「つ……疲れた……」
彰子はリビングのテーブルに突っ伏した。横では真朱と撫子が労い慰めるように頬を舐める。
現在午後8時。政宗は入浴中だ。萌葱が説明係として一緒に浴室に入ってくれているので安心だ。
夕食の後片付けを済ませ、風呂に湯を落としている間に政宗に断り、ネットでググって戦国時代の入浴について調べた。当時は風呂といえば『蒸気浴』、つまりサウナだ。安土桃山時代には半身浴をする習慣も上級武将にはあったらしく、こちらは『湯』と言っていたらしい。一応説明の際には『風呂場』ではなく『湯殿』と説明したので、間違ってはいなかったようだ。
念の為に政宗に確認したら幸いにも伊達家でも半身浴の習慣はあり、湯殿の使い方も現代と然程大きく違ってはいないらしい。違うのはシャンプー・リンス・ボディソープくらいか。
目まぐるしい1日だった。いや、まだ半日も経っていない。そして就寝までにはまだ時間がかかりそうだ。
体力的にはそれほど疲れているわけではない。何しろ彰子は部員200人を超える大所帯テニス部のマネージャーだ。しかもたった一人の。一人で200人の面倒を見ているのだから、マネージャーとはいえ、部活の時間はほぼ動きっぱなし。走り回っている。おかげでそれなりに食べているはずなのに少しも太る気配がない。それだけ体を動かしていることになる。尤もその分、部活を引退したら気をつけないとすぐに太ってしまいそうだ。
体力的には疲れていないが、問題は気力だ。精神面でどっと疲れている。喩えて言うならば夫の両親の記念日に夫の実家を訪ね舅姑小姑に気を遣い半日を過ごした後で、社宅の会合に出て夫の上司の奥様方に愛想笑いを浮かべつつ残り半日を過ごしたようなものだ。──彰子に結婚歴はなく、飽くまでも想像だ。テレビドラマからの。
それくらい神経を張り詰め気を遣い、政宗に接してきたのだ。どの情報を与え、どの情報は隠すのか。どんなふうに伝えるのか。
いっそ、アンタはゲームキャラ! と言えたらどんなに楽だろう。だが、それは絶対に言ってはならないことだと思っている。貴方は実在しないゲームの中だけの人格です、架空の存在なのです、なんてことが言えるはずがない。それは今ここにいる政宗の存在を全否定することになる。
それに、彰子の認識からすれば、ゲームやアニメの『戦国BASARA』と政宗の存在する世界は別物だ。ゲームによってある程度存在を知られている並行世界が政宗のいた世界なのだと思っている。
「あー……侑士の声、聞きたい」
恋人の声が聞きたい。本当ならば今日はデートだったのだ。約2ヶ月以上ぶりの。それを邪魔しくさって……。いや、政宗が悪いわけではない。それは判っているが、ついつい恨みがましく思ってしまうのはやはり仕方ないことだろう。
忍足に電話しようと思いつつ、立ち上がることすら億劫だ。携帯は寝室においている。
それにデートキャンセルの本当の理由も話せないし、嘘を重ねることになる。自分が嘘は下手なことは自覚している。ことに自分の為につく嘘は。
というか、忍足は異様に鋭い。元々同世代にあっては大人びた性格の忍足でもあり、頭の回転もよく、勘も鋭い。おまけに友人たちに言わせれば彰子のことに関しては野生動物並みの勘の鋭さを発揮するらしい。だから、きっと嘘は簡単に見抜かれてしまうだろう。
それでもやはり忍足の声を聞きたかった。癒されたい。
「よし……」
よっこいせ、と婆臭い呟きと共に立ち上がり、寝室へと行く。バッグから携帯電話を取り出し、発信しようとしたそのとき。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん」
呼んでもいないのに何か来た。突然目の前に。何の前触れもなく唐突に出現した。そこで彰子のヒットポイントは一気に0になりかけた。おまけに登場する台詞のネタが古い。
「……呼んでねぇよ、草紙神」
彰子の目の前に出現したのは、大好きな芸能人・轟悠の姿をした草紙神である。
「いや、お前さんが疲れているみたいだから、笑いを取って励まそうかと……」
がっくりと項垂れしゃがみこんだ彰子の前に、悠草紙神もしゃがみこむ。
なんだかんだと2年ちょっとの付き合いの、一応『神様』だ。本当に神なのかと言いたくなる軽さと垣根の低さを持っているが、正真正銘神様である。今現在の住居も戸籍も潤沢な生活費も、全てこの神によって提供されているものだ。人生をやり直させてくれて、今現在の、かなり彰子的に満足のいく青春を送ることが出来ているのも、全てこの神のおかげだ。感謝してもし足りないくらい有り難い神様なのだ。仮令時には今みたいにぶん殴りたくなっても。
「時間ないから、用件言うな。ここに来たお殿様のことだよ」
しゃがみこんだ姿勢から胡坐をかき、悠草紙神は真面目な表情になる。
「なんか、このトリップに悠兄さん絡んでるの?」
表向き悠草紙神は彰子の叔父ということになっている。見かけが若いので彰子は『悠兄さん』と呼んでいるのだ。
「んー、トリップそのものには直接絡んでない。つーか、お前のパターンと違って、今回のトリップは飽くまでもアクシデントなんだよ」
そうして悠草紙神は事情を説明する。
何でもこの草紙神たちの仕事というのは、一種の役所のようなものらしい。人間界でいうところのコンピューターで各並行世界は管理されていて、通常は各世界間の行き来は出来ない。彰子のような特別な神様側の配慮(如何いった配慮だったかは全二次創作作家の名誉の為に伏せておく)があるか、或いはトラブルによるものでしか、この異なる世界の行き来は出来ないのだ。
「普通はな、トリップが起こった時点ですぐに対処して、トリップがなかったことにするんだ」
トリップした0.001秒後に元の世界に戻す。僅か1000分の1秒の滞在と不在だから、何もなかったのと同じことになるのだ。
「ところがな、この管理してるシステムがエラー起こしててな。今急いで復旧してるところなんだが、ちょっとばかり時間がかかりそうなんだ」
ポリポリと頭を掻きながら悠草紙神は言う。
「政宗さんを私のところに寄越したのは悠兄さん?」
「そう。基本的にトリッパーはトリッパーのところに行くようになってるんだ。事情が判ってるからな。この世界にはお前を含めて何人かトリッパーがいるんだが、その中でBASARAを知ってて尚且つ熱烈なファンじゃないヤツがお前だけだったから、お前のところに急遽飛ばした」
政宗が元の世界から転がり落ち、すぐに元の世界に戻せないと判った時点で、神様たちはトリップ先の世界での出現地点を選定し始め、彰子が選ばれたというわけだ。因みに選考基準に『熱烈なファンではない者』が入っているのは、トリッパーをきちんと人として認識出来る者の許へ行かせる為らしい。熱烈なファンであれば、人としてよりもキャラクターとして見てしまう確率が高いからだ。
「……異世界トリップって実はお役所仕事のミスで起こるものなのか……」
あまり知りたくなかった事実である。もっと夢を持っていたかったと彰子が思ったとしても無理はないはずだ。
「色んな意味でスマンな……。お殿様の面倒を見てもらう報酬として、今月は生活費2倍払うから勘弁してくれ」
神様に拝まれては彰子としても文句は言えない。頼まれなくても面倒を見ることは確定していたのだから。
「別にいいよ。今までだって充分に良くしてもらってるし。問題は政宗さんがいつまでこっちにいるかってことなんだけど」
「そうだな。バグ修正と確認で、こっちの世界で1ヶ月ってところだな。結構大掛かりに全面見直ししないとヤバそうでね。あのお殿様に限らず色んなところでイレギュラーのトリップが起きちまってるんだよ。ったく……日頃のメンテをサボる上に経費ケチるからこんなことになるんだ」
はぁぁぁと悠草紙神は溜息をつく。神様の世界も何かと大変らしい。神様じゃなくて、何処かの企業の、物分りの悪いケチな上司に悩まされる技術者に見えてしまったのは内緒だ。
「1ヶ月か。私はいいんだけど、政宗さんはキツイね。それに残されたあっちの人たちも」
1ヶ月もの領主不在はかなりの痛手だろう。しかも生死不明ともなれば。
「一応、そこは考えてある。政宗の行方不明から3日後程度の時間軸に政宗に戻す」
こちらの時間とあちらの時間をリンクさせないことで対処するらしい。それでも3日間の空白期間は出来ることになるが、1ヶ月もあるよりは随分マシだろう。
「で……このこと政宗さんに言っていいの?」
「良い訳ないだろう。俺たちの存在やトリップなんて事象は限られた人間にしか知られちゃいけないことなんだよ」
その割には創作の世界には異世界トリップの逆トリップもありふれた設定ではある。確かに自分のトリップも話してはいけないと初期に草紙神からきつく言い渡されていたことを彰子は思い出す。
「まぁ、そうだよね。説明も難しいし」
とはいえ、大体の帰還時期の目安が判っていればこちらも対処しやすい。何より『元の世界に戻れる』ことは確定しているのだから、政宗の精神的フォローもやりやすいだろう。
「面倒かけてすまんな」
「ホント。でもそれは合宿中の猫たちの世話でチャラにしてあげる」
彰子はそう笑って了承の意を伝える。
「ああ、それと出来るだけ、政宗をこっちの人間と直接関わらせるのは止めておけ。どんな影響が出るか判らないからな。如何しても接触させないといけない場合は、お前の叔父ってことにしろ。父方の叔父だな。本当の事情は一切知られるな」
それにも彰子は頷く。元々政宗を誰かと接触させる心算もなかった。説明が面倒臭いから。
それに他人の異性と同居なんてことが忍足に知られたらどんな誤解を招くか判らない。誤解されないにしても恋人も友人たちも相当五月蝿いことを言うだろう。忍足が言うのは当然だろうが。だから、政宗のことを誰かに話すことはしない心算でいた。
とはいうものの、滞在が1ヶ月に渡るのであれば完全に隠し通すことも難しいだろう。これまで週末には忍足は彰子の部屋で夕食を摂り、その後彰子が彼の部屋に泊まるというパターンだったし、間もなくやってくるゴールデンウィークには恒例となっている立海・青学との合同合宿もあるのだ。
そういった彰子の事情も判っているからこそ、悠草紙神は『父方の叔父とでも言っておけ』と言ったのだ。
親戚──しかも三親等以内の親族であれば忍足たちも政宗を警戒することはないだろうし、一時同居していても文句は言われないだろう。父方と限定したのは、悠草紙神が周囲には彰子の母方の叔父ということになっているからだ。父方の叔父であれば悠のことを然程知らなくとも無理はないというわけだ。
取り敢えず、明日から暫く様子を見て現代生活でのボロが出ないようであれば、『叔父が1ヶ月ほど滞在することになった』とでも言えばいい。合宿は今の状態では不参加にしたほうが無難な気もするが。
「りょーかい。ま、なんかヤバそうなときは連絡する」
これまで連絡したことはないが、一応草紙神へのコンタクト方法はあるのだ。彰子の携帯には悠草紙神の携帯(?)番号が登録されている。いつもは緊急連絡するようなこともないし、月に1回は彰子の許へ顔を出すのがこの神様なので、敢えてその番号に発信したことはないのだが。
「ああ、そうしてくれ。っと、そろそろタイムリミットだな」
政宗が風呂から出てきた気配がする。
「ええ、じゃあ、またね、悠兄さん」
「おう、またな」
悠草紙神はニッコリと笑うと、現れたときと同じようにすっと姿を消したのであった。
お茶目な神様の真面目な話によって、彰子は忍足に電話することを忘れていた。
忍足が聞けばショックを受けるだろうが、悠草紙神はその外見も声も彰子が熱烈なファンである芸能人・轟悠そのものなのだ。目の前に現れ労わられれば確かに癒されるのである。神様だから、何気に癒しオーラを振りまいていたりもするし。
そんなわけで気力も回復し、リビングへ戻ると、丁度政宗も浴室からリビングへ戻ったところのようだった。
「お湯加減はどうだった」
「中々良かったぜ。使い方もこのKittyがAdviceしてくれたおかげでNo problemだったしな」
湯上りに用意していた浴衣を纏い、政宗は応じる。流石に着物姿が様になっている。洋装も似合っていたがやはり和服のほうがしっくり来るようだ。
「それなら良かった」
彰子は冷蔵庫から缶のトマトジュースを取り出し、政宗に放り投げる。グラスに注いで渡しても良かったが、1ヶ月こちらに住むことになるのだから、缶にも慣れておいたほうがいいだろう。断じてグラスを取り出して注いで持っていくのが面倒臭かったわけではない……はずだ。
「トマトっていう野菜の搾り汁を飲みやすく加工したのものよ。こうやってプルトップを開けて飲むの」
自分も1本取り出して手本を示しながら説明する。尤も彰子はそれを飲まずにラップをかけ、再び冷蔵庫に仕舞ったのだが。トマトジュースは汗を流した後に飲むのが一番美味しいというのが彰子の持論で、実は風呂上りにしか飲まないのだ。本当は風呂上りには冷えたビールを……といきたいところだが、一応まだ未成年の為、あと2年我慢しなくてはいけない。
「あのさー、政宗。お前、俺のことKittyって言うの止めろよ」
お役目ご苦労さまと、彰子に撫でられてゴロゴロと甘えていた萌葱が、フローリングに胡坐をかく政宗の横に座り、文句を垂れた。因みにフローリングの上には籐で編んだカーペットが敷かれている。早くも夏仕様の長岡家である。
「俺、これでも大人なんだぜ。仔猫って歳じゃねーよ」
猫たちはこちらの世界では2歳なので、人間換算すれば23歳程度の年齢となる。確かに大人だ。
「別にいいじゃん。パパ子供っぽいし。一番甘えん坊だもん」
ところが父の主張を娘は一蹴する。父や娘といってはいるが、こちらの世界での3匹の関係は兄弟姉妹だ。
この猫たちは元々彰子が生まれた世界で飼っていた猫だ。彰子のトリップの際、彰子の記憶と記録は元の世界から全て抹消され、彰子の存在は『初めからなかったもの』とされた。しかし、この猫3匹だけにはその作用が及ばなかった。仕方なく悠草紙神はこの猫たちの魂をこの世界へと連れて来て、新たな体を与えたのである。よって、猫たちの意識は元の世界にいたときのままで、自分たちの関係も元の世界のものが適用されているというわけだ。
「五月蝿いな、撫子。とにかく、俺はお前より年上のオニーサマなんだよ、政宗。You see?」
……いつの間に英語を使えるようになったんだ、萌葱。心の中で彰子と雌猫2匹は突っ込んだ。明らかに政宗の影響だろう。
「オレよりお兄さんねぇ……。じゃあ、おめーらが彰子のことをMomって呼ぶのも可笑しくねぇか?」
確かに彰子よりも年上だ。こっちの世界でも、元の世界での換算年齢でも。
「うっ……」
尤もな反論をされて萌葱は言葉に詰まる。というか、政宗、猫相手に揶揄って大人気ないんじゃ? と心の中で彰子と雌猫2匹は以下同文。
「それは構いませんのよ。心の有り様の問題ですもの。わたくしたちはママのことを家族として、母として愛しておりますから」
これは自分たちにも関わってくることだからと真朱が助け舟を出す。
「ですが、流石に仔猫扱いはこの歳になれば恥ずかしいですわ。政宗も明らかに年上の相手からであっても『坊や』なんて呼ばれたくありませんでしょう」
いつの間に呼び捨てになったんだ、真朱。
「そりゃそうだな。OK.お前らのことは名前で呼ぶぜ。それでいいだろ、萌葱」
「判りゃいいんだよ、ったく……」
何処か偉そうに言う萌葱に堪らず、彰子は吹き出す。可愛すぎる。
「かーちゃん! 何笑ってんだよ!!」
「あー、ごめんごめん。そうだ、まだお留守番のご褒美あげてなかったね。今持ってくるね」
とっさに彰子は話題を変えて萌葱の意識を逸らす。ご褒美としてプリンを買ってくる約束をしていたのを思い出し、萌葱は途端に機嫌を直す。
一つのプリンを三等分し、猫用の小皿に分けると、真朱・萌葱・撫子の3匹に与える。この子達のおかげで随分と楽をさせてもらった。本当に頼りになる子たちだ。
「さて、私もお風呂入ってくるね」
猫たちにそう声をかけて彰子は入浴の準備をする。普段は何も浴室には持っていかないが(一人暮らしだし)、今日はそういうわけにも行かない。他人──しかも同世代の異性がいるのだから。
政宗は既に自分のやりたいことをやっていて、相変わらず『今日の料○』を読んでいる。余程気に入ったらしい。
(何とか無事に、今日1日は終わりそうかな)
悠草紙神からの事情説明もあったことで、かなり気楽になった彰子であった。