「Good morning,Honey」
「おはよ、政宗さん」
午前5時45分。彰子が朝食を摂っていると、政宗が和室から姿を現した。昨日購入したジャージを着、右手には竹刀袋(当然ながら竹刀入り)を持っている。
「じゃあ、これから行って来る」
「ええ、気をつけて。特に車」
「I see.何度も言わなくても判ってるさ、Honey」
そう言うと政宗は萌葱を連れ、小さなスポーツバッグを持って部屋を出て行く。
これからランニングと素振りをする為に近くの公園まで行くのだ。因みにいつもの眼帯は外し、医療用の白い眼帯をつけている。流石にトレーニングをするのにサングラスは不似合いだということで、昨日買っておいたのである。スポーツ用サングラスをとも彰子は考えたのだが、出費が嵩むことを気にした政宗が風呂上り用にと買った医療用でいいと遠慮した結果だった。
彰子が住むマンションから歩いて10分程度のところにそれなりに大きな自然公園があり、格好のジョギング・散歩コースとなっている。そこで政宗は早朝の鍛錬をすることにしたのだ。場所は昨日の食料品買出しの際に教えてあるし、自分のテリトリー内ということで萌葱が道案内としてついていくから大丈夫だろう。
スポーツバッグの中には昨晩渡した自宅の鍵と念の為の猫用携帯電話、スポーツドリンクのボトルとタオルが入っている。因みに猫用携帯電話は発信制限をかけたキッズ用携帯で、彰子の携帯にしか発信出来ず、メールも彰子にしか送れないようになっている。
昨晩、話し合って1日の大雑把な予定を組み立てた。
彰子はテニス部の朝練が7時からあり、マネージャーとして準備もしなければならないことから、6時半には既に学校に到着している。その為6時過ぎには家を出る。
政宗の起床はほぼ夜明けと同時であるから、この時期は6時前後だ。起床後半刻ほど鍛錬をし、その後朝食、執務……というのが普段の政宗の日課だ。流石に執務は出来ようはずもないが、それ以外は元の世界にいるときとほぼ同じ流れで生活したほうがいいだろうということになった。
そんなわけで、彰子は先に朝食を摂り、彰子が家を出る前に政宗は鍛錬に出かける。彰子が家を出た後に政宗は帰宅し、朝食となる。巧い具合に彰子とすれ違いになるような行動予定だ。
これには彰子もホッとした。恋人の忍足は家が隣で部活も同じ。つまり一緒に登下校するわけだ。現段階ではまだ政宗の存在を明かすことは出来ない為、政宗と忍足が顔を合わせる状況は出来るだけ避けたい。かといって露骨に政宗にそれを言うのもなんとなく憚られたのだが、これまでの政宗の生活習慣と同じ流れにすると、巧い具合にすれ違いタイムテーブルになってくれた。
食事を終えた彰子は二人分──自分と忍足の分──の弁当を鞄に詰め、残りの一人分を冷蔵庫に入れる。それから政宗に宛てたメモを書き、準備はOKだ。全ての準備を終えると丁度出かける時間になっていた。
「じゃあ、真朱、撫子。あとをよろしくね。政宗さんのこと頼むね」
「お任せください、ママ。心配はご無用ですわ」
「うん。おかーさんの部屋には絶対入らせないし、安心して」
頼もしい猫たちの頭を撫でると、彰子は登校する為に家を出た。
マンションのエントランスで忍足と合流し、彰子たちはバス停へ向かう。
いつもは忍足が彰子の部屋まで迎えに来るのだが、土曜日から彰子の両親が滞在していることにしている為、彰子が頼んでエントランスホールでの待ち合わせにしてもらったのだ。
別段、政宗が出かけた後なのだから忍足が来ても問題はなさそうなのだが、両親の気配が全くしないことを忍足に不審がられても困る。自分と両親が接することを彰子が極端に避けていることに忍足は気付いていて、それを不満に思うこともあるのだが、まだ高校生だからか……と己を納得させている。自分だってまだ彰子を両親と会わせていない。自分の場合も両親は離れた関西に住んでおり、両親が上京してくることもないから当然といえば当然なのだが。彰子も忍足の不満には気付いているが、両親の存在は書類だけのものでしかない為、会わせようにも会わせる方法がないのだからそうせざるを得ないのだ。
「もうすぐ都大会やな。今年で最後か……」
「だね。全国連覇しようね」
「当然や」
そんな、いつもどおりのなんでもない会話を交わしながらバス停へ向かう。政宗が行っている公園とは反対の方向だ。
「けど、土曜日は残念やったな。折角久々のデートやったのに」
少しばかり怨ずるように忍足は言う。勿論本心から恨み言を言っているわけではない。
「それは私も同じだって。とにかく突然予告もなしに来たんだもの。何しに来た!! って感じ」
これは本心だから彰子も心から同意する。まぁ、来たのは両親ではなく異世界の奥州筆頭だったし、全く以って政宗には非がなく、彼自身も被害者なのだから政宗を責めることは出来ないが。
「ゴールデンウィークは恒例の合宿やし、その後はすぐに都大会始まるからな。デートは都大会終わるまでお預けやな」
そう言われてしまうと、土曜日のデートが潰れたのが今更ながらに物凄く悔しくなる。政宗に罪はない。罪はないと判ってはいるが、政宗さんの馬鹿ー! と言いたくなる。
それに恒例の青学・立海との合同合宿も現状では参加が難しいかもしれない。跡部の家が所有する箱根の別荘に4泊5日。ライバルである青学と立海の2校との合同合宿も今年が最後なのだ。
政宗は約1ヶ月この世界に滞在することになる。ゴールデンウィークは来週。いや、正確にいえば今週末から始まる。政宗がこちらの世界に来てから1週間しか経っていないのに5日も家を開けることは出来ない。既に合宿の準備はほぼ出来ているとはいえ、合宿中の食事のこともある。早めに諦めをつけて跡部たちに不参加を告げなくてはならないだろう。
(イレギュラー事態が発生してるんだから、多少日常が犠牲になるのは仕方ないよね……)
隣を歩く忍足に気付かれないように彰子はこっそり溜息をつく。忍足とはこれからもずっと一緒なのだ。けれど政宗は期間限定の異世界からの
部活の朝練も終わり、授業が始まる。土日の異常事態によってあまり予習が出来ていない彰子は『今日は当たりませんように!!』なんて高校生らしいことを思いながら授業を受けた。今は苦手な物理の授業だ。如何やっても日常生活には関係なさそうな授業内容に、『こんなの勉強する意味あるんかい』とかつての高校時代と似たようなことを思いつつ、政宗だったら興味津々で授業を受けるんだろうなぁなんてことも考える。
それはさておき、戦々恐々と授業を受けている彰子のポケットで携帯が震える。いつもは鞄に仕舞っている携帯を今日は上着のポケットに入れているのだ。
恐らく猫たちからの定時連絡メールだろう。──今日から始まった習慣なのだが。彰子の知らぬ間に猫たちが勝手に決めた『定時連絡』らしい。
そう、猫たちはメールも打てるのだ。正確には『たち』ではなく真朱だけだが。一応全猫平仮名は読める。真朱は小学校で習う程度の漢字も読めるし、ローマ字も理解している。なんせ真朱はパソコンや携帯で文字を打つことも出来るのだ。器用に爪を使ってポチポチと打つのを見たときには感動して抱きしめてしまい、苦しがった真朱に珍しく爪を立てられてしまった。
しかしながら何処まで頭がいいのか怖いくらいの猫たちだ。世間にばれたら『面白ペット大集合』どころではなく、研究所行きになってしまうのではないだろうか。
流石に授業中に携帯を取り出すことは出来ない。彰子はこれでも学内では割と真面目な生徒で通っている。この授業も間と数分で終わるのだが。
今朝、猫たちからメールが届いたときには何事かと焦った。緊急事態ならば電話をかけてくるはずだと思い直し、部活中に届いていたらしいメールを開くと、差出人は当然ながら真朱だった。内容は
『まさむねが とれーにんぐから ぶじに かえって きました。ごあんしんを まま』
というものだった。全て平仮名なのは漢字変換が面倒臭いからだと以前聞いたことがある。
その後も
『いま あさごはんを たべおわって あとかたづけも しました』
『そうじきをかけています。まさむね はたらきもの ですわ』
『もえぎが といれそうじを おしえました。くさいといわれましたの。しつれいですわ』
といったメールが届いている。しかし、猫に言われて猫トイレの掃除をする奥州筆頭。故郷の部下たちが見たら泣いてしまうに違いない。
授業が終わるや即、彰子は携帯を取り出しメールを確認する。差出人は真朱なのだが、文章が違う。漢字が混じっている。
『昼餉の弁当、Thanks.旨かった。気を遣わせたな、Sorry.夕餉はオレが作っておくから心配するな。猫の食事も終わらせた。 政宗』
読み終わった彰子ががっくりと疲れ果て、机に突っ伏したとしても仕方ないだろう。いつの間にメールの作成と送受信をマスターしたんだ。しかも夕食を作るって……。
メール云々を教えたのは当然猫たちだろうが、馴染むのが早すぎる。まぁ、政宗の好奇心の強さと頭の良さから、そう遠くないうちに使えるようになるだろうとは思っていたが、マジで馴染むの早すぎっす、筆頭! と盛大に心の中で彰子は突っ込んだ。
『夕餉は帰宅してから作るから、政宗さんはのんびりしていて。気を遣わなくていいから』
政宗さんへ、と件名をつけ、そう返信する。本当は余計なことはしなくていいからと書きたかったが、そこは言葉を選んだ。いくらお手伝いしてくれるからといって、流石にあれもこれも遣ってもらうのは気が引ける。掃除だってしてくれたのに。……洗濯だけは絶対にしてくれるな。下着は拙い。
メールを送信して間もなく、再度返信があった。内容は『No problem.遠慮するな。オレがやりたいからやるんだ』。何を言っても無駄らしい。
仕方なく諦めることにして、今度は真朱に宛ててメールを送る。『政宗さんが洗濯物には手を出さないように見張っててね』と。一応下着類は手洗いして自室に干しているから大丈夫だろうが。程なく『おまかせください まま』と真朱からの頼もしい返事があり、彰子は休み時間なのにどっと疲れを感じたのだった。
「珍しいね。彰子がそんなにメールしてるなんて」
前の席に座っている滝がクスクスと笑いながら話しかけてくる。同じテニス部で1年のときからの付き合いでもあり、彰子が普段は携帯でのメールの遣り取りを苦手にしていることを知っているのだ。
「うん……まぁね」
したくてしてるわけじゃないしなーと彰子は苦笑する。
「忍足が知ったら妬くんじゃない? 彰子、あいつとだってあんまりメールしないし」
「っていうか、朝から晩まで一緒なのに、何をメールする必要があるっての」
「それでもメールしちゃうのが恋人ってもんじゃないの」
「うーん……そうなのかなぁ」
忍足は平日には自分が寝る前に『おやすみ』メールを送ってくる程度だ。休日には多少増えるが、メールしてくるよりも突然隣の部屋からやってくることのほうが多い。もしかしたら、彰子が苦手なことを知っているから我慢してくれているのかもしれない。
彰子は携帯メールが苦手(文字を打つのが面倒臭い)なこともあって、大抵1往復でメールを終了させてしまう。何往復も、それこそ1日中といっていいほどメールの遣り取りをしている他のクラスメイトたちが彰子には不思議でならない。よく話題が続くものだと感心してしまう。
「っていうか、相手親だし。妬くも何もないでしょ」
「そうはいっても妬いちゃうのが男心。彰子解ってないなぁ」
滝はクスクスと笑う。出会ったときから彰子の恋愛絡みの鈍さは変わらないなと思いながら。
それに対し彰子が何かを言おうと口を開いたときに予鈴が鳴り、教師がやってきたことによって、彰子は反論することなく授業を受けることになったのだった。
7限の授業が終わり、放課後の部活の時間になる。インターハイ都予選が近いこともあって、練習には熱が入っている。
レギュラー以外の部員の面倒も見ねばならず、マネージャー見習いとして仮入部している後輩女子生徒の指導もしなければならず、彰子は大忙しだ。それでもやはりジャージのポケットには携帯が入っている。
あれから政宗は2通のメールを寄越した。1時間に1回の割合だ。内容は真朱がしていた定時連絡とさして変わりはない。平仮名が漢字になり、ママがHoneyになったくらいだ。漢字変換のみならず、入力文字の切り替えも絵文字も既に使えるようになっているあたり侮れない。そのうちデコメ送ってくるんじゃないかという勢いだ。
後輩の女子生徒に指示を出し、一息ついたところでまた携帯が震える。また政宗からのメールだろう。どうせ大したことはない内容だろうが、もし緊急事態だったら拙いと、彰子はこっそり跡部の目の届かないところへ移動してメールを開く。
『夕餉のMenuのRequestはあるか?』
前回のメールからきっちり1時間後に届いた内容がこれだ。余程政宗はメールを打つ作業が面白いのだろう。てめぇは子どもかっ! と怒鳴りたくなるが、相手は目の前にいないので怒鳴れない。面倒臭くなって彰子は猫用携帯に発信する。1コールで案の定、政宗が出る。
『Hey,Honey.どうした。オレの声が聞きたくなったのか?』
「そんなわけないでしょ。リクエストはなし。冷蔵庫の材料は好きに使っていいけど、そこにあるのは1週間分の食糧だから、使い過ぎないようにしてね。それから、これから先帰宅するまで、メール送ってきても返事しないからね。部活中なの。ってことで、バイバイ」
言うだけ言ってしまうと彰子はさっさと通話を終了させる。ついでに携帯のバイブもオフにしてしまう。これで着信があっても気付くことはない。つまり気にしなくてもいい。
「もう……子供かっての」
彰子は深く溜息をつく。
「誰が子供だって?」
突然背後からかかった声に彰子の体がビクっと震える。この声は……
「で、てめぇは何サボってんだ」
振り向けばそこには怖い顔をした跡部が立っていた。この跡部は生徒会長も務め、1年の頃から彰子と成績トップを争いあっている相手でもある。カリスマ性に富みキングとさえいわれており、学園の支配者といっても過言ではない人物だ。
「あー……部活中にごめん。実は今、両親が来ていてね。やたらとメールしてくるもんで……。緊急事態だったら困るなって確認はしてたんだけど、如何でもいい内容ばっかりだったからさ。鬱陶しいからもう止めろって連絡したところだったんだ」
跡部に促されてコートに共に戻りつつ、彰子はそう説明する。
「ああ、忍足が言ってたな。その所為でデートが潰れたって。おかげで昨日はうちに来て五月蝿かったぞ」
跡部は忍足とは親友同士だ。如何やら昨日散々愚痴っていたらしい。この分では他の共通の友人たちも土曜日のデートが潰れたことは知っているだろう。尤もそれは彼なりの彰子への配慮といえるかもしれない。忍足が他の友人たちに伝えたことは『デートが潰れた』ことではなく『両親が突然来てしまった』こと。それによって彰子の行動が普段よりも制限される可能性があることだ。
「そうか……。でね、もしかしたらなんだけど……ゴールデンウィークの合同合宿、私参加出来ないかも」
「ご両親か?」
土曜日に草紙神から政宗の滞在期間についての説明を受けたときに予想し、今朝も考えていたこと。それを告げる丁度いいタイミングだろうと彰子は話を切り出した。
「ううん、両親は月末には帰るから問題ない。ただ、親戚──叔父が来るかもしれなくて。そうなると叔父の日本滞在中はうちに住むことになるから、世話をしなきゃいけないのよ」
「なるほどな。まぁ、合宿とはいえ、部として行くわけじゃねぇから構わないだろ。お前が来ないとなると五月蝿そうなのが若干名いるがな。お前が参加出来ないっていうんなら、うちの使用人に食事の世話はさせるから心配するな」
跡部はそう請合ってくれ、彰子としてもホッとして肩の荷を降ろす。まぁ、参加しないことを彼氏と仁王──久しぶりに会うことをとても楽しみにしてくれていた──に伝えるというもう一仕事は残っているが、彼等も我が侭でも
「さて、練習に戻りますか」
「サボってたてめぇが言うな」
軽くなった気持ちと少しばかりの寂しさを持ちながら、彰子は部活に戻った。
因みに部活を終えて携帯を見た彰子は、自分のロッカーで再び脱力してしゃがみこむ破目になる。原因は見ないと宣言したにも関わらず送られてきた政宗からのメールであった。