第五話 物語のヒロインがやって来た
それから数か月後。
エティエンヌとロクサンヌは、王立学園への入学を迎えた。
ゴーベール王国では、王族も貴族も、男女を問わず学問と政治を学ぶことが求められる。貴族の爵位は女性も継承でき、王位継承権も男女によって区別されない。そのため、王族や高位貴族の子どもたちが通う王立学院には、次代を担う若者たちが集まっていた。
今年入学する者たちの中には、エティエンヌとロクサンヌのほか、第三王子の婚約者であるエロイーズ・デュフレノワとその双子の弟ももいた。
また、王立学院は王族や高位貴族だけでなく、優秀な成績を収めた者や、特別な推薦を受けた者も入学できる。身分の異なる者が学び合う場であることが、この学園の特徴だった。
そして、ロクサンヌにとっては、乙女ゲームの舞台でもあった。
入学式の朝。
ロクサンヌは、鏡の前でドレスの襟元を整えていた。今日は制服のお披露目も兼ねた式典であり、王族や高位貴族の子女は、入学式のあとに簡単な茶会へ参加することになっている。
「お嬢様、とてもお美しいですわ」
「ありがとう」
ロクサンヌは微笑んだ。
けれど、胸の奥には不安があった。今日から、ゲームの舞台が始まる。ヒロインが登場する。エティエンヌが、彼女と出会う。そのことを考えるだけで、胸が締めつけられた。
――大丈夫。
――殿下は、わたくしを選んでくださった。
――わたくしも、殿下を信じると決めたのだから。
ロクサンヌは、深呼吸した。
入学式のあと、学園の中庭では茶会が開かれていた。エティエンヌは、王族として新入生たちに挨拶をしていた。
そこへ、高位貴族の令息に伴われて一人の少女が近づいてきた。令息が貴族のルールに従って少女を紹介しようとするよりも先に、少女が声を発した。
「あたし、レオニー・ヴェリエといいます! 今日はお会い出来て嬉しいです!」
明るい声だった。栗色の髪を揺らした少女が、にこにこと笑っていた。
エティエンヌは、礼儀正しく微笑んだ。
「ヴェリエ嬢。入学おめでとう。学園生活が実りあるものになるといいね」
「はい! ありがとうございます!」
レオニーは、嬉しそうに頷いた。そして、更に一歩近づく。
「殿下は、いつもお忙しいんですよね? あたし、何かお役に立てることがあれば、何でもします!」
「ありがとう。何か困ったことがあれば、教師や担当の者に相談するといい」
「えっ? あ、はい……」
レオニーは、少しだけ戸惑った。彼女が期待していたのは、もっと親密な反応だった。けれど、エティエンヌはそれ以上、話を続けようとはしなかった。
彼は、少し離れた場所にいるロクサンヌを見つけると、そちらへ向かった。
「ロクサンヌ。待たせてすまない」
「いいえ、殿下」
ロクサンヌは微笑んだ。けれど、内心では心臓が早鐘を打っていた。
――レオニー。
――乙女ゲームのヒロイン。
――ついに、出会ってしまった。
エティエンヌは、彼女の表情を見て首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いいえ。何でもありませんわ」
「本当に?」
ロクサンヌは、少しだけ迷った。それから、思い切って尋ねた。
「殿下は、あの方とお話しされていたのですね」
「ああ。挨拶をされたから、返事をしただけだよ」
「……そうですの」
エティエンヌは、ロクサンヌの手をそっと取った。
「君に隠すことは何もないよ。私は、君に一番に話を聞いてほしいし、嬉しいことがあれば君に伝えたい」
ロクサンヌは、胸が熱くなった。
「……ありがとうございます、殿下」
「それに」
エティエンヌは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「私の婚約者は、世界一可愛いからね」
「で、殿下!」
ロクサンヌの顔が真っ赤になった。エティエンヌは、満足そうに微笑んだ。
その様子を、少し離れた場所から見ていたレオニーは、唇を尖らせた。
――どうして?
――ゲームでは、ここで殿下があたしに興味を持つはずなのに。
――あの子がいるから?
レオニーは、ロクサンヌを見つめた。
美しい令嬢。王子の婚約者。自分が主人公になるためには、越えなければならない相手。
レオニーは、胸の中で決めた。
――絶対に、あたしが選ばれてみせる。
その日の夕刻。ロクサンヌは、第三王子の婚約者であるエロイーズ・デュフレノワとお茶を飲んでいた。
エロイーズは、ロクサンヌと同学年の公爵令嬢である。聡明で、礼儀正しく、貴族社会の事情にも詳しい。ロクサンヌは、彼女を将来の義妹として大切に思っていた。
「エロイーズ様。少し、お尋ねしたいことがございますの」
「何でしょう、ロクサンヌ様」
「レオニー・ヴェリエ様のことですわ」
エロイーズの表情が変わった。
「……
「いえ、まだ大きな問題が起きたわけではございません。ただ、彼女を殿下に紹介したのは、あなたの弟君だと伺いました」
「……ええ」
エロイーズは、静かに頷いた。
「エロイーズ・デュフレノワ様。ヴェリエ男爵家は、貴族派だったと思いますけれど。あれを放置しているのは、何か含むところがおありですの?」
王国には貴族の派閥がある。エロイーズのデュフレノワ家は貴族派の筆頭、ロクサンヌのジュヴェ家は辺境派の筆頭である。まだ未成年の令嬢とはいえ、派閥政治と無関係ではいられない。
「まあ、とんでもないことですわ、ロクサンヌ様」
エロイーズは、きっぱりと言った。
「ですが、彼女を殿下に紹介したのはあなたの弟君ですわね? 辺境派に、或いは当家に何か含むことがあるがゆえに殿下に近づけたと思われても仕方ありませんわよ」
「……仰るとおりですわ。早急に対処いたします」
「それがよろしいかと。貴家の総意ではないとは判っておりますけれど、ご嫡男がああいう行動をとられますとね」
「情けない限りですわ」
エロイーズは、深く息をついた。ロクサンヌは、ふっと微笑んだ。
「わたくし、あなたと義理とはいえ姉妹になる日を楽しみにしておりますの。わたくしたち、仲のいい姉妹になれると思っておりますのよ」
「ええ、わたくしもあなたをお姉さまとお呼び出来る日を待ち望んでおりますわ。きっとロクサンヌお姉さまのお役に立てる妹になれると自負しておりますの。ですが、愚弟が足を引っ張るようでは困りますわね」
「いっそあなたが公爵になられては?」
「それもよろしいかもしれませんわね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
それからエロイーズは、真剣な顔に戻った。
「弟には、きちんと話を聞きますわ。彼が何を考えてレオニー様を紹介したのか、確認いたします」
「お願いいたしますわ」
「勿論です。わたくしも、殿下とお姉さまの仲を邪魔されるのは困りますもの」
ロクサンヌは、思わず笑ってしまった。
けれど、その胸の奥では、別の不安が膨らんでいた。ゲームのシナリオは、まだ始まったばかりだ。そして、レオニーはすでに、自分が物語の主人公であると信じている。
ロクサンヌは、そっと胸元に手を当てた。
――大丈夫。
――わたくしは、殿下を信じる。
――そして、わたくし自身も、殿下の隣に立つに相応しい人間でありたい。
その夜、ロクサンヌはエティエンヌに手紙を書いた。
『エティエンヌ様。
本日は、少しだけ不安になってしまいました。
けれど、殿下のお言葉を思い出して、落ち着くことが出来ました。
わたくし、殿下と一緒に未来を考えていきたいです。
これからも、よろしくお願いいたします。
ロクサンヌ』
手紙を読み終えたエティエンヌは、微笑んだ。
そして、机の引き出しから、青いハンカチを取り出した。そこには、ロクサンヌが刺繍した桜色の花がある。
「……大丈夫だよ、ロクサンヌ」
彼は、小さく呟いた。
「私は、君を選ぶから」
窓の外では、夜風に揺れた花々が、静かに香っていた。