はないから予習する必要もない。
そこで久しぶりにのんびりと政宗とのお喋りタイムとなったわけである。ゴールデンウィークが終わってからというもの、日々慌しく、こうしてのんびりとするのは久しぶりのことだった。
コーヒーとクッキーを用意して、リビングで色々な話をする。今日の話題は政宗の側近たちだった。
片倉景綱──BASARAユーザーには小十郎といったほうが判りやすいだろう──と伊達成実、鬼庭綱元。伊達三傑といわれる政宗の側近。『智の景綱』『武の成実』『吏の綱元』。西郷輝彦と三浦友和と村田雄浩かぁ……と思い出す。
綱元の印象は余りないが、彰子にとって景綱といえば西郷輝彦、成実といえば三浦友和なのだ。三浦友和なんて若い頃には今のイケメン俳優どころじゃない人気者だった。尤も奥様のほうがそれに輪をかけた大スターで、しかも彼との結婚の為に僅か20歳ですっぱり芸能界を引退、以降30年間一切メディアに登場しないながら、未だにDVDが発売されるという正真正銘の大スターだ。彰子よりも少し上の世代などは、カラオケでそのスターの曲を歌おうものなら異様な盛り上がりを見せる。
閑話休題。
景綱──小十郎は政宗にとってまさに片腕らしく『竜の右目』といわれているらいしい。二人合わせて『双竜』といわれることもあると政宗は笑った。
「まぁ、口煩いのが難点だがな」
と言いつつ、政宗の表情は小十郎への信頼に溢れている。単なる部下ではなく、政宗にとっては師であり、友であり、歳の離れた兄のような存在なのだろう。
綱元は『能吏』という言葉がぴったりで、三傑の中の最年長、36歳だという。じゃあ、唯一私より年上かと、元の世界にいれば四捨五入してギリギリ三十路の彰子は考える。因みにゲーム内では『鬼庭延元/茂庭綱元』と本人が名乗ったことのない名前で登場していたが、政宗の世界ではこちらの歴史と同様に『鬼庭綱元』らしい。これを聞いてやはりBASARAに似て非なる世界なのだと確信した彰子である。
「なまじ顔が整ってやがるから、怒らせると怖くてな。強面の小十郎より恐ろしいぜ」
うんざりしたような表情の政宗である。如何やら散々怒らせているらしい。強面よりも恐ろしいというのは、ライバル校の強面でどう見ても30代に見えますな真田弦一郎が怒るよりも、虫も殺さぬ風情の美形王子様キャラの幸村精市の怒りのほうが恐怖を感じるのと同じかもしれないなどと彰子は考える。
「オレが政務を抜け出そうとしたら、あいつ、オレを部屋に監禁して全部終わるまで閉じ込めて飯も食わせなかったんだぜ」
「抜け出してサボる政宗さんが悪い」
「……Yes,Mom」
そして、話題は政宗の従弟でもある成実に移った。そこで政宗と成実の顔立ちがよく似ているという話が出たのだ。
「よくオレの影武者やってる。戦場でも、城でもな」
「城でも、って……成実さんに仕事押し付けてるとか?」
「Honey……オレをなんだと思ってるんだ」
「だって、話聞いてると仕事サボって片倉さんに怒られてるとか、仕事抜け出そうとして鬼庭さんに監禁されてるとか……そういうことばっかりじゃない」
「体動かしてるほうが好きなんだよ。いつも抜け出してるわけじゃねぇ」
因みに完全に蛇足だが、政宗は『サボる』という言葉は知らなかった。元々はフランス語から派生した言葉で明治以降に使われるようになったといわれているから無理もない。
「ふーん。まぁ、また監禁されない程度に頑張ってね」
跡部は自分に大量の仕事をやらせるが、本人はそれ以上の仕事をしているからまだマシだなぁ……などと『部下』目線で見てしまい、綱元と小十郎に深く同情する彰子である。
「城の中も……全てがオレの味方ってわけじゃねぇからな。場合によっちゃ、隠れて事を進めるときだってある。気付かれねぇように成実にオレの振りさせて、オレと小十郎が動くってこともあるんだよ。成実は顔立ちよりも声がオレに似てるからな、うってつけなんだ」
さらりと何でもないことのように、政宗は自分の置かれている立場を語る。
「お家騒動とか……あるんだ」
「そこまで大袈裟なもんでもねぇけどな。親父とオレとで奥州を制覇したんだ。そりゃ色々あるさ。親父がお袋を娶ったのも、そういう絡みがある。まぁ、親父はオレに比べれば人格者で人望もあるがな」
その口調には紛れもなく父への敬愛と尊敬が篭っている。
伊達輝宗……北大路欣也か。CMで犬の声やってたときには驚いたな……。っていうか、犬の父親に美女の母、黒人の息子に日本人の娘、タランティーノが叔父って有り得ないから。そういえば最近出てきた祖母は父の声と同世代じゃないんだろうか。うん、如何でもいいことだ。
「ただ、オレはお袋に疎まれてるからな。それに勘付いてるヤツらがオレを追い落とそうとしてる……ってのはある」
政宗の口調が苦々しくなる。ああ、やはり、この政宗さんも義姫との関係は良くはないんだと、彰子も複雑な気分になる。
我が子を疎んじ毒殺しようとしたといわれる義姫に対して、世間では鬼母などという評価さえある。母親なのに何故子供を憎むのかと。けれど、彰子はそういうこともあるだろうなと冷静に考える。
母性神話は絵空事だと彰子は思っている。親が必ずしも子どもを愛するとは限らない。必ず愛するのならばネグレクトなど起こるはずがない。それに、子を愛していてもそれが子供の望むものとは別であることもある。彰子自身、両親は『親子なんだから、言わなくても判る』と彰子自身を知ろうとはしなかった。彰子が何を考え、何を思い、何を悩み苦しんでいるのか。死すら考えるほどに苦しんでいたことにも気付かなかった。彰子が相談しようにも『何も言わなくても判ってるよ』といわんばかりの親の態度に何も言えなくなった。その家族との心理的な乖離が彰子がこの世界にトリップした一因でもあった。
「救いなのは、お袋がオレを疎んじてはいても、廃そうとはしてねぇってことだな。だが、お袋の実家はそうじゃねぇ」
政宗は義姫のことを『お袋』と呼ぶ。政宗自身が義姫に対して子としての愛情を持っていることが感じられる言葉と声の優しさだ。そのことにまた彰子は安堵する。
「義姫の実家だと最上だね」
この世界だと、結局江戸時代に改易されるまでは大名家として存続し、その後歴史ある名門であるという理由で旗本に取り立てられ、その子孫は宇和島伊達家や水戸徳川家に仕えたりしている。
「今は一応オレの配下ってことになってるが……隙あらば独立しようと狙ってるな」
政宗は溜息をつく。
自分がこの世界に落とされてから早20余日。こんなにも長く不在にすることになるとは思っていなかった。もっと早く戻れると思っていた。けれど未だに戻れる気配はない。
表面上は何事もないように振舞っている。自分という厄介者を押し付けられ、不満の一つも言わず善意で生活の面倒を見てくれている彰子に余計な心配はかけられない。
それでも心は焦る。イライラと苛立つ。早朝の鍛錬の素振りはその苛立ちを紛らわすかのように荒々しくなってしまった。日参する公園で知り合った老人に『雑念まみれだな』と言われてしまうほどに。
恐らく自分の不在は成実が自分の振りをすることで隠しているだろう。その陰で不在を隠す為に綱元は必死になっているに違いない。小十郎は腹心の者たちと死ぬ思いで自分を探し回っていることだろう。
いつまでも自分の不在を隠すことは出来ない。伊達上層部に何かあることが知れれば、最上はじめ下した元諸大名は蠕動を始めるだろう。伊達内部が揺れていれば、そこを他国に付け込まれる。軍神や甲斐の虎がそのような真似はしないだろうが、北条や今川は判らない。
漸く落ち着いた奥州。それが揺らぎかねない。そして揺らいで戦となれば、その犠牲になるのは何の罪もない無辜の民たちなのだ。
それを思えば、ここでこうして彰子と話をしていることすら厭わしくなる。すぐにでも戻りたい。早く、早く。
そう願うはずなのに、心の何処かではこのままここで過ごしても構わないと思っている己にも、政宗は気付いていた。彰子がいる世界にこのまま留まりたいと。彰子を連れ還ることが出来ないのならば、このまま自分がここに残りたいと。
奥州筆頭伊達政宗としての想いと、ただ一人の男としての想い。それが鬩ぎ合う。
元の世界に戻りたい、為すべきことを為したいと願う一人の人間としての思い。領主だとか武将だとか大名だとか、そんなことは関係なく、自分の世界で為したいことがある。それは偽りない政宗の心だ。
けれど彰子の──初めて心から欲した女の傍にいたいと願うのもまた、政宗の本心に他ならない。
「……大丈夫。政宗さん、還れるから」
沈黙してしまった政宗に、彰子はそう断言する。
「Honey?」
「政宗さん、今まで言わなかったけど、私、政宗さんがいつ頃還れるか、大体予測ついてるんだ」
彰子はそう言って政宗に微笑みかける。草紙神に言われたとは言えない。それは草紙神に禁じられている。
「多分……あと10日程度で還れると思う」
「Why? 根拠は?」
突然言われても政宗には納得出来ない。こちらに来たばかりの頃は自分たちの知らない科学技術があるから彰子は『還れる』と断言したのだと思っていた。
けれど、彰子にインターネットの使い方を教えられ、自分でもこの世界の科学技術の水準を知ることが出来た。技術そのものを理解することは難しかったが、少なくとも並行世界はサイエンスフィクションの世界の事象であり、まだサイエンスとしては解明されていない、実在は肯定されていないものだ。ゆえに次元の壁を越えて別世界へ行く方法などあるはずがない。
不信感をありありと表情に乗せている政宗に彰子は苦笑する。
「科学的根拠は求めないでね。そもそも、貴方がここにいること自体、科学的には有り得ないことなんだから。超常現象なんだし」
そう言って彰子は説明する。──草紙神から1ヶ月後といわれ、それを政宗に知らせる場合どういった説明が一番納得させやすいのかとずっと彰子は考えていた。政宗の立場や起こった現象を考えれば彼が焦りを覚え苛立つのも当然だと思っていたから、いつか政宗がそれを爆発させ、いつ戻れるのだと言い出すことは予想していた。
尤も、政宗はその矜持の高さと優しさから自分に気を遣い、それを隠していた。政宗が隠していることには気付いていたから、いつどんなタイミングでこの話をするのか、時機を計っていたのだ。そんな折に、草紙神から携帯にメール形式での連絡が入った。『23日に政宗を元の世界に戻す、時間は政宗が現れたのと同じ午前9時5分』と。
「色んな神話やファンタジーに基づく予測なんだけど……月が関係してると思うの」
神話やファンタジーと聞き、政宗は緊張していた体から力が抜ける。
「あ……そんな馬鹿にした顔しないでよ。月が地球上の生物に色んな影響を与えるのは科学的にも立証されてるんだからね。科学が未発達の時代に、人間はその影響に既に気付いていたからこそ、神話やファンタジーに月の魔力として出てくるんじゃない」
自分でも説得力に欠けるだろうなと思ってはいたが、まさかそんなに可哀想な子を見るような目で見られるとは思ってもいなかった。
「潮の満ち干きは月の引力が関係しているし、それと生物の出産も関係してる。女性の身体だって月の満ち欠けの周期と連動してるわ」
だから、月経は大抵の人が28日周期なのだ。彰子は『月のもの』という月経の『月』は『Month』ではなく『Moon』なのではないかと思っていたりする。
「Ah-……なるほど、そう言われればそうかもしれねぇな」
確かに厩番の爺から子馬は満潮時に生まれることが多いとは聞いたことがある。強ち彰子の予想は外れてはいないのかもしれない。
「だからね、政宗さんがこっちに来た日が月齢9.9で……それと近い月齢だと、23日が9.4だから……多分、23日か24日あたりには還れるんじゃないかなーって」
彰子の言葉は何故か妙な説得力を持っている。月の不思議な影響という話は納得出来るようでいて、納得出来ないような……微妙なものだ。彰子が政宗がいつ戻るのかを知っているからこその言葉の力だったが、それを政宗が知るはずはない。
だから……政宗は信憑性に欠ける月の魔力を持ち出した話も、強い言葉も、全て弱っている自分を励ます為なのだと思った。
「Thanks.彰子」
もし、彰子の予想が中っているのだとしたら、自分がこの世界にいられるのはあと10日しかない。10日が過ぎれば、自分はこの世界を去らなければならない。彰子と別れなければならない。
現金なもので、還ることが出来るかもしれない日が判ると、苛立ちや焦りはすっと消え、彰子と別れることの寂しさだけが政宗の胸を占めた。
(仕方ねぇことだ……。オレと彰子は生まれた世界が違うんだから)
「あと10日って判ると今度はあと10日しかねぇのかって思っちまうもんだな」
「そうねぇ……。安心したがゆえの我が侭ってところかしら」
多少明るさを取り戻した政宗の表情に彰子はホッとする。
そう、あと10日でこの同居生活も終わるのだ。そう思うと彰子も寂しさを感じる。
いつの間にか、政宗は彰子の生活の中に溶け込んでいた。相変わらず用もないのに定時連絡のように送られてくるメール、帰宅すれば出迎えてくれる夕食の匂い。猫たちとは違う、人との会話。一人暮らしの家の中では出来なかった様々なこと。それは全て政宗が齎してくれたものだった。この心地いい同居生活も、あと10日で終わってしまうのだ。
「だったら、残りの日を互いに楽しむか」
「そうね」
どちらも互いの心の中の寂しさに気付かないまま、夜は更けていった。