ゴールデンウィークの合宿には参加しなかった分、彰子は時間の余裕が出来た。ゴールデンウィークは合宿に参加しない一般部員は練習も休みだ。例年は自由参加の練習となっていたのだが、今年はこの期間にコート周辺の工事をするとかで、練習が出来なくなったのである。普段からハードな練習を課せられていた部員たちは喜んだのが。
そんなわけで彰子は暇になったはずだった。5日間の休みである。普段であれば、忍足と遊ばないとなれば1日中家でゴロゴロしつつ、ゲームやネット三昧だっただろう。多分、途中で猫たちの遊んで攻撃に邪魔されるが。
しかし、今年はある意味彰子は相当忙しい思いをすることになった。政宗は好奇心が旺盛で知識欲も強い。そんな政宗に求められて、美術館や博物館巡りをすることになったのだ。更に政宗は某巨大遊園地にも興味を示した。
ゴールデンウィークなんて人が多すぎるーー!! と思いはしたものの、今を逃せば政宗がそこに行くことは不可能だ。滅茶苦茶に人が多くて満足にアトラクションを体験出来ない可能性もあることを説明した上で、政宗を連れて行った。実際に半日ほどの滞在でアトラクションにはそれほど乗れなかったにも関わらず、政宗は満足そうだった。
「これだけの人間が楽しんでるんだ。平和な証拠じゃねぇか」
政宗はそう言った。政宗は遊ぶことが目的ではなく、平和の象徴ともいえる遊園地を自分の目で見たかったのだ。
美術館や博物館もそうだった。長く平和が続くからこそ、過去を振り返り文化を楽しむ余裕が出来る。遊園地も美術館も博物館も、政宗にとっては『長く続く泰平の世の象徴』だったのである。
自分たちが今、覇を競い合っている天下。天下を統一することは戦をなくすこと。そして、戦をなくした後の世界はどのようになるのか。すぐにこの世界のようにならないことは判っている。
けれど、自分たちの誰かが天下を統一することによって、やがては自分たちの世界もこんなふうに休日に刺激を楽しんだり、文化芸術に触れたり、歴史を振り返ったりする余裕のある世になるに違いない。
自分たちはその礎を築くのだ。政宗はそう考えていた。
ゴールデンウィーク中には、毎晩彰子の許に恋人からの電話が入っていた。時間は大体午後10時前後。ミーティングが終わりフリータイムになるのが大体その時間らしい。
電話がかかってくると、彰子はリビングから自分の部屋に移動して30分は出てこなかった。政宗はそのたびに不機嫌になる自分を感じていた。
彰子にしてもその恋人にしても、本当ならずっと一緒に過ごしていたはずの時間だ。だが、そうならなかったのは自分がいた所為。自分を一人には出来ないからと彰子は合宿参加を取り止めた。
だから、恋人である彰子と相手の男が毎日電話で親密に話をし、自分がそれを不快に思っても、それは彼等に非があるわけではない。仕方のないことであり、当然のことのはずだった。
30人近い男の中に女一人を放り込むなんて出来ないと思った。しかも同世代の男たちだ。性衝動が最も強い年代の男の中に、本人に自覚がないとはいえ歳相応の色香がありそれなりに見目も良い彰子を放り込むなど出来ない。本人に危機感が全くないからこそ余計に。
そう思ったのは事実だが、この『女』が彰子でなければ、なんとも思わなかっただろうことを政宗自身でも判っている。そして、恋人がその中に入っていたから余計に行かせたくないと思ったことも。彰子だから反対したのだ。恋人がいたから反対したのだ。
彰子の好意を利用して自分のエゴを押し通したような、そんな罪悪感もあった。政宗に反対される以前に彰子自身が不参加を決めていたにも係わらず。
だから──彰子が忍足の部屋に行くことを政宗は止めることが出来なかった。
ゴールデンウィークも終わり、平常に戻った金曜の夜に彰子を送り届けた忍足は、政宗に言ったのだ。
「いつも週末は、彰子は俺の部屋で過ごしとるんですが、明日もそうしてええですよね」
と。いつもそうなのだと言われてしまえば、政宗は反対出来なかった。否、叔父という立場──保護者になり得る立場を利用して反対しても良かったのだが、そう出来なかった。
彰子は自分がいることによって日常の行動をかなり制限されている。普段とて、勉強の為に自室に篭る以外は大抵リビングにいて、政宗の相手をしてくれている。本来その時間は彰子が体と心を休める為の時間だったはずだ。
ゴールデンウィークの合宿にしてもそうだ。彰子は政宗の為に自分本来の時間を犠牲にしている。
そう思えば、政宗は忍足に『No』と言うことが出来なかった。週末を──夜を一緒に過ごすことが如何いう意味を持つのかは容易に想像が出来るのに。
政宗を放置することになると彰子は申し訳なさがったし、同居人に『恋人の部屋にお泊り』を知られたことを恥ずかしがりもした。
「オレだって男だ。あいつの気持ちは解らねぇでもないからな」
態とニヤリと笑って政宗はそう言った。僅かばかりの胸の痛みを堪えながら。政宗の言葉に彰子は真っ赤になった。
「……日曜の昼には戻るから」
「のんびりすりゃいいじゃねぇか。オレの所為で恋人と過ごす時間が減ってるんだろ。あいつ、オレを毎回恨めしそうに見るぜ」
その視線は少しばかりの優越感を政宗に齎すものでもあった。しかし、『そこは本当は俺の場所。アンタに一時的に貸しているだけだ』とも言われているようで癪に障るのも事実だった。
「もう……」
彰子は呆れたように、けれど何処か嬉しそうに苦笑する。
「でも、買出しに行ったり、掃除や洗濯もしなきゃいけないからね」
「オレがやっておいてやる。慣れたもんだぜ」
「……いいの?」
「ああ。Don't mind.愉しんで来い」
「……たのしんで、に微妙な含みを感じます、筆頭……」
「考えすぎだ」
揶揄いながらも、打てば響くような彰子との会話は政宗にとって楽しいものだった。けれど、何処か苦いものでもあった。
夕食を終えると、彰子は恥ずかしがりつつ家を出て行った。隣の恋人の部屋に行く為に。
流石に忍足も彼女の親戚──しかも男親側の男性の親戚──と夕食を共にすることは憚られたのか、いつもであれば共にしていたという夕食の席には現れなかった。そのことに──自分と彰子との生活圏に異物が入り込まなかったことに政宗はホッとした。だが……本当は自分が異物なのだ。その自覚はあった。
いつものようにテレビをつけるが内容は頭に入ってこない。楽しみにしていたハリウッドのアクション映画だったが、ただ音を五月蝿く感じるだけだった。自分の意識が隣の部屋に向いていることは判っている。
自分たちの世界のように、隣の物音が筒抜けになるような構造の建物ではない。硬いコンクリートは音を遮断する。彰子曰く、高級マンションであるこの建物は防音も確りしているらしい。同じ家の中でも彰子が部屋に篭ってしまえば、リビングにいる自分には何の音も聞こえないからそれは本当だろう。だから、自分の耳が戦場に立つときのように周囲に敏感になっていたとしても、別の家にいる彰子の気配が感じ取れるわけではないのだ。それなのに、自分の全身は彰子の気配を探っている。
「……Shit」
いつから自分はこんなに女々しい男に成り下がったのかと嫌気がさす。
政宗は立ち上がると浴衣からジーンズ・Tシャツに着替える。サングラスをかけ、鍵と財布を持つ。
「……何処行くんだよ、政宗」
「コンビニで酒でも買ってくる」
「お酒は年齢確認が必要ですわ。未成年──20歳未満には買えませんわよ。まぁ、政宗は未成年には見えませんけれど」
「オレの世界じゃ元服すれば何歳でも関係ない」
「When in Rome do as the Romans do.と申しますでしょ」
「……覚えやがったのか、真朱」
「貴方がよく口にしていましたからね」
「まぁ、ねーちゃん、いいじゃねーか。飲まなきゃやってられねーってときもあるさ、男にはな」
「プリン買ってきてやるよ、真朱。だから見逃せ」
「……口止め料ですから、餡子を所望します」
「大福か。……面倒だな」
「探し回れば、少しは頭も冷えるでしょう。探して買ってきなさい」
「……Yes,Mom」
その真朱の言葉に政宗は苦笑する。やはり真朱は彰子とよく似ている。突き放したようでいて、その実優しい。ただ違うのは、彰子に向けられている好意に敏いことだ。自分が彰子に如何いった想いを抱き始めているのか、真朱は感じ取っているのだろう。無理もない。猫たちは政宗と過ごす時間が彰子よりも長いのだから。
「……政宗、土曜日の夜は変なヤツも多いから、ケンカとかしないでよ」
それまで黙っていた撫子が首を傾げてお強請りモードで言う。政宗が苛ついていることを感じているのだ。いつもの政宗であればスルー出来ることでも無理かもしれないと。
「仕方ないな。俺がついていってやるよ」
「心配すんな。彰子に迷惑をかけるようなことはしねぇよ」
心配性な猫たちに苦笑を返し、政宗は家を出る。
マンションから出れば、初夏の生温い夜風が肌を弄る。湿度の高い夜風は不快感を伴い、政宗の神経に障る。猫たちとの会話で少しは和んでいた心もまた苛立ちを感じる。
こんなにも一人の女の存在に振り回されるなど政宗にとっては想像も出来ないことだった。平和な時間だからかもしれない。戦のことも、政も、何も考えない時間だから……余計なことを考えてしまうのかもしれない。そう思いたかった。
「……酒を手に入れて飲んだくれるか。酔っちまっても五月蝿い小十郎はいねぇしな」
誰かに聞かせるわけでもないのに、政宗は声に出して呟く。自分に言い聞かせるかのように。
結局、真朱ご所望の大福がいつも利用するコンビニにはなく、漸く手に入れてマンションに戻ったのは出かけてから1時間が過ぎた頃だった。
町中には撫子が注意したように酔っ払いや破落戸擬きもいたが、殺気といわぬまでも近寄れないオーラをビシビシ出していた政宗に絡むような勇気ある輩はなく、何事もなく政宗は帰ってきた。
1時間で頭も冷えたと思っていた。だが、ふと見上げたマンションの明かりで政宗の心はまた波立つ。最上階の一番奥の部屋──そこが自分たちが住む部屋だ。その隣、出かけるときには点いていたはずの隣家の明かり。それが消えている。それを理解した瞬間、政宗は踵を返し、来た道を戻り始める。何処に行く宛があるわけでもないが、部屋に戻りたくなかった。
「Shit……」
それは彰子の恋人に向けたものなのか、それともこんなにも苛立つ自分に向けられたものなのか、政宗自身にも判らなかった。
政宗は歩みを止める。自分は今、不快なものから逃げ出そうとしている。オレはいつからこんなに女々しく愚かになったのだ。
「……真朱も萌葱も撫子も気を揉んでるだろうな」
出かけて1時間以上が経っている。きっとあの飼い主に似て心優しい猫たちは自分を心配しているだろう。
「猫にまで心配かけるなんざ、独眼竜らしくねぇな。Coolじゃねぇぜ」
自嘲するように笑い、政宗は再び踵を返した。マンションへ戻る為に。
案の定、マンションでは猫たちが何処か心配そうな表情で待っていた。
「ったく、真朱のお願いの所為で探し回ったぜ」
心配するようなことはないのだと、政宗は明るく言う。何かあったのではない。戻りたくなかったのではない。ただ単に求める商品がなかった所為で遅くなっただけ。猫たちにそう説明するかのように。
「ご苦労でしたわね、政宗。褒めて差し上げます」
自分の考えな何処の化け猫にはお見通しなのかもしれないと政宗は思う。こいつは妙に聡いから。
「……何か、すごーく失礼なことを考えたでしょう、政宗」
「……てめぇ、やっぱり化け猫か」
「何を失礼なことを。こんなに愛らしく賢いわたくしを化け猫だなんて」
「一般的には、ねーちゃんは化け猫カテゴリーに入ると思うぜ。普通の猫は喋らないし、パソコンもケータイも使えないだろ」
「だよねー。ママってば最近は英語まで出来るようになったしさ」
「お黙りなさい、萌葱、撫子。わたくしが化け猫ならばお前たちもそうですよ」
「……Sorry.ケンカすんな。お前らは化け猫なんかじゃねぇよ」
仮令猫であれ、こんなにも自分のことを心配してくれる。今だってケンカしながらも政宗に体の何処かをくっつけ、政宗を案じているのだ。
「お前らは彰子にとってかけがえのない家族で……オレにとっての心許せる友だぜ」
猫だけど、そんなことは関係ない。
「だよなー! 俺たちはダチだぜ」
「うん。それで、おかーさん大好き同盟の仲間なの」
さらっと妙に鋭く的確なことを撫子は言う。
「まぁ、政宗の大好きとわたくしたちの大好きは種類が違いますけれどね」
……やっぱり、猫たちは判っているらしい。
「さて、大福食うか」
政宗は苦笑しながら、キッチンへと移る。大福を切り、餡子だけを小皿に取り出す。猫たちは餡子は食べるが餅は食べないのだ。酒のつまみは餡子なしの大福だ。
猫たちに餡子を与え、政宗は買って来た日本酒とグラスを和室へと運ぶ。外出した所為で体がじっとりと汗ばんでいる。もう一度湯を浴びて汗を流そう。そう決めて政宗は浴衣を手に浴室へ向かった。
「……少しは穏かな顔になりましたわね」
「ホント。おかーさん出かけてからの政宗、すんごく怖い顔してたもんね」
「自分では気付いてなかったみてーだけどな。ホント、世話の焼けるヤツだぜ、政宗」
その背中を見ながら、猫たちがそんな会話をしていたことに当然ながら政宗は気付かなかったのだが。
入浴していた間に一雨降ったらしく、湿度の高さは幾分緩和され、夜風は心地いい涼しさを齎していた。
窓を開け、漸く見えた月を眺めながら、政宗は酒盃を傾ける。
数時間前に感じた苛立ちは随分薄れていた。
「このオレにここまで嫉妬させるとはな……。本当に大したLadyだぜ、彰子」
最初から惹かれていたのかもしれない。今になってそう思う。
いつから彰子を特別に思い始めたのかなど判らない。政宗にとって彰子だけがこの世界において係わりのある人間だった。けれど、それだけの理由で惹かれたのではない。彰子だからこそ、惹かれたのだ。
初めは面白い女だと思った。興味深い女だと思った。そしてそれだけではなく、本当の優しさを持った女だと知った。
ただ優しく接するだけ……甘やかし労わるだけが優しさではない。彰子は厳しいことも言えば、政宗にとって苦い情報も突きつける。だが、それは政宗にとって必要なことだと判っているから、敢えてそうするのだ。
そういったことを告げるときの、行動するときの彰子は何処か不安そうな、躊躇うような表情を見せる。そして、政宗がそれを受け止めたことを知るとホッとしたような安堵の笑みを浮かべる。政宗のことを思うからこその彰子の行動であり、態度なのだ。何処か腹心である小十郎と似ているかもしれない優しさだ。
政宗はこの世界に来て様々なことを知った。自分の世界と比べ、様々なことを考えた。文明の違いに、豊かさの違いに、平和な世に焦りを感じなかったといえば嘘になる。自分たちの世界もこうなることが可能なのだろうか。自分たちがやっていることは間違いではないのかと。
「あのさ、この世界だって、戦国時代から……秀吉の天下統一から400年以上かかってこうなったんだよ。違うのは当たり前じゃない。400年間色んな人が努力して、こういう世界を作ったんだもの。でも、戦国時代に色々な人が命を懸けて戦って、それまでの社会の膿を出し切ったからこそ、新しい時代が作れた。だからこそ、徳川幕府は260年もの泰平の世を作れたんだと思うよ。政宗さんたちは今、この世界と同じような、豊かで平和な世界を作る為の基盤工事をやってるんだと思う。基礎が確りしてなきゃ、どんなに見かけが立派な建物を作っても、それは張りぼてと同じでしょう。政宗さんたちがやってることは時代の……歴史にとって必要なことなんだと思う」
彰子はそう言った。焦ることはないのだと。自分の信じる道を進めばいいのだと。それが政宗の心を軽くし、力を与えた。元の世界に戻ってももう迷うことはない。自分は進んでいける。
「彰子を……奥州に連れて行きてぇな」
彼女が傍にいれば、自分はもっともっと先へ進める。彼女がいれば自分に安らぎを与え、力を与えてくれる。彰子がいなくても進んでいけるし高みを目指すことは出来るが、彰子がいれば、もっと高いところへ、もっと先へ進んでいけそうな気がする。彼女を自分の傍に置いておきたい。
けれど、それは叶わないことだ。彰子は自分とは違う世界に生きる人間なのだ。ほんの偶然から、神の悪戯によって自分は異世界へとやって来た。そして、何れは帰らなければならない。自分の生きる世界はここではない。それと同じように、彰子にとっての生きる世界はここなのだ。自分たちの世界ではない。
それでも……叶うことならば、彰子を連れて帰りたい。
「……ああ、それなら猫たちも一緒じゃねぇと怒られるな」
絶対に叶うことのない願いだと判りつつも政宗は呟いた。
そんな政宗をか細い月明かりが照らしていた。